2015-03-10

風は神の訪れ/『漢字 生い立ちとその背景』白川静


 ・言葉と神話
 ・神話には時間がなかった
 ・言霊の呪能
 ・風は神の訪れ

 ことばの終りの時代に、神話があった。そして神話は、古代の文字の形象のうちにも、そのおもかげをとどめた。そのころ、自然は神々のものであり、精霊のすみかであった。草木(くさき)すら言(こと)問うといわれるように、草木にそよぐ風さえも、神のおとずれであった。人々はその中にあって、神との交通を求め、自然との調和をねがった。そこでは、人々もまた自然の一部でなければならなかった。
 人々は風土のなかに生まれ、その風気を受け、風俗に従い、その中に生きた。それらはすべて、「与えられたるもの」であった。風気・風貌・風格のように、人格に関し、個人的と考えられるものさえ、みな風の字をそえてよばれるのは、風がそのすべてを規定すると考えられたからである。自然の生命力が、最も普遍的な形でその存在を人々に意識させるもの、それが風であった。人々は風を自然のいぶきであり、神のおとずれであると考えたのである。

【『漢字 生い立ちとその背景』白川静〈しらかわ・しずか〉(岩波新書、1970年)】

 風は変化を告げる。季節を巡る大きな風には春一番・青嵐(あおあらし)・台風・木枯らしなどがある。日本語には驚くほど豊かな風の名称がある(「風の名称辞典」を参照せよ)。その時々に神々を感じ、見出したのだろう。

「草木(くさき)すら言(こと)問う」というのは『日本書紀』に書かれているようだ。問うは「ものを尋ねる」というよりも「主張する」との意味であろう。古代人の不安が浮かび上がってくる。それゆえに「自然との調和をねがった」のだ。

 余談ではあるが「言(こと)問う」という耳慣れぬ言葉は東京墨田区の橋の名前(言問橋〈ことといばし〉)として辛うじて残る。「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」(在原業平)の歌に由来する。

 自然は音で溢(あふ)れている。芸能山城組を主宰する大橋力〈おおはし・つとむ〉は、都会よりも森の方が賑やかな音で溢れている事実を明らかにした(『音と文明 音の環境学ことはじめ』)。風も音も振動である。耳と皮膚を直接刺激する。風と音に包まれた世界は神を皮膚感覚で捉えた世界でもあった。

 中国では古くから「気」を重んじた(陰陽五行説、気功など)。気はエネルギーであり、伝わる性質を有する。「気」と「風」の共通点や違いも考察に値するテーマだ。

 明日で東日本大震災から4年が経つ。まだまだ心の傷や経済的な打撃から立ち直るのが困難な人も多いことだろう。我々は大自然の猛威の前に為す術(すべ)を持たない。もちろん天罰などというつもりはないが、祝福ではないこともまた確かだ。文明の進歩は自然に対する畏敬の念を薄れさせた。震災が伝えたのは、「海と大地を畏(おそ)れよ」「海と大地を敬え」とのメッセージではなかったか。政府にも東電にも責任はある。だが根本的には一人ひとりが自然と向き合う姿勢を変える必要があるように思えてならない。

漢字―生い立ちとその背景 (岩波新書)

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