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2021-12-18

母国の日本人移民差別政策に断固反対したアメリカ人女性/『シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー』エリザ・R・シドモア


『逝きし世の面影』渡辺京二

 ・母国の日本人移民差別政策に断固反対したアメリカ人女性

『武家の女性』山川菊栄

日本の近代史を学ぶ

 彼女の人生の後半は、日米の赤十字活動や国際連盟の運営協力に費(つい)やされます。さらに晩年は自国の日本人に対する移民差別政策に断固反対してスイスに亡命、二度と故国へ戻ることなく昭和3年(1928)晩秋、ジュネーブの自邸で亡くなります。72歳でした。正義感に溢(あふ)れ武家の婦人のように凛(りん)とし、生涯を独身で通したシドモア女史、彼女を悼む元駐米大使・埴原正直〈はにはら・まさなお〉や外務省高官、さらに新渡戸博士夫妻、横浜市長、英米の外交官が多数参列し、国際社会に尽くした功績を称え、慈愛に満ちた面影(おもかげ)を偲(しの)びました。

【『シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー』エリザ・R・シドモア:外崎克久〈とのさき・かつひさ〉訳(講談社学術文庫、2002年/初版は明治24年)】

 シドモアという女性の存在が逆にアメリカを見直すきっかけとなる。かような人物を生み出す土壌がアメリカにはあったのだろう。祖国を捨てることは並大抵の決意ではできない。

 エリザ・ルーアマー・シドモアは米国地理学協会初の女性理事でもある紀行作家。27歳で来日し、以後45年間にわたって日米友好を推進した。上野公園や隅田川の桜を見た彼女が、ポトマック河畔の植樹を実現に導いた。選りすぐりの苗木3000本がワシントンに贈られ、明治45年(1912年)3月、ポトマック公園で寄贈桜の植樹式が行われる。タフト大統領珍田〈ちんだ〉駐米大使夫人の手で植えられた。女史の悲願が20年越しにかなった瞬間であった。

 日本のあらゆる階層に子供の遊技や遠足が普及しています。学校は野外運動に熱心で、陽(ひ)当たりのよい朝は毎日子供たちが旗や色付き帽子で区分されて隊列行進し、公園や練兵場へ行って運動、訓練、競技にいそしみます。(中略)
 ある女学校では昔の和式作法を教え、女学生は伝統的礼法、茶の湯、刺繍(ししゅう)、俳諧(はいかい)、生け花、さらに三味線を学びます。最近、一度廃(すた)れかかった琴が人気復活し、甘美な音色の水平ハープを少女らは好んで弾(ひ)いています。

 一番驚いたのは亀戸天神の藤棚や葛飾の堀切菖蒲園が紹介されていたことだ。自分が暮した地域が出てくると、どうしても思いが深くなる。

 しかし、何といっても浜松の最も羨(うらや)むべき財産はオタツさんです。私たちが宿に到着すると、オタツさんは私たちの身につけている指輪、ピン止(ママ)め、ヘアピン、時計、ビーズ飾りに好奇心いっぱいで夢中になりながら、2階へ手荷物を運んでくれました。笑顔満面で手を叩き、澄んだ瞳がキラキラ輝き白い歯がまぶしここぼれるオタツさんは、まさに明眸皓歯(めいぼうこし)の女性です。夕食の際、高さ8インチ[20センチ]の膳が置かれ、傍(かたわ)らに座った愛らしいオタツさんが仕切って給仕をしました。彼女の美貌(びぼう)だけでなく、魅力的率直(そっちょく)さ、無邪気さ、機敏さ、さらに優雅さが私たち全員をいっそう虜(とりこ)にしました。私たちの賞賛に美しき乙女は限りなく欣喜(きんき)し、しばらくして真新しい青と白の木綿着に着替え、町で買った最高級の髪飾りをつけ、華麗な黒縮緬(くろちりめん)と金紐(きんひも)で青黒くふさふさした髪を蝶(ちょう)の輪(わ)に結んで戻ってきました。そしてオタツさんの発案で小さな踊り子を招きました。少女は一本のしなやかな細枝とお面で、天照大神(あまてらすおおみかみ)にまつわる踊り手・鈿女(うずめ)、さらに伝説やメロドラマに登場する有名なヒロインを演じました。
 浜松の宿を去る際、優しく愛らしいオタツさんから私の写真を送るよう請(こ)われました。強く懇願する瞳に、私は流暢(りゅうちょう)な彼女の日本語を理解せずには済まされぬ衝動にかられました。彼女は走り去り、また戻ってきて私にとび込み、1865年[慶応元]当時の服装をした外国美人の安価な彩色写真を見せました。茶屋を出発するときが、とうとうやってきました。しばらくの間、オタツさんは人力車に付き添い、別れ際、愛らしい眼に涙を浮かべ手を握り、最後の「サヨナラ」の声は啜(すす)り泣(な)きに変わりました。

 旅先で擦れ違うような出会いにも心を留(とど)めている。やはり人と人とは理解し合えるのだ。今更ながらその事実に感動する。人柄は振る舞いという反応に表れる。言葉が通じなくとも心は通う。こうした出会いが日本への愛情と育ち、日米親善の道を開き、そしてアメリカの人種差別を許さぬ行為につながったのだろう。類書に『イザベラ・バードの日本紀行』がある。

2021-12-15

櫻井翔とウィリアム・フォーブス=センピル/『敵兵を救助せよ! 英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長』惠隆之介


『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人

 ・櫻井翔とウィリアム・フォーブス=センピル

『いま沖縄で起きている大変なこと 中国による「沖縄のクリミア化」が始まる』惠隆之介

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 昭和13年2月14日、日中戦争の緒戦で岩城邦広大尉(海兵59期、戦後空将)指揮の水上機8機が広東南雄飛行場上空で中国軍の英国製戦闘機12機と空中戦になり、8機を撃墜している。
 この年12月、渡英した前原謙治中将(海兵32期)が恩師センピル大佐を表敬し、謝罪するつもりで会見に臨んだ。ところが、センピル大佐は、「自分の教え子が、かかる戦果を挙げたのは無上の喜びだ」と発言し、杯をあげて祝福してくれたという。
 しかし、孫のイアン・チャン・センピル陸軍中佐の証言によると、日本海軍による真珠湾奇襲の報道を聞いたとき祖父は、日本海軍のポテンシャルの高さに驚愕したという(平成16年6月、ロンドンで取材)。

【『敵兵を救助せよ! 英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長』惠隆之介〈めぐみ・りゅうのすけ〉(草思社、2006年/草思社文庫、2014年)】

 読書中。ロバート・センピルは大正10年、海軍航空隊の訓練を指導するため英海軍から招待した30名の団長で、当時の長距離飛行の世界記録保持者であった。「大正9年4月当時、日本海軍航空隊のレベルは稚拙で、佐世保から追浜までの無着陸飛行をしただけで『有史以来の大壮挙』と自画自賛するぐらいであった」(116ページ)。厳しいスパルタ指導に最初は目を白黒させたようだ。


 タレント風情がジャーナリストを気取るからこうなるのだ。寺澤有というジャーナリストが擁護しているのだが、「聞きにくいことを敢えて聞くのがジャーナリズム」とでも思っているのだろうか? 取材やインタビューは自分から依頼して行うものだ。そこで礼儀を無視すればジャーナリストはペンを持った裁判官となる。ひょっとして取材相手をレシピのニンジンやジャガイモみたいに考えているんじゃないだろうな?

 櫻井翔は食肉工場へ行ったら、「動物を殺す時の気分は?」とでも質問するのだろうか? 食肉処理は屠畜(とちく)が前提になっているし、戦争は手段としての殺人を正当化する。日本国民を守ってくれたことに感謝を述べるわけでもなく、「戦時中というのはもちろんですけど、アメリカ兵を殺してしまったという感覚は?」と訊(たず)ねることができたのは、礼儀知らずというよりは、言っていいことと悪いことの是非もわからないのだろう。長らくテレビ業界にいたために精神のどこかが病んでしまったのではあるまいか。父祖に対する恩を見失ったところに日本社会がデタラメになった根本原因がある。センピル大佐の発言は戦争の非情さを示してあまりある。

 Wikipediaの「センピル教育団」を見ると、名前が「ウィリアム・フォーブス=センピル」となっており、後年日本のスパイとなったことが記されている。惠隆之介がなぜ「ロバート・センピル」としたのかは不明である。スパイであった事実も伏せられている。武士の情けか。尚、孫のイアン・チャンも検索してみたが情報は皆無だ(ユアンか?/センピル卿家の系図)。意図的に伏せたのであれば文筆家として問題がある。

2021-12-11

父は悪政と戦い、子は感染症と闘った/『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一


『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一
『雷電本紀』飯嶋和一
『神無き月十番目の夜』飯嶋和一
『始祖鳥記』飯嶋和一
『黄金旅風』飯嶋和一
『出星前夜』飯嶋和一

 ・父は悪政と戦い、子は感染症と闘った

『日本の名著27 大塩中斎』責任編集宮城公子

日本の近代史を学ぶ

 奥座敷で供された二つの塗り物膳(ぜん)には、季節の飛び魚の吸い物から黒鯛(くろだい)の刺し身、あわびの膾(なます)、焼き茄子(なす)などが所狭しと並べられ、白米の飯と素麺(そうめん)、清酒まで出して庄三郎がもてなした。
 弥左衛門〈やざえもん〉にすすめられ常太郎〈じょうたろう〉は初めて酒を口にした。陣屋からここまでずっと己(おのれ)の身を案じてついてきた島民達といい、科人(※とがにん)として流されてきた先で思いがけないもてなしを受け、戸惑いばかりが深まっていた。
「……流人の身でありますのに、なにゆえ皆様方がこのように温かくお迎えくだされるのかがわかりません」
「貴殿は何の罪も犯していない。それに西村履三郎〈※にしむら・りさぶろう〉様の倅殿だから」
 常太郎は顔を上げて目を見開いた。はるばる流されてきたこの島の人々が、父親の名を知っていることに驚いたようだった。
「河内随一と言われる大庄屋だったお父上が、大塩平八郎先生とともに、なぜ何もかも捨てて挙兵されたか、それを島の者たちはよく知っています」(中略)
「誰のためにお父上は蜂起に身を投じたのか? 出鱈目な幕政の結果、困窮し飢餓に瀕している民のためだ。お父上は、民のためにすべてを捨てて戦ってくれた。この島の民も同じく困窮している。お父上は、自分たちのために戦ってくれた、言ってみれば恩人なのですよ。そして、それゆえに貴殿がこんな目に遭(あ)うこととなった。お父上に対する感謝と貴殿への申し訳ないとの思いです。大塩先生の檄文はご覧になったことは?」
「いいえ。……存じません」
「もちろん知るはずがない。周りにいた方々も常に監視されて、とても常太郎さんにそれを伝えることなどできなかったはずだ。大塩先生の檄文には、『やむを得ず天下のためと存じ、血族の禍(わざわい)をおかし、この度、有志の者と申し合わせ、下民(かみん)を悩まし苦しめている諸役人をまず誅伐(ちゅうばつ)いたし、引き続き驕(おご)りに増長しておる大坂市中の金持ちの町人どもを誅戮(ちゅうりく)におよぶ』とある。『血族の禍をおかす』すなわち、貴殿や母上、親類縁者にも禍がおよぶことはお父上もわかっていた。貴殿は、当時数え六つ。可愛(かわい)い盛りだ。お父上も断腸も思いだったろう……。(後略)」

【『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(小学館、2015年/小学館文庫、2019年)以下同】

 父親の履三郎は蜂起の後、伊勢から「仙台、江戸へと渡り、江戸で客死」した。幕府は墓所から遺骸を取り出し、大坂の地で処刑した(大塩ゆかりの地を訪ねて④「八尾に西村履三郎の故地を訪ねる」: 大塩事件研究会のブログ)。

10月例会・フィールドワーク「西村履三郎・常太郎ゆかりの地を訪ねる」: 大塩事件研究会のブログ

 御科書(ごとがしょ)には「十五歳」とある。満年齢だと十四歳か。西村家は土地を没収され、一家断絶となる。まだ幼かった常太郎と謙三郎は親戚預かりを経て、15歳で配流(流罪)の処置が下った。

 飯嶋作品は歴史的事実に基づく小説である。言わば事実と事実の間を想像力で補う作品である。それを可能にしてしまうところに作家の創造性が試されるのだろう。

 大塩平八郎の乱が鎮圧され、1か月後に潜伏先を探り当てられて大塩が養子格之助とともに自害した際、火薬を用いて燃え盛る小屋で短刀を用いて自決し、死体が焼けるようにしたために、小屋から引き出された父子の遺体は本人と識別できない状態になっていた。このため「大塩はまだ生きており、国内あるいは海外に逃亡した」という風説が天下の各地で流れた。また、大塩を騙って打毀しを予告した捨て文によって、身の危険を案じた大坂町奉行が市中巡察を中止したり、また同年にアメリカのモリソン号が日本沿岸に侵入していたことと絡めて「大塩と黒船が江戸を襲撃する」という説も流れた。これらに加え、大塩一党の遺体の磔刑をすぐに行わなかったことが噂に拍車をかけた。

Wikipedia

 幕府の恐れと影響力の大きさが窺い知れる。京の都が餓死者で溢れ、流民が大坂へ流れて治安が悪化したという。政治は無策から暴政へ様変わりしていた。大塩平八郎はもともと怒れる人物であった。激怒は憤激と焔(ほのお)を増し、自ずと立ち上がらざるを得なくなったのだろう。英雄とは民の心に火を灯す人物だ。その輝きこそが未来への希望となる。

「最後に言っておきますが、もうあなたが本土の土を踏むことはないと思います。赦免だの何だのを願えば、苦しむだけのことです。そんなことはありえないと、覚悟を決めるしかありません。もちろん全く道理に反することをわたしが申し上げていることもわかります。ただこの島へ来て苦しみ早く死ぬのは、本土へ戻ることばかりを願っている者たちです。それでは生きられない。苦しみしかないのです。本当の人生などどこかにあるものではありません。ここで生きていることが真のあなたの姿であり、あなたの本当の人生だと思ってください。まことに申しわけないことですが。
 もちろん、あなたがこれまで誰にも教えられなかったこと、大塩先生の蜂起に関して、わたしが知っている限りのことはお教えします。あなたには知る権限がある。なぜお父上が蜂起し、なぜあなた自身がここへ流されて、ここで生涯を送ることになったのかを。それを知らなくてはとても生きていけないこともわかります。わたしが知る以上のことを知りたければ、わたしの朋輩(ともがら)に託します。それは約束します」

「淡い期待は持つな」との戒めである。弥左衛門は「幼さを許さなかった」とも言える。つまり大人として遇したのだろう。現実が苦しくなると人の思考は翼を伸ばして逃避する。虐待された子供は幻覚が見える(『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳)。大人だって変わりはあるまい。苦しい現実から目を逸(そら)して都合のよい妄想に浸(ひた)る。弥左衛門は「生きよ」と伝えたのだ。「ただ、ひたすら生きよ」と。


 常太郎が流されたのは島後島(どうごじま)で、隠岐諸島(おきしょとう)の一つである。常太郎は狗賓童子(ぐひんどうじ/島の治安を守る若衆)としての訓育を受け、更に医学を学んだ。父は悪政と戦い、成長した子は感染症と闘った。

 私が全作品を読んだ作家は飯嶋和一だけである。丸山健二は途中でやめた。『神無き月十番目の夜』以降の作品を読むと、圧政-抵抗という図式が顕著で戦前暗黒史観(進歩の前段階と捉えるマルクス史観)と同じ臭いがする。「ひょっとしてキリスト教左翼なのか?」という懸念を払拭することができない。

2021-12-05

暴力に屈することのなかった明治人/『五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」』小山俊樹


 ・暴力に屈することのなかった明治人

『昭和陸軍全史1 満州事変』川田稔
『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
『二・二六帝都兵乱 軍事的視点から全面的に見直す』藤井非三四

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 大蔵と朝山が立ち去って間もなく、西田税〈にしだ・みつぎ〉の家に来客があった。西田も顔を知る茨城の青年、川崎長光〈かわさき・ながみつ〉(血盟団残党)である。
「川崎君じゃないか、さ、上がれ」
 久しぶりに会った川崎を、西田は機嫌よく2階の書斎に上げた。獄中の井上日召(超国家主義者で血盟団の指導者)らは元気である、他の連中にも差し入れをした、などと西田はよく喋った。15分か、20分ほどであろうか。川崎は、うつむき加減に西田の話を聞いていた。だが、様子が変である。
「何をするッ!」
 刹那、川崎は隠していた拳銃を構えた。西田は一喝して川崎に飛びかかる。そのとき、銃弾が西田の胸部を撃ち抜いた。
 だが、西田は怯(ひる)まない。両手でテーブルを押し倒し、それを乗り越えて川崎ににじり寄った。川崎は後退しながら第2弾を撃つ。腹部に銃撃を受けた西田は、なおも川崎に迫る。障子を倒して廊下によろめき出た川崎は、下がりながらも3弾、4弾、5弾と撃ちまくる。左の掌に、左肘に、左肩に。次々と銃弾を喰らいながら、西田は、弾を数えた。ついに川崎が撃ち尽くしたとき、西田は猛然と川崎につかみ掛かった。
 西田の気迫に圧され、階段の際まで下がっていた川崎は、西田とともに階下へ転がり落ちた。西田をふりほどいた川崎が玄関に飛び出すと、夫人が顔を出した。「早くつかまえろ!」と西田が叫び、夫人はとっさに川崎の腰をつかんだが、その手を振り払って川崎は逃げた。
 足袋のまま川崎を追った夫人が玄関に戻ると、西田は壁にもたれて女中のもつコップの水を飲もうとしていた。
「大けがに水はいけませんッ」
 夫人はコップを奪いとった。しばらくして、襲撃を知った北一輝や、陸軍青年将校らが駆けつけ、西田は順天堂大学へ搬送された。銃弾を浴びて2時間が経っていた。

【『五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」』小山俊樹〈こやま・としき〉(中公新書、2020年)】

 西田は当時30歳。その胆力は鬼神の域に達している。辛うじて一命は取り留めた。4年後の昭和11年(1936年)に二・二六事件が起こり、西田は北と共に首魁として翌年、死刑を執行された。二人をもってしても青年将校の動きを止めることはできなかった。

 十月事件に関与した西田が、その後合法的な活動に舵を切った。これが急進派の恨みを買った。五・一五事件で被害者となった西田が二・二六事件で死刑になるところに日本近代史のわかりにくさがある。

 巻頭には犬養毅〈いぬかい・つよき〉(※本書表記に従う)首相の襲撃場面が詳細に綴られている。「話せばわかる」「問答無益、撃て!」(※三上卓「獄中記」)とのやり取りが広く知られている。3発の銃弾で撃たれても尚、「あの若者を呼んでこい、話せばわかる」と三度(みたび)繰り返した。

 暴力に屈することのなかった明治人の気概を仰ぎ見る。これこそが日本の近代を開いた原動力であったのだろう。夫人の判断とタイミングは絶妙としか言いようがなく、いざという時の生きる智慧が育まれていた時代相まで見えてくる。

 軍法会議にかけられた青年将校に対し、多くの国民が助命嘆願が寄せられた。大正デモクラシーは政党政治の腐敗に行き着き、戦後恐慌(1920年/大正9年)や昭和恐慌(1930年/昭和5年)から国民を守ることができなかった。東北の貧家では娘の身売りが続出した(『親なるもの 断崖』曽根富美子/『昭和政治秘録 戦争と共産主義』三田村武夫:岩崎良二編)。

 第一次世界大戦で近代化を成し遂げた驕(おご)りや油断が日本にあったのだろう。二・二六事件の際も青年将校におべっかを使う将校が多かったという。結局、民意と大御心(おおみごころ)の乖離(かいり)こそが不幸の最たるものであったように思えてならない。

2021-12-02

三月事件、十月事件の甘い処分が二・二六事件を招いた/『二・二六帝都兵乱 軍事的視点から全面的に見直す』藤井非三四


『五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」』小山俊樹

 ・三月事件、十月事件の甘い処分が二・二六事件を招いた

『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利
『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
『軍閥 二・二六事件から敗戦まで』大谷敬二郎
『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 そこで民間同志を中心に金策に歩いたところ、つかまえた大口寄進者が尾張の徳川義親〈とくがわ・よしちか〉侯爵(福井藩主松平慶永〈まつだいら・よしなが〉の五男)で、30万円とも37万円ともいわれる大枚入手の見込みがついた。昭和3年、シベリア鉄道で橋本欣五郎と偶然乗り合わせて意気投合した日立製作所の創始者、久原房之助〈くはら・ふさのすけ〉からも援助の見込みがあったとされる。さらに不可解な話もある。桜会を裏面で支えたと思われる参謀本部第五課長だった重藤千秋〈しげとう・ちあき〉大佐の従弟で右翼浪人の藤田勇〈ふじた・いさむ〉が仲介して、橋本欣五郎が大本教(おおもときょう)の出口王仁三郎〈でぐち・おにさぶろう〉と接触し、全面的な協力が約束されたという話が残っている。この陸軍と新興宗教の結びつきは、内務省当局をいたく刺激して、昭和10年12月からの大本教弾圧へとつながった。

【『二・二六帝都兵乱 軍事的視点から全面的に見直す』藤井非三四〈ふじい・ひさし〉(草思社、2010年/草思社文庫、2016年)以下同】

 大本教弾圧の話は衝撃的だ。まったく知らなかった。また資金提供する人々がいたところを見ると、クーデターには民意が反映されていたと考えてよさそうだ。

 この計画が本当だったとすれば、桜会はその目的をより鮮明に、その行動をより過激なものにしている。三月事件プロヌンシアミエント(宣言)だったとすれば、この十月事件は政権への短切(たんせつ)な一撃、すなわちクーデターに発展したといえよう。また、満州事変と連動していると見れば、プッチ(一揆)としてもよいだろう。珍妙な閣僚名簿や警視総監まで決めていたことばかりに目が向いて、この十月事件の計画は杜撰(ずさん)で子供じみた企てとされてきた。しかし、よく見ると世界的にもオーソドックスなクーデター計画だった。日本独特な国家体制を活用している点など、むしろ巧妙といえるだろう。

 大東亜戦争敗戦の反動が学生運動であったとすれば、藩閥解消後の反動がクーデターと考えることは可能だろうか? あるいは大正デモクラシーや社会主義者の影響も少なからずあったに違いない。

 閣僚を皆殺しにするという物騒極まりない計画を立てて、血行まであと一歩というところまで行ったのだから、ふつうならば内乱予備や殺人予備で起訴される。ところがこの十月事件の首謀者は、ごく軽い処分で済んだ。身柄を拘束された12人は各地に分散して軟禁、その上で重謹慎、12月の異動で地方へ左遷ということになった。認知を勝手に離れ、騒ぎまくった長勇少佐だけは許されない、予備役編入だと決まりかけたが、第4師団の参謀長だった後宮淳大佐をはじめさまざま救いの手が差しのべられて現役にとどまれた。実働部隊の若手尉官は、目立った者が禁足という程度の処分だった。
 前に終戦時の職務を括弧で示したように、この十月事件の首謀者は、一時的に左遷されたものの、すぐに旧に戻って順調に栄進を重ねることとなる。これでは軍紀、風紀はないも同然だ。なにを仕出かしても憂国(ゆうこく)の至情(しじょう)さえあれば許されるとだれもが思うようになったのだから、二・二六事件が起きるのは必然だといえよう。

 岩畔豪雄〈いわくろ・ひでお〉の見解と同じだ(『昭和陸軍謀略秘史』)。身内に甘い文化はそのまま戦後から今日にまで受け継がれている。てにをはを変えて法律を骨抜きにした官僚や、死亡者が出ても「いじめはなかった」とする学校や教育委員会が責任を取ることはない。原子力発電にも多くの嘘があった。

 これは多分、江戸後期の切腹が形骸化し、詰め腹を切らされたりしたあたりに由来するのではあるまいか。法もさることながら道義において責任を取る者がいなくなれば、青少年の道徳心を涵養することは難しい。

 私は歴史や伝統とは無縁な北海道の地で生まれ育ったが、それでも尚、学童期にあって「可哀想だろう!」という惻隠の情が存在した。極端ないじめはなかったし、むしろいじめっ子が後でやり込められることも多かった。特に女の子たちの眼が鋭かった。泣いている子がいれば必ず誰かが寄り添った。「お前とは絶交だ!」と言っても次の日は仲良く遊んでいた。大人が正常に機能していたのだろう。

 昭和20年の若きエリートは特攻隊となって散華した。現代のエリートが汚職や天下りで富の獲得に余念がないとすれば、もはや選良の名に値しない。

2021-11-26

日清戦争によって初めて国民意識が芽生えた/『日本人と戦争 歴史としての戦争体験 刀水歴史全書47』大濱徹也


・『乃木希典』大濱徹也
・『近代日本の虚像と実像』山本七平、大濱徹也
『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎

 ・戦争をめぐる「国民の物語」
 ・紀元節と天長節
 ・日清戦争によって初めて国民意識が芽生えた

・『庶民のみた日清・日露戦争 帝国への歩み』大濱徹也
・『天皇と日本の近代』大濱徹也
『近代の呪い』渡辺京二

日本の近代史を学ぶ

 この日本国、日本国民という問いは、幕末維新期の国学者をはじめ、内村鑑三の言説などに読みとることができます。会津藩出身のキリスト者井深梶之助は、クニといえば会津であり、長州でしかなかった世界が、日清戦争によって日本国あるを知ったと、戦勝の報にうながされて問い語っています。
 この思いは、内村鑑三をして、日本国という観念を生み育てる器を用意した、頼山陽を想起せしめた世界に通じるものです。いわば日清戦争による日本国の発見は、その後、10年ごとの戦争によって、日本と日本人はどのような世界を思い描いたかという問いを生むこととなります。それは、戦争によって日本人は何を識り、どう生きようとしたかということであり、日本人がとらわれてきた「愛国心」とは何か、ということにほかなりません。

【『日本人と戦争 歴史としての戦争体験 刀水歴史全書47』大濱徹也〈おおはま・てつや〉(刀水書房、2002年)】

 見落としがちな視点である。封建制度の封建とは「封土を分割して諸侯を建てる」の意である(『自然観と科学思想』倉前盛通)。現代にまで伝わる「一国一城の主」という言葉も国=藩で大名のことを指す。近代化の最大の果実が国民国家であるが、フランス革命だと直ぐに思い浮かぶが、明治維新-国民国家という発想が私は全くなかった。例えば江戸の識字率が世界最高基準であったことは広く知られているが、地方の識字率がかなり低かったことを弁えている人は少ない。日清戦争に駆り出された農民の多くは文字の読み書きができなかった。

 つまり日清戦争後、三国干渉を経て、臥薪嘗胆を迫られ、そして日露戦争の勝利に至る中で日本国民は生まれ育ったのだ。

 あまり関係ないが鎌倉時代に国の行く末を憂え、安国(あんこく)へとリードしようとした日蓮の国家観は時代の束縛を軽々と超えているように思う。

2021-11-23

紀元節と天長節/『日本人と戦争 歴史としての戦争体験 刀水歴史全書47』大濱徹也


・『乃木希典』大濱徹也
・『近代日本の虚像と実像』山本七平、大濱徹也
『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎

 ・戦争をめぐる「国民の物語」
 ・紀元節と天長節
 ・日清戦争によって初めて国民意識が芽生えた

・『庶民のみた日清・日露戦争 帝国への歩み』大濱徹也
・『天皇と日本の近代』大濱徹也
『近代の呪い』渡辺京二

日本の近代史を学ぶ

 太陽暦の採用は、太陰暦の明治5(1872)年12月3日をもって明治6年1月1日となし、日本が西暦の世界、欧米文明の秩序下に入ったことを意味しました。ここに政府は、1月4日に改暦の布告をし、いままでの式日であった五節句(人日・上巳・端午・七夕・重陽)を廃止し、神武天皇即位日・天長節の両日を祝日としました。この祝日宣言は、1868年の革命、明治維新が「神武創業ノ始」に相応する事業と説き、神武天皇の国造りを明治天皇の治政に重ねて表現したものにほかなりません。ついで10月14日の布告による「年中祭日祝日等ノ休暇日」は、神武即位日たる紀元節と天皇誕生日たる天長節を中心に、宮中儀礼を配置してつくられたものです。
 新たなる祝祭日は、古代以来の宮廷儀礼の復活に似せておりますが、国家創立日ともいうべき紀元節や天皇誕生日を中核としていますように、西欧君主国の祝日観をとりこんだものです。それは、天皇を国民結集の器とする国家形成をめざし、祝祭日行事を、天皇への民心帰一の場たらしめようとの意図によって創出されたことによります。

【『日本人と戦争 歴史としての戦争体験 刀水歴史全書47』大濱徹也〈おおはま・てつや〉(刀水書房、2002年)】

 今日は新嘗祭(にいなめさい)である。祝祭日を旧称に戻すこともできないのが嘆かわしい。敗戦だけが理由ではあるまい。旧社会党勢力の根強さは民主党を経て立憲民主党にまで受け継がれている。先の衆院選で敗れたとはいえ、まだ野党第一党である。衆議院は12%、参議院は13%の議席数を占める。戦後、インテリとは左翼を意味する用語であった。現在に至っても医師・ジャーナリスト・マスメディア・大学教授・教員・芸術家・映画監督には左巻きが多い。かつての反権力は、反原発・環境保護・女系天皇容認・夫婦別姓・同性婚・フェミニズムと赤から薄いピンクに様変わりしたが、日本の文化や伝統を破壊する魂胆はこれっぽっちも変わっていない。むしろ表現が柔らかくなった分だけ、破壊の衝動は強まっているように思われる。

 祝祭日を旧称に戻すべきだと主張する者の中に伝統を主張するものがあるが、やや不勉強である。

 天長節や紀元節は、日本の伝統的な生活慣行に根ざさず、文明国として西洋の行事観を採用したものだけに、国家的行事となるのに時間がかかったのです。

 これを憂うるベルツの日記(明治23年〈1890年〉11月3日)があると紹介されている。

 紀元節と天長節が民衆のなかで意識されるのは、明治30年代の後半、とくに日露戦争後のことです。紀元節は、2月11日に日露戦争の開戦が報道されただけに、戦勝にともなう「帝国」の栄光と重ねて記憶され、国民たることを誇る日となりました。かつ天長節は、11月3日であるがため、「天長節運動会」と称され、収穫の祭りと重ねて営まれることで、生活のなかに根づいていくこととなります。
 ここには、天皇をめぐる祝祭日ですらも、民衆の生活暦による裏づけがないと定着しえないことがうかがえます。

 日露戦争が明治37年(1904年)である。日清戦争から10年後のことだった。文部省が明治41年(1908年)9月、東京帝国大学暦に「明治42年暦」より陰暦の月日を記載せずとの告示をした。日本の近代化は明治維新で一気に成ったものではなかった。かつて「クニ」とは藩を意味した。それを藩から日本国へと格上げするために二度の戦争を必要とした。暦(こよみ)の統一に40年以上を要し、国語の普及にも同程度の時間が必要だった。

 つまり明治節(昭和23年〈1948年〉廃止)の国民的伝統は半世紀に満たないのだ。

 旗を出す日としての国家祝祭日を「ハタ日」と称し、伝統的な世界に根ざした行事日を「ハレ日」とよんだ(後略)

 国民の意識は旧社会から脱却することが難しかった。殆どが農民だったから致し方ない側面もある。そんな国が三十数年後に欧米と戦争をするのである。近代化から200年を経た欧州に追いついたのだ。奇蹟といってよい。

2021-11-04

工藤美代子の見識を疑う/『昭和陸軍全史1 満州事変』川田稔


・『浜口雄幸と永田鉄山』川田稔
・『満州事変と政党政治 軍部と政党の激闘』川田稔
・『昭和陸軍の軌跡 永田鉄山の構想とその分岐』川田稔
・『戦前日本の安全保障』川田稔

 ・工藤美代子の見識を疑う

・『昭和陸軍全史2 日中戦争』川田稔
・『昭和陸軍全史3 太平洋戦争』川田稔
・『石原莞爾の世界戦略構想』川田稔
・『昭和陸軍 七つの転換点』川田稔
『五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」』小山俊樹

日本の近代史を学ぶ

 1931年(昭和6年)9月18日午後10時すぎ、中国東北地方の満州・奉天(ほうてん/現在の瀋陽〈しんよう〉)近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で、日本経営の南満州鉄道(満鉄)線路が爆破された。
 まもなく、関東軍(南満州に駐留する日本軍)から中国軍の犯行によるものとの発表がなされる。一般国民には太平洋戦争終結まで、そのように信じられていたが、実際には関東軍によって実行されたものだった。
 首謀者は、関東軍の板垣征四郎〈いたがき・せいしろう〉高級参謀、石原莞爾〈いしは(ママ)ら・かんじ〉作戦参謀、爆破の直接の実行は、独立守備隊第2大隊第3中隊付の河本末守〈こうもと・すえもり〉中尉ら数名で行われた。爆破そのものは小規模に止まり、レールの片側のみ約80センチを破損したが、直後に急行列車が脱線することなく通過している。
 この時、板垣高級参謀は、奉天の日本側軍施設で待機していた。板垣は、実行部隊から鉄道爆破の連絡を受けると、中国側からの軍事行動だとして、独断で北大営(ほくたいえい/中国側兵営)と奉天城への攻撃命令を発した。高級参謀にはこのような攻撃命令の権限はなく、軍司令官の追認がなければ軍法会議で処断される行為だった。
 攻撃命令が出された直後に、板垣に面会した奉天総領事館の森島守人〈もりしま・もりと〉領事は、外交的解決を主張した。だが、板垣高級参謀は、「すでに統帥(とうすい)権の発動を見たのに、総領事館は統帥権に容喙、干渉せんとするのか」と恫喝(どうかつ)した。また、同席していた花谷正〈はなたに・ただし〉奉天特務機関補佐官も、抜刀して、「統帥権に容喙する者は容赦しない」と、森島を恫喝した(森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』)。

【『昭和陸軍全史1 満州事変』川田稔〈かわだ・みのる〉(講談社現代新書、2014年)】

 読書中。一度挫折している。工藤美代子のせいで再読する羽目になった。やっと130ページまで読んだ。

真相が今尚不明な柳条湖事件/『絢爛たる醜聞 岸信介伝』工藤美代子

 先ほど気づいたのだが、私はずっと川田を川北稔と同一人物だと思い込んでいた。おかしいなと思ったんだ。文体の違いよりも漢字の多さが気になった。とにかく漢字が多すぎて読みにくい。川田と編集者はもっと「読んでもらう」ための努力が必要だろう。特に軍事関係は肩書が長くてウンザリさせられる。ルビも聖教新聞並みに振るべきだ。

 満州事変の詳細が書かれている。微に入り細を穿(うが)つとの言葉がぴったりだ。ただし時折時系列が変わるため流れがわかりにくい。

 これほどの状況証拠を揃えられると、工藤の文章は説得力を失う。っていうか詐欺師に思えてくるほどだ。脳は美文に逆らえない。男性が美人に逆らえないように。

 まず陸軍において長州閥 vs. 木曜会+双葉会=一夕会(いっせきかい)の権力闘争があり、次に早い時期から石原莞爾〈いしわら・かんじ〉の計画があった。

 双葉会はバーデン=バーデンの密約(1921年/大正10年)から生まれた。陸軍(士官学校16期)の三羽烏といわれた永田鉄山〈ながた・てつざん〉、岡村寧次〈おかむら・やすじ〉、小畑敏四郎〈おばた・とししろう〉が誓いを立てた。翌日に東條英機(本書では東条)も加わる。1927年(昭和2年)頃に結成された二葉会には、河本大作、板垣征四郎、土肥原賢二〈どひはら・けんじ〉、山下奉文〈やました・ともゆき〉などが参加している(陸士15~18期)。二葉会に倣(なら)って結成されたのが木曜会であった(陸士21~24期)。石原莞爾〈いしわら・かんじ〉、根本博と共に、永田・岡村・東條も加わった。1929年(昭和4年)、二葉会と木曜会が合流して一夕会が結成される。満州事変が勃発した1931年(昭和6年)には一夕会系幕僚が陸軍中央と関東軍の主要ポストをほぼ掌握した。

 とにかくどこを読んでもウンザリさせられる。陸軍内部で行われているのは権力闘争に次ぐ権力闘争なのだ。明治維新の結果が足の引っ張り合いに終わった感がある。どこを見渡しても挙国一致などない。これこそが日本の悪弊だろう。後に永田と小畑は統制派と皇道派に分かれ、永田は惨殺される。石原は東條に左遷させられ、結果的に戦犯となることを免れた。

 柳条湖事件以降の流れを見ても板垣・石原の関与はまず間違いないと思われる。工藤美代子の見識を疑う。

 

2021-10-31

奴隷貿易で栄えた欧州/『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』兼原信克


『村田良平回想録』村田良平岡崎久彦
『国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動』伊藤祐靖
・『自衛隊最高幹部が語る令和の国防』岩田清文、武居智久、尾上定正、兼原信克 2021年

 ・奴隷貿易で栄えた欧州

 イギリスはじめ欧州の国々が大西洋貿易を開始すると、ヨーロッパ、アフリカ大陸、カリブ及び新大陸を結ぶ三角貿易が始まる。三角貿易と言えば普通に聞こえるが、実態は奴隷貿易である。新大陸のインディオは、銀鉱山などの激しい奴隷労働で夥しい数が死に、人口が激減していた。カトリック僧たちはその非道を訴えたが、絶滅しかけたインディオの代わりに目を付けられたのがアフリカ人であった。三角貿易の主力商品はアフリカの黒人奴隷である。アフリカから黒人を奴隷として連れていって、カリブ海諸島や新大陸のプランテーション農場で働かせたのである。
 プランテーションで栽培したのは、砂糖や煙草や綿花である。イギリスの砂糖成金は有名で、奴隷農場でとれた砂糖をイギリス本土で売り、そのお金で武器を買ってまたアフリカに行き、アフリカで武器を売りさばいて、そのお金で奴隷を買って新大陸やカリブ海諸島に売りさばいていた。国情のジョージ3世が「何で彼らは国王の自分より金を持っているんだ」と嘆いたとされるぐらい、三角貿易は儲かったのである。

【『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』兼原信克〈かねはら・のぶかつ〉(新朝新書、2020年)】

農業の産業化ができない日本/『脱ニッポン型思考のすすめ』小室直樹、藤原肇

 16~18世紀にかけてアフリカから連れ去られた奴隷の数は1000万人にも上る。

大英帝国の発展を支えたのは奴隷だった/『砂糖の世界史』川北稔

 イギリス資本主義の原動力となったのはアフリカ人奴隷であったという指摘がある(『資本主義と奴隷制』エリック・ウィリアムズ)。資本と労働力の問題は一筋縄ではいかない。

農業の産業化ができない日本/『脱ニッポン型思考のすすめ』小室直樹、藤原肇

 産業化の前提が安い労働力にあるとすれば安易な資本主義論は危うい。個人的には原丈人〈はら・じょうじ〉の公益資本主義に軍配を上げる。



ラス・カサスの立ち位置/『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス

GHQはハーグ陸戦条約に違反/『世界史講師が語る 教科書が教えてくれない 「保守」って何?』茂木誠


『経済は世界史から学べ!』茂木誠
『「戦争と平和」の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』茂木誠
『「米中激突」の地政学』茂木誠

 ・「アメリカ合衆国」は誤訳
 ・1948年、『共産党宣言』と『一九八四年』
 ・尊皇思想と朱子学~水戸学と尊皇攘夷
 ・意識化されない無意識は強迫的に受け継がれていく
 ・GHQはハーグ陸戦条約に違反
 ・親北朝鮮派の辻元清美と山崎拓

世界史の教科書
日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 GHQは、敗戦後の日本国民がいまだ昭和天皇に尊崇の念を抱き、秩序を保っていることに注目し、【天皇を元首とする大日本帝国の形を残したまま、間接統治をする】ことにしました。政府や国会の上に置かれたGHQから、超法規的な「GHQ指令」が発せられ、日本政府にこれを実行させたのです。【ナチス国家を完全に解体し、直接軍政を敷いたドイツとは対照的】です。
 GHQの統治下で内閣を組織したのは、皇族出身の東久邇宮稔彦王〈ひがしくにのみやなるひこおう〉、元外交官の幣原喜重郎〈しではら・きじゅうろう〉、同じく元外交官の吉田茂〈よしだ・しげる〉の順番です。
 幣原は、大正デモクラシー期に長く外相を務め、ワシントン海軍軍縮条約をまとめて軍と対立したことが、GHQに評価されました。この「英語ができる平和主義者」幣原のもとで、日本の交戦権を制限する新憲法を制定させることになりました。
 戦時国際法の基準とされるハーグ陸戦条約は、こう定めています。

「第43条 国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限り、【占領地の現行法律を尊重】して、なるべく公共の秩序および生活を回復確保するため、施し得べき一切の手段を尽すべし」

 アメリカの日本占領は、1951年のサンフランシスコ平和条約発効まで続きました。この間、占領者アメリカには、ハーグ陸戦条約に基づいて【占領地日本の現行憲法を尊重する、】という国際法上の義務があったのです。
 したがって、GHQが日本の憲法を制定することはできません。そこで【マッカーサーは、幣原内閣に圧力をかけ、日本政府自らの意思で新憲法を起草したように見せかけた】のです。
 この「圧力」とは、つまり公職追放と検閲(プレスコード)です。
 公職追放は、戦時下の軍と政府の要人、思想家など「軍国主義者」に始まり、GHQを批判する者すべてを公職から解雇しました。空襲で産業が壊滅し、戦地からの帰還兵がどっと戻ってきたため、失業率が異常に高かった当時の日本で職を失うことは飢餓(きが)と直面することを意味します。幣原内閣は、組閣の直後に幣原首相、吉田外相ら3名を除く全閣僚を公職追放され、親英米派の幣原も「マックのやつ、理不尽だ」とうめきます。

【『世界史講師が語る 教科書が教えてくれない 「保守」って何?』茂木誠〈もぎ・まこと〉(祥伝社、2021年)】

 こうした屈辱の歴史を教えない限り、自民党の変節も見えてこない。

日本国憲法の異常さ/『国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動』伊藤祐靖
憲法9条に埋葬された日本人の誇り/『國破れてマッカーサー』西鋭夫
GHQは日本の自衛戦争を容認/『いちばんよくわかる!憲法第9条』西修
憲法9条に対する吉田茂の変節/『平和の敵 偽りの立憲主義』岩田温
国民の国防意志が国家の安全を左右する/『「日本国憲法」廃棄論 まがいものでない立憲君主制のために』兵頭二十八

 ただし、日本は議会制民主主義を採用しているのだから、国民の意思が問われて然るべきだろう。「日本の近代史を知らなかった」という言いわけは通用しない。無知に甘んじてきた己を恥じるのが先だ。真珠湾攻撃から敗戦までは3年8ヶ月であったが、GHQの進駐は6年半にも及んだ。実は戦争そのものよりも占領期間の方が長いのだ。どう考えてもおかしい。この間、WGIPで日本国民を洗脳し、憲法を与え、アメリカ流の民主政を押しつけた。

 だがそれは既に遠い過去のことだ。現在にあっても安全保障についてはアメリカに依存しているが、国民が自立を望めば憲法改正はいつでも可能なはずだ。それをやろうともしないのは国民の意思が戦後レジームをよしとしている証拠である。

 近代化した日本は常にロシアの南下を警戒していた。韓国を併合したのも彼(か)の国がロシアの軍門に降(くだ)ることを防ぐためだった。日清戦争が起こった1894年(明治27年)の軍事費は国家予算の69.4%を占めた。日露戦争が勃発した1904年(明治37年)は81.9%にも及んだ(帝国書院 | 統計資料 歴史統計 軍事費(第1期~昭和20年))。国家存亡の危機意識がどれほど高かったかを示して余りある。

 1969年に国連の報告書で東シナ海に石油埋蔵の可能性があることが指摘されると、それまで何ら主張を行っていなかった中国は、日本の閣議決定から76年後の1971(昭和46)年になって、初めて尖閣諸島の「領有権」について独自の主張をするようになりました。

尖閣諸島|内閣官房 領土・主権対策企画調整室

 2010年には尖閣諸島中国漁船衝突事件が起こった。仙谷由人〈せんごく・よしと〉官房長官の独自判断で釈放されたと報じられた。sengoku38なる人物が衝突動画をYou Tubeにアップロードした。当時、海上保安官だった一色正春〈いっしき・まさはる〉の義憤に駆られた行動がなければ、日本国民の国防意識は今もまだ眠ったままとなっていたに違いない(尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件)。

尖閣諸島周辺海域における中国海警局に所属する船舶等の動向と我が国の対処|海上保安庁

 民主政が正しく機能するためには情報公開が前提となる。私が民主政を信用しないのは情報公開がなされていない現実と、たとえ公開されたとしても国民が正しく判断するとは到底思えないためだ(『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志)。

 国家は国民を欺(あざむ)き、歴史は嘘で覆われている。その最たるものが日本国憲法である。

2021-10-29

意識化されない無意識は強迫的に受け継がれていく/『世界史講師が語る 教科書が教えてくれない 「保守」って何?』茂木誠


『経済は世界史から学べ!』茂木誠
『「戦争と平和」の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』茂木誠
『「米中激突」の地政学』茂木誠

 ・「アメリカ合衆国」は誤訳
 ・1948年、『共産党宣言』と『一九八四年』
 ・尊皇思想と朱子学~水戸学と尊皇攘夷
 ・意識化されない無意識は強迫的に受け継がれていく
 ・GHQはハーグ陸戦条約に違反
 ・親北朝鮮派の辻元清美と山崎拓

世界史の教科書
日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 この状況(※大東亜戦争敗戦)において、国家再生のためには新しいモデルが必要でした。
【日本人はそのモデルを、恐るべき敵であったアメリカに求めた】のです。
ストックホルム症候群」という精神医学の概念があります。1973年にスウェーデンで起こった銀行強盗で、銀行員数名が人質として監禁され、死の恐怖に怯(おび)えて数日間を過ごした事件がありました。事件は結局、警察が突入して犯人を逮捕しますが、この間、人質となっていた被害者が、犯人を擁護するような言動を繰り返したのです。この事例から、極度の恐怖を体験した人間は、加害者を自分と同一視することで恐怖を免れるという心理的メカニズムがあることが理論化されました。日常的に夫から虐待を受ける妻、親から虐待を受ける子どもがなかなか被害を訴えようとしないもの、同じメカニズムによるものです。
 連日連夜の空爆を受け、原爆を投下され、米軍に軍事占領された日本人の深層心理に、同じメカニズムが働いたと私は見ています。アメリカという悪魔にこれ以上蹂躙(じゅうりん)されないためには、アメリカを理想国家として賞賛し、アメリカと一体になるしかない……。
 これは日本人の集団的な無意識として働いたものですから、文献として残っているわけではありません。しかし【この無意識は、意識化されない限り、戦後日本人に世代を超えて強迫的に受け継がれていく】のです。

【『世界史講師が語る 教科書が教えてくれない 「保守」って何?』茂木誠〈もぎ・まこと〉(祥伝社、2021年)】

「意識化されない無意識は強迫的に受け継がれていく」――衝撃的な一言である。これを読むだけでも本書には必読書の価値がある。意識化とは「見る」ことだ。ありのままに真っ直ぐ見つめれば答えは自ずから導き出される。

 黒船襲来を「強姦」と位置づけたのは司馬遼太郎であった(『黒船幻想 精神分析学から見た日米関係』岸田秀、ケネス・D・バトラー)。ただ、歴史は振り返った時にしか見えてこない。当事者たちは川の流れの中で自分たちの位置すら理解できない。

 意識化されるのは一瞬である。「あ!」と気づけば違う世界が開ける。例えば私の場合、北海道で育ったこともあって長らく皇室制度を軽んじてきた。義務教育を苫小牧~帯広~札幌で受けてきたが、君が代を歌ったことは一度しかない。それも音楽の授業で習ったのだ。国旗に対する敬意を教わることもなかった。これが社会党王国の現状だった。もちろん道民が由緒正しい血筋と無縁であった背景にも由来しているのであろう。父方の祖父は戦争で樺太から引き揚げてきたと聞いている。北海道に家意識はない。「内の嫁」「内のしきたり」という言葉を聞いたことがない。このため全国で一番離婚が多い。家を背負っていないのだから当然だ。感覚はややアメリカに近いものがある。私は上京して「なんと因習が深いのだろう」と驚いた憶えがある。寺社仏閣も桁違いに多い。

 知人のライターが東日本大震災に対する天皇のメッセージをツイッターで紹介していた。彼は「陛下」と尊称をつけていた。それを見て、「へえー」と呟き、次の瞬間に「あ!」となった。胸の内に小野田寛郎〈おのだ・ひろお〉の生きざまがまざまざと蘇った。尊皇の精神が息を吹き、血の中に流れ通った瞬間であった。様々な知識が線となってつながった。大東亜戦争の歴史的な意味合いもストンと腑に落ちた。私は日本人となったのだ。

 これは決して大袈裟な話ではない。若い時分から本多勝一や鎌田慧〈かまた・さとし〉、黒田清〈くろだ・きよし〉、浅野健一などを読んで、完全に頭の中はリベラルに洗脳されていた。彼らの反日感情を見抜くことができなかった。左翼が主張するポリティカル・コレクトネスは破壊工作の手段に過ぎない。

 日本近代史に関する書籍を読み漁り、菅沼光弘を経て、竹山道雄に辿り着き、小室直樹倉前盛通で完璧に補強した。武田邦彦の影響も大きい。

 民族的な自覚は危機の中から芽生える。戦争や災害の中で国家の輪郭が際立ってくるのだ。

2021-10-25

真相が今尚不明な柳条湖事件/『絢爛たる醜聞 岸信介伝』工藤美代子


『工藤写真館の昭和』工藤美代子
『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒

 ・佐藤栄作と三島由紀夫
 ・「革新官僚」とは
 ・真相が今尚不明な柳条湖事件

 事件は昭和6(1931)年9月18日に、奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖の満鉄(南満州鉄道)線路で起きた小さな爆発事件だった。
 一般的に「柳条湖事件」と呼ばれているこの爆発事件の首謀者は関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、同じく関東軍作戦参謀石原莞爾(かんじ)中佐だとされてきた。
 両者ともその事実を否定したまま故人となった。
 ところが戦後になって当時の奉天特務機関にいた花谷正少佐(最終階級陸軍中将)が「手記」を発表し、板垣、石原のほかに関東軍司令官本庄繁中将、挑戦軍司令官林銑十郎(せんじゅうろう)中将、参謀本部第一部長建川美次(よしつぐ)少将、参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らも一緒にこの謀略に荷担していた、と書いた。
 雑誌「別冊知性」(河出書房刊)に発表された花谷の手記は「満州事変はこうして計画された」と題するもので、戦史研究家・秦郁彦の取材に答えたとされる。
 だがその時点で、主役の登場人物はすべて物故しており肝心な裏付けはとれない。
 さらに、インタビューした秦郁彦自身による次のような記述を読めば、花谷発言の信憑性に疑問すら浮かぶ。

「私はこの事件が関東軍の陰謀であることを確信していたので、要は計画と実行の細部をいかに聞き出すかであった。最初は口の重かった花谷も少しずつ語り始め、前後8回のヒアリングでほぼ全貌をつかんだ。みずから進んで語るのを好まない関係者も、花谷談の裏付けには応じてくれた。
 それから3年後の1956年秋、河出書房の月刊誌『知性』が別冊の『秘められた昭和史』を企画したとき、私は花谷談をまとめ、補充ヒアリングと校閲を受けたのち、花谷の名前で『満州事変はこうして計画された』を発表した」 (『昭和史の謎を追う』上)

 花谷はこのときまで62歳だったが、翌年死亡が伝えられている。すでに体調を崩していたための代筆とも考えられるが、それだけに真相がどれだけ語られていたのか、すべては死人に口なし、である。
 したがって、この一文をもって柳条湖事件を関東軍の謀略と決めつけるのはいささか無理がありそうだ。
 事件の背後にはもっと複雑な謀略が絡んでおり、事件の真相はまだ闇の中と言えよう。
 いわゆる「リットン調査団」の報告書も微妙な表現を用い、断定を避けている。
 岸が生涯の前半生を賭けた大仕事が満州経営であってみれば、その発端を切り拓いた柳条湖事件は極めて重要なポイントとして見逃せない。
 だが、軍部中心のこの事件の真相に迫るのは本書の主題から離れるので、史料がいまだにいかに不確実な事件かという事実だけを指摘するに留めたい。
 満鉄線の一部が何者かによって爆破されたということ、それを契機として日中間に銃撃戦が発生し、関東軍が自衛のために満州各地へ進出(錦州爆撃など)を開始した、という経過だけが明らかなのである。

【『絢爛たる醜聞 岸信介伝』工藤美代子〈くどう・みよこ〉(幻冬舎文庫、2014年/幻冬舎、2012年『絢爛たる悪運 岸信介伝』改題)】

 吃驚仰天した。柳条湖事件を起こしたのが板垣征四郎と石原莞爾〈いしわら・かんじ〉であったというのは既成事実ではないのか? 慌てて検索したのだが工藤美代子の主張を裏づける情報は皆無であった。

 工藤は文章が巧みである。工藤の手に掛かればいかなる人物であったとしてもそれなりの物語にすることが可能だろう。我々は文章や言葉に直ぐ騙される。その最大の見本がバイブルである。あの文体は脳を束縛する心地好さがある。イエスという人物があたかも実在したように錯覚させられる。しかも西洋人はイエスの言葉を通して、更に実在の不明な神を信じているのだ。胡蝶の夢のまた夢といってよかろう。

 工藤の文章が危ういのは、「事件の背後にはもっと複雑な謀略が絡んでおり」と思わせ振りなことを書いておきながら、その根拠を全く述べていないところだ。事実に印象を盛り込んでおり、読者を誘導しようとする魂胆が透けて見える。

 歴史が厄介なのは、嘘を確認するために学ぶことがあまりにも多いためだ。その作業が疎(うと)ましく感るごとに歴史から遠ざかってしまう。嘘がどれほど罪深いかを知ることができよう。

 日本国民は満州事変を熱狂的に支持した。三国干渉(1895年/明治28年)以降、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)を合言葉にしてきた日本人が諸手を挙げて喝采を送ったは当然であった。すなわち柳条湖事件はきっかけに過ぎず、たとえ同事件が発生しなくとも、別の事件で事変に至ったのは確実である。



工藤美代子の見識を疑う/『昭和陸軍全史1 満州事変』川田稔

2021-09-06

竹山道雄と松原久子/『日本の知恵 ヨーロッパの知恵』松原久子


竹山道雄

 ・竹山道雄と松原久子

『言挙げせよ日本 欧米追従は敗者への道』松原久子
『驕れる白人と闘うための日本近代史』松原久子

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 ヨーロッパ人は自分たちが意識している以上に、歴史という躍動体を大切にする。相手の歴史の水準が自分たちと同じであるとわかった場合にのみ、相手をパートナーとして受け容れ、尊敬する。尊敬の念なくして本当の理解は育たない。日本人が長い長い歴史の中で何を学び、何を体験し、その結果何を大切にするようになったのか、何を侮蔑し嘲笑するのか、いかなる死生観をもち、なぜ働くのか、いかなる論法に参(ママ)り、どういう情緒に動かされ、何を美しいと感じるのだろうか、ヨーロッパ人の場合はどうだろうか。
 歴史的事実を例証として、こういった問いかけに答えていくことが日本人の急務である。経済発展により、うさんくさそうにじろじろ眺められている日本は、堂々と、そして真摯に自分の素性を語らなければならぬ。日本は数百年前にはどんな国であったのか、政治は、経済は、社会は、科学技術は、ヨーロッパと比べてどういう水準にあったのか。どこから現在が出てきたのか、よそから学んだ面があるとして、学ぶことのできた素地は日本人の過去の知恵にあったことを、例証しなければならない。

【『日本の知恵 ヨーロッパの知恵』松原久子〈まつばら・ひさこ〉(三笠書房、1985年/知的生きかた文庫、1986年)】

 近代を巡る日本と西洋の比較文明論は竹山道雄と松原久子が頂点を成す。特にキリスト教に関する造詣の深さが一線を画している。この二人の衣鉢(いはつ)を継ぐ者がまだ見当たらないのが残念だ。竹山・松原の著作は小中高等学校の副読本にすべきである。

 松原久子の文章に一貫して硬質な気勢があるのは、彼女が実際にドイツの地で激しい有色人種差別感情にさらされているためだ。実際に鉄道駅で見知らぬ女性から平手打ちをされたこともある。かようにヨーロッパ人の自我は差別意識で支えられている。有色人種を下に見なければ自我を支えることができないのだろう。その戦闘性こそが欧州発展の原動力であった。

 ヨーロッパ人が歴史を重んじるのは「近代を開いた」自負があるためか。中世・古代となれば我々日本人に分(ぶ)がある。日本が鎖国を成し得たのは世界最大の武力を有していたからだ(『戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略』平川新)。欧州が中国に魔の手を伸ばす様を見て、日本国内では攘夷の風が吹き荒れた。徳川260年は軍事大国から極東の小国へと転落する平和な期間であった。

 少し古い本である。1990年代まではインターネット以前の時代と考えてよい。当時のドイツやアメリカで暮らす者ならではの焦燥もあったことだろう。アメリカが世界から一歩退いた今、日本は我が道を歩むべきだと私は思う。親米が有利に働く時代は終焉を迎えつつある。まずはアメリカ以外の国々との安全保障を探るべきだろう。

2021-07-01

田中清玄の右翼人物評/『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫


『日本の秘密』副島隆彦
『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝
『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸
『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利
『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄

 ・会津戦争のその後
 ・昭和天皇に御巡幸を進言
 ・瀬島龍三を唾棄した昭和天皇
 ・田中清玄の右翼人物評

『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
『軍閥 二・二六事件から敗戦まで』大谷敬二郎
『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 ――話は飛びますが、安岡正篤氏とはお付き合いがありましたか。

 全然ありません。そんな意思もありませんしね。有名な右翼の大将ですね。私が陛下とお会いしたという記事を読んで、びっくりしたらしい。いろいろと手を回して会いたいといってきたけど、会わなかった。私は当時、アラブ、ヨーロッパなどへ言ったり来たりで、寸刻みのスケジュールだったこともありましたが、天皇陛下のおっしゃることに筆を加えるような偉い方と、会う理由がありませんからと言ってね(笑)。私には自己宣伝屋を相手にしている時間の余裕などなかった。

【『田中清玄自伝』田中清玄〈たなか・きよはる〉、インタビュー大須賀瑞夫〈おおすが・みずお〉(文藝春秋、1993年/ちくま文庫、2008年)以下同】

「筆を加えるような」とは終戦詔書(=玉音放送)を校閲したことを指す(『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒)。細木数子が結婚騒動を起こして安岡の晩節を汚している。多分そういう人物だったのだろう。戦前戦後を通して長く政治家の指南役を務めた人物だ。田中の人物評は寸鉄人を刺す趣がある。しかも直接見知っているのだからその評価は傾聴に値する。

終戦の詔書 刪修 | 公益財団法人 郷学研修所・安岡正篤記念館

 児玉(誉士夫)は聞いただけで虫唾(むしず)が走る。こいつは本当の悪党だ。児玉をほめるのは、竹下や金丸をほめるよりひでえ(笑)。赤尾敏というのもいたな。彼をねじあげて摘み出したことがあった。俺がまだ学生の頃です。

 児玉誉士夫〈こだま・よしお〉は特攻生みの親・大西瀧治郎〈おおにし・たきじろう〉の自決(介錯なしの十字切腹)に立ち会ったエピソードが有名だ。児玉も後に続こうとしたが「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ」と大西は諫(いさ)めた。首と胸を刺したが大西は半日以上も苦痛の中で生きた。いかなる悪事に手を染めようと児玉の心中では大西が生きているのではないかと私は考えてきた。が、違ったようだ。

 ――戦後の右翼はどうですか。

 ほとんど付き合いはありません。土光さんが経団連会長の時に、野村秋介(しゅうすけ)が武器を持って経団連に押し入り、襲撃したことがありましたね。政治家と財界人の汚職が問題になった時のことでした。どこかの新聞社の電話と野村とが繋がっていると聞いたので、俺はすっ飛んで行って、その電話を横取りするようにひったくって、こう言ってやった。
「おい、野村、貴様、即刻自首しろ。貴様は土光さんに会いたいというなら、それは俺が取り計らってやるとあれほど言ったじゃねえか。それを、約束を破って経団連を襲うとは何ごとだ」
 そうしたら、野村はつべこべ言った揚げ句に、謝りに来ると言うから「貴様は約束を反古にした。顔も見たくねえ」と言って、それっきり寄せつけない。約束を守らないようなやつは駄目だ。その前に藤木幸太郎さんに一度会わしたことがあったが、藤木さんは「あいつは小僧っ子だな」って、そう言ったきりだったな。

 昨今、ネット上で児玉誉士夫や野村秋介を持ち上げる人物がいるので、慌てて書評をアップした次第である。新右翼は「左翼への対抗」を目的としており理論武装せざるを得ない。そして左翼と同じ体臭を放つようになる。

 ――三島由紀夫という人物をどう評価されますか。

 剣も礼儀も知らん男だと思ったな。自衛隊に入りたいというので、世田谷区松原にあった僕の家に、毎日のように来ていたんだが、2回目だったか、「稽古の帰りですので、服装は整えてませんが」とか言って、紺色の袴に稽古着を着け、太刀と竹刀を持って寄ったことがある。不愉快な感じがした。これは切り込みか果し合いの姿ですからね。人の家を訪ねる姿ではありませんよ。

 生真面目な三島がそれを知らなかったとは思えない。悪ふざけか冷やかしのつもりだったのだろう。それが通用する相手ではなかった。三島が田中に胸襟を開いていれば長生きした可能性はあっただろうか? 否、長く生きて輝きを失うよりは、花の盛りで散ってゆくことが彼の願いであったに違いない。

 私が本当に尊敬している右翼というのは、二人しかおりません。橘孝三郎さんと三上卓君です。二人とは小菅で知り合い、出てきてからも親しくお付き合いを致しましたが、お二人とも亡くなられてしまった。橘さんは歴代の天皇お一人お一人の資料を丹念に集めて、立派な本を作られた。そのために私もいささかご協力をさせていただきました。

 三上卓については『五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」』(小山俊樹〈こやま・としき〉著、中公新書、2020年)が詳しい。野村秋介の師匠である。

2021-06-30

瀬島龍三を唾棄した昭和天皇/『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫


『日本の秘密』副島隆彦
『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝
『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸
『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利
『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄

 ・会津戦争のその後
 ・昭和天皇に御巡幸を進言
 ・瀬島龍三を唾棄した昭和天皇
 ・田中清玄の右翼人物評

『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
『軍閥 二・二六事件から敗戦まで』大谷敬二郎
『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 もう一つ彼(※中曾根康弘首相)に言っているのは、付き合う人間を考えろということです。彼の周りにはいろんな人間がいましたからねえ。
 例えば瀬島龍三がそうだ。第二臨調の時に彼は瀬島を使い、瀬島は土光さんにも近づいて大きな顔をしていた。伊藤忠の越後(正一元会長)などは瀬島を神様のように持ち上げたりしていたが、とんでもないことだ。かつて先帝陛下は瀬島龍三について、こうおっしゃったことがあったそうです。これは入江さんから僕が直接聞いた話です。
「先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵達を咎(とが)めるわけにはいかない。しかし、許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし、戦争責任の回避を行っている者である。瀬島のような者がそれだ」
 陛下は瀬島の名前をお挙げになって、そう言い切っておられたそうだ。中曾根君には、なんでそんな瀬島のような男を重用するんだって、注意したことがある。私のみるところ瀬島とゾルゲ事件の尾崎秀実は感じが同じだね。

【『田中清玄自伝』田中清玄〈たなか・きよはる〉、インタビュー大須賀瑞夫〈おおすが・みずお〉(文藝春秋、1993年/ちくま文庫、2008年)】

 かような人物が「昭和の参謀」と持て囃(はや)され、2007年(平成19年)まで生きた。これが「日本の戦後」であった。その狡猾と無軌道ぶりこそ戦後日本の歩みであった。国防を蔑(ないがし)ろにしながら経済一辺倒の政治を国民の支持し続けた。安倍政権は戦後レジームからの脱却を目指したが、瀬島龍三の影響を払拭していなかった。日本の弱さ、デタラメさがここにある。

 祖国を貶(おとし)める反日勢力を一掃できるかどうかに日本の命運が掛かっている。作家風情の丸山健二三島由紀夫を小馬鹿にするような風潮を見逃してはならないのだ。戦後教育の巧妙な刷り込みに気づかぬ国民が国を亡ぼすと銘記せよ。

2021-06-29

昭和天皇に御巡幸を進言/『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫


『日本の秘密』副島隆彦
『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝
『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸
『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利
『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄

 ・会津戦争のその後
 ・昭和天皇に御巡幸を進言
 ・瀬島龍三を唾棄した昭和天皇
 ・田中清玄の右翼人物評

『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
『軍閥 二・二六事件から敗戦まで』大谷敬二郎
『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 ――『入江日記』によれば、お会いになったのは、1945(昭和20)年12月21日ですね。

 ええ。場所は生物学御研究所の接見室で、石渡荘太郎宮内大臣、大金益次郎次官、藤田尚徳侍従長、木下道雄侍従次長、入江相政侍従、徳川義寛侍従、戸田康英侍従らがご臨席でした。大金さんは「君が思うことをお上にお話ししてくれて結構だ。君は思うことをズバズバ言う方だから、その通りにやってもらいたい」と言われた。

【『田中清玄自伝』田中清玄〈たなか・きよはる〉、インタビュー大須賀瑞夫〈おおすが・みずお〉(文藝春秋、1993年/ちくま文庫、2008年)以下同】

 これほど面白い人物はそうそういない。小室直樹池田大作を軽く凌駕していると思う。元々は瀬島龍三の部分だけ確認するつもりで読んだ。ところが一気に引きずり込まれた。大言壮語や嘘がつきまとう人物だが、それを割り引いても圧倒的な面白さがある。

 それから私は三つのことを申し上げた。一つは、
「陛下は絶対にご退位なさってはいけません。軍は陛下にお望みでない戦争を押し付けて参りました。これは歴史的事実でございます。国民はそれを陛下のご意思のように曲解しております。陛下の平和を愛し、人類を愛し、アジアを愛するお心とお姿を、国民に告げたいと思います。摂政の宮を置かれるのもいけません」
 ということ。当時、退位論が盛んでしたから、摂政の宮をおけという議論もあった。もう一つは、
「国民はいま飢えております。どうぞ皇室財産を投げ出されて、戦争の被害者になった国民をお救いください。陛下の払われた犠牲に対しては、国民は奮起して今後、何年にもわたって応えていくことと存じます」
 ということ。三つ目は、
「いま国民は復興に立ち上がっておりますが、陛下を存じ上げません。その姿を御覧になって、励ましてやって下さい」
 というものだった。

 ――それに対する昭和天皇のお答えは。

「うーん、あっ、そうか。分かった」と。そりゃあ、もう、びっくりしたような顔をされて、こっちがびっくりするぐらい大きく頷かれたなあ。その後、これを陛下はすべて御嘉納になられて、おやりになった。

 田中清玄(きよはる)が本当に日本のことを考えていたことがよくわかる。しかも自分を大きく見せようとする姿勢が微塵もない。昭和天皇の御巡幸を日本国民は伏し目がちに迎え、声の限りを尽くして万歳を叫んだ。この陛下と国民との邂逅(かいこう)が復興の転機となるのである。


 ――昭和天皇のほうからは、どんなお話があったのですか。

 次々と御下問がありました。私の出身の会津藩のことや、土建業をおこして、戦後の復興に携わっていることなど、いろいろ聞かれ、「田中、何か付け加えることはあるか」とおっしゃった。それで私は「昭和16年12月8日の開戦には、陛下は反対であったと伺っております。どうしてあの戦争をお止めにはなれなかったのですか」と伺った。一番肝心な点ですからね。そうしたら言下に、
「自分は立憲君主であって、専制君主ではない。憲法の規定もそうだ」
 と、はっきりそう言われた。それを聞いて私はびっくりした。我々は憲法を蹂躙(じゅうりん)して勝手なことをやって、俺なんか治安維持法に引っかかっている。そんなにも憲法というものは守らなければいかんものなのかと(笑)。最初は20~30分ということでしたが、結局、1時間余りですかねえ。それで僕は、お話し申し上げていて、陛下の水晶のように透き通ったお人柄と、ご聡明さに本当にうたれて、思わず「私は命に懸けて陛下並びに日本の天皇制をお守り申し上げます」とお約束しました。そうしたら、終わって出てきてから、入江さんに「あなた、大変なことを陛下にお約束されましたね」って言われたなあ。それと「我々が言えないことを本当によく言ってくれました」とね。

 これまた重要な歴史的証言である。田中の率直な問いに、陛下は率直な答えで応じている。天皇が神であるのは、一切の人間らしさを捨てて原理に生きているためなのだろう。私は「人間ではない」という意味において天皇陛下は神であると受け止めている。

2021-06-28

「一隅を守り、千里を照らす」人のありやなしや/『ビルマの竪琴』竹山道雄


『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄

 ・敗戦の心情
 ・「一隅を守り、千里を照らす」人のありやなしや

『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編
『精神のあとをたずねて』竹山道雄
『時流に反して』竹山道雄
『みじかい命』竹山道雄

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その一

 私はよく思います。――いま新聞や雑誌をよむと、おどろくほかはない。多くの人が他人をののしり責めていばっています。「あいつが悪かったのだ。それでこんなことになったのだ」といってごうまんにえらがって、まるで勝った国のようです。ところが、こういうことをいっている人の多くは、戦争中はあんまり立派ではありませんでした。それが今はそういうことをいって、それで人よりもぜいたくな暮らしなどをしています。ところが、あの古参兵のような人はいつも同じことです。いつも黙々として働いています。その黙々としているのがいけないと、えらがっている人たちがいうのですけれども、そのときどきの自分の利益になることをわめきちらしているよりは、よほど立派です。どんなに世の中が乱脈になったように見えても、このように人目につかないところで黙々と働いている人はいます。こういう人こそ、本当の国民なのではないでしょうか? こういう人の数が多ければ国は興(おこ)り、それがすくなければ立ち直ることはできないのではないでしょうか?

【『ビルマの竪琴』竹山道雄(中央公論社ともだち文庫、1948年/新潮文庫、1959年)】

「最もよき人々は帰ってこなかった」(『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾訳)。きっとそういうことなのだろう。

 若き特攻隊員たちは花と散った。そして瀬島龍三のような連中が生き残った。当初、自主憲法の制定を悲願とした自民党も変節した。

「一隅を守り、千里を照らす」(最澄「山家学生式」)人のありやなしやを問う。

2021-05-05

五箇条の御誓文/『「日本国憲法」廃棄論 まがいものでない立憲君主制のために』兵頭二十八


・『日本を思ふ』福田恆存
『いちばんよくわかる!憲法第9条』西修
『平和の敵 偽りの立憲主義』岩田温
・『だから、改憲するべきである』岩田温
『日本人のための憲法原論』小室直樹
『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八

 ・国民の国防意志が国家の安全を左右する
 ・外交レトリックを誤った大日本帝国
 ・五箇条の御誓文

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

五箇条の御誓文

 一 廣(ひろ)ク會議ヲ興(おこ)シ萬機(ばんき)公論(こうろん)ニ決スヘシ
 一 上下(しょうか)心ヲ一(いつ)ニシテ盛(さかん)ニ經綸(けいりん)ヲ行フヘシ
 一 官武(かんぶ)一途(いっと)庶民ニ至ル迄各(おのおの)其(その)志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦(う)マサラシメン事ヲ要ス
 一 舊來(きゅうらい)ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
 一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
我國未曾有ノ變革(へんかく)ヲ爲(なさ)ントシ 朕(ちん)躬(み)ヲ以テ衆ニ先ンシ天地神明ニ誓ヒ大ニ斯(この)國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立(たて)ントス衆亦(また)此(この)趣旨ニ基キ協心努力セヨ

【『「日本国憲法」廃棄論 まがいものでない立憲君主制のために』兵頭二十八〈ひょうどう・にそはち〉(草思社、2013年/草思社文庫、2014年)】

「五箇條の御誓文」意訳(口語文)

一、 広く人材を集めて会議を開き議論を行い、大切なことはすべて公正な意見によって決めましょう。
一、 身分の上下を問わず、心を一つにして積極的に国を治め整えましょう。
一、 文官や武官はいうまでもなく一般の国民も、それぞれ自分の職責を果たし、各自の志すところを達成できるように、人々に希望を失わせないことが肝要です。
一、 これまでの悪い習慣をすてて、何ごとも普遍的な道理に基づいて行いましょう。
一、 知識を世界に求めて天皇を中心とするうるわしい国柄や伝統を大切にして、大いに国を発展させましょう。
これより、わが国は未だかつてない大変革を行おうとするにあたり、私はみずから天地の神々や祖先に誓い、重大な決意のもとに国政に関するこの基本方針を定め、国民の生活を安定させる大道を確立しようとしているところです。皆さんもこの趣旨に基づいて心を合わせて努力して下さい。

五箇條の御誓文|明治神宮

 政権の奉還が成り、王政復古を宣言された明治天皇は、理屈の上からは、専制君主となって独裁政治を行うこともできたはずだ。「朕は国家なり」と称したフランスのルイ14世のように…。

 しかし、明治天皇はそんなことを望まれなかった。ここで誓われた言葉は「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ」であった。日本は、独裁国家ではなく、立憲君主国家としての道を歩むことを宣言したのである。私はこの言葉が好きだ。

五箇条の御誓文

 万機とは「政治上の重要な多くの事柄。天下の政治」である(バンキ | 言葉 | 漢字ペディア)。明治大帝は一君万民の伝統を踏まえた上で民主の精神を国民に打ち込んだ。

 戦後、昭和21年(1946年)1月1日の昭和天皇の、いわゆる人間宣言において御誓文の全文が引用されている。昭和天皇は幣原喜重郎首相が作成した草案を初めて見た際に、「これで結構だが、これまでも皇室が決して独裁的なものでなかったことを示すために、明治天皇の五箇条の御誓文を加えることはできないだろうか」と述べ、GHQの許可を得て急遽加えられることになった。天皇は後に、

 それが実は、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした。(中略)民主主義を採用したのは明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条御誓文を発して、それが基となって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入物ではないということを示す必要が大いにあったと思います。
 — 昭和52年(1977年)8月23日記者会見

Wikipedia

 三島由紀夫はこの大御心(おおみごころ)を見落とした。彼は人間宣言を許さなかった。「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」と嘆じた(『英霊の聲』1966年)。

 近代日本の政治は万機を「密室の談合」で決してきた。五箇条の御誓文を破ったのは政治家であり、彼らを選んだ国民であった。憲法は五箇条の御誓文でよい。信教の自由、言論の自由、結社の自由などはイギリス式の不文憲法で構わない。

2021-04-07

「自然豊かな日本」という思い込み/『森林飽和 国土の変貌を考える』太田武彦


 このように、これらの古写真が写している明治時代から昭和時代中期までの山地・森林の状況は、現在の日本の森林の姿とはまるで異なっていたということがわかるだろう。実はこれらの古写真は荒廃の激しいところを選んで集めたものではない。場所はどこでもよかったのである。1950年代以前の、背景に山が写っている普通の農村の写真ならば、現在のような豊かな森は見えていないはずである。このころ、日本の森のかなりの部分はとても森とは呼べないほど衰退し、劣化していたのである。

【『森林飽和 国土の変貌を考える』太田猛彦〈おおた・たけひこ〉(NHKブックス、2012年)以下同】

 上念司〈じょうねん・つかさ〉が『ニュース女子』で紹介していた一冊。上念の著書を読む気はないが内容を聞いてピンとくるものがあった。日本の国土は「約70%が山岳地帯で、その約67%が森林である」(Wikipedia)。ともすると「自然豊かな日本」という思い込みがあるが実は違う。戦前はハゲ山だらけだったというのだ。私が子供の時分、禿頭のことをハゲ山と呼ぶことがあったがこれもその名残りか。


近世から近代の日本で、都市近郊の山岳がほとんど禿げ山だったことはあまり知られていない - Togetter

 言い換えれば、江戸時代に生まれた村人が見渡す山のほとんどは、現在の発展途上国で広く見られるような荒れ果てた山か、劣化した森、そして草地であった。この事実を実感として把握しない限り、日本の山地・森林が今きわめて豊かであることや、国土環境が変貌し続けていることを正確に理解することはできないと思われる。

 例えば奈良の大仏(745-752年)、大量の刀剣を必要としたであろう戦国時代(15世紀末-16世紀末)、本格的な貨幣経済が始まった江戸時代など金属製造には膨大な薪(まき)が欠かせない。一言で申せば「貨幣鋳造と武器製造が森林を破壊する」のだ。

 ヨーロッパの場合は更に家畜文化が拍車をかけた(『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男)。ブタが芽を食(は)み、ヤギは根っこまで食べた。

 最も「自然豊かな日本」は現在の日本なのだ。ここでもう一つの思い込みを指摘しておこう。

「地球の肺」とも呼ばれる世界最大の熱帯雨林アマゾンで、記録的な森林火災が続いています。(中略)
 アマゾンは日本の国土の約15倍に及ぶ面積550万平方キロメートルで、ブラジルやペルー、コロンビアなど南米7カ国に広がり、地球上の熱帯雨林のおよそ半分に相当します。地球上の酸素の2割を生み出しているといわれ、多様な動植物が暮らす生物の楽園です。

「地球の肺」が呼吸困難 アマゾン火災、日本も関わりが:朝日新聞デジタル 2019年8月29日 8時30分】

 全くのデタラメだ。森林は地球の酸素供給に寄与していない。

 森林の大部分を占める植物は、たしかに二酸化炭素を吸収して光合成を行うが、同時に呼吸もして二酸化炭素を排出しているからだ。植物単体として見ると光合成の方が大きいこともある(その分、植物は生長する)が、森林全体としてみるとそうはいかない。(中略)
 もっとも大きいのは菌類だ。いわゆるキノコやカビなどは、枯れた植物などを分解するが、その過程で呼吸して二酸化炭素を排出する。
 地上に落ちた落葉や倒木なども熱帯ではあっと言う間に分解されるが、それは菌類の力だ。目に見えない菌糸が森林の土壌や樹木中に伸ばされており、菌が排出する二酸化炭素量は光合成で吸収する分に匹敵する。つまり二酸化炭素の増減はプラスマイナスゼロ。
 だから森林を全体で見ると、酸素も二酸化炭素も出さない・吸収しないのだ。酸素を供給し二酸化炭素を吸収する森は、成長している森だ。面積を増やす、あるいは植物が太りバイオマスを増加させている森だけである。

アマゾンは「地球の肺」ではない。森林火災にどう向き合うべきか(田中淳夫) - 個人 - Yahoo!ニュース

 だが、この20%という数字は、まったくの過大評価だ。むしろ、ここ数日で複数の科学者が指摘したように、人間が呼吸する酸素に対するアマゾンの純貢献量は、ほぼゼロと考えられる。

「アマゾンは地球の酸素の20%を生産」は誤り | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

 自慢気に紹介しているが私も最近知った次第である。成熟した森林は酸素を供給しないし二酸化炭素も排出しない。これをカーボンニュートラルという。

 光合成に必要な太陽の光がとどくのは海面から70~80mぐらいですが、この海面に近いところに住む植物プランクトンや海藻によって、地球の酸素の3分の2がつくられています。

海の自然のなるほど 「酸素は海からもつくられる」

 自然界において遊離酸素は、光合成によって水が光分解されることで生じ、海洋中の緑藻類やシアノバクテリアが地球大気中の酸素70パーセントを、残りは陸上の植物が作り出している。

酸素 - Wikipedia

 進化の上でより下等な光合成を行うグループがあって(シアノバクテリアといいます)、それは地球上の大気に酸素をもたらしました。今、私たちが呼吸して酸素を吸っていますが、この酸素です。

藻類(そうるい)ってなんですか? | 東京薬科大学のブログ | エコプロ2019

 細菌の中には、他にも光合成を行うグループが存在するが (光合成細菌と総称される)、酸素発生型光合成を行う細菌は藍藻のみである。藍藻は、系統的には細菌ドメイン (真正細菌) に属する原核生物であり、他の藻類よりも大腸菌や乳酸菌などに近縁である。そのため、シアノバクテリア (藍色細菌) (英: cyanobacteria) とよばれることも多い。

藍藻 - Wikipedia

 これだけ日常的に平然と嘘を書き連ねる新聞を読む購読者が今もいることに驚く。彼らは何らかのファンタジーを必要としているのだろう。

2021-03-25

西暦1500年、人類は世界を知った/『火縄銃から黒船まで 江戸時代技術史』奥村正二


 ・西暦1500年、人類は世界を知った

『戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略』平川新
『時計の社会史』角山榮

必読書リスト その四

「鉄砲(ママ)記」は1543年(天文12)に種子島へ漂着したポルトガル人アントニオ・ダモア他2名が、火縄銃を伝えたときのことを記録したもので、1606年に僧南浦玄昌によって書かれたものである。この年次については異説もあるが、ここでは一応もっとも確からしい1543年としておいて、それが日本ではどんな年であったかふりかえってみよう。この年は足利幕府12代義晴の治世で、謙信と信玄が川中島で戦う年のちょうど10年前にあたる。戦国のただなかである。この新兵器の導入が、当時の社会に衝撃をあたえないはずはない。この年信長は9歳、秀吉は7歳、家康は1歳であった。

【『火縄銃から黒船まで 江戸時代技術史』奥村正二〈おくむら・しょうじ〉(岩波新書、1970年/岩波書店特装版、1993年)】

 まだ読書中なのだが、押さえておくべき歴史が出てきたので書いておこう。鉄砲伝来が1543年でキリスト教伝来が1549年であることは知っていた。ところが、なぜか私は「発見の時代」(Age of Discovery/大航海時代)の渦中とは認識していなかった。何となくヨーロッパから極東までの物理的な距離を時間的距離にまで拡大していたようだ。

 さきのポルトガル人は2年ほど後ふたたび日本を訪れるが、この頃にはもう堺や紀伊、九州で鉄砲の製造と売買が大量に行われていた。これを知ってかれらは驚嘆したという。

 刀鍛冶の技術によるものだが、もちろんそんな単純な話ではない。『時計の社会史』を参照せよ。

 コロンブスの新大陸発見が1492年、バスコ・ダ・ガマのインド航路開発が1498年、マジェラン船隊の世界周航が1519~22年。こうして世界地図の大勢が明らかになったあと、ヨーロッパ諸国によるアジア侵略の歴史が展開される。先頭に立ったのはポルトガルとスペインで、1510年ポルトガルによるゴア占領、1513年同じくマカオ進出、1541年スペインによるフィリピン占領と続き、1543年ポルトガル船の種子島来航となる。以来寛永の鎖国まで約100年の間におびただしい数の外国人が来航したが、一方日本人も御朱印船で大がかりに南方へ進出した。遠くヨーロッパへ旅したものもある。それらのうち歴史に特記されるものを摘録しよう。
 1547年(天文16)、最後の遣明船肥前の五島から出港。
 1549年(天文18)、ザビエル鹿児島へ来着。
 1582年(天正10)、大友宗麟他2名のキリシタン大名は、宣教師ワリニヤーニの斡旋により、4人の少年使節をローマへ派遣、乗船はポルトガル船インヤース・リマ号。使節は8年後に長崎帰着。
 1600年(慶長5)、オランダ船リーフデ号漂着。航海長はイギリス人ウイリアム・アダムス(日本名三浦按針)
 1609年(慶長14)、スペイン船サンフランシスコ号房総沖で難破漂着。家康は乗員中のドン・ロドリゴ・デ・ヴィヴェロ(フィリピン総督)と対メキシコ通商交渉を行う。
 1610年(慶長15)、三浦按針の指導で帆船サンベナベンツール号120トンを製作。ドン・ロドリゴを乗せ、メキシコへ送り届ける。日本人22名同行。日本船最初の太平洋横断。
 1613年(慶長18)、伊達政宗は宣教師ソテロの斡旋で、支倉常長を長とする使節団をメキシコ経由スペインへ送る。乗船は伊達藩製500トン級、乗員180人、出航(ママ)地は牡鹿半島月浦。支倉は7年後に帰国。
 こうやってふりかえってみると、鎖国前の日本が思いのほか雄大な動きをしていたことがわかる。

 西暦1500年、人類は世界を知った。欧州が凄いのは国内では魔女狩りをしながらも海に打って出たことである。

「一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を『鎖国』 (英closed country) と呼ぶ」(Wikipedia)。日本が鎖国できたのは世界最大の軍事力を擁していたためである。種子島に鉄砲が伝わっていなければ日本もアジア諸国同様、数百年間にわたって植民地とされたことだろう。