2011-07-03

乾いた熱風のような暴力/『荒ぶる血』ジェイムズ・カルロス・ブレイク


 ノワール(暗黒小説)が男心をくすぐるのは、苛酷な状況で厳しい選択を迫られるためだろう。死がありふれた光景において生(せい)はギラギラと輝く。のるかそるかの勝負に身を置いて、初めて生の証をつかむことができるのだ。イベントのような死は緊張感を欠いている。マラソンランナーがゴールを切るような躍動感がない。だらだらと散歩でもするような老境であれば生きながら死んだも同然だ。

「今日、この手で赤のやつらを300人殺した」暗い窓の外を見つめた。「やったのは昨日だったかもしれない。こうして日々は過ぎていく」また彼女に眼を戻す。「記憶と歴史のなかへ、嘘つきだらけの博物館のなかへと流れていく」

【『荒ぶる血』ジェイムズ・カルロス・ブレイク:加賀山卓朗訳(文春文庫、2006年)以下同】

 アメリカとメキシコの国境が舞台である。赤道に近づくほど灼熱の太陽が脳味噌を沸騰させる。水に恵まれた国土のような細やかな感情はどこにも見当たらない。乾いた大地に住む動物は攻撃的だ。

 名うての殺し屋に抱かれた娼婦が男の種を宿す。それは自ら選んだ行為であった。経済が支配する時代には金持ちを、暴力が支配する国では殺し屋を選択するのが女の本能ともいえる。進化的優位性は国や時代によって異なるのだ。「荒ぶる血」を受け継いだ男が本書の主人公である。

 エル・カルニセロは彼の髪をつかんで持ち上げ、自分のほうを向かせた。血まみれの眼球を手のひらにのせ、ドン・セサーロに見せた。こいつは──眼球の価値を見積もるかのように、手のひらを上下させながら獣はそう言った──ずっと正義を、真実を見ないできた。そしてドン・セサーロの顔を下に向けながら眼球を地面に落とし、ブーツの踵で踏みつけて土にめり込ませた。

 主人公のジミー・ヤングブラッドはエル・カルニセロの息子であった。そして後半で大農場主となったドン・セサーロとヤングブラッドは一人の女性を巡って対決する運命となる。

 闘い方は子供のころから知っていた──ボクシングではなく、文字通りの【闘い】だ。誰かが教えてくれたわけではないが、自然に身についていた。本物の闘いにルールなどないことも学んでいた。止める者もいなかった。本物の闘いは一方が戦えなくなるまで続く。それでも終わらないときもある。ボクシングは本物の闘いではない。技術と忍耐を要し、セルフコントロールを試される運動だ。自分が負けていても、どれほど傷つけられ、腹を立てていても、ルールを守らなければならない。ルールなど無視してしまえば、相手を殺せることがわかっていてもだ。リングの中で闘うことによって、規律が身につく。おれはそこが好きだった。

 ヤングブラッドはボクシングから人生を学んだ。リングでの乱闘シーンも絶妙なアクセントになっている。

 それまでにも死体は見たことがあった。盲腸が破裂して死んだ男、溺死した男、線路のうえで酔いつぶれ、汽車に轢かれた男。死者のちがいはただ、きれいに死ぬか、汚らしく死ぬかということだけだ。おれは死は死だと思っていた。この泥棒たちに引き金を引くずっとまえから、おれは死は死だと思っていた。汚らしく死んだ人間を見て胸を悪くしても仕方がない。牛肉を見て気分を悪くする理由がないのと同じだ。これは俺の座右の銘と言ってもいい。

 死は他人の眼によって目撃される。我々は睡眠を自覚できないように、死もまた自覚することができないのだろう。安全な位置を望めば堕落せざるを得ない。周囲に合わせて泳ぐように生きることを強いられる。

 男は一人の女性を愛することで信念を貫く。結末が悲劇で終わるのも安っぽくなくていい。

 歯軋(はぎし)りばかりしているうちに牙が丸くなってしまった男たちよ、本書を開いて牙を研(と)ぎ直せ。

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