2012-06-03

新約聖書の否定的研究/『イエス』R・ブルトマン


目指せ“明るい教祖ライフ”!/『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世

・新約聖書の否定的研究
神の支配とは何か?
教条主義こそロジックの本質

宗教は人を殺す教え/『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静
キリスト教を知るための書籍

 原著が刊行されたのは1926年のこと。大正15年である。ドイツでは前年にナチ党が再建され、アドルフ・ヒトラーが獄中から『我が闘争』の第一巻を発表している(ルドルフ・ヘスの口述筆記による)。

 ルドルフ・カール・ブルトマン(Rudolf Karl Bultmann, 1884年8月20日 - 1976年7月30日)は、20世紀を代表するドイツの新約聖書学者。 新約聖書の史的・批判的研究に一時代を築くとともに、聖書の非神話化(非神話論化)と実存論的解釈の方法論を提唱し、キリスト教内外に様々な議論を引き起こした。(Wikipedia

 ってことはだ、42歳のブルトマンが著したことになる。ウーム、言葉が出ない。

 中級者向け。ある程度キリスト教の知識がなければ歯が立たないことだろう。私のキリスト教理解は格段に深まった。というよりは、むしろ「キリスト教の勉強に一区切りついた」と思わせるほどの内容であった。実際、本書を読んだ後で食指が動くキリスト教関連書は見つかっていない。

 ブルトマンは冒頭で史観について講ずる。  

 歴史の真の理解は、いつでも歴史との出会いにおいて実現されます。その出会いにおいて歴史の求めに耳を傾けるのです。その意味はこうです。つまり歴史を理解しようと願う者は、自分自身についての理解を、歴史の中で出会う自己理解の諸可能性に照らして疑ってみる覚悟がなければならないということです。それは、そうすることによって自分自身についての理解が解明され、豊かにされるためであります。こうしてその人は歴史との対話の中にはいりこみ、歴史の求めはその人に決断を要求するのであります。歴史の認識とともに自己の認識が形成され、成長していきます。(日本語版への序文)

【『イエス』R・ブルトマン:川端純四郎、八木誠一訳(未來社、1963年)以下同】

 歴史は、その本質的なものをとらえんとする場合、人がその環境、自然を観察し、観察しながらそれを研究するようには、「観察」することのできないものなのである。人間と歴史の関係は、自然との関係とは違ったものなのだ。人は自己本来の姿を捉(ママ)える時、自己自身を自然とは区別する。観察しながら自然に向かう時、人はそこに彼自身ではない事物だけを確認する。それに反して歴史に向かう時はこう言わざるを得ない。すなわち彼は自身歴史の一部であり、それ故一つの連関(作用連関)に当面しているのであり、その連関の中に彼自身の存在が組み込まれているのだ、と。

 叙述はただ【歴史との絶えざる対話】でしかあり得ない。

 E・H・カーといい勝負ができそうだ。歴史も事実も観察者の立つ位置によって姿を変える。つまり我々は世界を部分でしか捉えることができないのだ。イエスその人も同様だ。ある人物の全体性(=100%)を知ることは不可能だ。まして2000年も前の人物であれば尚更のこと。こうした限界性を示した上でブルトマンは次のように指摘する。

 およそ150年来イエスの生涯、人となり、その内的発展等について書かれたものは、――批判的研究でなかった限りでは――空想的小説的であった。

 何と巧妙な手口だろう! 読者の思考を歴史という逆らい難い枠組みで雁字搦(がんじがら)めにした上で、「イエスについて書かれたものはフィクションであった」とバッサリ斬り捨ててみせる。門外漢であれば、この激しい落差に知的スリリングを覚えずにはいられないはずだ。

 従って【イエスの教説】とか【イエスの思想】とか言うとき、それは誰にでも納得出来るような普遍妥当的理想的思想体系という意味ではない。そうではなく、思想というとき(ママ)、それは時の中に生きている人間の具体的状況と切り離せないものとして理解されてりう。すなわちそれは、動きと不確実性と決断の中にある、自身の実存の解釈なのである。それは、この実存の把握が可能であるという表現なのである。

 先に説かれた歴史は思想に直結していた。すなわち「信仰者は教祖を利用して“自ら”を語っている」ということだ。神と自我――これこそキリスト教にまつわる一大テーマである

社会を構成しているのは「神と向き合う個人」/『翻訳語成立事情』柳父章

 多分ブルトマンが言いたかったことはこうだ。「てめえら実際のイエスを知りもしないくせしやがって、好き勝手に“自分の”神を語ってんじゃねーよ」。そう。ブルトマンは神学界のパンクロッカーであった。

 彼が実存に思い至ったのは、神を通して自分を見つめていたからに他ならない。西洋の知的伝統の凄まじさを垣間見る思いがする。

【史料】が私達に与えるものは、実際さしあたりは教団の宣教なのである。ただし教団は勿論それを大部分イエスに帰している。だからと言って、教団がイエスに語らせる言葉は、皆実際彼の語ったものであるということが証明されたことには勿論ならない。多くの言葉については、むしろ教団で初めて成立したこと、他の言葉については、教団の手が加わっていることが証明される。

 知性とは懐疑であり否定である。その意味では何もかもありがたがって鵜呑みにする信仰の極北に位置する。理性と感情というテーマは知性と信仰に置き換えることも可能だろう。だが実は、これがブルトマンのテクニックであることが判明する。

 成程イエスは本当にいたのかという疑いには根拠がないし、一言の反駁の価値もない。把握可能な最初の段階は最古のパレスチナ教団なのであるが、その教団の歴史的運動の背後に立つ創始者がイエスであったことは全く明らかである。しかしながら教団が、イエスとその宣教の姿をどの程度まで客観的に忠実に保存したかというのは、また別の問題なのである。この事情はイエスの人となりに関心をもつ人々にとっては、憂欝もしくは破壊的である。

「イエスが本当にいた」という言説にも根拠がない。存在するのは「他人が語った言葉」だけだ。

『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士
イエス・キリストの言葉は存在しない
 
 私は「いなかった」と思う。しかしながら2000年以上も語られている以上、ドラえもんや星飛雄馬と同じ程度の存在性は認めるべきだろう。つまり神は概念として存在するのだ。

 ブルトマンはキリスト教に否定的な態度をとることで知的信頼を取り寄せようと企図したのだろう。私はそう思う。本書を読めばゴリゴリのロジックにたじろぐことは確実だ。恐ろしいことに、その合理性や整合性には不思議な魅力がある。脳のシステムは合理を求める。ブルトマンは人々のシナプスを心地よく接続する。だけど俺は騙されないよ(笑)。

イエス

「実存論的神学と他者の問題」太田修司(PDF)
現代世界のキリスト教
本覚論の正当性/『反密教学』津田真一

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