ラベル 写真 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 写真 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016-06-25

「見る」ことは「知る」ことであり「背負う」こと/『写真集 野口健が見た世界 INTO the WORLD』野口健


『僕の名前は。 アルピニスト野口健の青春』一志治夫

 ・「見る」ことは「知る」ことであり「背負う」こと

 この写真集で最も表現したいのは「現場」の世界。ヒマラヤの高山、アフリカ、そして日本の被災地など、僕はどの現場に行ってもA面とB面があると考えている。パッと目に入る美しい世界がA面ならば、あえて踏み込まなければ見えてこない世界がB面。ときにB面は目を背けたくなるほど残酷だったりする。人の目はどうしてもA面ばかりに向きがちだが、本当の意味で「知る」ということはA面B面のどちらも必要なこと。僕が最も大切にしているのは「見る」ということ。なぜならば「見る」ということは「知る」ということであり、同時に「背負う」ということだから。

【『写真集 野口健が見た世界 INTO the WORLD』野口健(集英社インターナショナル、2013年)】

 いい写真集だ。ヒマラヤ、アフリカ、フィリピン・沖縄の遺骨収集、そして東日本大震災の被災地を野口がゆく。中学生や高校生の頃に出会いたかったというのが本音である。目をどこに向けるか、何を見て、どう感じるかで人生は決まる。噂話を垂れ流すテレビよりも、一枚の写真に心を動かされる。

 写真には他人の視線に入り込むスリルがある。同じ場所へ行っても見る世界は人によって違う。そして切り取られた瞬間は二度と訪れない時間でもある。人も出来事も来ては去る。風景も時間も来ては去る。諸行は無常を奏でながら一瞬としてとどまることがない。ところが写真は瞬間を永遠に引き延ばす。何という不思議だろう。

 野口の公式ブログにも写真は掲載されている。山男らしいダイナミズムを感じさせるものが多い。

2013-05-18

リサ・クリスティン:現代奴隷の目撃写真


 ここまで横行する悪行にどうやって立ち向かえるでしょうか? 報酬もなく1日16~17時間も働かされているのに、中には自分が奴隷だと知らない人さえいます。生まれた時から同じ状況だからです。他と比べようがないのです。(7分8秒)

2012-06-24

アメリカ人の良心を目覚めさせた原爆の惨禍/『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』ジョー・オダネル


 ・アメリカ人の良心を目覚めさせた原爆の惨禍

『夕凪の街 桜の国』こうの史代
『チェ・ゲバラ伝』三好徹
『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
小倉に投下予定だった原爆

「何をどのように見るか」はその人の人生観に負う。「生の本質は反応である」という我が持論からすれば、正確には「何がどのように見えるか」となる。「見る」と「見える」には能動と受動の相違がある。知的な意志で視点を高めなければ「見る」ことはできない。

 友人のブログで初めて「焼き場に立つ少年」の写真を見た。背中におぶった赤ん坊の首はがっくりと後ろに反(そ)っていた。少年は下唇を噛んで直立不動の姿勢を保っている。生と死が直線と斜線を描いて交錯する。少年を直線にせしめている力を思わずにはいられなかった。

 悪しき教育、洗脳された思考などと安易に批判するのは簡単だ。そんな戯言(たわごと)は半世紀後に出したじゃんけんみたいなものだ。いかなる時代や社会であれ、人間の感情に大きな違いはない。少年の全身からにじみ出る無念の思いと悲しみが私を圧倒する。彼は独り、矛盾の断崖に立っているのだ。

 焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。
 少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で弟を見送ったのだ。
 私はカメラのファインダーを通して、涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。その日の夕方、家にもどってズボンをぬぐと、まるで妖気が立ち登るように、死臭があたりにただよった。今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか?

脚注※焼き場にて、長崎/この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術もなく、立ちつくしていた。

【『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』ジョー・オダネル、ジェニファー・オルドリッチ:平岡豊子訳(小学館、1995年)以下同】

joe

 ジョー・オダネルは少年を見た。そこに白人特有の差別意識はひとかけらもなかった。「同じ人間として」被爆した長崎の大地に立っていた。オダネルは23歳の青年であった。反逆の世代であったがゆえに戦争の不毛さや政治の嘘を嗅(か)ぎとることができたのだろう。

 爆心地が目の前に広がっていた。一瞬息が詰まった。地球に立っているとは信じられない。見渡すかぎり人々の営みの形跡はかき消され、瓦礫が地面をおおいつくしていた。私はたったひとりでここに立つ。まるで宇宙でたったひとりの生き残りであるかのように。徹底的に荒れ果てた地表には、鉄管や煉瓦が不気味な影を落としている。まわりの静けさが私を打ちのめした。
 私は体を失った彫像を見つめる。口はからからに乾き、眼には涙がにじむ。やっとの思いでつぶやいた。「神様、私たちはなんてひどいことをしてしまったのでしょう」と。

 トランクに封印していたのは単なる写真ではなかった。オダネルと日本人との間に通った交情であった。そしてオダネル自身も被爆していた。2007年に死去するまで、彼は50回もの手術を受けていた。痛みが情けをより深いものにしたことだろう。

 写真を公開するまでの半世紀にわたる煩悶(はんもん)と懊悩(おうのう)に思いを馳せる。そして多分、我々は戦争の悲惨さに涙を流しながらも、再び正義を振りかざして、またぞろ戦争を繰り返すのだろう。愚か者よ、汝の名は人類なり。

 オダネルの写真に反応してはいけない。強靭な知性と意志でオダネルの深い感情を汲み取る作業が求められる。

トランクの中の日本―米従軍カメラマンの非公式記録
ジョー オダネル
小学館
売り上げランキング: 93

米軍カメラマンが見た長崎
ジョー・オダネルと日本人の交流
The Phoenix Venture's photostream
ジョー・オダネル(Joe O'Donnell)のこと
ジョー・オダネルの十字架(爆心地の土・元安川の砂による) 大津定信さん 名古屋市、71歳
米国が隠したヒロシマとナガサキ - Democracy Now!