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2011-12-25

他者の苦痛に対するラットの情動的反応/『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール


『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス
『なぜ美人ばかりが得をするのか』ナンシー・エトコフ
『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー

 ・“思いやり”も本能である
 ・他者の苦痛に対するラットの情動的反応
 ・「出る杭は打たれる」日本文化

『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
フランス・ドゥ・ヴァール「良識ある行動をとる動物たち」
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール
『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博

「他者の苦痛に対するラットの情動的反応」という興味ぶかい標題の論文が発表されていた。バーを押すと食べ物が出てくるが、同時に隣のラットに電気ショックを与える給餌器で実験すると、ラットはバーを押すのをやめるというのである。なぜラットは、電気ショックの苦痛に飛びあがる仲間を尻目に、食べ物を出しつづけなかったのか? サルを対象に同様の実験が行なわれたが(いま再現する気にはとてもなれない)、サルにはラット以上に強い抑制が働いた。自分の食べ物を得るためにハンドルを引いたら、ほかのサルが電気ショックを受けてしまった。その様子を目の当たりにして、ある者は5日間、別のサルは12日間食べ物を受けつけなかった。彼らは他者に苦しみを負わせるよりも、飢えることを選んだのである。

【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール:藤井留美訳(早川書房、2005年)】

 既に二度紹介しているのだが、三度目の正直だ。

ネアンデルタール人も介護をしていた/『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠

 カラパイアで米シカゴ大学チームの実験動画が紹介されていた。

ネズミは仲間を見捨てない(米研究)

 興味深い映像ではあるが、実験手法の有効性には少々疑問が残る。っていうか、わかりにくい。

 動画より下に書かれているカラパイアの記事は完全な誤読である。フランス・ドゥ・ヴァールが明らかにしたのは、共感や利他的行為も本能に基づいている事実である。つまり、群れ――あるいは同じ種――の内部で助け合った方が進化的に有利なのだ。

 もちろん、これを美しい物語に仕立てて本能を強化することも考えられるが、実験結果を読み誤ってはなるまい。

チンパンジーの利益分配/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール

 強欲は子孫を破滅させる。世紀末から現在に至る世界の混乱は、白人文化の終焉を告げるものだと思う。



英雄的人物の共通点/『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
ラットにもメタ認知能力が/『人間らしさとはなにか? 人間のユニークさを明かす科学の最前線』マイケル・S・ガザニガ
マネーと言葉に限られたコミュニケーション/『お金の流れでわかる世界の歴史 富、経済、権力……はこう「動いた」』大村大次郎
大塩平八郎の檄文/『日本の名著27 大塩中斎』責任編集宮城公子

2020-02-12

「出る杭は打たれる」日本文化/『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール


『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠
『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー

 ・“思いやり”も本能である
 ・他者の苦痛に対するラットの情動的反応
 ・「出る杭は打たれる」日本文化

『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
フランス・ドゥ・ヴァール「良識ある行動をとる動物たち」
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール
『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博

必読書リスト その三

 アメリカでは「きしむ車輪ほど油を差してもらえる(声が大きいほど得をする)」のに対し、日本では「出る杭は打たれる」のだ。

【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール:藤井留美〈ふじい・るみ〉訳(早川書房、2005年)】

 出る杭は打たれ、打たれなければ出る悔い。12年前に読んだのだが当時とは受け止め方が違う。他民族の距離が近く、戦争に明け暮れてきたヨーロッパの歴史を踏まえれば自己主張するのが自然である。一方、日本のような同質社会では言葉を介さぬ阿吽(あうん)の呼吸が空気を支配する。日本男児には長らく多弁を嫌う伝統があった。「男は黙ってサッポロビール」(1970年)というわけだ。

 日本人は感性を解き放つ道具としては言葉を大切にしてきたが、他人を説得するための理窟を忌避してきたように見える。「理窟じゃない」「口先だけなら何とでも言える」「生意気を言うな」などといった表現には言葉を低い価値と捉える日本的な感覚が表出している。言葉とは「言(こと)の端(は)」で言(こと)は事(こと)に通じる。言葉が「事の端」を示し幹や根ではないことに留意すれば日本人の達観が理解できよう。

 村八分(火事と葬式で二分)は稲作の水利権を巡って始まったとする説がある。水の管理は村(集落)全体で行う必要がある。そこで勝手な真似をする輩が出てくれば皆が迷惑を被る。出る杭が打たれるのは当然で、むしろ積極的に打つ必要さえあったのだろう。ところがコミュニティが町や都市、はたまた国家へと拡大する中で同様のメンタリティが働けば新しい産業の創出が阻まれる。天才も登場しにくい。イノベーションを成し遂げるのはいつの時代も型破りな人間なのだ。ここに大東亜戦争以降、変わらることのない日本の行き詰まりがあるのだろう。

2011-06-21

チンパンジーの利益分配/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール


『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー
『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール

 ・チンパンジーの利益分配

フランス・ドゥ・ヴァール「良識ある行動をとる動物たち」
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール

 霊長類研究の世界的権威によるエッセイ。形式は軽いが内容は重量級だ。読者層を拡大する意図があったのか、あるいはただ単にまとめる時間がなかったのかは不明。ファンの一人としてはもっと体系的・専門的な構成を望んでしまう。勝手なものだ。

 霊長類といっても様々で、チンパンジーは暴力的な政治家で、ボノボは平和を好む助平(すけべい→スケベ)だ。ヒトは多分、チンパンジーとボノボの間で進化を迷っているのだろう。ドゥ・ヴァールの著作を読むとそう思えてならない。

 今時、強欲は流行らない。世は共感の時代を迎えたのだ。
 2008年に世界的な金融危機が起き、アメリカでは新しい大統領が選ばれたこともあって、社会に劇的な変化が見られた。多くの人が悪夢からさめたような思いをした――庶民のお金をギャンブルに注ぎ込み、ひと握りの幸運な人を富ませ、その他の人は一顧だにしない巨大なカジノの悪夢から。この悪夢を招いたのは、四半世紀前にアメリカのレーガン大統領とイギリスのサッチャー首相が導入した、いわゆる「トリクルダウン」(訳注 大企業や富裕層が潤うと経済が刺激され、その恩恵がやがて中小企業や庶民にまで及ぶという理論に基づく経済政策)で、市場は見事に自己統制するという心強い言葉が当時まことしやかにささやかれた。もうそんな甘言を信じる者などいない。
 どうやらアメリカの政治は、協力等社会的責任を重んじる時代を迎える態勢に入ったようだ。

【『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール:柴田裕之訳、西田利貞解説(紀伊國屋書店、2010年)以下同】

トリクルダウン理論

「おこぼれ経済」だと。ところがどっこい全然こぼれてこない。私のところまでは。経常利益は内部留保となって経営効率を悪化させている。だぶついた資金が経済全体の至るところで血まめのようになっている。血腫といった方が正確か。その結果がこれだ。

利子、配当は富裕層に集中する/『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』河邑厚徳、グループ現代

 私たちはみな、同胞の面倒を見るのが当たり前なのだろうか? そうする義務を負わされているのだろうか? それとも、その役割は、私たちがこの世に存在する目的の妨げとなるだけなのだろうか? その目的とは、経済学者に言わせれば生産と消費であり、生物学者に言わせれば生存と生殖となる。この二つの見方が似ているように思えるのは当然だろう。なにしろ両者は同じころ、同じ場所、すなわち産業革命期にイングランドで生まれたのであり、ともに、「競争は善なり」という論理に従っているのだから。
 それよりわずかに前、わずかにきたのスコットランドでは、見方が違った。経済学の父アダム・スミスは、自己利益の追求は「仲間意識」に世で加減されなくてはならいことを誰よりもよく理解していた。『道徳感情論』(世評では、のちに著した『国富論』にやや見劣りするが)を読むとわかる。

 これは古典派経済学進化論を指しているのだろう。

 人間と動物の利他的行為と公平さの起源については新たな研究がなされており、興味をそそられる。たとえば、2匹のサルに同じ課題をやらせる研究で、報酬に大きな差をつけると、待遇の悪い方のサルは課題をすることをきっぱりと拒む。人間の場合も同じで、配分が不公平だと感じると、報酬をはねつけることがわかっている。どんなに少ない報酬でも利潤原理に厳密に従うわけではないことがわかる。不公平な待遇に異議を唱えるのだから、こうした行動は、報酬が重要であるという主張と、生まれつき不公平を嫌う性質があるという主張の両方を裏付けている。
 それなのに私たちは、利他主義や高齢者に満ちた連帯意識のかけらもないような社会にますます近づいているように見える。

 ということは予(あらかじ)め「受け取るべき報酬」という概念をサルが持っていることになる。しかも異議申し立てをするのだから、明らかに自我の存在が認められる。「不公平を嫌う性質」は「群れの健全性」として働くことだろう。

 では霊長類の経済システム(交換モデル)はどうなっているのだろう。

 アトランタ北東にある私たちのフィールド・ステーションでは、屋外に設置した複数の囲いの中でチンパンジーを飼っていて、ときどきスイカのような、みんなで分けられる食べ物を与える。ほとんどのチンパンジーは、真っ先に手に入れようとする。いったん自分のものにしてしまえば、他のチンパンジーに奪われることはめったにないからだ。所有権がきちんと尊重されるようで、最下位のメスでさえ、最上位のオスにその権利を認めてもらえる。食べ物の所有者のもとには、他のチンパンジーが手を差し出してよってくることが多い(チンパンジーの物乞いの仕草は、人間が施しを乞う万国共通の仕草と同じだ)。彼らは施しを求め、哀れっぽい声を出し、相手の面前でぐずるように訴える。もし聞き入れてもらえないと、癇癪(かんしゃく)を起こし、この世の終わりがきたかのように、金切り声を上げ、転げ回る。
 つまり、所有と分配の両方が行なわれているということだ。けっきょく、たいていは20分もすれば、その群れのチンパンジー全員に食べ物が行き渡る。所有者は身内と仲良しに分け与え、分け与えられたものがさらに自分の身内と仲良しに分け与える。なるべく大きな分け前にありつこうと、かなりの競争が起きるものの、なんとも平和な情景だ。今でも覚えているが、撮影班が食べ物の分配の模様をフィルムに収めていたとき、カメラマンがこちらを振りむいて言った。「うちの子たちに見せてやりたいですよ。いいお手本だ」
 と言うわけで、自然は生存のための闘争に基づいているから私たちも闘争に基づいて生きる必要があるなどと言う人は、誰であろうと信じてはいけない。多くの動物は、相手を譲渡したり何でも独り占めしたりするのではなく、協力したり分け合ったりすることで生き延びる。

 まず「早い者勝ち」。所有権が尊重されるというのだから凄い。どこぞの大国の強奪主義とは大違いだ。結局、コミュニティ(群れ)はルールによって形成されていることがわかる。これはまずコミュニティがあって、それからルールを決めるというものではなくして、コミュニティ即ルールなのだろう。分業と分配に群れの優位性がある。

 幼児社会はチンパンジー・ルールに則っている。ところが義務教育でヒト・ルールが叩き込まれる。こうやって我々は進化的優位性をも失ってきたのだろう。

 したがって、私たちは人間の本性に関する前提を全面的に見直す必要がある。自然界では絶え間ない闘争が繰り広げられていると思い込み、それに基づいて人間社会を設定しようとする経済学者や政治家があまりに多すぎる。だが、そんな闘争はたんなる投影にすぎない。彼らは奇術師さながら、まず自らのイデオロギー上の偏見というウサギを自然という防止に放り込んでおいて、それからそのウサギの耳をわしづかみにして取り出し、自然が彼らの主張とどれほど一致しているかを示す。私たちはもういい加減、そんなトリックは見破るべきだ。自然界に競争がつきものなのは明らかだが、競争だけでは人間は生きていけない。

 ドゥ・ヴァールが説く共感はわかりやす過ぎて胡散臭い。実際はそんな簡単なものではあるまい。ただ、動物を人間よりも下等と決めつけるのではなくして、生存を可能にしている事実から学ぶべきだという指摘は説得力がある。

 共感能力を失ってしまえば、人類は鬼畜にも劣る存在となる。そのレベルは経済において最もわかりやすい構図を描く。格差拡大が引き起こす二極化構造をチンパンジーたちは嘲笑ってはいないだろうか。



コミュニケーションの可能性/『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子
英雄的人物の共通点/『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
集合知は沈黙の中から生まれる
「法人税の引き下げによる経済効果はゼロないしマイナス」/『消費税は0%にできる 負担を減らして社会保障を充実させる経済学』菊池英博
進化宗教学の地平を拓いた一書/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
比類なき言葉のセンス/『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー:黒原敏行訳
愛着障害と愛情への反発/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
強欲な人間が差別を助長する/『マネーロンダリング入門 国際金融詐欺からテロ資金まで』橘玲
ものごとが見えれば信仰はなくなる/『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
アンシャン・レジームの免税特権/『タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!』ニコラス・シャクソン
マネーと言葉に限られたコミュニケーション/『お金の流れでわかる世界の歴史 富、経済、権力……はこう「動いた」』大村大次郎
金融工学という偽り/『新しい資本主義 希望の大国・日本の可能性』原丈人
大塩平八郎の檄文/『日本の名著27 大塩中斎』責任編集宮城公子

2019-08-25

囚人のジレンマと利他性/『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー


『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
『理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性』高橋昌一郎

 ・利己的であることは道理にかなっている
 ・囚人のジレンマと利他性

『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール
『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール
『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
・『ゲノムが語る23の物語』マット・リドレー

必読書リスト その五

 ところが、ある一つの実験によってこの結論は覆されたのである。30年ものあいだ、囚人のジレンマからまったく誤った教訓がひきだされていたことがこの実験で示されたのである。結局のところ、利己的な行為は合理的ではないことがわかった。ゲームを2回以上プレイする場合には。

【『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー:岸由二〈きし・ゆうじ〉監修:古川奈々子〈ふるかわ・ななこ〉訳(翔泳社、2000年)】

「設定」を変えれば全く異なった結果が出る。設定に縛られてきた30年間は脳の癖を示してあまりあり、人間の思い込みや先入観の強さに驚く。現実をゲームに当てはめてしまえば単純な図式しか見えてこない。むしろゲームの方を現実に近づけるべきだ。

 メイナード・スミスのゲーム(※タカとハトの戦い)は生物学の世界の話だったため、経済学者には無視された。しかし、1970年代後半、人々を当惑させるような事態が起こった。コンピュータがその冷静で厳格かつ理性的な頭脳を使って囚人のジレンマゲームをプレイし始めたのである。そして、コンピュータもまた、あの愚かで無知な人間とまったく同じ振る舞いをしたのである。なんとも不合理なことに、協力しあったのだ。数学の世界に警報が鳴り響いた。1979年、若い政治学者、ロバート・アクセルロッドは、協力の理論を探求するためにトーナメントをおこなった。彼は人々にコンピュータ・プログラムを提出してもらい、プログラムどうしを200回対戦させた。同じプログラムどうし、そして他のプログラムともランダムに対戦させたのである。この巨大なコンテストの最後には、各プログラムは何点か得点しているはずである。
 14人の学者が単純なものから複雑なものまでさまざまなプログラムを提出した。そしてみんなを驚かせたことは、「いい子」のプログラムが高得点を獲得したのである。上位8個のプログラムは、自分から相手を裏切るプログラムではなかった。さらに、優勝者は一番いい子で一番単純なプログラムだったのだ。核の対立に興味を持ち、おそらく誰よりも囚人のジレンマについては詳しいはずのカナダの政治学者アナトール・ラパポート(彼はコンサート・ピアニストだったこともある)は、「お返し(Tit-for-tat:しっぺ返し戦略とも言う)」というプログラムを提出した。これは最初は相手に協力し、そのあとは相手が最後にしたのとまったく同じことをお返しする戦略である。「お返し戦略」は、現実にはメイナード・スミスの「報復者戦略」が名前を変えたものである。
 アクセルロッドは再度トーナメントを開催した。今度はこの「お返し戦略」をやっつけるプログラムを募集したのである。62個のプログラムが試された。そして、まんまと「お返し戦略」を倒すことができたのは…「お返し戦略」自身だったのである。またしても、1位は「お返し戦略」であった。

 貰い物があればお返しをする。痛い目に遭わされれば仕返しをする。これは我々が日常生活で実践している営みだ。つまり既に形骸化したと思われている冠婚葬祭や、失われてしまった仇討ち・果たし合い(西洋であれば決闘)といった歴史文化にはゲーム理論的な根拠が十分にあるのだ。すなわち、いじめやハラスメントを受けて泣き寝入りすることは自らの生存率を低くし、社会全体のモラルをも低下させてしまうことにつながる。

 そう考えると「目には目を、歯には歯を」(より正確な訳は「目には目で、歯には歯で」)というハムラビ法典の報復律も社会を維持するための重要な価値観であったことが見えてくる。

 社会を社会たらしめているのは相互扶助の精神であろう。「持ちつ持たれつ」が社会の本質であり、互いに支え合う心掛けを失えばそこに社会性はない。

2019-08-23

利己的であることは道理にかなっている/『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー


『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
『理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性』高橋昌一郎

 ・利己的であることは道理にかなっている
 ・囚人のジレンマと利他性

『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール
『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール
『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
・『ゲノムが語る23の物語』マット・リドレー

必読書リスト その五

 この囚人のジレンマは、どうやったらエゴイストたちがタブーや道徳的束縛や倫理的規範に依存せず、協力しあえるようになるのかをはっきりとわれわれに示してくれる。どうしたら自己利益追求を動機とする故人が公共の利益のために行動できるようになるのだろうか。このゲームを囚人のジレンマと呼ぶのは、自分の刑を軽くするために相手に不利な証言をするかどうかの選択を迫られた二人の囚人の寓話がゲームの意味をよく物語っているからである。もしどちらも相手を裏切らなければ、警察は二人を軽い罪で起訴することしかできない。だから、両者が黙っていればどちらも得をするわけである。しかし、もし片方が裏切れば、裏切ったほうはもっと得をするのである。
 なぜか。囚人の話はおいておいて、二人のプレーヤーが特典を争う単純な数学的ゲームをしていると考えてみよう。もし二人が協力しあえば(つまり「沈黙を守れば」)、両者は3点もらえる(これを「報酬」という)。もし二人とも裏切れば1点しかもらえない(「罰則」)。だが、一人が裏切り、一人が協力したなら、協力したほうは得点をもらえず(「お人好しすぎたツケ」)、裏切り者は5点もらえる(「誘惑」)。だから、パートナーが裏切るなら、自分も裏切ったほうが得なのである。そうすれば少なくとも1点はもらえるのだから。しかし、もしパートナーが協力したとすれば、やはり裏切ったほうが得をするのである。3点ではなく、5点も入るのだから。つまり【相手がどういう行動にでようと、裏切るほうが得なのである】。ところが、相手も同じことを考えるはずである。だから当然の結果として、両者ともが相手を裏切る。それで3点とれるところを1点で我慢するはめになるのである。
 道理に迷わされてはならない。二人ともが高潔な人柄で実際には協力しあうとしても、それはこの問題とはまったく関係がない。われわれが追求しているのは、道徳がまったく関与しない場所で理論的に「最良」な行動であり、その行動が「正しい」かどうかはこの際関係ないのである。そして出た結論が裏切ることだったのだ。利己的であることは道理にかなっているのである。

【『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー:岸由二〈きし・ゆうじ〉監修:古川奈々子〈ふるかわ・ななこ〉訳(翔泳社、2000年)】

 原書は1996年刊行。上記リンクの順番で読めば理解が深まる。っていうか天才的なラインナップであると自画自賛しておこう。本は読めば読むほどつながる。シナプスもまた。

遺伝子 親密なる人類史』シッダールタ・ムカジーと本書、そして『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイドの3冊は同率1位である。文章ではシッダールタ・ムカジー、難解さではマット・リドレー、好みではマシュー・サイド。

 確かに「利己的であることは道理にかなっている」。騙(だま)す行為を見れば明らかだ。人を騙せば自分が得をする。騙すためには高度な知能が必要だ。なぜなら相手に「誤った信念を持たせる」必要があるためだ。つまり相手の気持ちを想像できなければ騙すことは不可能なのだ。詐欺師、宗教家、政治家、タレントを見よ。彼らは多くの人々を騙すことで懐(ふところ)を膨らませている。否、懐に入りきれないほどの資産を形成し、巧みな綺麗事を並べ立て、欲望を無限に肥大させる。

 ではなぜ我々のように平均的で善良な国民は詐欺を働かないのか? それは詐欺行為が横行すれば社会の存立が危うくなることを自覚しているからだ。大体普通の神経の持ち主であれば知人や友人を騙すことなど到底できない。ところがどっこいビジネスとなると話は別だ。腕のいい営業マンは値段を吹っ掛けた上で契約にまで持ち込むし、高額商品ほど粗利(あらり)も大きい。値引きをしたフリをするのも巧みだ。

 もっと凄いのは税金だ。ガソリンや酒類は二重課税(違法)になったままだし、いつの間にか国民健康保険料は国民健康保険税となり、自治体によっては有料のゴミ袋が指定されており、これまた税に等しい。しかも多くの国民は国民負担率を知らない。日本の租税負担率(所得税+国税+地方税+消費税+社会保障費)は42.5%(平成30年/2018年)である(国民に納税しろと命じるずうずうしい日本国憲法/『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノ)。

 実際は国民全員が所得税10%を収めれば国家予算は回るという。つまり、あの手この手を使って金持ちが税金を払っていないのだ。これまた「利己的であることは道理にかなっている」。

 ただし、この話はこれで終わらない(続く)。

2008-05-07

“思いやり”も本能である/『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール


『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス
『なぜ美人ばかりが得をするのか』ナンシー・エトコフ
『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー

 ・“思いやり”も本能である
 ・他者の苦痛に対するラットの情動的反応
 ・「出る杭は打たれる」日本文化

『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
フランス・ドゥ・ヴァール「良識ある行動をとる動物たち」
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール
『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博

必読書リスト その三

「本能」の定義が変わるかも知れない、と思わせる内容。取り上げられているのはチンパンジーとボノボ。同じ類人猿でも全く性格が異なっている。わかりやすく言えば、チンパンジーは暴力的な策略家で、ボノボはスケベな平和主義者。社会構造も違っていて、ボノボはメスが牛耳っている。

・動物の世界は力の強い者が君臨している。
・食べる目的以外で殺すのは人間だけ。
・動物は同種同士で殺すことはない。
・動物には時間の概念がない。
・動物は「会話する言葉」を持たない。
・快楽目的の性行為をするのは人間だけ。

 これらは全て誤りだった。丸々一章を割いてボノボの大らかな性の営みについて書かれているが、まるでエロ本のようだ(笑)。ビックリしたのはディープキスもさることながら、オス同士でもメス同士でも日常的に性的な触れ合いがあるとのこと。

 あまりの衝撃に翌日まで脳味噌が昂奮しっ放し(笑)。知的ショックは脳を活性化させる。読めば読むほど、「ヒト」はチンパンジーからさほど進化してないことを思い知らされる。ボノボはエッチだが、穏和なコミュニティを形成していて人間よりも上等だ。

 メガトン級の衝撃は、「“思いやり”も本能である」という考察だ。我々が通常考えている「人間性=非動物的、あるいは非本能的」という図式がもろくも崩れる。全てはコミュニティを存続させるため=種の保存のための営みであることが明らかになる。

 今世界は、米国というボスチンパンジーに支配されている。日本は自民党チンパンジーが支配し、大企業チンパンジーが後に続いている。ヒトがボノボに進化しない限り、滅亡は避けられない。そんな気にさせられる。

 野生チンパンジーに対する先入観は、さらにくつがえされる(1970年代、日本人研究者によって)。それまでチンパンジーは、平和的な生きものだと思われており、一部の人類学者はそれを引きあいに出して、人間の攻撃性は後天的なものだと主張していた。だが、現実を無視できなくなるときがやってくる。まず、チンパンジーが小さいサルを捕まえて頭をかち割り、生きたまま食べる例が報告された。チンパンジーは肉食動物だったのだ。

【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール:藤井留美訳(早川書房、2005年)以下同】

「ベートーヴェンエラー」とは、過程と結果はたがいに似ていなければならないという思い込みである。
 完璧に構成されたベートーヴェンの音楽を聴いて、この作曲家がどんな部屋に住んでいたか当てられる人はいないだろう。暖房もろくにない彼のアパートメントは、よくぞここまで臭くて汚い部屋があると訪問者が驚くほどで、残飯や中身の入ったままの尿瓶、汚れた服が散乱し、2台のピアノもほこりと紙切れに埋まっていた。ベートーヴェン本人も身なりにまったくかまわず、浮浪者とまちがわれて逮捕されたこともある。そんなブタ小屋みたいな部屋で、精緻なソナタや壮大なピアノ協奏曲など書けるはずがない? いや、そんなことは誰も言わない。なぜなら、ぞっとするような状況から、真にすばらしいものが生まれうることを私たちは知っているからだ。つまり過程と結果は、まったくの別物なのである。

 2対1という構図は、チンパンジーの権力闘争を多彩なものにすると同時に、危険なものにもしている。ここで鍵を握るのは同盟だ。チンパンジー社会では、一頭のオスが単独支配することはまずない。あったとしても、すぐに集団ぐるみで引きずりおろされるから、長続きはしない。チンパンジーは同盟関係をつくるのがとても巧みなので、自分の地位を強化するだけでなく、集団に受けいれてもらうためにも、リーダーは同盟者を必要とする。トップに立つ者は、支配者としての力を誇示しつつも、支援者を満足させ、大がかりな反抗を未然に防がなくてはならない。どこかで聞いたような話だが、それもそのはず人間の政治もまったく同じである。

 ふだん動物と接している人は、彼らがボディランゲージに驚くほど敏感なことを知っている。チンパンジーは、ときに私自身より私の気分を見抜く。チンパンジーをあざむくのは至難のわざだ。それは、言葉に気をとられなくてすむということもあるのだろう。私たちは言語によるコミュニケーションを重視するあまり、身体から発信されるシグナルを見落としてしまうのだ。
 神経学者オリヴァー・サックスは、失語症患者たちが、テレビでロナルド・レーガン大統領の演説を聴きながら大笑いしている様子を報告している。言語を理解できない失語症患者は、顔の表情や身体の動きで、話の内容を追いかける。ボディランゲージにとても敏感な彼らをだますことは不可能だ。レーガンの演説には、失語症でない者が聞いても変なところはひとつもない。だが、いくら耳ざわりの良い言葉と声色を巧みに組みあわせても、脳に損傷を受けて言葉を失った者には、背後の真意が見通しだったのである。

 下の階層に属する者が、力を合わせて砂に線を引いた。それを無断で踏みこえる者は、たとえ上の階層でも強烈な反撃にあうのだ。憲法なるもののはじまりは、ここにあるのではないだろうか。今日の憲法は、厳密に抽象化された概念が並んでいて、人間どうしが顔を突きあわせる現実の状況にすぐ当てはめることはできない。類人猿の社会ならなおさらだ。それでも、たとえばアメリカ合衆国憲法は、イギリス支配への抵抗から誕生した。「われら合衆国の人民は……」ではじまる格調高い前文は、大衆の声を代弁している。この憲法のもとになったのが、1215年の大憲章(マグナ・カルタ)である。イギリス貴族が国王ジョンに対し、行きすぎた専有を改めなければ、反乱を起こし、圧政者の生命を奪うと脅して承認させたものだ。これは、高圧的なアルファオスへの集団抵抗にほかならない。

 民主主義は積極的なプロセスだ。不平等を解消するには働きかけが必要である。人間にとても近い2種類の親戚のうち、支配志向と攻撃性が強いチンパンジーのほうが、突きつめれば民主主義的な傾向を持っているのは、おかしなことではない。なぜなら人類の歴史を振りかえればわかるように、民主主義は暴力から生まれたものだからだ。いまだかつて、「自由・平等・博愛」が何の苦労もなく手に入った例はない。かならず権力者と闘ってもぎとらなくてはならなかった。ただ皮肉なのは、もし人間に階級がなければ、民主主義をここまで発達させることはできなかったし、不平等を打ちやぶるための連帯も実現しなかったということだ。

「他者の苦痛に対するラットの情動的反応」という興味ぶかい標題の論文が発表されていた。バーを押すと食べ物が出てくるが、同時に隣のラットに電気ショックを与える給餌器で実験すると、ラットはバーを押すのをやめるというのである。なぜラットは、電気ショックの苦痛に飛びあがる仲間を尻目に、食べ物を出しつづけなかったのか? サルを対象に同様の実験が行なわれたが(いま再現する気にはとてもなれない)、サルにはラット以上に強い抑制が働いた。自分の食べ物を得るためにハンドルを引いたら、ほかのサルが電気ショックを受けてしまった。その様子を目の当たりにして、ある者は5日間、別のサルは12日間食べ物を受けつけなかった。彼らは他者に苦しみを負わせるよりも、飢えることを選んだのである。

 霊長類は群れのなかにいると、大いに安心する。外の世界は、外敵がいるわ、意地悪なよそ者がいるわで気が休まらない。ひとりぼっちになったら、たちまち生命を落とすだろう。だから群れの仲間とうまくやっていく技術が、どうしても必要なのである。彼らが驚くほど長い時間――1日の活動時間の最高10パーセント――をグルーミング(毛づくろい)に費やすのもうなずける。そうやって相手との関係づくりに努めているのだ。野生のチンパンジーを観察すると、仲間と良好なつながりを保つメスほど、子どもの生存率が高いことがわかる。



進化宗教学の地平を拓いた一書/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
「我々は意識を持つ自動人形である」/『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
大阪産業大学付属高校同級生殺害事件を小説化/『友だちが怖い ドキュメント・ノベル『いじめ』』南英男
曖昧な死刑制度/『13階段』高野和明
社会主義国の宣伝要員となった進歩的文化人/『愛国左派宣言』森口朗

2017-07-23

“芯の堅い”利他主義と“芯の柔らかい”利他主義/『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン


『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール
『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『ハキリアリ 農業を営む奇跡の生物』バート・ヘルドブラー、エドワード・O・ウィルソン

 ・“芯の堅い”利他主義と“芯の柔らかい”利他主義

・『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
・『モラルの起源 道徳、良心、利他行動はどのように進化したのか』クリストファー・ボーム
『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
・『ハキリアリ 農業を営む奇跡の生物』バート・ヘルドブラー、エドワード・O・ウィルソン
『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』ジョセフ・ヘンリック
『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
『文化的進化論 人びとの価値観と行動が世界をつくりかえる』ロナルド・イングルハート

宗教とは何か?
必読書リスト その五

 この奇妙な選択性を理解し、人間の利他行動にまつわる謎を解くためには、我々は、協力的な行動の二つの基本的な形態を区別しておかねばならない。まず第一に、利他的な行動は、非理性的な形で、一方的に行使されることがある。この場合行為者は、意識の上で等価的見返え(ママ)りを望んでいないばかりでなく、同時に、無意識的な振舞いにおいても、結果としてそういった報いを望むのと同じ効果を示すような行動は、示さないのである。このような形態の行動を私は、“芯の堅い”利他主義 hard-core altruism と呼んでいる。これは、子供期以後の社会的賞・罰によっては、あまり影響を受けない一群の反応である。仮にこのような行動が見られるならば、それはおそらく、血縁選択、すなわち、競争関係にある家族または部族そのものを単位として作用する自然選択に基づいて進化したものと考えられる。“芯の堅い”利他主義は、非常に近縁な血縁者に向けられるものであり、相手との近縁の程度が薄まるに従って、その出現頻度や強度は急激に減少するものと予想される。これに対してもう一つ、“芯の柔らかい”利他主義 soft-core altruism と呼ぶべきものがあり、こちらは本質的には利己的な行為である。この場合、“利他的行為者”は、社会が、彼自身あるいはそのごく近縁な親族に、お返しをしてくれることを期待しているからである。彼の善行は損得計算に基づいており、この計算は、しばしば完全に意識的な形で実行されている。彼は、うんざりする程複雑な、各種の社会的拘束や社会的要請をうまく活用しながら、あの手この手を行使するのである。“芯の柔らかい”利他主義の能力は、主として個体レベルの自然選択に基づいて進化したものと考えられ、同時に、文化進化のきまぐれな変動にも大幅な影響を受けているものと思われる。“芯の柔らかい”利他行動の心理学的媒介項となるのは、嘘、見せかけ、欺瞞などである。欺瞞には自己欺瞞も含まれている。自分の振舞いに嘘いつわりはないと信じ込んでいる行為者は、最も強い説得力を示すだろうからである。

【『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン:岸由二〈きし・ゆうじ〉訳(思索社、1980年思索社新装版、1990年/ちくま学芸文庫、1997年)】

 旧ブログの抜き書きを削除してこちらに移す。再読して痛感したのだが、やはり「第7抄 利他主義」が本書の白眉である。

 2009年に読んであっさりと挫けたのだが、昨年何とか読了した。私にとっては忘れ難い読書道のメルクマール(指標)となった一冊である。エドワード・オズボーン・ウィルソン(1929-)は昆虫学者で社会生物学を提唱したことで知られる。

「情けは人の為ならず巡り巡って己(おの)が為」という。親切な行為には何らかの自己犠牲が伴うものだが時に疲労を覚えることがある。裏切られることも決して少なくない。「巡り巡って己(おの)が為」をエゴイズムと捉える向きもあるようだがそうではない。利他とは自分を取り巻く環境に正義や公正を実現する営みなのだ。困っている者や弱い者、打ちひしがれた者を助けるのは当たり前だ。躊躇(ちゅうちょ)や逡巡が入り込む隙(すき)はない。

「“芯の堅い”利他主義」とは例えば我が子が目の前で溺れた時に発揮される行動であろう。それに対して「“芯の柔らかい”利他主義」とは文化的・社会的・宗教的価値観に基づく判断と考えられる。殉教や自爆テロなど。

 因(ちな)みに仁義の仁とは自分と近しい人に施す情愛で、義は距離に関係なく示される正義のこと。

 このテキストだけではわかりにくいと思うが、冒頭の「奇妙な選択性」とは国際社会で無視された大量虐殺を示している。中東の例を出してインディアン虐殺を出さないところがいかにもアメリカ人らしい。

 利他主義を相対的に捉えるのはウィルソンの「暫定的な理神論」という立場とも関係があるのかもしれない。

“芯の堅い”と“芯の柔らかい”は先天的・後天的に置き換えることも可能だろう。ところが私の育った家庭を振り返るとこれに該当しない。全く困ったものである。父は惜しみなく弱者を助ける性質で少々大袈裟にいってしまえば英雄的気質があった。ただし立派な父親ではなかった。私は長男だが物心ついてから会話らしい会話をした記憶がない。極端に正義感が強いと家庭を省みることが少なくなる。つまり父や私に関しては“芯の堅い”利他主義は存在しない。むしろ逆で血縁関係を軽んじるところがある。

 日本において核家族化が急速に進んだのは私が生まれた1963年(昭和38年)のこと。出生率のピークは10年後の1973年(昭和48年)で209万人(出生率 2.14)となっている。核家族・少子化の影響も考慮する必要があるだろう。

「義を見てせざるは勇無きなり」(『論語』「為政」)という。「弱きを助け強きを挫く」のは当然だ。利他行動を失えばもはや動物である。その意味からも社会機能を正常に維持するためには窃盗や詐欺などの犯罪には厳罰を課すべきだ。特に振り込め詐欺を放置してきた警察・銀行・政府与党の責任は重い。

2020-01-08

貨幣やモノの流通が宗教を追い越していった/『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博


『カミとヒトの解剖学』養老孟司
『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男
『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール
『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ

 ・貨幣やモノの流通が宗教を追い越していった
 ・キリスト教の教えでは「動物に魂はない」

宗教とは何か?

山極●世界宗教と呼ばれる宗教は、最初は価値の一元化、倫理の一元化を目指して文化を取り込んでいき、それぞれが交じり合うこともあったと思いますが、いずれも大きな壁にぶつかってしまった。それを追い越していったのは経済のグローバル化だと思うんですよ。

小原●経済活動の拡大が宗教に及ぼした影響は、間違いなく大きいです。

山極●貨幣が、モノの流通が宗教を追い越していった。宗教の境界があるにもかかわらず、モノはどんどん交換され、貨幣は流通していった。だから、貨幣はユーロという統一を果たしましたが、言語までは変えられなかった。つまり、言語の一元化はできなかった。同様に、文化の一元化もなかなか起こりえない。なぜならば、言語や文化というものは身体化されたものだからです。一方、貨幣というのは、いうなれば幻想の価値観を一定のルールのもとに共有しているに過ぎない。ですからそれは普及しやすい。それによって、宗教の力がどんどん圧縮されて、経済の方が実は宗教としての力を持つようになってきている。

【『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一〈やまぎわ・じゅいち〉、小原克博〈こはら・かつひろ〉(平凡社新書、2019年)】

 思いつくままに関連書を挙げたが一冊の本が脈絡を変える。何をどの順番で読むかで読書体験は新たな扉を開く。それは一種の「編集」と言ってよい。実は細胞の世界でもコピー、校正、編集が繰り返し行われている(『生命とはなにか 細胞の驚異の世界』ボイス・レンズバーガー)。ミクロからマクロに至るあらゆる世界で実行されているのは「情報のやり取り」だ。

「貨幣やモノの流通が宗教を追い越していった」理由は情報の速度にあったのだろう。人々が「信じる」ことによって価値は創出される。神は存在があやふやだし、祝福には時間を要する。その点キャッシュ(貨幣)はわかりやすい。誰もがその価値を信用しているから即断即決だ。祈り(労働対価)と救済(消費)が数秒で交換される。

 日本で貨幣が流通するようになったのは鎌倉時代である。つまり宗教改革と金融革命が同時に起こった。更に国家意識が高まった事実も見逃せない。元寇によってそれまでは地方でバラバラになっていた武士集団が日本を守るために一つとなった。

 敗戦後に新宗教ブームが興ったが、これも高度経済成長で熱が冷めた。宗教は経済に駆逐される。

 貨幣は万人が信ずるという点において最強の宗教と化した。今となっては疑う者は一人もあるまい(笑)。果たしてマネーの速度を超える情報は今後生れるのだろうか? 経済を超える交換の仕様は成立するのだろうか? 現段階では全く思いつかない。

2020-04-07

マネーと言葉に限られたコミュニケーション/『お金の流れでわかる世界の歴史 富、経済、権力……はこう「動いた」』大村大次郎


『お坊さんはなぜ領収書を出さないのか』大村大次郎 2012年
『税務署員だけのヒミツの節税術 あらゆる領収書は経費で落とせる【確定申告編】』大村大次郎

 ・マネーと言葉に限られたコミュニケーション

『税金を払わない奴ら なぜトヨタは税金を払っていなかったのか?』大村大次郎 2015年
『お金の流れで読む日本の歴史 元国税調査官が古代~現代にガサ入れ』大村大次郎
『お金の流れで探る現代権力史 「世界の今」が驚くほどよくわかる』大村大次郎
『お金で読み解く明治維新 薩摩、長州の倒幕資金のひみつ』大村大次郎
『ほんとうは恐ろしいお金(マネー)のしくみ 日本人はなぜお金持ちになれないのか』大村大次郎
『知ってはいけない 金持ち悪の法則』大村大次郎
『脱税の世界史』大村大次郎

世界史の教科書
必読書リスト その二

 歴史というのは、政治、戦争などを中心に語られがちだ。「誰が政権を握り、誰が戦争で勝利したのか」という具合に。
【だが、本当に歴史を動かしているのは、政治や戦争ではない。
 お金、経済なのである。】
 お金をうまく集め、適正に分配できるものが政治力を持つ。そして、戦争に勝つ者は、必ず経済の裏付けがある。
 だからこそ、【お金の流れで歴史を見ていくと、これまでとはまったく違う、歴史の本質が見えてくる】ものなのだ。

【『お金の流れでわかる世界の歴史 富、経済、権力……はこう「動いた」』大村大次郎〈おおむら・おおじろう〉(KADOKAWA、2015年)以下同】

 大村大次郎は脂(あぶら)が乗っている。読みやすいビジネス書だと思ったら大間違いだ。著作が多いため重複する内容も目立つが必ず新しい視点を提供してくれる。元国税庁の調査官ということもあって節税本が殆どだが、具体的なアドバイスもさることながら、税に対する認識や意識が変わる。それは「国民の自覚」と言い換えてもよかろう。

 小室直樹が「税金は国家と国民の最大のコミュニケーション」(『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』)と喝破している。それをわかりやすく敷衍(ふえん)したのが上記テキストだ。

 なぜ古代エジプトだけが3000年もの間、平和で豊かな時代を送ることができたのか?
 筆者は、その大きな要因に、徴税システムがあると考える。
 古代から現代まで、その国の王や、政府にとって、一番、面倒で大変な作業というのは、徴税なのである。税金が多すぎると民は不満を持つし、少ないと国家が維持できない。
 また税金のかけ方が不公平になっても、民の不満材料になるし、徴収のやり方がまずければ、中間搾取が多くなり国の収入が枯渇(こかつ)する。
【古今東西、国家を維持していくためには、「徴税システムの整備」と「国民生活の安定」が、絶対条件】なのである。

 チンパンジーの世界でも「所有と分配の両方が行なわれている」(『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール)。ラットですら目の前で苦しむ仲間がいれば自分の利益を放棄する(『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール)。

 ドゥ・ヴァールは「思いやりも本能である」と主張する動物行動学者だが、昨今の消費税増税は明らかに公平性を欠いており、段階的に下げられてきた富裕層の所得税を踏まえると、格差社会は政策によって生まれたと言いたくなる。

 バブル崩壊(1991年)後の日本を見てみよう。終身雇用が失われ非正規雇用が増え始める。学校ではいじめが日常茶飯事となり、若者の間ではニートや引きこもりが増加。人口構成は高齢化社会(65歳以上人口が7%、1970年)~高齢社会(高齢化率14%、1994年)~超高齢社会(高齢化率21%、2007年)と変遷してきた(Wikipedia)。有吉佐和子が少子高齢化を指摘したのが1972年のことである(『恍惚の人』)。200万部を超えるベストセラーとなったが政治家も国民も本気で考えようとはしなかった。

 私は少子化を問題とは思っていない。ピークを迎えた人口構成が緩やかに下がることはあるだろう。問題は「結婚したくてもできない」「恋愛をするほどの余裕もない」若者を増やし、挙げ句の果てには「子供をつくりたいと思えない」国家の有り様である。より本質的には災害や戦争が訪れることを告げているように思われてならない。

 近代以降のコミュニケーションはマネーと言葉に限定されてしまった感がある。古(いにしえ)の人々には祈り、踊り、狩り、祭りを通したコミュニケーションが存在した。現代人がスポーツや音楽に魅了されるのは「言葉を超えたコミュニケーション」を感じるためだ。コミュニケーションは交換が交感を生み交歓に至る、というのが私の持論だが、大前提として交換するものが少なすぎる。

 平等という価値観は既に左翼が汚してしまった。せめて公正さを取り戻すべきだろう。社会が崩壊する前に。

2012-09-04

民主主義と暴力について/『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール


民主主義と暴力/『襲われて 産廃の闇、自治の光』柳川喜郎

 続きを書くとしよう。

 民主主義は暴力に対抗し得るだろうか? チト微妙だ。するともしないとも言える。

 いじめをモデルに考えてみよう。私に子供がいたとする。更にその子が私の意に反しておとなしい子に育ったものと仮定しておく。

 我が子に対する教育はコミュニケーション能力を磨くことに主眼を置く。誰とでも仲よくなることができ、人の心を理解できる子供に育て上げる。

 で、私の子か、あるいは子供の親友がいじめられた場合どうするか? 「心ある大衆を集めて反撃せよ」と私なら教えることだろう。

 2対1という構図は、チンパンジーの権力闘争を多彩なものにすると同時に、危険なものにもしている。ここで鍵を握るのは同盟だ。チンパンジー社会では、一頭のオスが単独支配することはまずない。あったとしても、すぐに集団ぐるみで引きずりおろされるから、長続きはしない。チンパンジーは同盟関係をつくるのがとても巧みなので、自分の地位を強化するだけでなく、集団に受けいれてもらうためにも、リーダーは同盟者を必要とする。トップに立つ者は、支配者としての力を誇示しつつも、支援者を満足させ、大がかりな反抗を未然に防がなくてはならない。どこかで聞いたような話だが、それもそのはず人間の政治もまったく同じである。

【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール:藤井留美訳(早川書房、2005年)以下同】

Pan troglodytes

 政治の淵源はチンパンジーにあったのだ。我々の先祖は偉大だ(笑)。つまり政治とは暴力の異名であったのだ。民主主義が政治手続きである以上、暴力とは無縁でいられない。

 下の階層に属する者が、力を合わせて砂に線を引いた。それを無断で踏みこえる者は、たとえ上の階層でも強烈な反撃にあうのだ。憲法なるもののはじまりは、ここにあるのではないだろうか。今日の憲法は、厳密に抽象化された概念が並んでいて、人間どうしが顔を突きあわせる現実の状況にすぐ当てはめることはできない。類人猿の社会ならなおさらだ。それでも、たとえばアメリカ合衆国憲法は、イギリス支配への抵抗から誕生した。「われら合衆国の人民は……」ではじまる格調高い前文は、大衆の声を代弁している。この憲法のもとになったのが、1215年の大憲章(マグナ・カルタ)である。イギリス貴族が国王ジョンに対し、行きすぎた専有を改めなければ、反乱を起こし、圧政者の生命を奪うと脅して承認させたものだ。これは、高圧的なアルファオスへの集団抵抗にほかならない。

Pan troglodytes predation 2

 ボス猿vs.バトルロイヤル戦だ。重要なことは強いボスに従うよりも、ある程度利益を分配した方が進化的な優位性があると考えられることだ。実際、抜きん出たカリスマ指導者を持った集団は、指導者を失った途端に崩壊の坂を転げ落ちる。

 民主主義は積極的なプロセスだ。不平等を解消するには働きかけが必要である。人間にとても近い2種類の親戚のうち、支配志向と攻撃性が強いチンパンジーのほうが、突きつめれば民主主義的な傾向を持っているのは、おかしなことではない。なぜなら人類の歴史を振りかえればわかるように、民主主義は暴力から生まれたものだからだ。いまだかつて、「自由・平等・博愛」が何の苦労もなく手に入った例はない。かならず権力者と闘ってもぎとらなくてはならなかった。ただ皮肉なのは、もし人間に階級がなければ、民主主義をここまで発達させることはできなかったし、不平等を打ちやぶるための連帯も実現しなかったということだ。

Banksy Canvas Monkey Guns
Banksy作)

 そしていじめもなくならない。自殺も。警察庁の「自殺統計」によれば学生・生徒の自殺者数は微増傾向にあり、2011年に初めて1000人を超えた。

自殺対策白書

 この内、いじめが原因となっている数はわからない。だが一人でもいじめを苦に死を選んだ児童がいれば、決してそれを許すべきではない。

 意外と見落としがちであるが、暴力というのも実は文化と考えられる。まず始めに啖呵(たんか)を切る。突然殴ることは殆どない。次に相手の胸倉をつかむ。サルの世界でディスプレイと呼ばれる示威行為と一緒だ。つまり暴力は相手の命を奪うことを目的としていない。憎悪に猛り狂い、殺意がたぎっていたとしても、我々は相手の喉仏や鼻の下、眉間、耳の下を殴ることができない。ま、本気で喉元に手刀を入れれば、やられた方は死んでしまうことだろう。

 再び学校に目を戻そう。学校内で民主主義が実現されるのは多数決で何かを決める場合に限られる。実際はクラス委員や生徒会長を選出する時だけであろう。そしてクラス委員や生徒会長には大した権限がない。学校全体を仕切っているのは校長を始めとする教員たちであり、クラスを牛耳るのはいじめっ子なのだ。

 何となく日本を象徴するような話だ。校長先生がアメリカで、いじめっ子が暴力団と考えればわかりやすいだろう。

 革命とは政治主義の変更であって、国民全員に利益が分配される革命など存在しない。例えば米騒動を考えてみよう。現在、米に替わるものはマネーである。では貧しい人々が決起して、銀行を襲えばカネを奪えるだろうか? 無理だね。残念ながら銀行にカネはないのだよ。あってもせいぜい預金の20%程度であろう。あいつらは準備預金率というレバレッジで悪どく儲けているのだ。マーケットを見よ。デジタル化された数値がやり取りされているだけの世界だ。

 面倒になってきたので結論を述べる。我々はいざという時に暴力を振るえる覚悟がない限り、民主主義を実現することは不可能だ。更にすべての情報が公開されていない以上、投票行為すらメディアによって操作されてきた可能性がある。

 いじめを傍観する者が一人もいなくなれば、民主主義は完璧なものとなろう。

フランス・ドゥ・ヴァール

あなたのなかのサル―霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源

2008-05-19

美は生まれながらの差別/『なぜ美人ばかりが得をするのか』ナンシー・エトコフ


『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス

 ・美は生まれながらの差別

整形手術の是非あるいは功罪
『売り方は類人猿が知っている』ルディー和子
『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール

必読書リスト その三

「まともなコラムニストが読めば、死ぬまでネタには困らないだろう」――と思わせるほど、てんこ盛りの内容だ。タイトルはやや軽薄だが、内容は“濃厚なチョコレートケーキ”にも似ていて、喉の渇きを覚えるほどだ。著者は心理学者だが、守備範囲の広さ、興味の多様さ、データの豊富さに圧倒される。アメリカ人の著作は、プラグマティズムとマーケティングが根付いていることを窺わせるものが多い。

 人びとは美の名のもとに極端なことにも走る。美しさのためなら投資を惜しまず、危険をものともしない。まるで命がかかっているかのようだ。ブラジルでは、兵士の数よりエイヴォン・レディ(エイヴォン化粧品の女性訪問販売員)のほうが多い。アメリカでは教育や福祉以上に、美容にお金がつぎこまれる。莫大な量の化粧品――1分あたり口紅が1484本、スキンケア製品2055個――が、売られている。アフリカのカラハリ砂漠のブッシュマンは、旱魃(かんばつ)のときでも動物の脂肪を塗って肌をうるおわせる。フランスでは1715年に、貴族が髪にふりかけるために小麦粉を使ったおかげで食糧難になり、暴動が起きた。美しく飾るための小麦粉の備蓄は、フランス革命でようやく終わりを告げたのだった。

【『なぜ美人ばかりが得をするのか』ナンシー・エトコフ:木村博江訳(草思社、2000年)以下同】

 もうね、最初っから最後までこんな調子だよ(笑)。学術的な本なんだが、「美の博物館」といった趣きがある。雑学本として読むことも十分可能だ。それでいて文章が洗練されているんだから凄い。

 手っ取り早く結論を言ってしまうが、「美人が得をする」のは遺伝子の恵みであり、進化上の勝利のなせる業(わざ)だった。

 美は普遍的な人間の経験の一部であり、喜びを誘い、注意を引きつけ、種の保存を確実にするための行動を促すもの、ということだ。美にたいする人間の敏感さは本性であり、言い換えれば、自然の選択がつくりあげた脳回路の作用なのだ。私たちがなめらかな肌、ゆたかで艶(つや)のある髪、くびれた腰、左右対称の体を好ましく感じるのは、進化の過程の中で、これらの特徴に目をとめ、そうした体の持ち主を配偶者に選ぶほうが子孫を残す確率が高かったからだ。私たちはその子孫である。

 科学的なアプローチをしているため、結構えげつないことも書いている。例えば、元気で容姿が可愛い赤ちゃんほど親に可愛がられる傾向が顕著だという。つまり、見てくれのよくない子に対しては本能的に「劣った遺伝情報」と判断していることになる。更に、家庭内で一人の子供が虐待される場合、それは父親と似てない子供である確率が高いそうだ。

 ビックリしたのだが、生後間もない赤ん坊でも美人は判るらしいよ。実験をすると見つめる時間が長くなるそうだ。しかも人種に関わりなく。するってえと、やはり美は文化ではなく本能ということになる。

 また背の高さが、就職や出世に影響するというデータも紹介されている。

 読んでいると、世間が差別によって形成されていることを痛感する(笑)。そう、「美は生まれながらの差別」なのだ。ただし、それは飽くまでも「外見」の話だ。しかも、その価値は異性に対して力を発揮するものだ。当然、「美人ではあるが馬鹿」といったタイプや、「顔はキレイだが本性は女狐(めぎつね)」みたいな者もいる。男性であれば、結婚詐欺師など。

 人びとは暗黙のうちに、美は善でもあるはずだと仮定している。そのほうが美しさに惹かれるときに気持ちがよく、正しい世界に感じられる。だが、それでは人間の本性にある矛盾や意外性は否定されてしまう。心理学者ロジャー・ブラウンは書いている。「なぜ、たとえばリヒャルト・ワーグナーの謎に関する本が2万2000種類も書けるのか。その謎とは、崇高な音楽(『パルジファル』)や高貴でロマンチックな音楽(『ローエングリン』)、おだやかな上質のユーモアにあふれる音楽(『マイスタージンガー』)を書けた男が、なぜ熱心な反ユダヤ主義者で、誠実な友人の妻(コジマ・フォン・ビューロー)を誘惑し、嘘つき、ペテン師、策士、極端な自己中心主義者、遊蕩(ゆうとう)者でもあったかということだ。だが、それがいったい意外なことだろうか。本当の謎は、経験を積み、人格や才能にはさまざまな矛盾がまじりあうことを承知しているはずの人びとが、人格は道徳的に一貫しているべきだと信じている、あるいは信じるふりをしていることだ」

 でも、幸福の要因は「美しい心」「美しい振る舞い」「美しい生きざま」にあるのだと思う。



「虐待の要因」に疑問あり/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
秘教主義の否定/『アドラー心理学入門 よりよい人間関係のために』岸見一郎
シリーズ中唯一の駄作/『疑心 隠蔽捜査3』今野敏

2020-06-27

キリスト教の教えでは「動物に魂はない」/『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一、小原克博


『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン
『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース:茂木健一郎訳
『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット
『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール

 ・経済が宗教を追い越していった
 ・キリスト教の教えでは「動物に魂はない」

『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲

キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?
必読書リスト その五

山極●聖書によれば、動物には魂はないのですか。

小原●そうです。

山極●なるほど。だからね、それは農耕牧畜とともに生まれたんだと思うんですよ。狩猟採集民の世界というのは、動物に魂があるか、人間に魂があるかという話ではなくて、動物と人間は対等ですから、動物と会話ができていたわけですね。

小原●そうですね。狩猟採集の時代にあった動物と会話できるという感覚は、その後、形を変えながらも、様々な神話や物語の中に引き継がれてきたと思います。日本の昔話では、動物と人間が会話を交わす物語がたくさんありますし、さらに言えば、動物にだまされたり、助けられたり、「鶴の恩返し」のように動物と結婚したり、いろいろなバリエーションがありますね。動物が人間をどう見ていたかはともかくとして、少なくとも人間の側からは、長きにわたって、動物は会話できる対象と見られてきたのではないでしょうか。

【『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一〈やまぎわ・じゅいち〉、小原克博〈こはら・かつひろ〉(平凡社新書、2019年)】

 日本人ならすかさず「一寸の虫にも五分の魂がある」と反論するだろう。一神教は神の絶対性を強調する。その神に似せて造ったのが人間だ。人間は神に最も近い動物であるが神には絶対になれない。この断絶性が「動物に魂はない」とする根拠になっているのだろう。

 具体的には南極観測隊の犬の扱い方が好例だ。日本は15頭の犬を南極に置き去りにした(1958年)。イギリスでは「日本人はなんと残酷な民族か!」と糾弾され、「イギリス犬の日本輸出を中止せよ!」という声まで上がった。翌年、奇蹟的に2頭の生存が確認された。これがタロとジロである。一方、イギリス隊は1975年、帰還を余儀なくされた時、100頭の犬を薬物で殺害した。「犬を殺すのが一番経済的だ」という理由で。こうした二面性は神の愛を説きながら殺戮(さつりく)を繰り返してきた彼らの歴史に基づく性質だ。彼らは一方で戦争を行いながら、もう一方で慈善活動を行うことができる。

 かつての捕鯨もそうだ。欧米は鯨油だけを採ってクジラの遺体は捨てた。黒船ペリーが開国を迫ったのは捕鯨船の補給地を確保するためだった(『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男)。日本の場合、食用で尚且つ骨からヒゲに至るまでを活用する。そんな連中が「クジラは知能が高い」という理由で日本を始めとする捕鯨国を口汚く罵っているのだ(『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人)。日本は「動物に魂はあるのか?」と反論すべきであった。

   日本人がキツネに騙されなくなったのは高度経済成長の真っ只中で昭和40年(1965年)のことだ(『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節)。暮らしが豊かになり我々は自然との交感を失ったのだろう。

2016-08-29

杉田かおる、エドワード・O ウィルソン


 1冊挫折、2冊読了。

 『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール:柴田裕之訳(紀伊國屋書店、2014年)/著者の卑屈さが内容をなし崩しにしている。エドワード・O ウィルソンと内容が重なるだけに残念極まりない。理想的な思い込みが先にあり科学的な姿勢を欠く。牽強付会が捻じれば文章となってわかりにくい。

 133冊目『杉田』杉田かおる(小学館、2005年)/びっくりするほど面白かった。詐欺を繰り返す父親、精神の病んだ母親との確執。創価学会で一級の活動家となったものの、池田大作の実像に幻滅し、脱会するまで。そして24時間100kmマラソンが綴られている。誤読しやすいと思われるが著者は創価学会を批判するよりも、忠実に実体験を書いている。「杉田」とのタイトルは父親の姓で既に戸籍も変えたという。中年に差し掛かった女性が過去への訣別を綴る。不思議なことにマラソンで走ったコースは著者に縁のある土地であった。佐藤典雅著『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』と併読せよ。姿勢としては杉田かおるの方が上だ。

 134冊目『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン:岸由二〈きし・ゆうじ〉訳(思索社、1980年思索社新装版、1990年/ちくま学芸文庫、1997年)/何とか読了。難解ではあるが挿入されたエピソードはいずれも面白い。生物学者が利他性・道徳の起源を探る。「必読書」と「宗教とは何か?」に入れる予定。利他性という点ではフランス・ドゥ・ヴァールを先に読むべし。宗教だとニコラス・ウェイド著『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』と併読せよ。

2014-03-13

進化宗教学の地平を拓いた一書/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド


ウイルスとしての宗教/『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット

 ・進化宗教学の地平を拓いた一書
 ・忠誠心がもたらす宗教の暗い側面
 ・宗教と言語
 ・宗教の社会的側面

普遍的な教義は存在しない/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?

 宗教はとりわけ、共同体のメンバーが互いに守るべき道徳規範を示し、社会組織の質を維持する。まだ市民統治機構が発達していなかった初期の社会では、宗教だけが社会を支えていた。宗教は、同じ目的に向けた深い感情的つながりをもたらす儀礼をつうじて、人々を束ね、集団で行動させる。
 したがって、単独で存在する教会はない。教会とは、同じ信念を持つ人々が作る特別な集団、つまり共同体である。その信念はありふれた無味乾燥なものの見方ではなく、深い感情的つながりを持つ。象徴的儀礼や、合唱や一斉行動のなかで共通の信念を表現することによって、人々は、自分たちを共同体として束ねている共通の信仰に深くかかわっているという信号を送り合う。宗教(religion)という語が、ラテン語で「束ねる」を意味する religare からおそらく派生しているのは、この感情的な結びつきのためかもしれない。

【『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド:依田卓巳〈よだ・たくみ〉訳(NTT出版、2011年)】

 余生が少なくなってきたので(あと30年くらいか)重要な書籍からどんどん紹介してゆこう。進化宗教学の地平を拓いた一書である。「宗教とは何か?」で順序を示してあるので参照せよ。相対性理論や数学の知識がある人は小室直樹から始めてよろしい。このラインナップですら省(はぶ)いている書籍は多い。本来であればやはり「キリスト教を知るための書籍」から入るのが正しい。流れとしてはキリスト教→科学→宗教→仏教&クリシュナムルティという順序が望ましい。ま、所詮は感性の問題であるが。

 人間と動物を分かつのは宗教行為である。政治や経済は類人猿にも存在する(『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール)。だが死を悼(いた)み、死者を弔(とむら)い、遺体を埋葬し祈りを捧げるのは人類だけだ。宗教行為は「死の認識」に基づく。

 ヒトのコミュニティが巨大化して国家にまで至ったのはなぜか? それは「悲しい」という感情を共有したためと考えられよう。「悲しみ」はたぶん後天的な感情だと思われる。既に学術的価値がないとされるJ・A・L・シング著『野生児の記録 1 狼に育てられた子 カマラとアマラの養育日記』(福村出版、1977年/原書は1942年)にもそのような件(くだり)があった。

 北朝鮮の国家主席が死亡した際に登場する泣き女もシャーマン(巫女)と関係があるのではないだろうか。

「笑い」が知的行為で人によって異なるのに対して、「悲しみ」の感情は同じ場面で現れる(『落語的学問のすゝめ』桂文珍)。つまりコミュニティとは「悲しみを共有する」舞台装置なのだろう。オリンピックがその典型であろう。浅田真央が転んだと聞けば、オリンピックをまったく見ない私ですら悲しくなる。国家は感情を分断する。戦争が国家単位で行われるのも不思議ではない。

 世界宗教と呼ばれるような宗教でも教義解釈によって絶えず分派を繰り返す。国家であろうと宗教であろうと権力は必ず腐敗する。その悪臭の中から必ず原点回帰運動が起こる。そして叫ばれた「正義」が人々に受け入れられると一気に暴力行為が花開くのだ。

 宗教の語源については以下も参照せよ。

宗教の語源/『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル

 細切れの時間で書いたため取りとめのない文章となったが今日はここまで。あと10回か20回は紹介する予定だ。

宗教を生みだす本能 ―進化論からみたヒトと信仰
ニコラス・ウェイド
エヌティティ出版 (2011-04-22)
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宗教は人を殺す教え/『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静
デカルト劇場と認知科学/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
マントラと漢字/『楽毅』宮城谷昌光
『歴史的意識について』竹山道雄

2008-05-09

エピジェネティクス(後成遺伝学)/『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス


オスの子孫に危険を「警告」する遺伝メカニズム、マウスで発見
『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール
『なぜ美人ばかりが得をするのか』ナンシー・エトコフ
『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ

 ・エピジェネティクス(後成遺伝学)

『あなたはプラシーボ 思考を物質に変える』ジョー・ディスペンザ
『失われてゆく、我々の内なる細菌』マーティン・J・ブレイザー
『ガン食事療法全書』マックス・ゲルソン
『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑
『DNA再起動 人生を変える最高の食事法』シャロン・モアレム

必読書リスト その三

 祖父がアルツハイマーになった。著者が15歳の時だ。祖父が元気な頃、「体調がよくなる」と言って好んで献血をしていた。その理由を学校の先生や、かかりつけの医師に尋ねてみたがわからなかった。15歳の少年は医学図書館へ足繁く通い、遂にヘモクロマトーシスという珍しい遺伝性の病気を発見する。体内に鉄が蓄積される病気だった。少年は直感的に、ヘモクロマトーシスがアルツハイマーと関連していると推測した。だが、子供の話に耳を傾ける大人はいなかった。後年、シャロン・モアレムはこれを証明し、博士号をとった――こんな美しいエピソードからこの本は始まる。専門書にもかかわらずこれほど読みやすいのは、スピーチライター(ジョナサン・プリンス )の力もさることながら、最初の志を失わない研究態度に由来しているのだろう。

 遺伝子は「生命の設計図」といわれる。遺伝情報によって、罹(かか)りやすい病気がある。はたまた、「生きとし生けるものが必ず死ぬ」のも遺伝情報があるためだ。では、なぜわざわざ病気になるような遺伝子が子孫に伝えられてゆくのか?

 40年後にかならず死ぬと決まっている薬をあなたが飲むとしたら、その理由はなんだろう? その薬は、あなたが明日死ぬのを止めてくれるからだ。中年になるころ鉄の過剰蓄積であなたの命を奪うかもしれない遺伝子が選ばれたのはなぜだろう? その遺伝子は、あなたが中年に達するよりずっと前に死ぬかもしれない病気から守ってくれるからだ。

【『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス:矢野真千子訳(NHK出版、2007年)以下同】

 つまり、致死性の高い病気の流行から生き延びるために、ヒトは少々のリスクを選び取ったということらしい。当然、国や地域によって固有の遺伝情報が存在する。

 そう、進化はすごいが、完璧ではない。適応というのは言ってみればある種の妥協で、ある状況にたいする改良は別の面で不利益を生む。クジャクの美しい羽根はメスを引きつけるのにはいいが、捕食動物の目も引いてしまう。人類の二足歩行への進化は大きな脳を作ることを可能にしたが、胎児の頭が産道を通り抜けるときに母子ともにひどい苦痛をもたらしている。自然淘汰がはたらけば、いつも「よくなる」とはかぎらない。生存と種の保存の機会が少し高まるだけなのだ。

 その典型が「アレルギー」である。

 次に、身体全体がどれほど絶妙なシステムで健康を維持しているかという例を――

 僕たちの皮膚は太陽光にさらされるとコレステロールをビタミンDに変える。(中略)人間の体はよくできていて、体内に十分なコレステロールがある状態で夏場に日光を浴びておけば、冬場を切り抜けられるだけのビタミンDを備蓄できる。(中略)
 日焼けのもととなる紫外線を遮断する、いわゆる日焼け止めは、皮肉なことにビタミンDを作るのに必要なUVBも遮断してしまう。オーストラリアではこのところ国をあげて、皮膚癌予防のために「長袖シャツを着よう、日焼け止めを塗ろう、帽子をかぶろう」というキャンペーンを展開しているが、そのために予期せぬ結果が生じている。浴びる日光の量が減るとともに、オーストラリア人にビタミンD欠損症が増えているのだ。

 だれでも経験のあることだと思うが、皮膚の色は太陽の光を浴びることで一時的に濃くなる。いわゆる日焼けだ。人が自然な状態で太陽光にさらされると、ほぼ同時に下垂体が反応してメラノサイトの稼働率をアップさせるようなホルモンを出す。ところが、この増産命令は意外なものでじゃまをされる。下垂体は情報を視神経から得る。視神経が日光を感知するとその信号を下垂体に伝え、メラノサイトに増産命令を下す。そんなとき、サングラスをかけていたら? 視神経に届く日光の量が少ないので下垂体に送られる信号も少なくなり、下垂体が出すホルモンの量が減り、メラニンの生産量も減る。結果、日焼けによる皮膚の炎症を起こしやすくなる。もしあなたがいま、ビーチで紫外線カットのサングラスをかけてこの本を読んでくれているのなら、悪いことは言わない、そのサングラスをはずしたほうがいい。

 便利さや快適さが、本来受けるべきシグナルを遮断する。

「特定の人類集団は特定の遺伝的遺産を共有しており、その遺伝的遺産はそれぞれが暮らした環境に適応するようそれぞれの淘汰圧を受けた結果だ」

 科学や医学など、文明の発達によって淘汰圧は少なくなっている。ということは、遺伝子が進化(変化)するチャンスは少なくなりつつあるのだろう。それでも、環境汚染や食品添加物などは淘汰圧といえる。

 有機農業がときに諸刃(もろは)の剣(つるぎ)となることを説明するには、セロリがいい例になる。セロリはソラレンという物質を作って防衛している。ソラレンはDNAや組織を傷つける毒で、人間にたいしては皮膚の紫外線への感受性を高める性質をもつ。(中略)
 セロリの特徴は、自分が攻撃されていると感じると急ピッチでソラレンの大量生産をはじめることだ。茎に傷がついたセロリは無傷のセロリとくらべて100倍ものソラレンが含まれている。合成殺虫剤を使っている農家というのは、基本的には植物を敵の攻撃から守るためにそれを使っている(もっとも、殺虫剤を使うことでさまざまな別の問題も生み出しているわけだが、それについてはここでは割愛する)。有機栽培農家は殺虫剤を使わない。つまり、虫やカビの攻撃でセロリの茎が傷つくのをそのままにして、ソラレンの大量生産を野放しにしていることになる。殺虫剤の毒を減らそうとあらゆる努力をしている有機農家は、結果的に植物の天然の毒を増やしているというわけだ。
 いやはや、生き物の世界は複雑だ。

 この前後に、ウイルスが宿主としての人間をどのようにコントロールしているかが書かれていて実に面白い。普段のくしゃみは異物の混入を防ぐ行為だが、風邪をひいた時のくしゃみは、ウイルスを撒き散らすために行われている、というような発想がユニーク。

 でもって、著者が出した結論は何か――

 イーワルドは、病原体の進化のしくみを理解すれば毒力を弱めることは可能だと考えている。この考え方の基本はこうだ。「人間を動き回らせる以外には病原体を広める手段がない」という状況にしてしまえば、病原体は人間をとことん弱らせる方向には進化しないのではないか。

 このことから、僕たちはひじょうに重要なことを学べる。すなわち、抗生物質による「軍拡競争」で細菌をより強く、より危険にしてしまうのでなく、細菌を僕たちに合わせるよう変える方法を探ったほうがいいということだ。
 イーワルドはこう述べている。

 病原体の進化をコントロールすることで、その毒力を弱め、人類と共存しやすい病原体に変えていくことが可能になる。病原体が弱毒性のものになれば、私たちの大半はそれに感染したことさえ気づかなくなるかもしれない。つまりは、ほとんどの人が体内に無料の生きたワクチンを入れているような状態になるのだ。

 さて、ジャンクDNAの話をおぼえているだろうか? これは、タンパク質を作る指示である暗号(コード)を出さない「非コードDNA」だ。人間はなぜ、こんな役立たずの膨大なDNAを背負って進化の旅を続けているのだろう? そもそも科学者たちがこれらのDNA を「ジャンク」と呼ぶようになったのは、それが役立たずだと思ったからだ。しかし、その科学者たちもいまや、非コードDNAの役割に注目しはじめている。最初の鍵となったのはジャンピング遺伝子だった。
 科学者がジャンピング遺伝子の存在と重要性を認めるや、研究者たちは人間を含むあらゆる生き物のゲノムのそれを探しはじめた。そしてまず驚いたのは、非コードDNAの半分近くがジャンピング遺伝子で占められていることだった。さらに、もっと驚いたのは、ジャンピング遺伝子が特殊なタイプのウイルスにひじょうによく似ていることだ。どうやら、人間の DNAのかなりの割合はウイルス由来のようなのだ。

 ね、凄いでしょ。ドキドキワクワクが止まらんよ(笑)。本を読む醍醐味ってのは、こういうところにあるのだ。題して「ウイルスとの共生」。しかも、遺伝子自体がそのようにできてるってんだから凄い。

 昂奮のあまりまとまらないので、あとは抜き書きしておくよ(笑)。

 遺伝子があることと、その遺伝子が機能することは別なのだ。

 人間のエピジェネティクス(後成遺伝学)研究で、現在もっとも注目されているのは胎児の発生についてだ。受精直後の数日間、母親自身まだ妊娠したとは気づいていない時期が、かつて考えられていた以上に重要であることはいまや明白になっている。この時期に重要な遺伝子のスイッチが入ったり切れたりしている。また、エピジェネティックな信号が送られるのは早ければ早いほど、胎児にその指示が伝わりやすい。言ってみれば、母親の子宮は小さな進化実験室だ。新しい形質はここで、胎児の生存と発育に役に立つものかどうかが試される。役に立たないとわかったら、それ以上育てずに流す。実際に、流産した胎児には遺伝的な異常が多く認められている。
 エピジェネティックが小児肥満の大流行に関与している理由をここで説明しておこう。アメリカ人の奥さんが食べているいわゆるジャンクフードは、高カロリー高脂肪でありながら、栄養分、とくに胚の発生時に重要な栄養分がほとんど入っていない。妊娠1週目の妊婦が典型的なジャンクフード中心の食事をしていれば、胚は、これから生まれ出る外の世界は食糧事情が悪いという信号を受け取る。こうしたエピジェネティックな影響を複合的に受けて、さまざまな遺伝子がスイッチをオンにしたりオフにしたりしながら、少ない食料で生き延びられる体の小さな赤ん坊を作る。(中略)
 母親が妊娠初期に栄養不良だと、節約型の代謝をする体の小さな赤ん坊が生まれる。だがその節約型の代謝のせいで、その後はどんどん脂肪をためこんで太るというわけだ。

 エピジェネティック効果や母性効果の不思議について、ニューヨークの世界貿易センターとワシントン近郊で起きた9.11テロ後の数か月のことを眺めてみよう。このころ、後期流産の件数は跳ね上がった――カリフォルニア州で調べた数字だが。この現象を、強いストレスがかかった一部の妊婦は自己管理がおろそかになったからだ、と説明するのは簡単だ。しかし、流産が増えたのは男の胎児ばかりだったという事実はどう説明すればいいのだろう。
 カリフォルニア州では2001年の10月と11月に、男児の流産率が25パーセントも増加した。母親のエピジェネティックな構造の、あるいは遺伝子的な構造の何かが、胎内にいるのは男の子だと感じとり、流産を誘発したのではないだろうか。
 そう推測することはできても、真実については皆目わからない。たしかに、生まれる前も生まれたあとも、女児より男児のほうが死亡しやすい。飢餓が発生したときも、男の子から先に死ぬ。これは人類が進化させてきた、危機のときに始動する自動資源保護システムのようなものなのかもしれない。多数の女性と少数の強い男性という人口構成集団のほうが、その逆よりも生存と種の保存が確実だろうから。(1995年の阪神大震災後も同様の傾向が出ている)

 すでにご存じのことと思うが、癌というのは特定の病気の名前ではない。細胞の増殖が軌道を外れて暴走してしまう病気の総称だ。

 おそらく、老化がプログラムされていることは個人にとって有益なのではなく、種にとって進化上有益なのだろう。老化は「計画された旧式化」の生物版ではないだろうか。計画された旧式化とは、冷蔵庫から自家用車まで、あらゆる工業製品に「賞味期限」をあたえるという概念だ。

2009-07-11

ネアンデルタール人も介護をしていた/『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠


 ・ネアンデルタール人も介護をしていた

『病が語る日本史』酒井シヅ

 人類の進化をコンパクトにまとめた一冊。やや面白味に欠ける文章ではあるが、トピックが豊富で飽きさせない。

 例えば、こう――

 北イラクのシャニダール洞窟で発掘された化石はネアンデルタール人(※約20万〜3万年前)のイメージを大きく変えた。見つかった大人の化石は、生まれつき右腕が萎縮する病気にかかっていたことを示していた。研究者は、右腕が不自由なまま比較的高齢(35〜40歳)まで生きていられたのは、仲間に助けてもらっていたからだと考えた。そこには助け合い、介護の始まりが見て取れたのだ。「野蛮人」というレッテルを張り替えるには格好の素材だった。

【『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠(講談社現代新書、2005年)】

 飽くまでも可能性を示唆したものだが、十分得心がゆく。私の拙い記憶によれば、フランス・ドゥ・ヴァール著『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』(早川書房、2005年)には、チンパンジーがダウン症の子供を受け入れる場面が描かれていた。

 広井良典は『死生観を問いなおす』(ちくま新書、2001年)の中で、「人間とは『ケアする動物』」であると定義し、ケアをしたい、またはケアされたい欲求が存在すると指摘している。

人間とは「ケアする動物」である/『死生観を問いなおす』広井良典

 つまり、ケアやホスピタリティというものが本能に備わっている可能性がある。

 ネアンデルタール人がどれほど言葉を使えたかはわからない。だが、彼等の介護という行為は、決して「言葉によって物語化」された自己満足的な幸福のために為されたものではあるまい。例えば、動物の世界でも以下のような行動が確認されている――

「他者の苦痛に対するラットの情動的反応」という興味ぶかい標題の論文が発表されていた。バーを押すと食べ物が出てくるが、同時に隣のラットに電気ショックを与える給餌器で実験すると、ラットはバーを押すのをやめるというのである。なぜラットは、電気ショックの苦痛に飛びあがる仲間を尻目に、食べ物を出しつづけなかったのか? サルを対象に同様の実験が行なわれたが(いま再現する気にはとてもなれない)、サルにはラット以上に強い抑制が働いた。自分の食べ物を得るためにハンドルを引いたら、ほかのサルが電気ショックを受けてしまった。その様子を目の当たりにして、ある者は5日間、別のサルは12日間食べ物を受けつけなかった。彼らは他者に苦しみを負わせるよりも、飢えることを選んだのである。

【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール:藤井留美訳(早川書房、2005年)】

「思いやり」などといった美しい物語ではなく、コミュニティ志向が自然に自己犠牲の行動へとつながっているのだろう。そう考えると、真の社会的評価は「感謝されること」なのだと気づく。これこそ、本当の社会貢献だ。

 人間がケアする動物であるとすれば、介護を業者に丸投げしてしまった現代社会は、「幸福になりにくい社会」であるといえる。家族や友人、はたまた地域住民による介護が実現できないのは、仕事があるせいだ。結局、小さなコミュニティの犠牲の上に、大きなコミュニティが成り立っている。これを引っ繰り返さない限り、社会の持続可能性は道を絶たれてしまうことだろう。

 既に介護は、外国人労働力を必要とする地点に落下し、「ホームレスになるか、介護の仕事をするか」といった選択レベルが囁かれるまでになった。きっと、心のどこかで「介護=汚い仕事」と決めつけているのだろう。我々が生きる社会はこれほどまでに貧しい。

 せめて、「飢えることを選んだ」ラットやサル並みの人生を私は歩みたい。


頑張らない介護/『カイゴッチ 38の心得 燃え尽きない介護生活のために』藤野ともね

2022-01-10

大塩平八郎の檄文/『日本の名著27 大塩中斎』責任編集宮城公子


『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一

 ・大塩平八郎の檄文

『決定版 三島由紀夫全集 36 評論11』三島由紀夫

檄文

(袋上書)天の生んだ民である村々の         小百姓のものまでに告ぐ

「天下の人民が刻苦窮迫すると、天の愛も絶滅終熄するであろう」「小人に国家を治めさせたならば、災害は相次ぎ到来するであろう」と昔の聖人は、深く天下後世の民の君となり、臣となるものを誡めおかれたので、東照神君(徳川家康)も、寄るべない人にこそ、最も憐れみを加えるのが仁政の基だと仰せおかれた。にもかかわらず、この二百四、五十年の太平の間に、しだいに上に立つものは驕りをきわめ、大切な政治にたずさわる諸役人どもは、賄賂をおおっぴらに贈貰(ぞうせい)している。奥向女中の手づるにより、道徳仁義もない卑劣なものでも立身して重要な役に登り、自分一家を肥やすことのみに智術をめぐらし、その領分の民百姓へ過分の御用金を課している。従来、過重の年貢、諸役に困苦する上に、このような無理無法を申し渡され、民百姓はつぎつぎに出費がかさみ、天下の民は困苦窮迫するようになった。このため、江戸表より一国中すべて、民は上を怨まぬものはないようになってきた。にもかかわらず、天子は足利氏以来、御隠居同様(政治にあずかられず)賞罰の権を失われたので、人民の怨みはどこへ告げ愬えるに訴えるところのないようになってしまっている。ついに、人びとの怨みが天に達し、年々の地震火災により、山も崩れ水もあふれるなど、種々さまざまの天災が打ちつづき、ために五穀実らず飢饉と相成った。これらはみな、天が深く誡められる有難いお告げであるのに、上に立つ人はいっこうに気付かず、なおも小人、奸者らが大事な政治をとり行い、ただ下を悩まし、金、米を取りたてる手段ばかりに奔走している。

【『日本の名著27 大塩中斎』責任編集宮城公子〈みやぎ・きみこ〉(中央公論社、1978年https://amzn.to/3zCPaXc/中公バックス、1984年)以下同】

「檄」(げき)は「激」ではない。本来は「木札に記された文書」のこと。檄文とは「自らの主張を綴った文書」で、同意を求め行動を促すことを目的としている。「檄を飛ばす」とは急いで決起を促すこと。

 大塩平八郎は与力であった。現代であれば警察署長、地方裁判官、市長を兼務したような官職か。大塩平八郎の乱(1837年)は、社会の実情を知悉(ちしつ)し、国政(当時は藩=国)トップの無責任・無能を知る中間官僚が起こした叛乱である。

 加えて、三都の内、大阪の金持などは年来、大名貸の利息、扶持米などを莫大に掠(かす)め取り、いまだかつてないような裕福な暮し振りで、町人の身分でありながら、大名の家老、用人格の扱いをうけている。また自分の田畑、新田を夥しく所持し、何不足なく暮し、昨今の天災、天罰を見ながら、畏れもせず、餓死する貧乏人、乞食を救おうともしない。自身は膏梁の味だと美食をし、妾宅へ入りこみ、あるいは揚屋茶屋へ大名の家来を誘い、高価な酒を湯水同然に呑み、この難渋の時節に絹服をまとった役者を妓女とともに迎えて、平生同様に遊楽に耽るのは、いったい、どういうことか。紂王の長夜の酒盛も同様だ。そのところの奉行諸役人は、手にした権力でもってこれらのものを取り締り、人民を救うこともできず、日々堂島の米相場ばかりをいじくっている。まったく禄盗人で、決して天道聖人の心に叶わず、ご容赦のないことだ。蟄居の私も、もはや我慢ならず、湯王、武王の権勢、孔子、孟子の道徳はないけれど、致し方なく、天下のためと思い、血族への禍をもあえて犯し、この度有志のものと申し合わせた。
 つまり、民を悩まし苦しめる諸役人を、まず誅伐し、引き続いて驕っている大阪市中の金持町人どもを誅戮する。そして彼らが穴蔵に蓄えている金・銀・錫、およびその蔵屋敷に隠匿している俵米などを、それぞれ配分する。よって、摂津、河内、和泉、播磨の諸国のうち、田畑をもたぬもの、あるいはもっていても父母妻子らを養えぬほど困窮しているものへ、これらの米金を取らせるので、いつでも大阪市中に騒動が起こったと聞き伝えたら、里数をいとわず一刻も早く大阪へ向って馳せ参じるよう。銘々へ右の米金を分けよう。(紂王の)金・粟 を民に与えた遺意にならい、さしあたりの飢饉、難儀を救おう。もしまた、その内に人物、才能の優れたものは、それぞれ取り立てて無道の者を征伐する軍役にもつかおう。
 これは決して一揆蜂起の企てと同じでない。(われわれは)追々年貢諸役までを軽減し、すべて中興の神武天皇の政治のとおり、心豊かな取扱いをし、年来の驕奢、隠逸の風俗をすっかり改めて、本来の質素に立ち返り、天下の人々がいつまでも天の恩を有難く思い、父母妻子を養う事ができ、生きながらの地獄を救い、死後の極楽を眼前に展開し、堯・舜・天照皇大神の時代を再現できないにしても、中興の(神武帝)政治の姿には立ち返らせようと思うのだ。

 いつの時代も叛乱の原因は貧困である。五・一五事件二・二六事件も東北の貧困が背景にあった。現在であれば失業率がその指標となる。

 多くの庶民が塗炭の苦しみに喘ぐと、必ず誰かが立ち上がって叛乱を起こす。これがヒトという種に埋め込まれたコミュニティ戦略なのだろう。最低基準としての平等が破壊されるとコミュニティは成り立たない。

チンパンジーの利益分配/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
他者の苦痛に対するラットの情動的反応/『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール

 理窟や政治力学ではない。ヒトの本能がそうさせるのだ。困っている人を見れば放っておかないのが惻隠の情である。

  天命を報じて天誅を致す。
 天保八酉年月日
  摂津・河内・和泉・播磨村々
   庄屋年寄百姓、ならびに小百姓共へ

 もしも自分の周囲の人々の半分が生活に困窮するようなことがあれば、男子たるものいつでも立ち上がる用意をしておくべきだ。檄文の準備も怠り無く。その時はもちろんネットも駆使する。「座して死を待つよりは、出て活路を見出さん」(諸葛孔明)との言葉を銘記せよ。

2012-05-01

英雄的人物の共通点/『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー


『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』ジェームズ・R・チャイルズ

 ・災害に直面すると人々の動きは緩慢になる
 ・避難を拒む人々
 ・9.11テロ以降、アメリカ人は飛行機事故を恐れて自動車事故で死んだ
 ・英雄的人物の共通点

『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』 アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム

 人は極限状況に置かれると生理的な現象が変化する。

「時間と空間が完全に支離滅裂になった」と、彼は後に書いている。「わたしのまわりの動きが、最初はスピードを上げているように思えたのに、今度はスローモーションになった。現場はグロテスクな動きをする、混乱した悪夢さながらの幻影のようだった。目にするものはすべて歪んでいるように思えた。どの人も、どの物も、違って見えた」(ディエゴ・アセンシオ、米国大使)

【『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー:岡真知子訳(光文社、2009年/ちくま文庫2019年)以下同】

 脳神経が超並列で機能することで認知機能がフル回転するのだろう。生命が危険に及んだ時、過去の映像が走馬灯のように駆け巡ったというエピソードは多い。ただし、この後で紹介されているが実験では確認できなかったようだ。

 生死にかかわる状況においては、人は何らかの能力を得る代わりにほかの能力を失う。アセンシオは突然、非常にはっきりと目が見えるようになったことに気づいた(実際、テロリストたちに包囲されたあとの数ヵ月間は、視力がそれまでよりよくなったままで、一時的にメガネの度数を下げてもらうことになった)。一方、多くの調査によると、大多数は視野狭窄(きょうさく)になっている。視野が70パーセントほど狭くなるので、場合によっては、鍵穴から覗いているように思えることもあり、周囲で起こっていることを見失ってしまう。たいていの人はまた一種の聴覚狭窄に陥る。不思議なことにある音が消え、ほかの音が実際よりも大きくなるのだ。
 ストレス・ホルモンは、幻覚誘発薬に似ている。

 これは何に対してストレス(≒緊張)を感じるかで変わってくる次元の話であろう。ストレス耐性の低い人は「逃避」のメカニズムが働く。そうすることが本人にとっては進化的に優位であるからだ。グッピーの実験でも明らかな通り、リスクの高い環境で勇気を示せば死ぬ羽目となる。

「準備をすればするほど、制御できるという気持ちが強くなり、恐怖を覚えることが少なくなる」(『破壊的な力の衝突』アートウォール、ローレン・W・クリステンセン)

 確かに「慣れて」いれば対処の仕様がある。恐怖が判断力を奪う。それゆえいかなる状況であろうとも判断できる余地を残しておくことが次の行動につながる。

 彼(ブルース・シッドル、セントルイスの警察学校指導教官)は、心拍数が毎分115回から145回のあいだに、人は最高の動きをすることを発見した(休んでいるときの心拍数はふつう約75回である)。【それ以上になると機能は低下する】

 人間は適度なストレスがある時に最大の能力を発揮する。スポーツをしている人なら実感できよう。才能は練習よりも試合で開花することが多い。

 もっとも意外な戦術の一つは呼吸である。(中略)どうすれば恐怖に打ち勝つことができるのかを戦闘トレーナーに尋ねると、繰り返し彼らが語ってくれたのが呼吸法だった。(中略)警察官に教える一つの型は次のようになっている。四つ数える間に息を吸い込み、四つ数える間息を止め、四つ数える間にそれを吐き出し、四つ数える間息を止める。また最初から始める。それだけだ。

 人体の内部は自律神経によって制御されているが、自律神経系の中で唯一、意識的にコントロールできるのが呼吸である。

歩く瞑想/『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール

 緊張すると呼吸は浅くなり、スピードを増す。その動作がフィードバックされて脳を恐怖で支配する。ヘビに睨(にら)まれたカエルも同然だ。

 黙想をしている人たちは、黙想をしているときに使われる前頭葉前部の皮質の一部で、脳組織が5パーセント分厚くなっていたのである。そこは、そのどれもがストレスの制御を助ける、感情の統制や注意や作動記憶をつかさどる部位である。

 なぜ瞑想ではなく黙想と翻訳したのかは不明だ。原語は「meditation」ではなかったのだろうか? いずれにせよ、瞑想が脳を鍛えているという指摘が興味深い。欲望から離れ、本能から離れる行為が全く新しい刺激を生んでいるのだろう。脳のインナーマッスルみたいなものか。

 ここから本書の白眉となる。大きな事故や災害で英雄的な行動をした人々の共通点を探る。

 オリナー(社会学者サミュエル・オリナーと妻パール・オリナー。400人以上の英雄にインタビュー調査)が発見したことは、いわく言いがたいものだった。「なぜ人々が英雄的行為をするのかについて説明することはできません。遺伝的なものでも文化的なものでも絶対にないのです」。だがまず、何が問題に【ならなかった】かについて考えてみよう。信仰は違いをもたらしていないように見えた。

 まずこのような英雄・勇者を私は「人格者」と定義付けておきたい。人格とは「人間の格」を意味する。また、「格」には段階の他に「法則」「流儀」の意味もある。人格は言動と行動によって発揮される。口先だけの人格者は存在しない。

 仏教における「菩薩」、キリスト教における「善きサマリア人」が人格者を象徴している。彼らは困っている人を見て放置することができない。反射的に寄り添い、自動的に手を差し伸べる。

 では話を戻そう。英雄的人物=人格者の要素は遺伝的なものでも、文化的なものでも、宗教的なものでもなかった。何が凄いかって、ここに挙げられたものは全て「差別の要素」として機能しているものだ。つまり人格が差別的要素と無縁であるならば、人格こそは人間に共通する要素と言い切ってよい。そして差別主義者どもは当然ここから抜け落ちるわけだ。

「善なるものは私どもの専売特許です」――宗教者は皆、そういう顔つきをしている。奴等は自分たちの善を強要し、押し売りする。自分たちだけが真人間で、他の連中は人間もどきだと言わんばかりだ。そんな彼らにとっては深刻な実験結果だ。信仰と人格を関連付ける確証がないのだから。

 政治も行動を予測する要素にはならない、ということがオリナーの研究でわかった。救助者も被救助者もそれほど政治に関心を持っているわけではなかった。しかしながら、救助者たちは概して民主的で多元的なイデオロギーを支持する傾向があった。

 次に熱烈な政党支持者も脱落する(笑)。「民主的で多元的なイデオロギーを支持する傾向」とは「他人の意見を傾聴する者」と考えてよかろう。特定のドグマに染まった人物は「耳」を持たない。彼らは「党の決定に従う」存在である。スターリンの支配下にあってソ連では“「何が正しい文化や思想であるかは共産党が決める」という体制”になっていた。

中国-大躍進政策の失敗と文化大革命/『そうだったのか! 現代史』池上彰

 そして英雄的人物の共通点が浮かび上がる。

 しかし両者の間には重要な違いがあった。救助者のほうが両親との関係がより健全で密接である傾向があり、そしてまたさまざまな宗教や階級の友人を持っている傾向も強かった。救助者のもっとも重要な特質は共感であるように思われた。どこから共感が生じるのかを言うのはむずかしいが、救助者は両親から平等主義や正義を学んだとオリナーは考えている。

他者の苦痛に対するラットの情動的反応/『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール
チンパンジーの利益分配/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール

 結局、人格を陶冶する最大の要因は親子関係にあったのだ。驚天動地の指摘である。意外な気もするが、よく考えると腑に落ちる。

 認知機能はバイアス(歪み)を回避することができないが、人格者には「文化」や「宗教」に基づく差別的なバイアスが少ないのだろう。そもそも我々は最初の価値観を親から学んでいるのだ。その価値観を根拠にしてあらゆる事柄を判断するのだから、親子関係から築いた価値観は人生のバックボーン(背骨)と化す。より具体的には親というよりも、「よき大人」というモデルが重要なのだろう。更にこのデータは教育の限界をも示している。

 英雄的行為をとる人々は、日常生活においても「助ける人」であることが非常に多い。

 自分の周囲を見渡せば一目瞭然だ。英雄的素養のある人物は直ぐわかる。

 一方、傍観者は、制御できない力にもてあそばれているように感じがちである。

 主体性の喪失が人生を他罰的な色彩に染めてゆく。これまた親子関係が基調になっているのだろう。人は自分が大切にされることで、他人を大切にする行為を学んでゆくのだ。

 英雄たちは幾度となく自分がとった行動を「もしそうしなかったら、自分自身に我慢できなかったでしょう」という言い方で説明している。

 英雄は「内なる良心の声」に従って行動する。神仏のお告げではない。他人の視線も関係ない。ただ、「自分がどうあるべきか」という一点で瞬時に判断を下す。「それでいいのか?」という問いかけが鞭のように振るわれ、英雄はサラブレッドのように走り出すのだ。

 ここで終わっていれば、めでたしめでたしなのだが、著者はヘビに足を描くような真似をしている。

「利他主義も一皮むけば、快楽主義者なのだ」とギャラップは言う。

 別に異論はない。我々利他主義者は利他的行為に快感を覚えているのだから。たとえ自分が犠牲になったとしても、人の役に立てれば本望だ。

 九仞(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に虧(か)くとはこのことだ。せっかくの著作を台無しにしたところに、アマンダ・リプリーのパーソナリティ障害傾向が見て取れる。彼女は何の悪意も抱いていないことだろう。そこに問題がある。

 同様の不満を覚えた人は、『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン:上原裕美子訳(英治出版、2010年)を参照せよ。


「リーダーは作られるものではなく生まれつくもの」、トゲウオ研究
脳神経科学本の傑作/『確信する脳 「知っている」とはどういうことか』ロバート・A・バートン
REAL LIFE HEROES
進化における平均の優位性/『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ
平時の勇気、戦時の臆病/『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ

2011-11-14

アッシュの同調実験/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム


 ・服従の本質
 ・束縛要因
 ・一般人が破壊的なプロセスの手先になる
 ・内気な人々が圧制を永続させる
 ・アッシュの同調実験

『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス
『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ
『マインド・ハッキング あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』クリストファー・ワイリー

権威を知るための書籍
必読書リスト その五

「同調」「服従」「内面化」は、人が集団に従うときの、不本意さの程度に応じた用語である。もっとも不本意なものが服従である。不本意だという感覚がある限り、服従は服従以上にはなり得ず、「無責任の構造」も拡大はしない。他方、不本意ながら、従っているうちに、やがて、従っている不本意な行為の背景にある価値観を、自分の価値観として獲得してしまうことがある。それが内面化である。服従や同調から内面化が生じるプロセスが、少なくとも一握りの人たちの心に起こることによって、「無責任の構造」が維持されるのである。

【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】

 岡本浩一は東海村JCO臨界事故の調査委員を務めた人物で、東京電力の隠蔽体質は「無責任の構造」によるものと検証してみせた。

 集団における同調はソロモン・アッシュが同調行動の実験によって解明した。

アッシュの同調実験

 同調性に関する一連の見事な実験がS・E・アシュ(Ash,1951)によって行われている。6人の被験者集団が、ある長さの線を見せられて、別の3本の中でそれと同じ長さのものはどれか、と尋ねられる。実は被験者は一人を除いて全員が、毎回、あるいは一定割合で「まちがった」線の一つを選ぶように指示されている。何も知らない被験者は、集団の大半の人が答えるのを聞いてから自分の判断を述べるように仕組まれている。アシュによれば、このような社会的圧力の下では、被験者の相当数が自分の目という疑いようのない証拠を受け入れるよりも、集団に流されたという。
 アシュの被験者は集団に「同調」したことになる。本書での実験では、被験者は実験者に「服従」する。服従と同調はどちらも、自分の主体性を外部の源に預けることを指す。でも両者は重要な形で異なっている。

 1.ヒエラルキー●権威への服従は、行為者が、自分の上にいる人物が行動を指図する権利を持っていると感じるようなヒエラルキー構造の中で起きる。同調は同じ地位の人々の間で行動を左右する。服従はある地位と別の地位を結びつける。
 2.模倣●同調は模倣だが、服従はちがう。同調は、影響を受けた人が仲間の行動を採用するので、行動の均質化をもたらす。服従では、影響の源を模倣することなく、遵守が生じる。兵士は自分に与えられた命令を反復するだけではなく、それを実行する。
 3.明示性●服従においては、行動の指示は命令や指令の形をとるので明示的である。同調では、ある集団に流される要件は、しばしば暗黙のままである。したがって集団圧力に関するアシュの実験では、集団のメンバーから被験者に対して、自分たちに流されろというはっきりした要求が出されたりはしない。行動は自発的に被験者によって採用される。実際、多くの被験者は、集団のメンバーが明示的に同調しろと要求したら、かえって抵抗する。状況としては、その集団は平等な人々の集まりだとされているため、だれもお互いに命令する権利はないはずだからだ。
 4.自発性●だが服従と同調のいちばんはっきりしたちがいは、事後的に生じる――つまり、被験者が自分の行動をどう説明するかにあらわれる。被験者は、自分の行動の説明として同調は否定するが、服従は自ら認める。これをはっきりさせよう。集団圧力に関するアシュの実験では、被験者は自分の行動がどれだけ集団の他のメンバーに影響されたかについて、過小評価する。毎回集団に屈服した場合であっても、集団効果を最小化して、自分の自立性を強調したがる。判断をまちがえたとしても、それは自分自身のまちがいであり、目がよく見えなかったり、判断をあやまったりしただけなのだと固執することも多い。自分が集団に同調した度合いを最小化しようとする。

 服従実験では、反応は真逆となる。ここでは被験者は、被害者に電撃を加えるという行動について、一切の個人的な関与を否定し、自分の行動をすべて、権威が課した外的な要件に帰属させている。つまり、同調する被験者は、自分の自立性が集団によって阻害されたことはないと頑固に主張するのに対し、服従する被験者は、自分が被害者に電撃を加えるにあたり自立性はまったくなかったと主張し、自分の行動は完全に自分の埒外だったのだと述べる。
 なぜこうなるのだろう? それは同調というのが、暗黙の圧力に対する反応だからだ。仲間に屈する正当な理由を指摘できないために、自分が圧力に屈したことを否定するわけだ。それも実験者に対してだけでなく、自分自身に対しても。服従では、正反対となる。状況は公式に、自発性のないものとして定義づけられる。というのも、服従が期待されている明示的な命令があるからだ。被験者は、自分の行動についての全面的な説明として、この状況の公式な定義をよりどころとする。
 したがって服従と同調の心理的な影響はちがっている。

【『服従の心理』スタンレー・ミルグラム:山形浩生〈やまがた・ひろお〉訳(河出書房新社、2008年/河出文庫、2012年/同社岸田秀訳、1975年)】



 最初の2回のテストでは、ほかのメンバーは正しい答えを言って、特に何事もなく進む。3回目では、3番目の線が正しいものなので、被験者はそう言おうと待ち構えている。ところが最初の被験者(※サクラ)は「(※長さが同じなのは)1番目の線です」と答える。そして二人目も「1番目の線です」と言う。ほかの参加者(※全員がサクラ)も「1番目の線です」と答える。回答が進むにつれ、真の被験者は何かが変だと考えるようになる。自分の番になったときには、その被験者は、自分の判断を信じるか、それとも意見が一致しているほあのメンバーの答えにあわせるかを今すぐ決めないといけないという困った状態に陥っていることに気づくのである。驚いたことに、だいたい13の試行において、真の被験者は、実験的に作り出されたいつわりの多数派に合わせた回答をしたのである。(ソロモン・アッシュの「同調行動の実験」)

【『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス:野島久男、藍澤美紀訳(誠信書房、2008年)】



 実験をやってみると、驚くほど多くの人が、サクラの影響を受け、正しくない線分を答えることがわかった。この実験では、なんと35パーセントの誤答率を記録している。単独回答ならば、誤答率は5パーセントの課題である。
 実験中の被験者の様子の記述が残されている。その典型的な様子は次のようなものである。
 最初のサクラが間違えたとき、被験者は「バカな奴だ」という感じで笑っている。サクラの2人目くらいまでは、笑ったりそっくりかえったりしているが、3人目くらいから、まず、目を凝らしてカードを凝視する。それから、課題の内容を確かめようとするように、他の「被験者」(サクラ)の顔を見たり、実験者に、こと問いたげ(ママ/「物問いたげな」の間違いか?)な視線を送ったりする。4人目、5人目では、あきらかに不安な表情や苛立ちを様子に表す。そして自分の番となると、サクラたちと同じ答えをするようになるのである。

【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】



 サクラの人数を減らして実験を行った結果、同調は、サクラが2人では有意に起こり始め、サクラが3人では、サクラがそれ以上の人数の場合とほとんどかわらない比率で同調が起こることがわかった。
 したがって、ごく少ない人数で同調が起こることがわかる。
 ここまで紹介した研究は、真の被験者が1人で、いつも1人対多数の同調者という条件の研究だが、自分以外に、同じ意見の人がいる場合はどうなのだろうか。
 同調しない「非同調者」がいる場合、同調はどのように変化するのだろうか。
 最初の実験では7人のサクラに対して、被験者はたった1人だったのだが、これが1人でなく2人だった場合、3人だった場合と、真の被験者の人数を変えて実験を繰り返している。その結果、被験者が2人ならば、同調の発生率は格段に下がることがわかった。つまり、被験者が孤立無援で同調する複数のサクラに出会ったときに、同調が起こるのである。逆にいえば、自分と同意見の正解者が1人でもいると、多数の他者と異なる違憲も表明しやすいということになる。

【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】

 見知らぬサクラの判断に影響を受けてしまうわけだから、友人などの感情を込めた反応に逆らい難いことは明々白々であろう。「エ、何言ってんの?(=ひょっとして馬鹿?)」という反応を我々は極度に恐れる。学校でのいじめを考えればもっとわかりやすいだろう。皆と違うことは「異質」と評価され、「排除」の対象となる。

 ここで重要なポイントを一つ。「権威」と「権力」は似て非なるものだ。

 権威は必ず服従を伴い、つねに服従を要求する。にもかかわらず、それは強制や説得とは相容れない。なぜなら、強制と説得はともに権威を無用にするからである。世界史におけるこの特異な時代状況のもとで、権威は他と明確に区別された独自のものとなる。(「緒言」フランソワ・レテ)

【『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ:今村真介訳(法政大学出版局、2010年)】



注記。権威のなかに物理的強制力の現れしか見ない権威「理論」もたしかにある。だが後で見るように、物理的強制力は権威とは何の関係もないし、むしろそれとは正反対ですらある。だから、権威を物理的強制力に還元することは、権威の実在を端的に否定し、無視することである。したがって、われわれはこのまちがった見解を【権威の理論】のなかに含めない。

【『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ:今村真介訳(法政大学出版局、2010年)】

 権威に強制力はないのである。

 では、なぜこのような非合理的な判断を我々はするのだろうか? 人間心理の奥深くを探ってゆくと、善悪が混沌となる領域、すなわち本能に辿りつく。

 同調する心理は「共感」のメカニズムと隣り合わせに位置するのではないかと私は睨(にら)んでいる。

 共感とは、ごく簡単に言うと、ほかの人や動物の状態に影響される能力のことだ。だから、誰かの振るまいをまねるといった単純な動きも、共感と呼ぶことができる。相手が頭の後ろで手を組むと、つい自分も同じことをやりたくなる。会議では、脚を組んだりほどいたり、上半身を前に傾けたりうしろにそらしたり、髪を直したり、テーブルにひじをついたりといった行動が伝染することが多い。ことにこちらが好感を抱いている相手だと、無意識に動きを合わせようとする。長年連れそった夫婦が似たものどうしになるのも、物腰や身ぶりが同調してくるからだろう。こうした模倣の威力を逆手にとって、人間どうしの感情を操作することもできる。こちらの動作を忠実にまねる人と、いちいちちがう動作をする人――実験でそうするよう指示されているからだが――では、後者への好感度が低くなるのだ。恋に落ちるとき、「ピンときた」と感じるのは、脚を開く、腕を広げるといったボディランゲージで憎からぬ気持ちを発信するのに加えて、意識しないままおたがいの行動を反射的に模倣してきた結果だろう。

【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール:藤井留美訳(早川書房、2005年)】



 共感を抑え込んだり、心の中でブロックしたり、それに基づいて行動しなかったりすることは可能でも、精神病質者と呼ばれるごく一部の人を除いては、私たちはみな、他者の境遇に感情的な影響を受けずにはいられない。根本的であるにもかかわらず、めったに投げかけられることのない疑問がある。それは、自然淘汰はなぜ、私たちが仲間たちと調和し、仲間が苦しみや悲しみを感じれば自分も苦しみや悲しみを感じ、彼らが喜びを感じれば自分も喜びを感じるように人間の脳をデザインしたのかという疑問だ。他者を利用できさえすればいいのなら、進化は共感などというものには、ぜったいに手を染めなかっただろう。

【『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール:柴田裕之訳、西田利貞解説(紀伊國屋書店、2010年)】

 よく「他者への想像力」といわれるが、ドゥ・ヴァールはこれを斥(しりぞ)ける。人間が共感的であるのは「生まれつき」であるという学説を紹介している。

 ここからが問題だ。共感と同調は似て非なるものだ。同調は周囲のテンポに合わせるだけの行動であろう。それに対して共感は相手の手を握り、肩を抱きしめる感受性である。合理性を飛び越えて、一緒に泣く精神である。

 全然まとまらないのだが、結論を述べてしまおう(笑)。共感力の強い人ほど同調しない――これが結論だ。理由は、私がそうであるからだ(笑)。


真の思索者は権威を認めない
あらゆる信念には精神を曇らせる効果がある/『気づきの探究 クリシュナムルティとともに考える』ススナガ・ウェーラペルマ
権威を知るための書籍
消費を強制される社会/『浪費をつくり出す人々 パッカード著作集3』ヴァンス・パッカード
集合知は沈黙の中から生まれる
下位文化から下位規範が成立/『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹
小賢しい宗教批判/『幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII』岸見一郎、古賀史健