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2021-12-12

死こそが永遠の本源/『出星前夜』飯嶋和一


『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一
『雷電本紀』飯嶋和一
『神無き月十番目の夜』飯嶋和一
『始祖鳥記』飯嶋和一
『黄金旅風』飯嶋和一

 ・死こそが永遠の本源

『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一

キリスト教を知るための書籍

 キリシタンに対する火あぶりの刑は、1本の太柱に手足を後ろで縛りつけ、周囲に薪を積んで、初めは遠火にてあぶり、次第に薪を受刑者の縛られている柱へ寄せていく。後ろ手と両足に縛りつけた藁縄(わらなわ)は1本だけで、それも緩(ゆる)く、背後には薪を積まず、いつでも逃げ出せるように退路を確保してある。燃えさかる灼熱(しゃくねつ)の苦痛に逃げ出せば、それは棄教したことと見なされ、そこで刑の執行は取りやめられる。刑を受ける者にとっては何より殉教への意志が試されることとなっていた。マグダレナはもちろん、6人ともが逃げる素振りも見せず業火に身をよじりながら絶命したと秀助は青ざめた顔で語った。鯨脂を焼いたような臭いが胸に溜(た)まり、突き上げてきた嘔吐(おうと)感を抑えきれず恵舟〈けいしゅう〉はその場でもどした。

【『出星前夜』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(小学館、2008年/小学館文庫、2013年)以下同】

 島原の乱を描いた時代小説だが天草四郎時貞は脇役である。主役は庄屋の鬼塚甚右衛門と医師の外崎恵舟〈とのざき・けいしゅう〉、そして弟子の北山寿安〈きたやま・じゅあん〉の3人である。

キリシタン4000人の殉教/『殉教 日本人は何を信仰したか』山本博文

 よく言われることだが、「交通事故でさえスローモーション映像にすればホラー映画たり得る」。死は恐ろしい。恐ろしいがゆえに生きる者は想像力を働かせてしまう。そこに罠がある。戦後教育を受けると「生きる権利」という錯覚にとらわれる。生きることが権利であれば、死ぬことはその権利を奪われることになる。だから我々は死を理不尽なものとして受け止める。なぜなら死は「生を奪う」からだ。死は終焉(しゅうえん)であり、不幸であり、悲劇である。そう考えてしまうところに現代の不幸があるのだろう。

「棄教すれば許す」というところに日本的な優しさがある。西洋の魔女狩りとは全く異なる精神風土である。ただし、少ならからぬ人々を殉教に走らせる社会的要因があったのは確かだろう。閉塞感や鬱積が日常から跳躍させるバネとして働く。それが殉教であったり、テロであったり、クーデターであったりするのだろう。

「寿安さん」喜平の幼子が呼んだ声音を思わず真似(まね)ていた。大勢の病んだ子どもらが皆そう呼んだ。今ここにいる「寿安」が、やっと現実(うつつ)のことに感じられた。幼い頃は耐えがたいものを感じていた呼び名は、いつの間にか少しの抵抗も感じられなくなっていた。蜂起でも、傷寒でも、赤斑瘡でも、多くの生命が目の前で消えて行った。死こそが実は永遠の本源であり、生は一瞬のまばゆい流れ星のようなものに思われた。その光芒(こうぼう)がいかにはかなくとも、限りなくいとおしいものに思えた。

 恵舟と寿安は感染症と戦った。飢餓と病気は人類史において最大のテーマである。それは死に直結しているためだ。私からすれば、「死は永遠」というよりも「死は無限」と感じる。既に亡い人は数百億人に及ぶだろうし、動植物や細菌を含めれば天文学的な数字になるだろう。量子世界で時間にはプランク時間という最小単位が切り取り線のように連なっている。信じ難いことだが時間は直線的につながってはいないのだ。ひょっとすると瞬きするたびに我々は生と死を繰り返しているのかもしれない。

2021-12-11

父は悪政と戦い、子は感染症と闘った/『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一


『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一
『雷電本紀』飯嶋和一
『神無き月十番目の夜』飯嶋和一
『始祖鳥記』飯嶋和一
『黄金旅風』飯嶋和一
『出星前夜』飯嶋和一

 ・父は悪政と戦い、子は感染症と闘った

『日本の名著27 大塩中斎』責任編集宮城公子

日本の近代史を学ぶ

 奥座敷で供された二つの塗り物膳(ぜん)には、季節の飛び魚の吸い物から黒鯛(くろだい)の刺し身、あわびの膾(なます)、焼き茄子(なす)などが所狭しと並べられ、白米の飯と素麺(そうめん)、清酒まで出して庄三郎がもてなした。
 弥左衛門〈やざえもん〉にすすめられ常太郎〈じょうたろう〉は初めて酒を口にした。陣屋からここまでずっと己(おのれ)の身を案じてついてきた島民達といい、科人(※とがにん)として流されてきた先で思いがけないもてなしを受け、戸惑いばかりが深まっていた。
「……流人の身でありますのに、なにゆえ皆様方がこのように温かくお迎えくだされるのかがわかりません」
「貴殿は何の罪も犯していない。それに西村履三郎〈※にしむら・りさぶろう〉様の倅殿だから」
 常太郎は顔を上げて目を見開いた。はるばる流されてきたこの島の人々が、父親の名を知っていることに驚いたようだった。
「河内随一と言われる大庄屋だったお父上が、大塩平八郎先生とともに、なぜ何もかも捨てて挙兵されたか、それを島の者たちはよく知っています」(中略)
「誰のためにお父上は蜂起に身を投じたのか? 出鱈目な幕政の結果、困窮し飢餓に瀕している民のためだ。お父上は、民のためにすべてを捨てて戦ってくれた。この島の民も同じく困窮している。お父上は、自分たちのために戦ってくれた、言ってみれば恩人なのですよ。そして、それゆえに貴殿がこんな目に遭(あ)うこととなった。お父上に対する感謝と貴殿への申し訳ないとの思いです。大塩先生の檄文はご覧になったことは?」
「いいえ。……存じません」
「もちろん知るはずがない。周りにいた方々も常に監視されて、とても常太郎さんにそれを伝えることなどできなかったはずだ。大塩先生の檄文には、『やむを得ず天下のためと存じ、血族の禍(わざわい)をおかし、この度、有志の者と申し合わせ、下民(かみん)を悩まし苦しめている諸役人をまず誅伐(ちゅうばつ)いたし、引き続き驕(おご)りに増長しておる大坂市中の金持ちの町人どもを誅戮(ちゅうりく)におよぶ』とある。『血族の禍をおかす』すなわち、貴殿や母上、親類縁者にも禍がおよぶことはお父上もわかっていた。貴殿は、当時数え六つ。可愛(かわい)い盛りだ。お父上も断腸も思いだったろう……。(後略)」

【『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(小学館、2015年/小学館文庫、2019年)以下同】

 父親の履三郎は蜂起の後、伊勢から「仙台、江戸へと渡り、江戸で客死」した。幕府は墓所から遺骸を取り出し、大坂の地で処刑した(大塩ゆかりの地を訪ねて④「八尾に西村履三郎の故地を訪ねる」: 大塩事件研究会のブログ)。

10月例会・フィールドワーク「西村履三郎・常太郎ゆかりの地を訪ねる」: 大塩事件研究会のブログ

 御科書(ごとがしょ)には「十五歳」とある。満年齢だと十四歳か。西村家は土地を没収され、一家断絶となる。まだ幼かった常太郎と謙三郎は親戚預かりを経て、15歳で配流(流罪)の処置が下った。

 飯嶋作品は歴史的事実に基づく小説である。言わば事実と事実の間を想像力で補う作品である。それを可能にしてしまうところに作家の創造性が試されるのだろう。

 大塩平八郎の乱が鎮圧され、1か月後に潜伏先を探り当てられて大塩が養子格之助とともに自害した際、火薬を用いて燃え盛る小屋で短刀を用いて自決し、死体が焼けるようにしたために、小屋から引き出された父子の遺体は本人と識別できない状態になっていた。このため「大塩はまだ生きており、国内あるいは海外に逃亡した」という風説が天下の各地で流れた。また、大塩を騙って打毀しを予告した捨て文によって、身の危険を案じた大坂町奉行が市中巡察を中止したり、また同年にアメリカのモリソン号が日本沿岸に侵入していたことと絡めて「大塩と黒船が江戸を襲撃する」という説も流れた。これらに加え、大塩一党の遺体の磔刑をすぐに行わなかったことが噂に拍車をかけた。

Wikipedia

 幕府の恐れと影響力の大きさが窺い知れる。京の都が餓死者で溢れ、流民が大坂へ流れて治安が悪化したという。政治は無策から暴政へ様変わりしていた。大塩平八郎はもともと怒れる人物であった。激怒は憤激と焔(ほのお)を増し、自ずと立ち上がらざるを得なくなったのだろう。英雄とは民の心に火を灯す人物だ。その輝きこそが未来への希望となる。

「最後に言っておきますが、もうあなたが本土の土を踏むことはないと思います。赦免だの何だのを願えば、苦しむだけのことです。そんなことはありえないと、覚悟を決めるしかありません。もちろん全く道理に反することをわたしが申し上げていることもわかります。ただこの島へ来て苦しみ早く死ぬのは、本土へ戻ることばかりを願っている者たちです。それでは生きられない。苦しみしかないのです。本当の人生などどこかにあるものではありません。ここで生きていることが真のあなたの姿であり、あなたの本当の人生だと思ってください。まことに申しわけないことですが。
 もちろん、あなたがこれまで誰にも教えられなかったこと、大塩先生の蜂起に関して、わたしが知っている限りのことはお教えします。あなたには知る権限がある。なぜお父上が蜂起し、なぜあなた自身がここへ流されて、ここで生涯を送ることになったのかを。それを知らなくてはとても生きていけないこともわかります。わたしが知る以上のことを知りたければ、わたしの朋輩(ともがら)に託します。それは約束します」

「淡い期待は持つな」との戒めである。弥左衛門は「幼さを許さなかった」とも言える。つまり大人として遇したのだろう。現実が苦しくなると人の思考は翼を伸ばして逃避する。虐待された子供は幻覚が見える(『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳)。大人だって変わりはあるまい。苦しい現実から目を逸(そら)して都合のよい妄想に浸(ひた)る。弥左衛門は「生きよ」と伝えたのだ。「ただ、ひたすら生きよ」と。


 常太郎が流されたのは島後島(どうごじま)で、隠岐諸島(おきしょとう)の一つである。常太郎は狗賓童子(ぐひんどうじ/島の治安を守る若衆)としての訓育を受け、更に医学を学んだ。父は悪政と戦い、成長した子は感染症と闘った。

 私が全作品を読んだ作家は飯嶋和一だけである。丸山健二は途中でやめた。『神無き月十番目の夜』以降の作品を読むと、圧政-抵抗という図式が顕著で戦前暗黒史観(進歩の前段階と捉えるマルクス史観)と同じ臭いがする。「ひょっとしてキリスト教左翼なのか?」という懸念を払拭することができない。

2018-04-18

オラショ/『黄金旅風』飯嶋和一


『青い空』海老沢泰久

 ・オラショ

・『出星前夜』飯嶋和一
『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一

キリスト教を知るための書籍

「ところがそれは、般若心経(はんにゃしんぎょう)ほどのもので、ほんの一部にすぎないもののようでございます。天主教の経典は大層長い、何十巻にも及ぶもののはずでございまして、それぞれの一部ずつを大勢の者たちが、諳んじて後の世に伝えようとしたもののようでございます。私が覚えさせられましたのは、『タダの十二』と聞いております。そして、私が諳んじておりますその部の前後を覚えております者の名を教えられました」
「それが、富松なのか?」
「はい、そのとおりでございます。富松が『タダの十一』。私が『十二』。そして、その後、『タダの十三』は市助、『十四』が吉兵衛でございます。『十五』は、吉兵衛の話ですと新町に住む女だそうで、『十』も確か女だと、富松が行っておりました。もちろん、その前後の者たちとは、一切の関わりを持ってはならないと、親からもきつく言い含められておりました。が、5年ばかり前に私は、どうしてもその前後を諳んじている者に会ってみたいと思うようになりました」(中略)
 文字として書き残されたものが許されないのならば、記憶しておくしかない。経典を細かく章に分けて、それぞれを覚えの早い子どもに記憶させ語り伝えさせる。何十章にも及ぶ天主教の経典を、長崎の内町、外町を問わず何百人もの人々が、頭の中に刻み込み、それを後世に伝えようと大切にかかえている。

【『黄金旅風』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(小学館、2004年/小学館文庫、2008年)】

 本書以前の飯島作品については、『汝ふたたび故郷へ帰れず』のリンクを参照のこと。

 本当にこのようなことがあったのかと、かなり時間を掛けて調べた。どうやら「オラショ」というらしい。動画も見つけた。



 長い歳月を経て形骸(けいがい)だけが辛うじて残ったのか。意味不明な呪文にしか聞こえない。それでも尚、「伝わった」事実が重い。伝えようとした意志の痕跡であることは確かだろう。

 本書以降、飯嶋和一はキリスト教を物語の主要な要素として扱っているが、初期作品のような輝きが鈍くなったように感じる。虐げられた人々が存在するのは「悪い社会」である。つまりキリスト教を光として描けば日本社会は闇とならざるを得ない。私がすっきりしないのは東京裁判史観の臭いを嗅ぎ取ってしまうためだ。善の設定が弱者に傾きすぎていて、権力=悪という単純な左翼的構図が透けて見える。

 それでも今のところ「飯嶋和一にハズレなし」である。

2015-11-11

国産発のジェット旅客機MRJが初飛行/『始祖鳥記』飯嶋和一


『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一
『雷電本紀』飯嶋和一
『神無き月十番目の夜』飯嶋和一

 ・時代の波を飛び越え、天翔けた男の物語
 ・国産発のジェット旅客機MRJが初飛行

『黄金旅風』飯嶋和一
『出星前夜』飯嶋和一
『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一

 暮し向きが定まれば、所帯を持つことを人は考える。子をもうけ、妻子を養うために日々を送って年老いてゆく。腕のいい表具師と言われ、他国木綿の移入で財をなした商才のある者と呼ばれ、あるいは運がいいと噂される。通常人が望むものが目の前にあっても、その時に幸吉がまず感じたものは耐えがたい腐臭だった。

【『始祖鳥記』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(小学館、2000年/小学館文庫、2002年)以下同】

 日本で初めて空を飛んだとされるのは備前岡山の浮田幸吉〈うきた・こうきち〉(1757-1847年)である。7歳で父を亡くし傘屋へ奉公に出され、のち表具師となる。後年には晒(さら)し木綿商人となり、更には時計の修繕と義歯の製作も行った。

 一度目は失敗。幸吉は足を骨折した。初めて飛んだのは旭川にかかる京橋で天明5年(1785年)8月21日のこと。それ以降、「岡山の幸吉」「鳥人幸吉」と呼ばれた。折しも天明の大飢饉で各藩は世情の動向に目を光らせていた。幸吉の飛行は「天狗が出た!」と大騒ぎになり、当局はこれを見逃さなかった。世を騒がせ人々を不安に陥れたとして所払いの処分を受ける。

 人々にとって空は眺めるものであった。だが幸吉にとって空は翔(か)けるものであった。飛ぶ情熱は埋み火のように胸の底で燃え続けた。幸吉が感じた腐臭は、敗戦後の日本が国家として独立する力を奪われ、平和という名の下で高度経済成長を遂げてきた姿と重なる。平和は澱(よど)み、腐臭を放っている。

 マッカーサーは日本の再軍備を認めなかった。それだけではない。零戦(ぜろせん)の技術力を恐れたGHQは日本に飛行機をつくることも許さなかった。70年という歳月を経て、やっとジェット旅客機が日本の空を飛んだ。戦後レジームからの確かな脱却といってよい。ひょっとするとイランの核合意と同じ文脈にあるのかもしれない。


 50歳になった幸吉は再び空を目指した。

 飛ぶことは、すべてを支配している永遠の沈黙に抗(あらが)う、唯一の形にほかならなかった。

「飛ぶことは、すべてを支配しているアメリカに抗う、一つの形にほかならなかった」と思いたいところだが現実はそれほど甘いものではない。アメリカの国防戦略は日本を軍事化し、南沙諸島で中国軍にぶつける方針なのだろう。核保有国同士が戦争をすることは考えにくい。日本の世論はぬるま湯に浸かった状態から抜け切れないので、米軍はゆくゆく沖縄から撤収するに違いない。

 アメリカのジャパン・ハンドラーズに操られているだけなのか、それともアメリカの手のひらに乗ったと見せかけておいて実は別の戦略があるのかは、5年以内に判明することだろう。

 尚、幸吉初飛行の2年後の1787年には琉球国で飛び安里(あさと)が断崖から飛んだとされている。二宮忠八がゴム動力による模型飛行器を製作したのが100年後の1890年(明治23年)で、ライト兄弟の初飛行は1903年である。

2015-03-26

「何が戦だ」/『神無き月十番目の夜』飯嶋和一


『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一
『雷電本紀』飯嶋和一

 ・「サンリン」という聖なる場所
 ・「何が戦だ」

『始祖鳥記』飯嶋和一
『黄金旅風』飯嶋和一
『出星前夜』飯嶋和一
『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一

 そのコウが、立ちすくんだまま藤九郎を見ていた。表情を強張らせてはいたが、コウもまたそんな場所で藤九郎に会おうとは思ってもみなかったらしく、ただ戸惑っているのがわかった。
「おれがお前の犬を何匹殺(あや)めたか知っているか」
 藤九郎がいきなりそんなことを言った。
「……いいえ」
 常日頃から心の内で思い続けていたことを、当の藤九郎の口からいきなり聞かされ、思わずそう答えた。
「十と四匹だ。お前が子犬の時から育てた犬を、十四匹もこの手で殺(あや)めた……。
 彦七覚えてるか、宿(やど)の」
「この間の戦で亡くなられたとか……」
「矢を二本、鉄砲弾(だま)を二発もくらわされて……。六さんも喜八っつあんも、亡骸(なきがら)どころか、形見の品さえ何一つ持ち帰れなんだ。
 それに、お前の犬たち……。ここに葬られている犬たちは、何のために死んだんだ? 馬射(うまゆみ)の犬追い物など、単なる遊戯。無益な殺生以外の何でもない。
 何が戦だ。佐竹の御大将も、月居の騎馬頭(がしら)も、誰も信じられん。そもそも城にこもって戦うのは、敵を引きつけておいて、後詰(ごづめ)の援軍がその背後から襲うのを待つためだ。ところが後詰など初めから来やしなかった。彦七や六郎太や喜八は、何のために死んだんだ。あんな須賀川くんだりまで出かけて……。騎馬頭も須賀川城があんな内情だと知っていてもよさそうなものだ。いや、知っていたのかもしれん。城を守らねばならないはずの、二階堂の重臣たちが伊達と内通していた。難儀したのは須賀川城下の民ばかりだ。しまいには、城にたてこもっていた守谷何とかという二階堂の老臣が須賀川の町家に火を放った。
 あんな城など守るに値しなかった。初めから落とされるに決まっていたようなものだ。それを何も知らず、百八十もの月居軍騎馬、足軽が、須賀川までわざわざ出向き、むざむざ討(う)たれた。……何が戦だ。あんなことは畜生もやらん」
 家の中でさえ、とても口にできないことを、なぜかコウには平気で話すことができた。

【『神無き月十番目の夜』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1997年/小学館文庫、2005年)】

 文章の香りが失われるため数字を漢字表記にした。無為な戦がやがて小生瀬(こなませ)の農民一揆につながる。経済の本質はいつの時代も変わらない。戦争をするためには、まず戦費が必要となる。そのために増税が行われ、民の利益が収奪される。

 藤九郎とコウは幼馴染みであった。身分の違いから10歳を越えたあたりから疎遠になっていた。コウは自分が育てた犬を殺す武士に憎悪を抱いていた。だが藤九郎の話に耳を傾け、武士もまた不憫(ふびん)な存在であることを初めて知った。

 実は先日再読した『ランボー/怒りの脱出』に登場するベトナム人ヒロインの名前も「コー」であった。不思議な感慨がひたひたと押し寄せる。

 私はかつて平和主義者であったが、プーラン・デヴィの『女盗賊プーラン』を読んで自分の甘さを思い知らされた。暴力が避けられない時代にあっては自己防衛が必要となる。それ以降、私は武力を部分的に容認したスーザン・ソンタグよりも右側に足位置を定めた。

 環境文明史的に捉えると寒冷期に人類は戦争を行う。作物が取れやすい温暖な地へと人々が移動するためだろう。いずれにせよ自然環境であれ国際環境であれ一定のプレッシャーがのしかかった時に人類の暴力衝動は現実化する。政治家が賢明であれば勝てる戦争しかしないはずだ。現代社会においては経済もまた戦争の様相を帯びている。

 クリントン大統領が「冷戦は終わった。真の勝者はドイツと日本だ」と語った。そして存在価値が低下したCIAは日本をターゲットに経済戦争を仕掛けた。これがバブル崩壊のシナリオだった。自公政権は国富をアメリカに奪われ続けた。その期間は20年以上にも及んだ。民主党政権もこの状況をひっくり返すことができなかった。

 愚かな指導者は国民から財はおろか命まで奪う。消費税増税もその一環である。奪われることに鈍感な国民は必ず政治家の選択を誤る。藤九郎が吐き捨てるように語った「何が戦だ」の言葉の重みを思う。

 

「サンリン」という聖なる場所/『神無き月十番目の夜』飯嶋和一


『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一
『雷電本紀』飯嶋和一

 ・「サンリン」という聖なる場所
 ・「何が戦だ」

『始祖鳥記』飯嶋和一
『黄金旅風』飯嶋和一
『出星前夜』飯嶋和一
『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一

 それにしても一村亡所とはいったい何事がこの小生瀬で起こったものか。地方役人を殺生したとか竹右衛門が言っていたが、そんなことは想像もつかないことだった。
 嘉衛門は岡田竹右衛門から依頼をうけた、小生瀬の人々が隠れ潜んだはずの場所に心当たりがないわけではなかった。嘉衛門の住む比藤村がそうであるように、地侍を中心とした一揆衆の自治の名残りをとどめている地には、「サンリン」あるいは「カノハタ」などと呼ぶ奇妙な空間がある。「サンリン」は文字どおり山林であったり、池や淵を含む周辺の一帯だったりするのだが、そこは古来から聖なる場所とされ、そこで不浄をはたらくことは何人にも許されない。反面、たとえ罪を犯した者がその「サンリン」に逃げ込んだ場合でも、その地に捕り方が踏み込んでその者をひっ捕らえたり、成敗したりは一切許されない。領主であってもその地には簡単には手出しできない。そういう奇妙な不文律に支配された場所がある。嘉衛門の心当たりは、このすぐ近くに、「サンリン」があるはずだというところからきていた。一日探索してみても、あるはずの残り300を超える屍が見当たらないということは、それらの者たちが隠れ潜んで討たれた場所があるはずだった。

【『神無き月十番目の夜』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1997年/小学館文庫、2005年)】

 刊行直後に買ったのだが「読むのは後回し」と決めていた。もちろん怖かったからだ。江戸初頭に記された古文書の記録から飯嶋和一は真実を炙(あぶ)り出す。300人にも及ぶ老若男女が殺戮された事件である。

「好きな小説家は?」と訊かれれば、私は迷うことなく宮城谷昌光と飯嶋和一の名を挙げる。続いて福永武彦。

 私は歴史が浅い北海道で育ったこともあり、「サンリン」(山林)や「カノハタ」(火の畑)なる言葉は初耳であった。「聖なる場所」といえばスピリチュアルだが、一種の緩衝地帯であったのだろう。法律が100%完璧ということはあり得ない。とすれば、こうした場所は人々の智慧から生まれたものと考えられる。

 現代社会におけるいじめ、パワハラ、ストーカー行為には逃げ場がない。だからあっさりと殺したり殺されたりするのだろう。そして移動のスピードがコミュニティを崩壊させた。死んだコミュニティでは衆人環視が機能しない。「人の目」こそが最初の犯罪抑止となる。人の目を恐れなければ欲望は自律的に走り出す。

 やはり「うるさい近所のおじさん、おばさん」が必要なのだ。コミュニティの崩壊は、子供たちを見つめ、そして見守る眼差しが社会から失われたことを意味する。

 民俗学的価値があると思い、この箇所を書き出しておく。

 尚、「世界大百科事典 第2版」にはこうある。

 山と林,樹木の多く生えている山。山林に入り,不自由を耐えて仏道の修行に励むことを〈山林斗藪(とそう)〉といったが,山林は聖地であり,アジールとしての性格を持っていた。平安末期から中世を通じて,領主の非法,横暴に抵抗して逃散(ちようさん)する百姓たちは,〈山林に交わる〉〈山野に交わる〉といって実際に山林にこもっており,山林は逃亡する下人・所従の駆け入る場でもあった。戦国時代になると〈延命寺へ山林申候〉〈悪党以下,山林と号して走り入る〉〈女山林〉などのように,〈山林〉という語それ自体が,アジール的な寺院へ駆けこむ行為を意味するようになるとともに,百姓たちが家や田畠に篠(ささ)を懸け,そこを〈山林不入の地と号し〉,領主が立ち入れないようにしたことから見て,アジールとしての性格を持つ寺院や聖域そのものも〈山林〉といわれたのである。

2012-08-26

飯嶋和一


 1冊読了。

 42冊目『黄金旅風』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(小学館、2004年/小学館文庫、2008年)/史実に基づいたのであろうか。今まで読んだ中では最もドラマ性に欠ける。が、それゆえに放つ光彩がある。長崎のカピタン平蔵こと末次平蔵の跡継ぎ・平左衛門(平蔵茂貞)の物語である。政治・経済から軍事・貿易・司法に至るまでを網羅した政治小説だ。徳川家光の時代にあって長崎の民の生活を守るために幕府を動かした地方行政官がいた。その事実に驚愕する。キリシタン迫害の記述も多く、海老沢泰久著『青い空』を読んだ人は必読のこと。それにしても続篇と思われる『出星前夜』が品切れなのはどうしたことか?

2012-04-25

飯嶋和一


 1冊読了。

 23冊目『神無き月十番目の夜』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1997年/河出文庫、1999年/小学館文庫、2005年)/昨夜読み終えた。今朝、吐き気を催しながら目が覚めた。アルコール以外の二日酔いは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』以来のことだ。15年前に新刊を購入。本はきれいなままだった。飯嶋和一は寡作なので、アスリートがオリンピックに照準を合わせるように読むタイミングを測る必要がある。常陸国(現在の茨城県)小生瀬(こなませ)村で三百数十人の村民全員が虐殺された。徳川家康の時代のこと。物語は死屍が累々と連なる場面から始まる。果たしてこの村で何が起こったのか? 小生瀬(こなませ)を含む保内(ほだい)は特殊な地域であった。伊達政宗の脅威にさらされる要衝の地ゆえに、半農半士の土豪による自治が長らく認められていた。彼らは月居騎馬衆(つきおれきばしゅ)と呼ばれた。そこは「日本のアフガニスタン」であった。年貢を納めるために打ちひしがれた人生を選んだ百姓とは趣を異にしていた。水戸藩の正史には一行も記されていないという。飯嶋は聖地「火(か)の畑(はた)」に横たわる遺体を指さし、人々の人生に光を当てた。ルビが少なくて読むのが難儀であるが得るものは大きい。

2011-10-02

故郷とは


 人は幼い頃、世界を完全なものとして見ている。大きくなるにつれ、次第にそれらの一切が力を失い、歪(ゆが)んで色あせたものにしか感じられなくなってしまう。“故郷”とは、地理上に位置づけられた地点をさすのではなく、心の中にあって、焼きつけられた様々な時間の集合のことである。どこに行ったとしても再び回復されることはないし、探せば探すほど感光したフィルムのように像は消え失せてしまうはずのものだ。

【『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1989年/リバイバル版 小学館、2000年/小学館文庫、2003年)】

汝ふたたび故郷へ帰れず (小学館文庫)