2011-06-04

行間に揺らめく怒りの焔/『自動車の社会的費用』宇沢弘文


『記者の窓から 1 大きい車どけてちょうだい』読売新聞大阪社会部〔窓〕
『交通事故鑑定人 鑑定暦五〇年・駒沢幹也の事件ファイル』柳原三佳

 ・行間に揺らめく怒りの焔
 ・新自由主義に異を唱えた男

「生きた学問」は偉大なる感情に裏打ちされている。そのことを思い知った。宇沢は1964年にシカゴ大学経済学部教授に就任した人物。門下生の中にジョセフ・E・スティグリッツがいる(2001年ノーベル経済学賞受賞)。市場原理主義の総本山で、宇沢はシカゴ学派を批判した。気骨の人という形容がふさわしい。

 宇沢の怒りが青い焔(ほのお)となって行間で揺らめいている。本物の怒りは静かなものだ。熱い怒りは長続きしない。読み手はおのずから襟を正さずにはいられなくなる。

 しかし、このように歩行者がたえず自動車に押しのけられながら、注意しながら歩かなければならない、と言うのはまさに異常な現象であって、この点にかんして、日本ほど歩行者の権利が侵害されている国は、文明国といわれる国々にまず見当たらないと言ってよいのである。

【『自動車の社会的費用』宇沢弘文〈うざわ・ひろぶみ〉(岩波新書、1974年)以下同】

 文明が人間を押しのける。我々はテクノロジーの前にひれ伏す。昔であればきれいに舗装されたばかりの道路を歩くと、何となく遠慮がちになったものだ。

 日本における自動車通行の特徴を一言にいえば、人々の市民的権利を侵害するようなかたちで自動車通行が社会的に認められ、許されているということである。(中略)ところが、経済活動にともなって発生する社会的費用を十分に内部化することなく、第三者、特に低所得者層に大きく負担を転嫁するようなかたちで処理してきたのが、戦後日本経済の高度成長の家庭のひとつの特徴でもあるということができる。そして、自動車は、まさにそのもっとも象徴的な例であるということができる。

 これが本書のテーマである。社会的費用とは公害や環境破壊などにより社会が被る損失を意味する。

「低所得者層に大きく負担を転嫁するようなかたち」とは、国が税金でカーユーザーを経済的に支援してきたということであろう。

 ま、普通に道路を歩いていれば誰もが実感していることだ。歩行者優先は掛け声だけで、実際は邪魔だといわんばかりにクラクションを鳴らされる。

 近代市民社会のもっとも特徴的な点は、各市民がさまざまなかたちでの市民的自由を享受する権利をもっているということである。このような基本的な権利は、単に職業・住居の選択の自由、思想・信条の自由という、いわゆる市民的自由だけでなく、健康にして快適な最低限の生活を営むことができるという、いわゆる生活権の思想をも含むものである。このような基本的権利のうち、安全かつ自由に歩くことができるという歩行権は市民社会に不可欠の要因であると考えられている。
 近代市民社会の特徴はさらに、他人の自由を侵害しないかぎりにおいて、各人の行動の自由が認められるという基本的な原則が守られているということであるが、自動車通行によってまさにこの市民社会における最も基本的な原則を破られている。

 生活権という言葉に目から鱗(うろこ)が落ちる思いがする。そして、この国がいかに法の精神を蔑ろにしてきた実体がよく見えてくる。

 時折、真夜中にオートバイの爆音が聞こえると私は殺意を抱く。前もって来る時間がわかっていれば、バットか木刀を持って待ち受けるところだ。彼らは自分の好き勝手のために、病人や障害者に迷惑をかけている自覚すらないのだろう。っていうか、大体どうしてあんな騒音を撒(ま)き散らす物の販売が認められているのか? バイクショップやメーカーに規制をかけるべきだと思う。それから病人の生活権を守るために、オートバイの免許取得は30歳以上に引き上げるべきだ。

 カーユーザーの自由のために、他の人々の自由が損なわれている。その原因はどこにあるか?

 というのは、近代経済学の理論的支柱を形成しているのは新古典派の経済理論であるが、新古典派の理論的フレームワークのなかでは、一般に社会的費用を発生するような経済現象を斉合的に分析することは、その理論的前提からの制約によってすでに不可能であると言ってもよいからである。

 経済理論に穴が空いていたのだ。それでも人の健康や命に重い価値を置いていれば、賠償請求によって社会は軌道修正してゆくことができるはずだ。つまり、この国は人間を軽んじているのだ。それゆえ国策に乗じた大手企業は絶対に潰れることがない。原発や製薬会社を見れば一目瞭然だ。特に製薬会社は名前を変えて生き残っている。石井部隊の末裔(まつえい)は断じて死なない。

 自動車の普及のプロセスをたどってみると、そのもっとも決定的な要因のひとつとして、自動車通行にともなう社会的費用を必らずしも内部が負担しないで自動車の通行が許されてきたということがあげられる。すなわち自動車通行によって、さまざまな社会的資源を使ったり、第三者に迷惑を及ぼしたりしていながら、その所有者が十分にその費用の負担をしなくてもよかったということである。

 道路・信号・標識・横断歩道と排気ガス・騒音など。本来であれば、自動車税やガソリン税をもっと高くすべきなのだろう。結果的に自動車所有者が得をする仕組みになっていたわけだ。持てる者と持たざる者の間にアスファルトの道路が存在する。

 自動車の普及を支えてきたのは、自動車の利用者が自らの利益をひたすら追求して、そのために犠牲となる人々の被害について考慮しないという人間意識にかかわる面と、またそのような行動が社会的に容認されてきたという面とが存在する。

 利便性と所有欲が人間を犠牲にしてきたという指摘だ。そして車を所有できない人々は沈黙を強いられてきた。

 要するに、ホフマン方式によって交通事故にともなう死亡・負傷の経済的損失額を算出することは、人間を労働提供して報酬を得る生産要素とみなして、交通事故によってどれだけその資本としての価値が減少したかを算定することによって、交通事故の社会的費用をはかろうとするものである。
 このホフマン方式によるならば、もし仮りに、所得を得る能力を現在ももたず、また将来もまったくもたないであろうと推定される人が交通事故にあって死亡しても、その被害額はゼロと評価されることになる。また、こう所得者はその死亡の評価額が高く、低所得者は低くなることも当然である。したがって、老人、身体障害者などが交通事故にあって死亡・負傷したときにはその被害額は小さくなるのである。

 このような急速方法が得られるのは、人間をひとつの生産要素とみなすからである。労働サーヴィスを提供して、生産活動をおこない、市場で評価された賃金報酬を受取る、という純粋に経済的な側面にのみに焦点を当てようとする考え方が、その背後には存在する。この考え方はじつは、人間のもつさまざまな社会的・文化的側面を捨象して、純粋に経済的な側面に考察を限定し、希少資源の効率的配分をひたすらに求めてきた新古典派の経済理論の基本的な性格を反映するものである。

 蒙(もう)が啓(ひら)かれる。真の学問は光を発して周囲の世界を照らす。GDP(国内総生産)という発想も同様であろう。国家が最も必要とするのは労働者と兵隊である。生産要素とは納税者の異名でもある。すなわち国家は国民を搾取対象と見なすのだ。

 官僚が経済論を基準に法律を作成し、政治家が業界の意向を汲んで修正を加え、法律ができあがる。そこに人権への配慮はない。こうやって法の精神は魂を抜かれ、試験のために記憶するだけの条文と化すのだろう。

 法律が本当に機能しているのであれば、国家賠償訴訟などで世の中がよくなっているはずだ。しかしそんな気配は微塵もない。そもそも法律や憲法なんぞは宗教の教義みたいなもので、信じる人々の間で有効に働く程度の代物であろう。いつの時代にもアウトローは存在する。

 本当なら、大学が最後の砦(とりで)として世の中を正してゆくべきだと思うが、既に産学協同で大学は企業の下部組織となりつつある。「一緒にポーカーをやろうぜ」ってわけだよ。大学は優良企業へ就職するための通過点にすぎない。

 資本主義経済は人の命にまで値段をつけて差別をするのだ。経済学が欺瞞(ぎまん)の笛を鳴らし、国家はそれに合わせて踊るという寸法だ。世界経済を牽引(けんいん)するアメリカも中国も恐るべき格差社会となっている。極端な集中が崩壊の引き金となる。先行投資として社会保障を手厚くしておかなければ大変な事態に陥る。

 このままグローバリゼーションの波に乗っていれば、日本の優良企業や一等地はアメリカと中国に買われてしまうことだろう。

「パックス・アメリカーナの惨めな走狗となって」宇沢弘文

自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47)

2011-06-03

須賀敦子、菊地信義、グレッグ・ルッカ


 2冊挫折、1冊読了。

 挫折22『遠い朝の本たち』須賀敦子(筑摩書房、1998年/ちくま文庫、2001年)/開くなり「調布のカルメル会修道女」と出てきてウンザリ。これだけで「敬虔なクリスチャン」という印象が黒々と浮かび上がってくる。強信(ごうしん)のブードゥー教信者とか厳格なムスリムだったら書けない。それだけでもずるいと思う。「わたくし、クリスチャンですのよ。オホホホホ」という忍び笑いが聞こえてきそうだ。エッセイを読んでいると、水で薄めたウイスキーみたいに感じて、パラパラとめくってパタンと閉じてしまった。

 挫折23『樹の花にて 装幀家の余白』菊地信義(白水社、1993年/白水Uブックス、2000年)/菊地は装丁の第一人者。文章が巧みだ。上手すぎて鼻につく。見事なデッサンなんだが、どうも線が気に入らぬ。銀座の様々な表情が描かれている。


 34冊目『暗殺者(キラー)』グレッグ・ルッカ/古沢嘉通〈ふるさわ・よしみち〉(講談社文庫、2002年)/アティカス・コディアック・シリーズの第三弾。600ページ近いが一日で読了。やはり順番で読むのが正しい。サービス過剰のあまり冗長な部分もあるが、文章がいいので苦にならない。ブリジット・ローガンの使い方が実に上手い。登場しないことで存在感を際立たせている。巨大な煙草メーカーを告発する重要証人の警護を行う。この爺様が不思議な魅力を放っている。

2011-06-02

世界の構造は一人の男によって変わった/『「私たちの世界」がキリスト教になったとき コンスタンティヌスという男』ポール・ヴェーヌ


『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世

 ・世界の構造は一人の男によって変わった

『殉教 日本人は何を信仰したか』山本博文

 政治・経済・文化という次元で世界を理解しようと思えば、キリスト教を避けて通るわけにはいかない。欧米を中心とする世界基準はキリスト教であるからだ。思想的背景が異なると言葉の意味すら変わってくる。日本語で人間といえば同じ生き物としての平等性を感じるが、これが英語だと神の僕(しもべ)として何らかの役割を担っている雰囲気がある。

社会を構成しているのは「神と向き合う個人」/『翻訳語成立事情』柳父章

 ポール・ヴェーヌは古代ローマ史を研究する碩学(せきがく)とのこと。はっきりと断っておくが面白くない本である。にもかかわらず、私が長らく抱いていた疑問が解けた。それは「いつからキリスト教が西洋のスタンダードになったのか?」というものだ。

 で、犯人がコンスタンティヌスであることはわかっていた。問題は犯行の手口だった。

 西洋史、さらには世界史にあってさえ決定的だった出来事のひとつが、312年に広大なローマ帝国内で生じた。

【『「私たちの世界」がキリスト教になったとき コンスタンティヌスという男』ポール・ヴェーヌ:西永良成〈にしなが・よしなり〉、渡名喜庸哲〈となき・ようてつ〉訳(岩波書店、2010年)以下同】

 312年にコンスタンティヌスは西ローマ帝国を制覇した。で、歴史を揺るがす大事件とは何であったのか?

 ところが、その翌年の312年、およそ予測することも不可能だったひとつの出来事が生じた。すなわち、共同皇帝の別のひとり、この壮大な物語=歴史のヒーローであるコンスタンティヌスが(「おまえはこの徴(しるし)のもとに勝利するであろう」という)夢のお告げのあと、キリスト教に改宗したのである。当時のキリスト教とは〈帝国〉の人口(おそらくは7000万人)のわずか5ないし10パーセント程度でしかなかったと考えられている。だからこそJ・B・ペリーは、「312年、大多数の真価が考えていたことに挑戦し、これを軽蔑しつつコンスタンティヌスの成しとげた宗教革命はたぶん、かつてひとりの専制君主が敢行したうちでも、最も大胆な行為だったことをけっして忘れてはならない」と書いているのである。

 有名なエピソードである。キリスト教世界は夢のお告げから誕生したのだ。啓示、あるいは悟りと考えてよかろう。現在、世界の宗教人口はキリスト教33.4%、イスラム教22.2%、ヒンドゥー教13.5%、仏教5.7%となっている(百科事典『ブリタニカ』年鑑2009年版)。

 しかしながら、王の改宗自体は決して珍しいものではない。この時何が変わったのか?

 すなわち、ローマの玉座がキリスト教になり、〈教会〉が権力になったということである。もしコンスタンティヌスがなかったなら、キリスト教はひとつの前衛的宗派にとどまっていたことだろう。

 これだよ、これ。権力の移行を伴ったことが最大の違いであった。見ようによっては、政治権力を政教という形で分散したようにも考えられる。本質的には政治が現実生活の枠組みを規定し、宗教が内面の物語を構成する以上、全く新しい「大文字の歴史」が誕生したといってよい。

 彼は自分の臣下たち全員がキリスト教徒になるのを見たいと心底願っていたにもかかわらず、彼らを改宗させるという不可能な任務に手を染めることはなかった。これは異教徒を迫害しなかったし、異教徒の発言を封じもしなかったし、異教徒の出世を不利にすることもしなかった。迷信家どもが身を滅ぼしたいというのなら、それは彼らの勝手だ、というわけである。コンスタンティヌスの後継者たちもやはり異教徒を強制せず、彼らの改宗の務めをもっぱら〈教会〉にゆだねたのであり、そしてこの〈教会〉も又迫害よりも説得を用いることになった。

 これは凄い。コンスタンティヌスはキリスト教を「公正なもの」に変えたのだ。すなわち、彼の「人間としての振る舞い」がキリスト教を世界基準にまで高めたのだ。コンスタンティヌスは命令よりも感化を選んだ。人間への限りない信頼によって、言葉の意味すら重みが増したことだろう。

 コンスタンティヌスは又、たとえ犯罪者であろうとも、キリスト教徒に罪を償わせる合法的な義務を免除してやった。当時、有罪者の一部は強制的に剣闘士として闘う刑に処されていた。ところが、聖なる〈戒律〉は「汝、殺すなかれ」と定めている。だから、剣闘士たちは久しく〈教会〉にはいることを認められていなかった。そこでコンスタンティヌスは、キリスト教徒には「受刑者が流血を見ることなく、自らの大罪の罰が感じられるように」と、闘技場での闘いの刑を鉱山や採石場での強制労働に代える決定をくだしたのである。この偉大な皇帝の後継者たちも以後、これと同じ法律を尊重することになるだろう。

 彼はまた、キリスト教を「法」へと高めたのだ。劇的なパラダイムシフトといってよい。完璧なソフトパワー革命だ。

 要はこうだ。コンスタンティヌスという人間の思考回路は時代を超越していた。ある日、夢が引き金となってシナプスの構成が一変した。彼はいまだかつてなかった常識と道理を政治レベルで示した。その瞬間、人々の脳の構造も変わった。かくしてキリスト教世界が生まれたわけだ。一人の脳内ネットワークがそのまま社会ネットワークと化した。

 コンスタンティヌスは最初のマグマだったのだ。312年に始まった噴火は中世まで続いた。そして全く新しい山脈が出来上がった。

 その後のキリスト教の歴史を見れば、キリスト教そのものに力があったとは思えない。世界の混乱の大半はキリスト教に原因があると私は考えている。神と人間、そして人間と動物の差別意識が征服や侵略を可能にしたと思う。

動物文明と植物文明という世界史の構図/『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男

 とすると、コンスタンティヌスによるキリスト教の「扱い方」に最大の勝因があったのではなかろうか。それはそのまま「人間に対する扱い方」でもあった。

 世界の構造は一人の男によって変わったのだ。万人が納得し得る合理性こそがその鍵となる。

「私たちの世界」がキリスト教になったとき――コンスタンティヌスという男

コンスタンティヌス家 Constantinus
コンスタンティヌス1世 (AD307-AD337)
キリスト教の創立者/コンスタンティヌス
映画『Zeitgeist(ツァイトガイスト) 時代の精神』ピーター・ジョセフ監督
欽定訳聖書の歴史的意味/『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人
サードマン現象は右脳で起こる/『サードマン 奇跡の生還へ導く人』ジョン・ガイガー
イエスの復活~夢で見ることと現実とは同格/『サバイバル宗教論』佐藤優

武田邦彦「日本社会は原子力という巨大技術を実施するポテンシャルがない」


 痺れた。数学的思考が具体的な答えを導き出している。

「私は原子力の技術に関しては絶対に大丈夫だと思っている。だけど日本社会は原子力という巨大技術を実施するポテンシャルがない。例えば非常に具体的に言えば東大教授を全員クビにして、天皇陛下の叙勲を全部なくして、官僚を全部教育し直して、万機公論(ばんきこうろん)に決するようにして、という条件がなけりゃダメだ」(武田邦彦)

『そのまま言うよ!やらまいか』 第14回「民主主義 part6」

世界は狭い


 世界は知覚で構成されている。つまり知覚の限界が世界の涯(はて)である。その意味ではいかなる世界であっても狭い。大切なことは世界を広げることよりも、狭い世界に対する自覚である。しなやかな精神の持ち主は、世界を柔らかに再構成してゆくことができる。

信仰者は言葉の奴隷である


 信仰者は教えられた答えにしがみつく。教義が絶対的なものであるなら、彼らは言葉の奴隷といってよい。かつて教義が変わらなかった教団は存在しない。信者は大きな口で変更された教義を鵜呑みにする。

一票の格差が諸悪の根源なのか?


 ツイッターで一票の格差に関する声が散見され、その中で紹介されていた記事。

首相のリーダーシップ欠如は、「地方の有力者」が優遇される仕組みから生まれた:出口治明

 回らぬ頭で読んでいたので、繰り返し読み直す羽目となった。これほど違和感を覚える文書も珍しい。挙げ句の果てには「歪(いびつ)な構造を生み出した諸悪の根源は、一票の格差ではないか」とまで書いている。チト、面倒なんで箇条書きにする。

・G8サミットは(中略)、日本が全体としては安全でありそしてわが国の経済が間違いなく回復することを、「具体的に」世界に訴える格好の機会だった。

 経済回復の具体性がない。(経済成長率の推移経済成長率の推移〈主要国・地域〉

・では、菅首相が退任したら、すべての問題は解決するのだろうか。

 解決するかもしれないし、解決しないかもしれない。どうして、わざわざ「すべての問題」に帰着させるのか理解に苦しむ。この段落はフラフラした文章で、非常にわかりにくい。

・そもそも、こういった問題の所在を、個人の能力や資質に帰すアプローチは、果たして正しいのだろうか。

 正しい。「個人の能力や資質」を問わないのであれば選挙をする必要もなくなる。

・4代(あるいは5代)連続して首相を務めるに足る能力や資質に欠けたリーダーを、この国は選び続けてきたのだろうか。

 国民から政権を付託された政権与党の党内人事にすぎない。意図的に「この国」と書くことで、あたかも国民が選出したかのような印象を盛り込んでいる。

・およそビジネスの世界ではあり得ないような異常事態を、この国は続けている。

 ビジネスと政治は異なる。

・では、このような政治リーダーを次々と産み出してきたこの国の「構造的な歪み」とは何か。突き詰めて考えると、一票の格差こそが諸悪の根源だと思えてならない。

 要はこれが書きたくて、色々な材料を引っ張り出しているだけだ。

・問題を単純化して考えてみよう。1票の格差が存在するということは、地方の有力者が政治リーダーに選ばれやすいということとほぼ同義である。

「突き詰めて考える」最初の段階で、問題を単純化していいのか? そんな突き詰め方で大丈夫なのか?

・グローバルな問題よりも国内の問題に注力しがちになることは、ある意味、当然ではないだろうか。

 問題を単純化して導いた結論を「当然だ」と言い切っている。

・以上のように考えてみると、(中略)一票の格差という淵源に突き当たるのである。

 最初から的を決めているわけだから「突き当たる」のは当然だ。

・有力なアイデアは、インターネット投票の導入である。

 インターネット投票や電子投票は嘘をつかれる恐れがある。

 彼の論理は、小学生が授業における発表を失敗した場合に置き換えるとわかりやすい。ナオト君の失敗は家族の構造に問題があるってわけだよ。

 明らかに論理が破綻しているのは、ヒューマンファクター(人的要因)と構造的要因が異なる視点であるにもかかわらず、そこに優劣をつけているためだ。

 犯罪を考える場合なども社会的背景に目を奪われてしまうと、犯罪者=社会の犠牲者と問題が変質してしまう。

 一票の格差は確かに問題だろう。だが、一票の格差が解消されることで政治状況が変わるというのは行き過ぎた楽観論だ。

 突き詰めて考えるのであれば、女性に投票権がなかった時代や、それこそ政治意識すら芽生えていなかった江戸時代とも比較考証すべきであろう。更に外国で格差是正成功例があるならデータで示すべきだ。

 そもそも本気で民主政治を行うのであれば、議員選出法はくじ引きにすることが正しいのだ。

民主的な議員選出法とは?/『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志

 私は一票の格差よりも、憲法違反が平然とまかり通っている事実の方が恐ろしいと思う。国家権力に縛りをかける憲法が有名無実であることは、権力の暴走を許していることになるからだ。

 結論――政治の構造的問題を一票の格差に帰着させる考えは、全ての問題を菅直人首相のせいにする人々と五十歩百歩であると思う。

一人一票に関心が湧かない

2011-06-01

ダニエル・カーネマン


 1冊挫折。

 挫折21『ダニエル・カーネマン 心理と経済を語る』ダニエル・カーネマン:友野典男、山内あゆ子訳(楽工社、2011年)/著者は心理学者であるが、ノーベル経済学賞を受賞した人物だ。記述がまどろっこしい上、文章に迫力がない。プロスペクト理論を学びたかったのだが相性が合わず。

2011-05-31

ひらめき=適応性無意識/『第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』マルコム・グラッドウェル


 不況が続くとインチキや引っ掛け、詐欺・窃盗の類いが増える。普段は善良な人々がちょっとした誤魔化しを行い、平均的な人物は悪事に手を染めやすい。悪い連中に至っては被災者を騙すくらいのことを平然とやってのける。

 出版不況も長期化している。で、このようなデタラメ極まりない副題をつけるに至るってわけだよ。まあ酷いね。悪質だ。せっかくの内容を台無しにしてしまっている。

 そもそも原題は「“blink”=ひらめき」(訳者あとがき)である。マルコム・グラッドウェルは「ひらめきが正しい」と主張しているわけではない。「正しい場合もあるし、誤るケースもある」と書いているのだ。このため副題を刷り込まれた読者は、内容にチグハグな印象をもってしまう。後半になると「あれ、どっちなんだ?」と混乱するのだ。光文社の罪は大きい。

 これから本書を読もうとする人には、「副題をマジックで消すこと」をお勧めしておこう。

 フェデリコ・ゼリもイブリン・ハリソンもトマス・ホービングもゲオルギオス・ドンタスも、みんなそれを見たとき「直感的な反発」をおぼえた。そのひらめきに狂いはなかった。わずか2秒、文字通り一目で、その像(※紀元前530年頃に作成されたとするクーロス像)の正体を見抜いたのである。ゲッティ美術館の鑑定チームは14か月かけて調べ上げたが、彼らの2秒にかなわなかった。
 本書『第1感』は、この最初の2秒にまつわる物語である。

【『第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』マルコム・グラッドウェル:沢田博、阿部尚美訳(光文社、2006年)以下同】

 紛(まが)い物といえば骨董品である。有名な美術館であっても偽者をつかませられることがあるようだ。ま、書画骨董の類いは、どことなく信仰と似ている。自分が信じる限りは救われるのだ。

 ところが一流の目利きといわれる人は一瞬で真贋(しんがん)を見分ける。見分けるのだが、具体的な言葉で説明することができない。言葉は思考であり意識であるから、きっと無意識領域で違和感を覚えるのだろう。確かに胡散臭い人物と出会った時などは、「どこがどうってわけじゃないんだが、あの野郎は嘘の臭いがプンプンしていやがるぜ」ってなことが多い。

 果たして脳機能から見ると、どのようなメカニズムが働いているのか?

 このように一気に結論に達する脳の働きを「適応性無意識」と呼ぶ。心理学で最も重要な新しい研究分野のひとつである。適応性無意識は、フロイトの精神分析で言う無意識とは別物だ。フロイトの無意識は暗くぼんやりしていて、意識すると心を乱すような欲望や記憶や空想をしまっておく場所だ。対して適応性無意識は強力なコンピュータのようなもので、人が生きていくうえで必要な大量のデータを瞬時に、なんとかして処理してくれる。

 わかりにくい説明だ。これではヒューリスティクスと変わりがない。コンピュータのようなもの、とは並列処理ができるという意味だろう。取り敢えず「ひらめき=適応性無意識」と憶えておけばいいと思う。

 次に具体的な実験例を示す。

 初対面の人に会うとき、求職者を面接するとき、新しい考えに対処するとき、せっぱつまった状況でとっさに判断しなければならないとき、そういうときに、私たちは適応性無意識に頼る。たとえば学生の頃、担当教官が有能かどうかを判断するのに、私たちはどれくらいの時間を費やしただろう。最初の授業で? それとも2回目の授業のあと? 1学期の終わり?
 心理学者のナリニ・アンバディによれば、学生たちに教師の授業風景を撮影した音声なしのビデオを10秒間見せただけで、彼らは教師の力量をあっさり見抜いたという。見せるビデオを5秒に縮めても、評価は同じだった。わずか2秒のビデオでも、学生たちの判断は驚くほど一貫していた。さらに、こうした瞬時の判断を1学期終了後の評価と比べてみたところ、本質的な相違はなかったという。(中略)これが適応性無意識の力である。

 ここがポイントだ。経験や学習の後に下した判断と、第一印象の判断に相違はない。つまり相手を判断するための情報は量よりも質が問われることを意味する。

 綿密で時間のかかる理性的な分析と同じくらいに、瞬間のひらめきには大きな意味がある。このことを認めてこそ、私たちは自分自身を、そして自分の行動をよりよく理解できる。

 女の直感だ。そして女は直感の奴隷でもある(笑)。

 横方向に合理の世界は広がり、縦方向に直観的英知(ひらめき)が走るのだろう。稲妻のように。

 実験例をもう一つ紹介しよう。

 この実験(サミュエル・ゴスリング)から、一面識もない人物のことを15分間部屋を観察しただけで、長年の知りあいよりも理解できるものだということがわかる。ならば「相手をよく知る」ために会合や昼食を重ねても無駄だ。私を雇っても大丈夫かどうか知りたければ、私の家を訪ねてきて、部屋を見ればいい。(中略)
 この実験も「輪切り」の一例にすぎないのだ。

「輪切り」とはMRI(磁気共鳴画像)に掛けた言葉だ。英知の閃光が見えない内部をも照らすってわけだ。要は「一をもって万(ばん)を知る」ということなんだが、どこに注目するのかが問題だ。しかも相関関係はあったとしても、そのまま因果関係と断定するわけにはいかない。

相関関係=因果関係ではない/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン

 医者の訴訟リスクは何に由来するのか? この辺りから副題が邪魔になってくる。

 実を言うと、医者が医療事故で訴えられるかどうかは、ミスを犯す回数とはほとんど関係ない。訴訟を分析したところ、腕のいい医者が何度も訴えられたり、たびたびミスしても訴えられない医者がいることがわかった。一方で、医者にミスがあっても訴えない人がかなりの数に上ることもわかった。要するに、患者はいい加減な治療で被害を受けただけでは医者を訴えない。訴訟を起こすのにはほかに「わけ」がある。
 その「わけ」とは何か。それは、医者から個人的にどんな扱いを受けたかである。医療事故の訴訟にたびたび見られるのは、医者にせかされたとか、無視されたとか、まともに扱ってもらえなかったという訴えだ。

 具体的なミスと訴訟に関連性がないとすれば、患者が受けた印象に合理性はない。しかし別の見方をすれば、医師-患者という人間関係において「軽んじられる」ことは患者側のリスク要因となる。だから医学的合理性を欠いてはいるが、社会的な意味合いはあるのかもしれない。

 それにしても驚きだ。訴訟が「好き嫌い」のレベルで行われているというのだから。

 だとしたら、訴えられる可能性を知るのに手術がうまいか下手かを調べても意味がない。医者と患者の関係さえわかればよいのだ。
 医療について研究しているウェンディ・レビンソンは医者と患者の会話を何百件も録音した。ほぼ半数以上の医者は訴えられたことがない。あとの半数は二度以上訴えられている。レビンソンは彼らの会話だけを頼りに、二つのグループの医者に明らかな違いがあることを見つけた。
 訴えられたことのない外科医は、訴えられたことのある外科医よりも、一人の患者につきあう時間が3分以上長かったのだ(前者が18.3分に対して後者は15分)。

 更に補強されたよ(笑)。何だか、ますます民主主義が信用できなくなってきたな。大衆とはポピュリズムの異名だ。

 判断材料は外科医の声を分析した結果だけ。それで十分、威圧感のある声の外科医は訴えられやすく、声が威圧的でなく患者を気遣うような感じの外科医は訴えられにくかった。これ以上【薄い】輪切りがあるだろうか?

 困ったね。何を隠そう私は昔から威圧的な口調で有名なのだ(笑)。その上口が悪い。態度も横柄だ。そのうち誰かから訴えられることだろう。

 他にもウォーレン・ハーディングは見栄えがよかったおかげで、第29代アメリカ大統領になれたという話も出てくる。ま、詐欺師ってえのあ、大体感じがいいからね。

 私は直感的なタイプだ。そして気が短い。時折、「どうしてそんなに怒っているのかわからない」と言われる。説明すると相手は納得するのだが、「そんなことを一々説明させるな!」とまた怒る羽目になる。

 会って話をすれば、かなりのことがわかる。メールやツイッターでも結構わかる。「小野さんと話していると、自分が丸裸にされるようで怖い」と言われたこともある。

 私は昔から違和感を言葉にする努力を自らに課してきた。もちろん時間が掛かった場合もあるが、大体は言葉で説明できる。

 顔色や目つき、声の抑揚、身のこなし方などから伝わってくる情報は意外と多いものだ。クルマに詳しい人であれば、必ずエンジン音に耳を傾けている。

 でも直観を鍛えるのは難しい。だから感情や本能を磨くことを心掛けたい。具体的には感受性である。道を歩きながら光を感じているか。走り出した時の風を感じているか。木を見た時に根の存在を感じているか。二度と見ることのない雲の形に不思議を見出しているか。そんなことが大切なのだろう。

第1感  「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい (翻訳)

『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』(旧題『ティッピング・ポイント』)マルコム・グラッドウェル
災害に直面すると人々の動きは緩慢になる/『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー

2011-05-30

グレッグ・ルッカ


 1冊挫折。

 挫折20『天使は容赦なく殺す』グレッグ・ルッカ/佐々田雅子訳(文藝春秋、2007年)/50ページほどでやめる。程度の低い娯楽ミステリーとしか思えない。しかも上下二段とはいえ、370ページのソフトカバーで2700円という値段。文藝春秋社はよほどこの本を売りたくないのだろう。表紙に配されたイラストは漫画そのもので持ち歩くことを困難にしている。タラ・チェイスという女性版007のようなシリーズらしい。設定も現実離れしていて、あざとさを感じる。今後、私がこのシリーズを読むことはなさそうだ。

2011-05-29

素粒子衝突実験で出現するビッグバン/『物質のすべては光 現代物理学が明かす、力と質量の起源』フランク・ウィルチェック


 ・素粒子衝突実験で出現するビッグバン

『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』レオナルド・サスキンド
・『量子力学で生命の謎を解く 量子生物学への招待』ジム・アル=カリーリ、ジョンジョー・マクファデン

「あ、そうだ。画像を探さなくっちゃ……」と思い立ってから既に1時間以上経過している。前に保存しておいたのだが、パソコンが成仏してしまったのだ。目的の画像を見つけるまで、それほど時間はかからなかった。何の気なしに「Big Bang」で画像検索をし、更に「LHC」(大型ハドロン衝突型加速器)で調べたのが過ちであった。あるわあるわ(笑)。おかげで動画まで辿ることができた。そして書く気が完全に失せてしまった(笑)。

 著者のフランク・ウィルチェックは2004年にノーベル物理学賞を受賞している。だからいい加減なことは書いていないはずだ。多分。私程度の知識ではかなり難しかった。それでも何とか読み終えることができたのだから、わかりやすく書いてあるのだろう。

感覚と世界模型

 そもそもわたしたち人間というものは、奇妙な原材料を使って自分たちの世界の模型を作っている。その原材料を収集しているのが、情報に溢れた宇宙にフィルターをかけて、数種類の入力データの流れに変えられるように、進化によって「設計」された信号処理ツールだ。
「データの流れ」といっても、ぴんとこないかもしれない。もっと馴染み深い呼び名で言えば、視覚、聴覚、嗅覚などのことだ。現代では、視覚とは、目の小さな穴を通過する電磁輻射の幅広いスペクトルのなかで、虹の七色に当たる狭い範囲だけを取り上げて標本抽出するもの、と捉えられている。聴覚は、鼓膜にかかる空気の圧力をモニターし、嗅覚は、鼻粘膜に作用する空気の化学分析を提供するが、その分析は不安定なこともある。ほかに、体が全体としてどんな加速をしているか(運動覚)や、表面の温度や圧力(触覚)について大雑把な情報を与えるもの、舌のうえに載った物質の化学組成について数項目の粗雑な判定を行なうもの(味覚)、そして、ほかにも数種類の感覚系統が存在する。

【『物質のすべては光 現代物理学が明かす、力と質量の起源』フランク・ウィルチェック:吉田三知世〈よしだ・みちよ〉訳(早川書房、2009年)以下同】

 既に何度も書いてきた通り、感覚されたもの=世界である以上、世界とは感覚された情報空間を意味する。つまり世界は目前に開けているわけではなく、感覚の中にのみ存在するのだ。世界とは感覚であると言い切ってしまっても構わない。目をつぶれば全くの別世界が立ち上がってくる。光のない世界だ。しかしながら構成が変わっただけで感覚がある限り世界は厳然とある。

 世界の深奥(しんおう)にある構造は、その表面構造とはまったく異なる。人間に生まれつき備わっている感覚は、人間が作り上げた、最も完全で正確な世界模型にはうまく対応できない。

 マクロ宇宙では時空が歪んでいるし、ミクロ宇宙では光子が粒なのか波なのかすら判然としない。人間の感覚で知覚できるサイズは限られている。物質に固体・液体・気体という位相があるように、宇宙にも位相があるのだろう。

 実際、質量保存則が、ものの見事に成り立たない場合もある。ジュネーヴ近郊のCERN研究所で1990年代に稼働していた大型電子陽電子コライダー(LEP)では、電子と陽電子(電子の反粒子)が、光速の99.999999999パーセントに迫る速度に加速される。この速度で逆向きに回転する電子と陽電子を衝突させると、衝突の残骸が大量にできる。典型的な衝突ではπ中間子が10個、陽子が1個、そして反陽子が1個生じる。さて、衝突の前後の送出量を比べるとどうなるだろうか?
(式、中略)
 でてくるものが、入ってきたものの約3万倍も重いことになる。

 表紙に配されているのは高エネルギーで重イオンを衝突させた実験の画像である。


 誰もが「何じゃ、これは!」とジーパン刑事の台詞(せりふ)を口にしたことと思う。確かに我々の感覚世界を超越してますな。しかも、1×1の衝突が3万となるのだ。願わくは1円玉と1円玉をぶつけて、3万円にして欲しいものだ。

 この状態を「スモール・ビッグバン」と称する。動画があったので紹介しよう。


 いやあ興奮してくる。だが、この実験に反対する科学者もいる。素粒子の衝突で生じた莫大なエネルギーがブラックホールを生成する可能性があるというのだ。

超大型粒子加速器でブラックホール製造実験

 自然界の基本相互作用は四つの力で、強い力・弱い力・電磁力・重力で構成されている。強い力は距離に反比例して離れれば離れるほど強くなる。原発事故を見てもわかるように、微小な世界にとんでもない力が隠れている。

 では、他の画像も紹介しよう。詳細は不明だが、いずれもスモール・ビッグバン直後の様相を撮影(またはモデル化)したものと思われる。


 ねー、凄いでしょー。しかし何なんだろうな、この感動は。「神は言われた。『光あれ』。こうして、光があった」(旧約聖書、創世記)ってな感じだわな。

 一般的に、運動している物体や、相互作用する物体の場合、エネルギーと質量は比例しません。E=mc²は、まったく成り立たないのです。

 静止状態と関係性が織り成す現実世界との相違。

 じつのところ、光そのものが、たいへん印象的な例だ。光の粒子、光子は、質量がゼロである。なのに、光は重力によって曲がってしまう。と言うのも、光子のエネルギーはゼロではなく、重力はエネルギーに作用するからだ。

 ってことは光の場合、E=cになるってことなのか? 頭の中にフックが引っ掛かるのだが、如何せん知識が追いつけない。

 すべてのものは電子と光子でできている。原子は、電子と原子核でできている。原子核は、すべての電子が集まった電子殻よりもはるかに小さい(原子核の半径は、電子殻のそれの約10万分の1)が、そこに正の電荷がすべて存在し、また、原子の質量のほとんど全部──99.9パーセント以上──が集中している。電子と原子核が電気的に引き付け合うことで、原子は一体に保たれている。最後に、原子核は陽子と中性子でできている。原子核を一体に保っているのは、電気力とはまた違う、はるかに強いが短い距離しか働かない力である。

原子の99.99パーセントが空間

 つまり、パチンコ玉(11mm)の向こう側にサッカー場の長い方を30個並べた状態で、質量はパチンコ玉に集中しているわけだ。

 クォークとグルーオン──厳密には、クォークとグルーオンの場──は、完璧で完全な数学的対象物だということだ。クォークとグルーオンの性質は、サンプルを提供したり、測定したりすることは一切必要なしに、概念だけを使って、完全に記述することができる。そして、その性質は、変えることができない。方程式をいじくりまわせば、式を損なわずには済まされない(実際、式は矛盾するようになってしまう)。グルーオンは、グルーオンの方程式に従うものなのだ。ここでは、物質(イット)がビットそのものなのである。

 クォークが素粒子の一種であることは知っているが、グルーオンというのがわかりにくい。膠着子(こうちゃくし)だってさ。動きの悪そうな名前だよね。

 ジョン・ホイーラーが「世界のありとあらゆるものは情報であり、その情報(bit)を観測することによって存在(it)が生まれる」と提唱した(宇宙を決定しているのは人間だった!?  猫でもわかる「ビットからイット」理論、を参照した)。

 ところが、ミクロ世界においてはイット=ビットとなる場合があるというのだ。いやはや驚いた。きっと万物は情報なのだろう。存在=情報。

1ビットの情報をブラックホールへ投げ込んだらどうなるか?/『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』レオナルド・サスキンド
生命とは情報空間と物理空間の両方にまたがっている存在/『苫米地英人、宇宙を語る』苫米地英人

 で、本書を読めば「物質のすべては光」であることが理解できるかというと、そうは問屋が卸さない。やや尻すぼみになっている印象もある。ただ、科学が全く新しい宇宙の前に立っていることだけは凄まじい勢いで伝わってくる。

 知性は前へ進み続ける。宇宙の成り立ちを理解した時、人間の内なる宇宙も一変するに違いない。

物質のすべては光: 現代物理学が明かす、力と質量の起源 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫―数理を愉しむシリーズ)

ブラックホールの画像
大型ハドロン衝突型加速器(LHC)とスモール・ビッグバン