2011-09-17

世界情勢を読む会、矢野絢也


 2冊読了。

 63冊目『面白いほどよくわかる「タブー」の世界地図 マフィア、原理主義から黒幕まで、世界を牛耳るタブー勢力の全貌(学校で教えない教科書)』世界情勢を読む会(日本文芸社、2004年)/息抜きのつもりで読んだのだが予想以上に面白かった。確かに裏面史ではあるが内容は硬派。経済的なつながりが浮き彫りにされており、ニュースの裏側がわかる仕組みとなっている。モンサント社に関する記述もあり、もっと早く読むべきであったと反省。

 64冊目『「黒い手帖」裁判全記録』矢野絢也〈やの・じゅんや〉(講談社、2009年)/前著の『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』と大半が重複した内容。高裁で逆転判決が出て矢野側が勝訴したので出版に至ったのだろう。内容的には前著の方が優れている。公明党OBである大川清幸〈おおかわ・きよゆき〉元参議院議員、伏木和雄〈ふしき・かずお〉元衆議院議員、黒柳明参議院議員の3名が、矢野から100冊を超える手帳を強奪したことが明らかになった。また幾度となく創価学会の幹部複数名が億単位の寄付を強要している。

No Future


 未来はない。

No Future

私にとって人工呼吸器は機械ではありません


 私にとって人工呼吸器は機械ではありません。体の一部です。私は呼吸器は機械だとまったく思っていません。
 呼吸器使用者には呼吸器との相性があるのです。以前使っていた呼吸器では、血中濃度の科学的データが正常であるにもかかわらず、苦しいということがありました。現在使っている機械に変えたところ、食欲もわき、一年間で体重が10キロも増えました。おそらく目に見えない呼気波形や呼吸パターンの違いがあるからでしょう。また、使っているうちに、カフや換気量を調節することで、食べる時以外はしゃべれる状態をつくれることがわかってきました。
(※「第4回北海道在宅人工呼吸研究会」での発表原稿より)

【『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史〈わたなべ・かずふみ〉(北海道新聞社、2003年)】

こんな夜更けにバナナかよ

フランシスコ・ヴァレラ、エレノア・ロッシュ、エヴァン・トンプソン


 1冊挫折。

身体化された心 仏教思想からのエナクティブ・アプローチ』フランシスコ・ヴァレラ、エレノア・ロッシュ、エヴァン・トンプソン:田中靖夫訳(工作舎、2001年)/チンプンカンプンで、お手上げ。言葉遣いから文体に至るまで肌に合わず。オートポイエーシスの手引き書と考えていただけに他を探す必要あり。

宇宙図の悟り

宇宙図

宇宙図

 前にも書いたが、上記ページのアニメーションを見て私は悟りが閃(ひらめい)いた。直ちに科学技術広報財団に申し込んだのが画像の宇宙図である。

科学技術広報財団(サイズは2種類)

 見るたびに脳が活性化される。137億年を俯瞰するのだからそれも当然だ。最初の悟りを再掲しておく。

時間と空間に関する覚え書き

◆では、宇宙図を見て閃いた悟りを開陳しよう(笑)。視覚が捉えている世界は「光の反射」である。光には速度がある(秒速30万km)。つまり我々に見えているのは「過去の世界」であって「現在という瞬間」を見ることはできない。

◆更に人間の知覚は0.5秒遅れる。つまり「光の速度+0.5秒」前の世界を我々は認識しているわけだ。

人間が認識しているのは0.5秒前の世界/『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二

◆例えば北極星。地球上から見える北極星の光は431光年を経たものである。仮に北極星でサッカーの試合をしたとしよう。コイントスが終わっていよいよゲームが始まる。この場合、431年前のゲームを我々が見ていることになる。

諸行無常とは存在の本質を示した言葉であろう。「とどまることを知らない変化」こそが存在の存在たる所以であり、それが生命現象である。しかしながら我々の視覚に映じているのは過去の世界であるがゆえに、「存在の影(あるいは迹〈かげ〉)」しか認識できない。

◆「神」という視点は光に支えられた座標なのだろう。それは「見える世界」に限定される。そうでありながら光の源である太陽を人間は直視することができない。「見えるもの」には名が付与される。言葉は名詞から発生したと考えられている。神は光であるがゆえに「初めに言葉ありき」という構図ができる。

◆相対性理論は空間と時間が絶対ではないことを明かした。例えば光のスピードで走る車をあなたが道路で眺めたとしよう。車内の人達は全く動いておらず、彼らの周囲にある物は全て縮んで見える。車の中では普通に時間が進行しているにもかかわらずだ。

◆車を運転していたのは浦島太郎だった。首都「光速」道路で竜宮城へ行き、3年後に自宅へ帰ったところ、何と300年が経過していた。これを「ウラシマ効果」という。

◆実は我々の生活にもウラシマ効果は存在する。

相対性理論によれば飛行機に乗ると若返る/『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン

◆神が光であると仮定すれば、神的世界は光の届く範囲に限定される。そして光は必ず影をつくり出す。なぜなら物体が光をさえぎるからだ。こうして光は「表と裏」という世界を形成する。地球が太陽に照らされる時、光と同じ速度で地球の影は宇宙に伸びる。その先にも闇は広がっている。

◆宇宙全体に光が及ぶことはない。なぜなら宇宙は光速度を上回るスピードで膨張しているからだ。

宇宙にはてはあるのですか?

◆光に支配されたキリスト教的時間観は直線的とならざるを得ない。生→死→復活→永遠、というのがそれだ。これでは系(システム)として閉じていないので必ず矛盾が生じる。

キリスト教と仏教の「永遠」は異なる/『死生観を問いなおす』広井良典

◆仏教は現在性を追求している。仏典においては「将来」ではなく「未来」という言葉が使われる。「将(まさ)に来たらん」とする時間ではなく、「未(いま)だ来たらざる」時間として捉える。厳密にいえば仏教は未来を認めていないのだ。

◆ブッダが説いた原始の教えはプラグマティズムと受け止められがちだが、むしろ現在性を重んじた智慧であったと考えるべきだろう。カースト制度を支える輪廻という物語を解体するには、前世・来世を一掃する必要があった。悟りとは修行の果てに得られるものではなく、ありのままの現在性を捉えることだ。

◆光の速度を超えると虚数の世界が現れる。2乗してマイナスとなるのが虚数だ。量子力学や電磁気学では実際に使われている。膨張する宇宙の果てが虚数の世界であれば、そこはネガとポジが反転する世界だ。生老病死も反転し、光速度を超えた時点で過去へと向かい、久遠元初に辿り着くかもしれない。

◆実際は光速度に近づくほど質量は無限に重量を増す。これがE=mc²。質量が無限大の世界といえばブラックホールだ。地球を2cmに圧縮すればブラックホールが出来上がる(※実際は質量不足で不可能)。そしてブラックホールを取り巻く空間は激しく歪む

◆物理世界における光速度を超えるのは、無意識の直観であり、これこそが悟りなのだろう。

敢えて“科学ミステリ”と言ってしまおう/『数学的にありえない』アダム・ファウアー
月並会第1回 「時間」その一
ブラックホールの画像と動画

2011-09-16

法華経と同じ物語構造/『介子推』宮城谷昌光


『重耳』宮城谷昌光

 ・法華経と同じ物語構造

・『沙中の回廊』宮城谷昌光

 重耳〈ちょうじ〉こと文公は春秋時代の覇者となり、従者の介子推〈かいしすい〉は後漢の時代に神となった。

 読むのは二度目である。棒術の威丈夫といった淡い記憶しか残っていなかった。『重耳』を読んで初めて介子推を理解した。やはり書物には順序というものがある。まず『重耳』を開いてから後に本書を求めるのが正しい。

占いこそ物語の原型/『重耳』宮城谷昌光

『介子推』は『重耳』の余滴(よてき)である。著者は「つらい、とつぶやいて何度か泣いた。そういう体験をもつのは、この小説がはじめてであり、もうないかもしれない」とあとがきに記している。史実は少ない。だが宮城谷は書かずにはいられなかった。棒術の達人というのも創作である。

 つまり介子推という人物は、数千年を経てもなお想像力を掻き立ててやまない存在感があることになろう。人はそれを「魂」と呼ぶ。

 物語は前半と後半に分かれる。前半ではファンタジー的手法を駆使して教育が描かれている。

 だが、石遠〈せきえん〉はちがう。
 屋根をみあげて、草が腐ってきたかな、などという。甕(かめ)の破片を手にとり、土のこねかたが浅かったのだろう、などという。そういう感想のひとつひとつは、たとえば、
 ――形のあるものは、かならずこわれる。
 というような、あきらめにも似た認識からは遠く、ものごとをかならず人の営為のなかでとらえ、人の工夫や努力の足りなさを訴えているようにきこえた。
 おなじことばではないが、そのようなことを介推〈かいすい〉は母にいったことがある。すると母は、
「ああ、石〈せき〉さんは、人の限りということがわかっている人ですね」
 と、即座にいった。
 このこたえのほうが、介推にはむずかしかった。

【『介子推』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1995年/講談社文庫、1998年)以下同】

 見事な導入部である。技術が棒術へと結びつき、生の術=生きる流儀をも示す。この一文が本書全体のストーリーを見事に象徴している。

 村に住む男性が虎に食われる事件が起こる。介推は人知れず虎を討つことを決意する。水を汲(く)みに山へ何度か足を運んでいると仙人のような老人が現れた。老人は「霊木(れいぼく)を探し、その枝を削り、虎を撃て」と命じた。

 棒を手にした介推は、これまで感じたことのない不安をおぼえた。
 虎と戦うことが怖いということではない。
 棒がかるいのである。
 その棒をつかむと、自分まで地から浮きあがりそうに感じる。棒から手をはなすと、自身の体重にもどる。その奇妙さが介推に大いに不安をあたえた。

 介推はまだ子供であった。体重の変動は自我の脆(もろ)さを表現したものだ。棒を扱うだけの技量が彼にはまだなかった。

 あてはない。
 あの老人があらわれるのを待つだけである。
 介推は一昼夜を山中ですごした。
 ――わたしは耳がよくなったのか。
 と、介推は耳に手をあててみた。物音がくっきりときこえる。耳をふさいでみても、物音が小さくなったという感じはしない。
 ――棒のせいであろうか。
 と、おもい、棒をはなしてみても、その感覚に変化はない。

 目が集中力であるのに対して、耳は注意力である。介推は変わった。そして世界も同時に変わった。

 翌日も、山中をさまよっただけでおわった。
 だが、介推は自身が新鮮に洗われたという感動をおぼえた。
 生きている者は、音を発する。
 風に揺れる木も草も、岩清水でさえも、生きている。山中で起居していると、山の呼吸と同化してゆく。その呼吸は、人だけがよりあつまっている里にはないもので、ゆったりと大きく、また深いものである。
 ――あの虎は、この調和を乱している。
 いろいろなものがよりあつまって山はできている。山は和音そのものだといってよい。虎はその和音を破壊しているにちがいない。

 学ぶ意味が巧みに描かれている。本質を見抜く力こそ学問の証であろう。介推は老人と自然から生の本質を学んだ。そして遂に虎を退治する。彼はその偉業を黙して語ることがなかった。

 荒唐無稽と思えばそれまでなのだが、実は法華経の構成と似ている。法華経は霊山会(りょうぜんえ)と虚空会(こくうえ)という二つの場所で説かれる。前者を歴史的次元、後者を本源的次元と捉えることが可能だ。虚空会を文字通り空中と考えれば、単なるSFになってしまう。しかしブッダの悟性の内部世界を描いたものと弁えれば、さほど違和感は覚えない。

 つまり介推のエピソードは事実であるか否かではなく、成長の変化を物語化したものと受け止めるべきなのだ。

 そして介推は重耳の従者となる。19年に及ぶ放浪につき従い、幾度となく重耳の危難を防いだ。遂に刺客である閻楚〈えんそ〉と対決する。

 舎(いえ)にむかう介推のからだのなかに、異常な高鳴りがある。
 閻楚〈えんそ〉の剣を棒でうけたとき、
 ――重公子〈ちょうこうし〉とは、それほどの人か。
 と、実感した。それほどの人というのは、このようなすさまじい剣で狙われる人、ということで、重耳〈ちょうじ〉が存在する尊さというものを、かえってその剣がおしえてくれた。
 ――重公子を守りぬいてやる。
 介推のからだ全体がそう叫んでいた。

 これぞ物語の妙というもの。互いの命を奪い合う格闘の中から見事なコミュニケーション領域を描いている。人と人とが出会うとはこういうことなのだろう。

 介推は無名のままであった。ある時、太子昭〈たいししょう〉という人物を暗殺者の手から救った。この時も介推は尋ねられても決して名乗らなかった。介推の賢明さを見抜いた太子昭は心で呟いた。「これほどの男を賤臣にしたままの主人とは、よほど暗愚な者であろう」と。

 物語はクライマックスを迎える。咎犯〈きゅうはん〉の舌禍ともいうべき事件が起こる。

 このやりとりを、たまたま介推は近くでみていた。
 ――公子はまだ君主になっていないのに、咎犯〈きゅうはん〉はもう賞をねだっている。
 そうみえた。

 重耳は功を遂げようとしていた。咎犯〈きゅうはん〉は一計を案じて古くからの従者を重んじるよう画策した。介推の瞳にはこれが邪(よこしま)なものとして映った。介推に言わせれば、重耳の成功は天命であって配下が誇る性質のものではない。自らの功績を誇示し、報酬を無理強いする咎犯〈きゅうはん〉を介推は許せなかった。

 下(しも)はその罪を義とし、上(かみ)はその姦(かん)を賞し、上下(しょうか)あい蒙(あざむ)く。

 介推がそういったとき、母は、
 ――ああ、この子はまだ閻楚〈えんそ〉と戦っているのだ。
 と、察した。下は臣下のことである。臣下は自分の罪を義にすりかえた。しかも上、すなわち君主はその姦邪(かんじゃ)を賞した。それでは臣下と君主とがあざむきあっていることになる。
「そういう人々がいるところに、わたしはいたくないのです」
 口調は激しくないのだが、強いことばである。

 介推はあまりにも清らかだった。主従の関係に政治を差し挟むことを嫌悪した。

 組織というものは大きくなるにつれて官僚を必要とする。清流は海へと向かう中で必ず大河となって濁る。介子推はその濁りを鋭く察知し忌避したのだろう。どんな世界でも現場を支えているのはこういった人々だ。

 この件(くだり)を読んで、ボクサーの大橋秀行を思い出した。

リング上での崇高な出会い/『彼らの誇りと勇気について 感情的ボクシング論』佐瀬稔

 一つだけケチをつけると、閻楚〈えんそ〉が重耳に介推の功績を語るシーンが曖昧で、『重耳』を読んでいないとストレスを覚えてしまう。著者の気持ちが昂っていたためと善意に解釈することは可能だが、拍子抜けの感は拭えない。

介子推 (講談社文庫)

重耳・介子推

『孟嘗君』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光

弱肉強食


 競争原理の本質は弱肉強食である。ほら、あなたと私も写っているよ。隙(すき)あらば弱いものを押しのけるのが我々の流儀だ。

wolf

フランス領ルイジアナを買収


 ところが、事態はまったく思いがけない方向に進んでしまった。ナポレオンはタレーラン外相を通じて、もっと大きな買い物を提案した。つまりフランスがスペインから返還してもらったばかりの、フランス人がルイジアナとよんでいたミシシッピ川以西の広大な土地を、アメリカ人に買う意志がないかといってきたのである。これはモンローがパリに着く直前のことで、駐仏大使ロバート・リヴィングストンはこの申し出を聞いて仰天した。そしてナポレオンの気が変らないうちにこの驚くべき提案を受け入れるよう、ジェファソン大統領に手紙を書いた。
 こうして1803年4月、どこまで広がっているのか分からないほどの土地ルイジアナを、1500万ドルという金額、後年計算した結果では1エーカー(約4000平方メートル)あたりわずか3セントという値段で、買いとることになったのである。ヨーロッパ人が北米に植民を開始してからまもない1626年には、オランダ人が今のニューヨークのマンハッタン島を、せいぜい40ドル程度の値段で原住インディアンたちと物々交換し、後に「史上最大のバーゲン」とよばれたが、このルイジアナもまた、これに劣らない大バーゲンだったといえるのではないだろうか。というのは、このためアメリカの領土は一挙に2倍にまで拡大されることになったからである。

【『西部開拓史』猿谷要〈さるや・かなめ〉(岩波新書、1982年)】

西部開拓史 (岩波新書)

ルイジアナ買収

猿谷要、ソル・フアナ、ギャズ・ハンター


 3冊挫折。

西部開拓史』猿谷要〈さるや・かなめ〉(岩波新書、1982年)/アメリカ先住民に関する記述が少ないのでやめた。モルモン教についても触れている。

知への賛歌 修道女フアナの手紙』ソル・フアナ:旦敬介〈だん・けいすけ〉訳(光文社古典新訳文庫、2007年)/文章が肌に合わず。220ページの本で解説が50ページというのもどうなのかね?

SAS特殊任務 対革命戦ウィング副指揮官の戦闘記録』ギャズ・ハンター:村上和久訳(並木書房、2000年)/以前から読みたかった本だったが見事な肩透かしを食らった。幼少時の体験を読むとわかるが、明らかに境界性人格障害である。友達が怪我をしたり、亡くなった場面が綴られているが、完全に罪悪感を欠いていて胸が悪くなった。

2011-09-15

進化医学的視点の欠落/『スティグマの社会学 烙印を押されたアイデンティティ』アーヴィング・ゴッフマン


「スティグマ」とは烙印の意。奴隷や家畜に押される焼き印を指すが、英語にはイエスの聖痕の意味もあるようだ。つまり、この言葉には二重の憎悪が仕込まれていると考えてよい。

 わかりにくい本であった。合理性の極まるところに数学が生まれ、悟性から発せられた言葉が詩であるとすれば、どちらからも遠い位置に本書はあると思う。で、翻訳も多分よくない。

 哲学的な慎重さに私のような一般人は耐えることができない。江戸っ子は気が短いのだ。

【スティグマ】という言葉を用いたのは、明らかに、視覚の鋭かったギリシア人が最初であった。それは肉体上の徴(しるし)をいい表す言葉であり、その徴は、つけている者の徳性上の状態にどこか異常なところ、悪いところのあることを人びとに告知するために考案されたものであった。徴は肉体に刻みつけられるか、焼きつけられて、その徴をつけた者は奴隷、犯罪者、謀叛人──すなわち、穢れた者、忌むべき者、避けられるべき者(とくに公共の場所では)であることを告知したのであった。

【『スティグマの社会学 烙印を押されたアイデンティティ』アーヴィング・ゴッフマン:石黒毅〈いしぐろ・たけし〉訳(せりか書房、2001年)以下同】

 烙印の権力構造である。罪を犯した者につけられる負の表象。去勢したり、鼻を削ぐのも同様で「差別のサイン」が見て取れる。

 社会は、人びとをいくつかのカテゴリーに区分する手段と、それぞれのカテゴリーの成員に一般的で自然と感じられる属性のいっさいを画定している。さまざまの社会的場面(セッティング)が、そこで通常出会う人びとのカテゴリーをも決定している。状況のはっきりした場面では社会的交渉のきまった手順があるので、われわれはとくに注意したり頭を使わなくても、予想されている他者と交渉することができる。したがって未知の人が面前に現われても、われわれは普通、最初に目につく外見から、彼のカテゴリーとか属性、すなわち彼の〈社会的アイデンティティ〉を想定することができるのである。

 だから西部劇に登場する保安官はよそ者にうるさいわけだ。わからない者は映画『ランボー』を見よ。

 相手の人にわれわれが帰属させている性格は、予想された行為から顧みて(in potential retrospect)行なわれる性格付与──すなわち〈実効をもつ〉性格づけ、すなわち【対他的な社会的アイデンティティ】(a virtual sosial identity)とよぶのがよかろう。

 人は見かけで判断する。そんなに小難しくいう必要はない。

 未知の人が、われわれの面前にいる間に、彼に適合的と思われるカテゴリー所属の他の人びとと異なっていることを示す属性、それも望ましくない種類の属性──極端な場合はまったく悪人であるとか、危険人物であるとか、無能であるとかいう──をもっていることが証明されることもあり得る。このような場合彼はわれわれの心のなかで健全で正常な人から汚れた卑小な人に貶(おとし)められる。この種の属性がスティグマなのである。ことに人の信頼/面目を失わせる(discredit)働きが非常に広汎にわたるときに、この種の属性はスティグマなのである。この属性はまた欠点/瑕疵(かし)、短所、ハンディキャップともよばれる。スティグマは、対他的な社会的アイデンティティと即自的な社会的アイデンティティの間のある特殊な乖離を構成している。

 言いたいことはわかる。わかるんだけどさ、進化医学的視点が欠落してんのよ(『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス)。「望ましくない種類の属性」の最たるものは疫病(えきびょう)なのだ。それを文化面からしか考えていないから、難解な思考の虜になっているのだろう。

 そこでスティグマという言葉は、人の信頼をひどく失わせるような属性をいい表わすために用いられるが、本当に必要なのは明らかに、属性ではなく関係を表現する言葉なのだ、ということである。

 別に「レッテル」で構わないんじゃないの? バブル経済に向かう途中くらいから「価値観の多様化」といわれるようになった。そしてバブルが崩壊すると今度は「『らしさ』が失われた」と喧伝された。ただし、ステレオタイプの否定は風潮として残っている。

 これには重大な見落としがあって、脳機能(=思考、言語)がアナロジーから生まれたものであるならば、カテゴリー化は避けられないのだ。それゆえ、カテゴライズの正しいあり方を模索するのが合理的だと私は思う。

アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 更に異なる思想や文化を学ぶ作業が求められよう。本当は義務教育からきちんとやるべきなんだけどね。

 たとえば精神疾患の病歴がある人たちは、配偶者とか雇主と感情的に激しく衝突するのをまま恐れる。というのは、感情を表出すると、それが精神疾患の徴候とされるのではないかという懸念があるからである。精神的に障害のある者も同様の偶発的問題に直面する。

 知的能力が低い者が何らかの面倒に巻き込まれると、その面倒は多かれ少なかれ自動的に〈知的障害〉に起因するものとされるが、〈通常の知能〉の人が似たような面倒に巻き込まれても、とくにこれといった原因の徴候とは見られないのである。

 弱者不利の原則。うしろゆびさされ組。クラスの嫌われ者には無数の仇名が与えられる。

 そう考えると「見られること」を強く意識する日本人には弱者傾向があるのかもしれない。世間体、見栄坊、名を惜しむ、武士は食わねど高楊枝。

 もともと差別主義者である欧米の連中の差別に関する論考は欺瞞の匂いが強い。「新しい共同」といった言葉も同様だ。共産主義みたいな悪しき人為性を感じてならない。

【付記】原書は1963年の発行であった。進化医学は知らなくて当然である。著者は黒人の公民権運動を見つめていたのだろう。

スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ

青黒く鈍い光を放つ蒸気機関車


「Engine 142」と題されている。鉄道には殆ど興味を覚えないが、この機関車の風貌には惹かれる。先頭車両が後続を率いてゆくところが、父系社会の頑固親父を想わせる。ほとばしる蒸気は闘牛の吐息のようだ。シュッシュッというスタッカート音が聞こえてくる。運転をする男性の無骨さが、またいい。

Engine 142

Blue Iron

矢野絢也


 1冊読了。

 62冊目『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』矢野絢也〈やの・じゅんや〉(講談社、2009年)/元公明党委員長による告発手記。非常に抑制された筆致で淡々と綴っているため一定の説得力がある。タイトルに難あり。「日本占領計画」とは大袈裟すぎる。矢野は北海道で土地転がしを行ったとして公明党支援者から訴えられているが、それについては一言も触れられていない。でもまあ色々な意味で面白かった。ちなみに矢野の子息は現在、仙谷由人(民主党)の秘書を務めている。

2011-09-14

線路と電線の幾何学模様


 ドイツのケルン中央駅。線路が川のようにうねり、波紋すら見えてくる。更に雑然とした電線が実にいい味を出している。正確なダイアを支える幾何学模様が何とも不思議。線路には詩情がある。去る人と訪れる人を乗せて今日も列車は走る。

Net

米国:中東担当特使を再派遣へ パレスチナ国家承認協議で


 クリントン米国務長官は13日、パレスチナが目指している国連での国家承認についてパレスチナ側などと協議するため、先週中東を訪問したヘイル中東和平担当特使を再び同地域に派遣することを明らかにした。国務省で記者団に語った。
 クリントン氏は「永続する解決に至る唯一の道は関係者間の直接交渉だ」と述べ、パレスチナが国連で国家承認を求めることを諦め、イスラエルとの交渉に戻るよう要求した。
 ヌーランド国務省報道官によると、ヘイル氏は14日と15日にイスラエルのネタニヤフ首相やパレスチナ自治政府のアッバス議長とそれぞれ会談する。(ワシントン共同)

毎日jp 2011-09-14

 アメリカがイスラエル寄りの動きを見せている。

デジタル・コンピューターの回路やバイクの変速ギアのなかにも真理が宿っている


 ブッダや神が花びらや山の頂に住んでいるのと同じように、デジタル・コンピューターの回路やバイクの変速ギアのなかにもそのまま真理が宿っているのである。そう考えなければ、ブッダの品位を汚すことになる――それはとりもなおさず自分自身を卑しめることにほかならない。

【『禅とオートバイ修理技術』ロバート・M・パーシグ:五十嵐美克〈いがらし・よしかつ〉(めるくまーる、1990年/ハヤカワ文庫、2008年)】

禅とオートバイ修理技術〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)禅とオートバイ修理技術〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)

J・クリシュナムルティ、アラン・W・アンダーソン


 1冊読了。

 61冊目『生の全変容』J・クリシュナムルティ、アラン・W・アンダーソン:大野純一訳(春秋社、1992年)/高価であったため入手が遅れた。定価が3200円とは知らなかった。サンディエゴ州立大学の宗教学教授との対談である。やはり対談はわかりやすい。大学教授の馬鹿っぷりが強烈だ。最後の最後まで聖書を始めとする諸々の文献を引用している。だがクリシュナムルティは相手を選ぶことがない。誰であろうと率直に語りかけている。実に素晴らしい内容で付箋だらけになってしまった。クリシュナムルティ本はこれで49冊目。

2011-09-13

喝采なき舞台で会釈を


 観客のいない舞台。彼女が会釈するのは記憶に収まる過去の客であろうか。あるいは明日の客であろうか。それとも……。後ろ姿にはその人の生きざまが現れる。前は繕(つくろ)えるが後ろは誤魔化しようがない。顔は鏡で確認できるが背中を見ることはできない。喝采なき舞台の静かな佇(たたず)まいが深い余韻を残す。

Curtsey

歌が生まれる場所


このストリートミュージシャンがすごい

 いやあ、これは凄い。世界各地のストリートミュージシャンが紹介されているが実に楽しい。目の前にいる人に楽しんでもらおうという心意気が、コマーシャリズムとは無縁の豊穣さを伝える。

 ただ歌わずにいられない、リズムを掻き鳴らさずにはいられないといった衝動が聴く者の何かを揺さぶる。河原乞食や大道芸との言葉が示すように、本来の芸能は何もないところから誕生した。

 彼らにとって教則本や技術は関係ない。ひたすら陽気に音を楽しむだけだ。その自由な魂に心を打たれる。

 私は見た。歌が生まれる場所を。

 果たして我々の生活には電気信号以外の音楽が存在するだろうか? 何か大きなものをテクノロジーに奪われたような気がしてくる。

 パキスタンの少年の歌は日本の節回しとよく似ていて驚かされた。

タルキ・アル=ファイサル王子がNYtimes紙に寄稿


パレスチナの国連加盟問題、米国が拒否権発動を初めて明言
9.11から10年狙った「信頼できる」テロ情報、米 警戒強化を指示

幸せは非常に脆いもの


 諸君もわかっていることと思うが、幸せというのは、非常に脆(もろ)いものだ。なぜなら、不幸がきちんとした基盤を持った確固たる具体的事実であるのに比べて、幸福は基本的には根拠も実態もない、「幸福感」という頼りのない気分であるに過ぎないからだ。

【『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆(徳間書店、1994年)】

「ふへ」の国から ことばの解体新書

2011-09-12

ブラックホールの画像と動画

Baby Black Hole (NASA, Chandra, 06/15/11)

DC890 - Black Hole

Black Hole

Supermassive black hole eating matter

A Black Hole Overflows (NASA, Chandra, 2/2/09)

Black Holes Haunted by 'Ghosts' (NASA, Chandra, 5/28/09)

Black Holes May Shape Galaxies (NASA, Chandra, Hubble, 03/03/10)

Detail: Black Hole Blows Big Bubble (NASA, Chandra, 07/12/10)

Black Holes are 'Survivors' (NASA, Chandra, Hubble, Spitzer, 04/29/10)

Black Hole in Galaxy M81












我々は闇を見ることができない/『暗黒宇宙の謎 宇宙をあやつる暗黒の正体とは』谷口義明
素粒子衝突実験で出現するビッグバン/『物質のすべては光 現代物理学が明かす、力と質量の起源』フランク・ウィルチェック
1ビットの情報をブラックホールへ投げ込んだらどうなるか?/『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』レオナルド・サスキンド

ロバート・M・パーシグ


 1冊挫折。

禅とオートバイ修理技術(上)』ロバート・M・パーシグ:五十嵐美克〈いがらし・よしかつ〉(めるくまーる、1990年/ハヤカワ文庫、2008年)/オートバイでツーリングをしながら哲学するといった趣向だ。友人夫妻や自分の息子との会話を通して内面世界を掘り下げている。友人夫妻があまりにも無礼なのと、息子の先鋭的なわがままにうんざりして読むのをやめた。アメリカ人は有色人種とあらば手当たり次第に殺すのだが、家族に対しては異様に配慮する傾向がある。

M・C・エッシャー「描く手」

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騙される快感/『錯視芸術の巨匠たち 世界のだまし絵作家20人の傑作集』アル・セッケル

ポスターMC エッシャー 描く手 額装品WBフレーム(ホワイト)

エッシャーの宇宙エッシャー・マジック―だまし絵の世界を数理で読み解く無限を求めて―エッシャー、自作を語る (朝日選書)M.C.エッシャー CONTRAST [DVD]

美しき合掌
手の表情

2011-09-11

一般相対性理論と宗教


 アインシュタインが一般相対性理論を発表したのは1916年(大正5年)のこと。これによって時間と空間の絶対性は完全に崩壊した。物理世界の概念が変わった時点で全ての宗教は教義を変更すべきであった。アインシュタインはたった一人で世界を変えてしまったのだ。相対性理論は宗教的絶対性をも葬ったと私は考える。既に1世紀近くを経ているが、そんなことにも気づいていない教団が殆どだ。つまり宗教は過去の遺物と化したのだ。

花火満開



【ニューフェニックス 2010年8月3日 長岡花火】


【長岡花火 2008 天地人花火】


【天地人花火 2011年8月3日 長岡花火】


【男鹿日本海花火 2010 花火交響曲「仮面舞踏会」よりワルツ】


【2009 大曲全国花火競技大会 準優勝「ノクターン」】


【2010 大曲の花火 大会提供花火「挑戦」】

去りゆく季節への哀感/「夏の終わり」SION




東京ノクターンSION 20周年記念ライヴ~since1985.10.15~ [DVD]


歌詞

 好きなものについて書くのは中々難しい。ともすると「ただ好きなんだ」となってしまいがちだ。批評には一定の距離感が求められる。その意味で私が書く書評やレビューは感情に走り過ぎるきらいがある。

 SIONは以前から知っていたが、胸に突き刺さるようになったのは「同じ列車に乗ることはない」(『住人 Jyunin』収録)という曲を聴いてからのことだ。

 同じ頃からTha Blue Herbも聴くようになった。両者に共通するのは岩をも砕くような振動の力だ。私は耳をひねり上げられているような心情になるのが常だ。

 八王子では昨日からツクツクボウシが鳴き始めた。去りゆく夏を「つくづく惜しい」と告げるかのように。

 この曲に耳を傾けながら、「ああ、俺の人生の夏も終わったのか」と不意打ちを食らった。48歳にもなれば正真正銘の中年である。あと10年もすれば初老の領域だ。気づかぬうちに肉体は衰え、かつてできたことが段々とできなくなってゆくのだろう。

 風の色が変わる瞬間がある。そこで初めて我々は季節の変化を知る。人生の春秋にもそんな時が訪れる。

 五行思想では青春の後に朱夏(しゅか)、白秋(はくしゅう)、玄冬(げんとう)と続く。

 冬は死の季節だ。そして老境を錦秋の如く迎える人はあまりにも少ない。美しく老いることは至難の業(わざ)だ。そもそも「老い」という言葉自体が醜さを示している。我々は花に目を奪われて木の全体を見ることがない。

 中年期になると自分の周りで死者が増える。親は順序からいって当たり前だが、先輩や友人が亡くなることも珍しくない。烈風に耐え抜くだけの体力がなければ無気力の穴に陥る。

 時は移ろい、去りゆく季節と訪れる季節の間に現在がある。我が生命に去来するリズムが反響して人生の彩りを決める。

 アフマド・シャー・マスードは48歳で死んだ。周囲が思うほど彼に悔恨はなかったことだろう。完全燃焼しながら生きている人物は何ものにも執着することがないからだ。

SION

アタックNo.1のパロディ


 苦しくったって 悲しくったって 京都の中では 平家なの
「だけど……涙が出ちゃう。壇ノ浦だもん」
 坊主がうなると 公家が弾むわ

アルファルファモザイク

 神がかりのレベルだ。死ぬほど笑った。

今やり直せよ。未来を。

大地を埋め尽くすポピー


 雲間から差す柔らかな光がポピーを引き立てている。

Wiltshire Poppies

齋藤健、フィリップ・ジャカン


 2冊挫折。

転落の歴史に何を見るか 奉天会戦からノモンハン事件へ』齋藤健〈さいとう・たけし〉(ちくま新書、2002年)/著者は自民党の代議士で多摩大学大学院客員教授も務める人物。ま、頭のいい人だ。語り口もソフトで理路整然としている。歴史は大所高所から俯瞰すべきだというのが私の持論で、本書は微細な視点で書かれているため口に合わなかった。

アメリカ・インディアン 奪われた大地(「知の再発見」双書)』フィリップ・ジャカン:富田虎男監修、森夏樹訳(創元社、1992年)/構成が滅茶苦茶。せっかくのイラストが大きすぎて読み物として成立していない。創元社の見識を大いに疑う。

自炊代行バッシングと反ブックオフキャンペーンの類似 漫画家・佐藤秀峰の指摘


togetter

 これは勉強になった。著作権を通して資本主義のカラクリを鮮明に浮かび上がらせている。ユダヤ資本の手口と一緒だ。

 出版業界が著作権を盾にしてブックオフのネガティブキャンペーンを張ったが、その後大手出版社がブックオフの株主になっているとのこと。

信用創造のカラクリ