2014-03-24

我が子の死/『思索と体験』西田幾多郎


『国文学史講話』の序

 三十七年の夏、東圃(とうほ)君が家族を携えて帰郷せられた時、君には光子という女の児があった。愛らしい生々した子であったが、昨年の夏、君が小田原の寓居の中に意外にもこの子を失われたので、余は前年旅順において戦死せる余の弟のことなど思い浮べて、力を尽して君を慰めた。しかるに何ぞ図らん、今年の一月、余は漸く六つばかりになりたる己(おの)が次女を死なせて、かえって君より慰めらるる身となった。
 今年の春は、十年余も足帝都を踏まなかった余が、思いがけなくも或用事のために、東京に出るようになった、着くや否や東圃君の宅に投じた。君と余とは中学時代以来の親友である、殊に今度は同じ悲(かなしみ)を抱きながら、久し振りにて相見たのである、単にいつもの旧友に逢うという心持のみではなかった。しかるに手紙にては互に相慰め、慰められていながら、面と相向うては何の語も出ず、ただ軽く弔辞を交換したまでであった。逗留七日、積る話はそれからそれと尽きなかったが、遂に一言も亡児の事に及ばなかった。ただ余の出立の朝、君は篋底(きょうてい)を探りて一束の草稿を持ち来りて、亡児の終焉記なればとて余に示された、かつ今度出版すべき文学史をば亡児の記念としたいとのこと、及び余にも何か書き添えてくれよということをも話された。君と余と相遇うて亡児の事を話さなかったのは、互にその事を忘れていたのではない、また堪え難き悲哀を更に思い起して、苦悶を新にするに忍びなかったのでもない。誠というものは言語に表わし得べきものでない、言語に表し得べきものは凡(すべ)て浅薄である、虚偽である、至誠は相見て相言う能わざる所に存するのである。我らの相対して相言う能わざりし所に、言語はおろか、涙にも現わすことのできない深き同情の流が心の底から底へと通うていたのである。
 余も我子を亡くした時に深き悲哀の念に堪えなかった、特にこの悲が年と共に消えゆくかと思えば、いかにもあさましく、せめて後の思出にもと、死にし子の面影を書き残した、しかして直ただちにこれを東圃君に送って一言を求めた。当時真に余の心を知ってくれる人は、君の外にないと思うたのである。しかるに何ぞ図らん、君は余よりも前に、同じ境遇に会うて、同じ事を企てられたのである。余は別れに臨んで君の送られたその児の終焉記を行李(こうり)の底に収めて帰った。一夜眠られぬままに取り出して詳(つまびら)かに読んだ、読み終って、人心の誠はかくまでも同じきものかとつくづく感じた。誰か人心に定法なしという、同じ盤上に、同じ球を、同じ方向に突けば、同一の行路をたどるごとくに、余の心は君の心の如くに動いたのである。

【『思索と体験』西田幾多郎〈にしだ・きたろう〉(岩波書店、1937年/岩波文庫、1980年)】


「至誠は相見て相言う能わざる所に存するのである」――情が流れ通う時、人は差異を超えてつながる。行間に誠実を湛(たた)える清冽な文章だ。死は人に沈黙を強いる。いつの日か我が身にも訪れる死を思えば精神は内省に向かい、言葉を拒否する。

 西田には悲哀を共有する友(藤岡作太郎)がいた。コミュニティが裁断された現代社会では悲しみを吐露する相手を見つけることもままならない。ただひっそりと胸の奥に畳んでいる人も多いことだろう。言葉にならぬ思い、言うに言えない苦悩を抱えて、それでもなお我々は生きてゆかざるを得ない。

 果たして救われることがあるのだろうか? そうではない。問いの立て方が誤っている。救いを求めるのではなくして、自らの力で悲しみを掬(すく)い上げるのだ。悲哀には時間を止めて過去へ押しとどめる作用が働く。「亡くなった人の分まで生きる」という言葉には欺瞞がある。人生は一人分しか生きられないからだ。だから「死者と共に生きる」べきだ。心の中で語りかければそれは可能だ。


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