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2014-07-14

無我/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン


『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ

 ・等身大のブッダ
 ・常識を疑え
 ・布施の精神
 ・無我

『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

 シッダールタは、心とも体とも別の自己――すなわち、アートマン(我)――という考えを超え、ヴェーダで提唱されている誤ったアートマンの考え方の虜になっていた自分に気づいて唖然とした。実在の本質はわかれてはいない。無我――すなわち、アナートマン――こそが存在するすべての本質だった。アナートマンは何か新しい実在を表す言葉ではなく、すべての謬見を破壊する雷のごときものであった。シッダールタはあたかも瞑想の戦場で、無我を旗印に、洞察という名刀をふりかざす将軍のようであった。昼も夜もピッパラ樹の下に坐りつづけ、新しい気づきが稲妻の閃光のように次々と解き放たれていった。

【『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン:池田久代訳(春秋社、2008年)】

 出家したシッダールタは二人の師につくがやすやすと無所有処に至り、驚くべきスピードで非想非非想処(天界の最上位である有頂天)をも体得した。

2.ゴータマ・ブッダの出家と修行
非想非非想処と涅槃
滅尽定とニルヴァーナ

 悟りには明確な段階があるのだ。

 傍目からはなかなか判断できませんが、それぞれの段階の悟りを開いた人は、自分では自分がどの段階に悟ったか、よくわかるようです。それだけ明確な悟りの「体験」と、それによる心の変化が、悟りの各段階にあるからです。

【『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃(サンガ新書、2009年)】

 諸法無我を悟った瞬間が劇的に描かれているのだが致命的な誤りがある。「無我――すなわち、アナートマン――こそが存在するすべての本質だった」――いくら何でも「本質」はないだろう。たぶん翻訳ミスだと思われる。アナートマンとは否定語のアン+アートマンで無我・非我と訳す。訳語としては非我が相応しいような印象を受けるが、非我だとまだ我の存在を払拭できていない。ゆえに無我が正しいと私は考える。

梵我一如と仏教の関係

 デカルトは徹底した思索の果てに我を見据えた。ブッダは瞑想の果てに我を解体した。我は錯覚であり妄想であった。トール・ノーレットランダーシュは意識の正体を「ユーザーイリュージョン」と喝破した。

「私が存在する」という感覚から欲望が生まれる。人生の悩みは一切が私に基づいている。つまり私とは、神・幽霊・宇宙人に匹敵する錯覚なのだ。生はただ縁りて起こるものだ(縁起)。生は川の流れのように一瞬もとどまることがない。そこに「変わらざる自分」を見出すところに凡夫の過ちがある。自分から離れて、ただ生の流れに身を任すことが自然の摂理にかなっている。インディアンは確かにそういう生き方をしていた。

2011-11-01

縁起に関する私論/『仏教とはなにか その思想を検証する』大正大学仏教学科編


 ヴェーダウパニシャッド(ヴェーダの一部)を参照し、インド哲学から六派哲学六師外道に至り、輪廻解脱を確認し、梵我一如に辿りついたところで既に1時間以上を経過している。

 ものを書く行為には正確さが求められるが、書こうと思っていたことを失念しそうだ。大体、今更私がインド思想史を正確に記述したところで何の意味もない。少々の間違いがあったとしても独創的な見解を示すのが先だ。

 もう疲れてしまったのでメモ書き程度にとどめておく。

 まず現在の私の見解を述べておこう。日本の仏教はその殆どが鎌倉仏教といってよい。最大の問題はなにゆえ鎌倉時代から宗教的進化が見られないのかということに尽きる。本来であればニュートン力学や、アインシュタインの相対性理論、はたまたゲーデルの不完全性定理、ハイゼンベルクの不確定性原理量子力学超弦理論などに対して応答する必要があった。

 これを避けたことによって全ての宗教は文学レベルに堕したと私は考える。物語力は既に宗教よりも科学の方が上回っている。

 前置きが長くなってしまった。本書は仏教入門として非常に優れている。記述も正確だ。

 アーリヤ人のインド侵入以前にインダス河の流域に高度な文明が発達していたことが、インド考古学調査団の発掘調査によって判明した。ハラッパーモヘンジョダロを二大中心地として、紀元前2300年ころから1800年ころまでの間栄えていたとされる。
 その出土品によれば、シュメール文化との関係が深く、アーリヤ文化とはまったく性質が異なっている。この文明の担い手は現在南インドに居住するドラヴィダ人の祖先であったとする説が有力であるが、確実なことはいまだ不明である。

【『仏教とはなにか その思想を検証する』大正大学仏教学科編(大法輪閣、1999年)以下同】

インドに歴史文化がない理由

 インダス文明は、アーリア人が五河(パンジャブ)地方に侵入する以前に衰えてしまっていたといわれるが、現段階ではよくわかっていない。ともあれ、鉄器をもちいるアーリア人が、銅器をもちいていたムンダ人やドラヴィダ人などのインドの原住民たちを圧倒し、支配したことは事実である。
 紀元前1500年ごろ――あるいは紀元前13世紀ごろ――インド・ヨーロッパ語族に属するアーリア人たちは、ヒンドゥークシュ山脈を越えて五河地方を占拠した。これ以後、今日にいたるまで、インド文化の中核となっているのは、このインド・アーリア人である。彼らはギリシア人やゲルマン人と同じ祖先をもつ人種であり、インド人の思弁の中には、ギリシア哲学やドイツ哲学の思索の道筋と似たものが見出される。

【『はじめてのインド哲学』立川武蔵〈たちかわ・むさし〉(講談社現代新書、1992年)】

インドのバラモン階級はアーリア人だった/『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士

 つまり東洋と西洋の文化が激しくぶつかり合い、アーリア人支配という政治的側面からヴェーダが作成された。

 ヴェーダとは本来「知識」を意味する。特に「宗教的知識」を意味し、神々への賛歌・神話・哲学的思惟・祭式の規定などを収載する聖典の総称となった。

 で、インドはカースト制度に束縛されていた。

 なお、四姓の原語はヴァルナといって「色」を意味し、もともとは白色のアーリヤ人とそうでない非アーリヤ人を区別するために用いられたことばである。

 社会の安寧秩序を守るための宗教といってよい。いまだにインドはカースト社会であることを踏まえると、人間の脳は簡単に数千年も縛られることが理解できる。強靭な物語力だ。

 ちょっと気になったのだが、「ヴァルナ」はひょっとすると色法(しきほう)と関係があるかもしれない。

 ウパニシャッドにおける重要な思想の一つに、輪廻(りんね)からの解脱(げだつ)がある。

 これは知らなかった。そうするとブッダが説いた解脱とどう違うのかね? 梵我一如の違いだけだとすれば、実にわかりにくい。

 こうしたテーマが厄介なのは、当時の人々が何に束縛されているかを知らなければ、ブッダの目指した自由がわからないことだ。

 またインド哲学でいうところの「我」と、デカルトが見出した「我」は似て非なるものだと思う。仏教が説く我(が)は当体や主体という意味で、自我とはニュアンスが異なるように感ずる。

 ことに『スッタニパータ』にみられる無我説は極めて数が多い。

 なにものかをわがものであると執着して動揺している人々を見よ。彼らのありさまはひからびた水の少ないところにいる魚のようなものである。(777)

 ここでは、なにものかを「わがもの」「われの所有である」と考えることを否定している。執着、我執、とらわれの否定、超越として無我が説かれている。
 また『律蔵』の中で、釈尊は五比丘(びく)に向かって次のように説いている。

 比丘たちよ、この色は我ではない。もし色が自己であるなら、この色が病いにかかることはないであろう。また、色について、わたしの色はかくあれ(健康であれ)、かくなることなかれ(老いないように、死なないように)といえるであろう。しかし、色は我ではないから、病いにかかるし、あれこれと(自由に)することはできない。……この受が我であろうか。……この想が……この行が……この識が我であろうか。

 このように、色(しき/肉体)及び四種の精神(受・想・行・識)の働きをあげ、そのどれもが我と呼べるものではないとしている。
 無我という語は主に初期仏教や部派仏教で用いられるが、大乗仏教ではこれを「空」の語で表現することが多くなった。

 これで一つわかった。諸法無我であるがゆえに、諸法実相は三諦(さんたい)における縁起となるのだ。大乗仏教は諸法無我=空としたため、中道実相に不要な付加価値を与えてしまったのだろう。

 釈尊の教説「四諦十二因縁八正道」をより深めていくと、その根底には空の論理、仮の論理、中の論理と言うものがある。これは龍樹の言う「縁起は即空、即仮、即中」であり、同じく天台大師智ギ(中国)はこれを「空仮中の三諦」と言った。

三諦説「空・仮・中」:日本タントラヨーガ協会

 つまり実体としては縁起しか存在しないのだ。

 縁起とは「縁(よ)りて起こること」である。「縁りて」とは条件によってということであり、あらゆるものは種々さまざまな条件に縁って(縁)、かりにそのようなものとして成り立っている(起)ことである。

 縁起とは人間関係といった意味での関係性ではない。生命次元の相互性・関連性を意味する。

 この縁起を特に法と名づけ、「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る」とも「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは仏を見る」とも説かれている。そしてこの縁起の法則は、たとえ仏が世に出ても出てなくても永遠に変わることのない真理であるといわれる。

 縁起がダルマ(法)なのだ。

 私論を開陳させていただこう。大乗仏教は部派仏教に対抗するために、バラモン教的政治性を取り込んでしまったのだろう。また差別化を計る目的で教義も豊穣な――あるいは過剰な――論理構造を築かざるを得なかった。その過程で梵我一如の影響を受けてしまったのだ。これが一念三千であると考えられる。

 諸法無我は現代科学が証明しつつある。量子レベルで見れば我々の肉体は蜘蛛の巣や綿飴みたいにスカスカだ。そこに微弱な電気が流れ、なぜだかわからないが「私」が立ち上がるのだ。そして哲学的に吟味すれば、「私」とは世界から分断された存在に他ならない。

 鎌倉仏教は大乗と密教をミックスした日本オリジナルの宗教である。現代においては大乗から部派仏教、そして初期経典へとさかのぼり、ブッダ本来の教えを辿るべきだと私は考える。大乗仏教から政治性や運動性を除かないと、単純なプラグマティズムに堕す恐れがあるからだ。

仏教とはなにか―その思想を検証する

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無我なる縁起の「自己」とはいかなる現象か
無我に関するリンク集
ウパニシャッドの秘教主義/『ウパニシャッド』辻直四郎

2017-05-04

「私」という幻想/『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ


『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃
『無(最高の状態)』鈴木祐
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也
『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース

 ・「私」という幻想
 ・悟りとは認識の転換

ジム・キャリー「全てとつながる『一体感』は『自分』でいる時は得られないんだ」
『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ
『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
『今、永遠であること』フランシス・ルシール
『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『人生を変える一番シンプルな方法 セドナメソッド』ヘイル・ドゥオスキン
『タオを生きる あるがままを受け入れる81の言葉』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン

悟りとは
必読書リスト その五

 みなさん、それぞれに「私」という単位を主体にして生きていらっしゃることと思います。つまり、何はともあれ、この世に生きているからにはまず最初に「私」という自意識なり、肉体があり、その「私」の集合体が家族であり、国であり、世界であるというわけです。

 それでは悟りとは何かというと――最初から端的に言ってしまいますが――その「私」というものが幻想であり、虚構であることを自覚することなのです。

【『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ〈なち・たけし〉(明窓出版、2011年)以下同】

 つまり「私」はないということ。「で、そう言っているお前さんは誰なんだ?」と言われそうだな(笑)。「私」とは思考や感情の主体である。近世哲学の祖とされるフランス野郎は「我思う、ゆえに我あり」と語った。キリスト教の場合、神という絶対的な位置から全てが始まるため存在論に傾く。それに対して仏教は現象論だ。デカルトが「我」に思い至る2000年前にブッダは諸法無我と説いた。

 デカルトの方法的懐疑は思考のレベルであり、しかも自我や神を疑うまでに至っていない。野郎の論法でいけば生まれたばかりの赤ん坊や動植物は存在しないことになる。また「我眠る、ゆえに我なし」と言われたらどう反論するのか?

預流果(よるか)恐るべし」――これが本書を読んだ率直な感想である。

 例えば日蓮の『開目抄』(1272年)という遺文には「我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ、等とちかいし願、やぶるべからず」とある。「我れ」だらけで「あんたホントに悟ってんの?」と言いたくなる。こうした自意識を知った信者が祖師信仰(『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司)に向かうのは当然の成り行きといえよう。

 那智タケシが悟りを開いたのは上司に叱られている時であった。もうこれには吃驚仰天(びっくりぎょうてん)である。那智は「自我が落ちた」(身心脱落〈しんじんだつらく/元は心塵脱落〉)と禅語で表現している。

 実は、宗教的信念との同化は、これまたエゴイズムの延長線上にあるものなのです。彼らもまた「私の神のために」生き、そして死んでいるのであって、「他人の神のために」という発想は皆無だからです。それどころか「他人の神を殺す」ために、彼らは自分の命も投げ出すのです。というわけで、現代の国家的宗教のほとんどは、エゴイズムの問題を解決するばかりか、助長し、拡大化している始末なのです。
 一つの宗教への信仰は、人類を殺しこそすれ、救わない。個々人の信仰による救済はともかくとして(宗教の問題は後に触れます)、これはまず歴史的事実として私たちが認識しなくてはいけないことだと思います。

 一つ悟れば物事の本質が見えてくるのだろう。一神教の神は自我の延長線上にあり、仏を神格化(妙な表現ではあるが)した後期仏教(大乗)も同じ罠に嵌(はま)っている。教団は党となった。

 農耕――すなわち経済の発展によって、「私」のために生きるようになった我々は、戦争、テロリズム、核、宗教分裂といった危機にさらされた恐ろしい時代を生きています。
 20世紀は二つの大戦によってかつてない数の人間が死んだ激動の時代でしたが、今世紀はそれ以上の悲劇が待ち構えているかもしれません。いや、おそらく待ち構えていることでしょう。

 農業革命が蓄え=富を誕生させ、都市革命が交易を発達させた。続いて精神革命(枢軸時代)~科学革命~産業革命を経て、現在の情報革命に至る。

 精神革命とは二分心ジュリアン・ジェインズ)から脳が統合化され意識が芽生えた時代と私は捉える。

 インドのバラモン教(古代ヒンドゥー教)が説いたカルマ(業)の教えは自我意識を過去世から来世まで延長したものだ。西洋風に言えば「我苦しむ、ゆえに我(≒カルマ)あり」ということだ。諸法無我とはアートマン(真我)の否定である。「我」(が)は存在しないのだから思考や感情は幻想である。人生とは一種のメタフィクションなのだろう。

 トール・ノーレットランダーシュは意識のことを「ユーザーイリュージョン」(利用者の錯覚)と名づけた。



呪術の本質は「神を操ること」/『日本人のためのイスラム原論』小室直樹

2017-05-14

新しい表現/『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ


『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース
『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ

 ・新しい表現

『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
『今、永遠であること』フランシス・ルシール
『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン

悟りとは

 人間が様々な与えられた観念、断片によって支配され、条件付けられていることを知るためには、まず最初に、自我を支配し、まとわりついた様々な観念の断片に気づき、落とすことが必要になります。つまり、自分自身という存在が断片の集合体にすぎないという自覚――これが逆説的に、あなたを様々な断片の支配から解放する手段なのです。
「私」も含めた一切の事物は、独立した存在ではなく、世界の断片の一つにすぎない――この認識を仏教では、悟りと呼び、そのありようを諸法無我と名づけました。しかし、仏教の既成の言葉では、もはや私たちの混沌とした世界、私たちの入り組んだ精神を解きほぐし、新しい道筋を示すことは困難になりつつあります。真実は、常に時代に即した、新しい表現を求めているのです。

【『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ(ナチュラルスピリット、2014年)以下同】

 預流果(よるか)に至った那智タケシが徒然なるままに綴った短文を編んだもの。言わば箴言集(しんげんしゅう)の体裁だが書籍としての出来は悪い。悟りという強烈な体験に脳が激しく揺さぶられ、酔っ払っているような印象を受けた。ま、それも当然だろうと思う。新しい言葉を紡ぎ出そうとする試みから悟り体験の生々しさが伝わってくる。

 宗教者は古人の言葉をなぞるだけで新しい展開を欠く。時にテキストの奴隷と化して争い合う姿も珍しくない。法という真理は見失われ、律という自制心は形式化し、s時も素っ気もない「法律」という言葉だけが生き残っている。

 世界の中心に特別な「私」、特別な「神」という巨大な断片がある限り、断片はばらばらなままであり、新たな世界を生み出すことがない。

 先日、「真実の智慧とは『ありのままに見る』ことなのだ」(ブッダの遺言「自らをよりどころとし、法をよりどころとせよ」~自灯明・法灯明は誤訳/『ブッダ入門』中村元)と書いた。我々は五官からの情報で世界を認識している。ところが五官には意識(≒自我)というフィルターが掛かっているのだ。そして初めて世界と接触した瞬間のことを完全に忘れ去っている。

視覚の謎を解く一書/『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン

「見る」ことにはこれほどの衝撃と感動がある。とすれば我々は見ているようで見ていないのだろう。

 あなたは、笑う。あなたは、泣く。あなたは、怒る。葛藤多き日常生活の中で、人間の内に、実に様々な感情が隆起する。しかし、その感情もまた、一つの断片である。ゆえにその断片にいつまでも拘泥することは、あなたという存在を卑小なものに貶める。

 分断された世界で人間がアトム化したことは多くの人々が指摘しているところであるが、量子力学によって存在の意味は一変した。マクロの世界を知れば存在という概念はあやふやになってくる。「原子の99.99パーセントが空間」(『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング)というのだから文字通り「空」の存在といえよう。そのスカスカ状態に電気信号が流れ、化学反応が起こり、自我が形成される。これに勝る不思議はない。

 諸法無我が真理であるならば、様々な事象に実体を見出す我々の思考や感情は妄想であるといってよい。つまり自我とは妄想装置なのだ。世界で繰り広げられているのは妄想の正しさを証明する闘争である。

 自らが世界のゆがみの一つであり、断片にすぎないと認識した時、自我の底蓋が開き、一切の葛藤が自身に根付くことなく滑り落ちる。これを身心脱落という。

 蝉の幼虫が脱皮するように自我をふるい落とすことが悟りか。

 真実は、何かを信じることによってではなく、一つ一つの虚偽を落としていくことによってのみ現れる。

 最後に立ちはだかるのは「自分」という虚偽だ。「我悟る、ゆえに我なし」。

 悟りもまた、あなたの人生においては一つの断片である。

 中々言える言葉ではない。

 身心脱落を脱落する――これを脱落身心という。

 捨てて捨てて、落として落として、超えて超え続けるところに人生の真実があるのだろう。

「1+1=2は正しい。絶対に正しい」という発想からは何も生まれない。むしろ1+1=2を疑うことが今必要なのだ。その1が0.6と0.7であれば1+1=1だし、1.3と1.4ならば1+1=3となる。また二進法であれば1+1=10だ。十進法という前提に束縛されているのが信仰者の姿だろう。

二十一世紀の諸法無我―断片と統合-新しき超人たちへの福音(覚醒ブックス)
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2011-12-21

縁起と人間関係についての考察/『子供たちとの対話 考えてごらん』 J・クリシュナムルティ


自由の問題 1
自由の問題 2
自由の問題 3
欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
教育の機能 1
教育の機能 2
教育の機能 3
教育の機能 4
・縁起と人間関係についての考察
宗教とは何か?
無垢の自信
真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

 ランスケさんとの出会いは、レヴェリアン・ルラングァ著『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』によってであった。一冊の本を通して人と人とが邂逅(かいこう)する。何と不思議なことか。最初にコメントがあり、ランスケさんのブログで私の記事を紹介していただいた。

「ルワンダ大虐殺」及び「ルワンダの涙」

 我がブログは反応らしい反応が乏しいこともあって、大変ありがたかった。また私が綴る諸法無我についても敏感に応じてくださった。感受性の鋭い人は侮れない。彼の文章に私も思うところがあった。

 そこで議論、というよりは私自身の考えを確認する意味でこの一文を書いておこう。

 諸法無我という言葉(キーワード)が、重苦しい閉塞感の先に光明を見出す切っ掛けとなるだろうか?
 自我という実体が幻想なら、私という記号は人やモノとの関係性のなかで常に変化するのなら、
 私は「自我の地獄」から解放される。
 それは地球上のすべての生物種がそうであるように、
 人も生命の循環のなかに組み込まれた一つの生物種であることの証明だろう。
 人だけが自我という主体を持つ別個の存在という発想の方が歪に思えてくる。
 その関係性は「縁起」であり「慈悲」へと辿り着くのなら、これは幸福のかたちではないだろうか?

Landscape diary ランスケ ダイアリー

「自我の地獄」とは言い得て妙である。「地」は最低を意味し、「獄」には束縛の義がある。我々は生命を自我に閉じ込めてしまった。

 欲望を巡って幸不幸が位置する。大衆消費社会における幸福とは欲望の充足である。矢沢永吉は「愛も金で買える」と嘯(うそぶ)いてみせた(『成りあがり』)。

 で、欲望は「私」に基づいている。もう一歩踏み込もう。私とは「私の欲望」である。

 自我は版図(はんと)の拡大を目指す。我々がこれほど所有に執着するのは、所有物をもって自我を延長・拡大するためと考えられる。財産はもとより学歴、家柄、氏素性に至るまで他人との差別化を図れるものは全て自我に収束される。

 人が権力に憧れる理由もここにある。より多くの大衆を「手足のように」コントロールするところに権力の本質がある。男性にメカマニアが多いのも頷ける。機械は正確に応答するからだ。拳銃は機能性や様式美もさることながら、離れた場所に位置する人物の生殺与奪を決定する力が男の本能に強く訴えるのだろう。

 縁起=諸法無我とは具体的にいえば「コントロール性から離れる」ことを意味する。仏典では権力に潜む魔性を「第六天の魔王」と説く。これを略して天魔と称する。第六天とは有頂天のこと。天は人間界の上に位置する。別名を「他化自在天」(たけじざいてん)とも。他人を化すること自在というのが権力現象とってよい。

 これは本能に基づいたコミュニティがヒエラルキー構造を避けられないことを示していると思う。ブッダが生まれる以前からカースト制度は存在した。それゆえ弱肉強食からの超脱と考えることも可能だろう。

 もう一つ付け加えておくと、仏法が理解されにくいのは我々が幸福を求めるのに対して、ブッダは苦からの解放を説くという微妙な擦れ違いがあるためだ。厳密にいえばブッダが教えたのは幸福になる道というよりは、自由への直道(じきどう)であった。

 前置きが長すぎた。本論に入ろう。

 ただし、私は縁起は人との関係性を含むと思います。世界との繋がりは、生けるもの全てを呑みこんだ連綿と続く循環だと信じたい。

Landscape diary ランスケ ダイアリー:コメント欄

 私は次のように書いた。

 生は諸行無常の川を流れる。時代と社会を飲み込んでうねるように流れる。諸法無我は関係性と訳されることが多いが、これだと人間関係と混同してしまう。だからすっきりと相互性、関連性とすべきだろう。「相互依存的」という訳にも違和感を覚える。

自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他

 また次のようにも書いた。

 最近になって気づいたのだが、ここで説かれる関係性とは「能動的な関わり」を勧めたものではない。ただ、「これがあれば、あれがある」としているだけである。すなわち教育的な上下関係ではなくして、存在の共時性を示したものと受け止めるべきだろう。

クリシュナムルティの縁起論/『人生をどう生きますか?』J・クリシュナムルティ

 大抵の人間関係は自我に基づいている。国家とは自我である。アイデンティティを規定するのは所属である。「私」が空虚であれば、最終的にしがみつくものは国家しかない。すなわち「私は日本人である」ということが自我の規定となる。

 大阪高等学校寮歌に「君が愁いに我は泣き 我が喜びに君は舞う」との美しい一節がある。かくの如き友情でありたいと私も願う。だが醒めた目で見つめると、その同一性、一体性が戦争の原因ともなり得ることに気づく。

 私が32歳の時、わずか半年の間で6人の後輩を喪ったことがある。文字通り涙が涸(か)れるまで泣いた。その後私は泣くことができなくなったほどである。それこそ身体の一部をもぎ取られるような感覚に陥った。ご家族の哀しみは想像にあまりある。私は彼らの死を力任せに引きずって生きてきた。彼らは私の胸で生き続けた。

「生きとし生けるものは必ず死ぬ」――そんな当たり前の真理に目をつぶりながら賃金を得るため身を粉にして働き、どうでもいいものに金をかけ、刺激を求めることに余念がなく、人の役にも立たない趣味にうつつを抜かし、のんべんだらりとブログを綴っているという寸法だ(※最後のは私のことね)。

諸君は永久に生きられるかのように生きている/『人生の短さについて』セネカ

 そして自我に基づいた人間関係は必ず依存へと向かう。

 現在、自由というようなものはないし、私たちはそれがどのようなものかも知りません。自由にはなりたいけれども、気づいてみると、教師、親、弁護士、警察官、軍人、政治家、実業家と、あらゆる人がおのおのの小さな片隅で、その自由を阻むことをしています。自由であるとは単に好きなことをしたり、自分を縛る外の環境を離れるだけではなく、依存の問題全体を理解することなのです。依存とは何か、知っていますか。君たちは親に依存しているのでしょう。先生に依存して、コックさんや、郵便屋さん、牛乳を届けてくれる人に依存しています。このような依存はかなり簡単に理解できるのです。しかし、自由になる前に理解しなくてはならない、はるかに深い種類の依存があるのです。つまり、自分の幸せのための、他の人に対する依存です。自分の幸せのために誰かに依存するとはどういうことか、知っていますか。それほどに人を縛るのは他の人への単なる物理的な依存ではなくて、いわゆる幸せを招来するための、内面の心理的な依存です。というのは、誰かにそのような依存をしているときには、奴隷になってゆくからです。年をとるなかで、親や妻や夫や導師(グル)、ある考えに情緒的に依存しているなら、すでに束縛が始まっているのです。私たちのほとんどは、特に若いときには自由になりたいと思うけれども、このことを理解していないのです。
 自由であるには、内的なすべての依存に対して反逆しなくてはなりません。そして、なぜ依存するのかを理解しなければ、反逆はできないでしょう。内的な依存のすべてを理解して、本当に離れてしまうまで、決して自由にはなれません。なぜなら、その理解の中にだけ自由はありうるからです。しかし、自由は単なる反動ではありません。反動とは何か、知っていますか。もし私が君を傷つけるようなことを言ったり、悪口を言うなら、君は私に対して怒るでしょう。それが反動で、依存から生まれた反動です。自立はさらに進んだ反動です。しかし、自由は反動ではありません。反動を理解して、それを超えるまで、決して自由ではないのです。
 君たちは、人を愛するとはどういうことか、知っていますか。樹や鳥やペットの動物を愛するとはどういうことか、知っていますか。何も報いてくれないかもしれないし、木陰を作ってくれたり、ついてきたり、頼ってくれたりしないかもしれないけれども、世話をし、餌をやり、大事にするのです。私たちのほとんどはそのように愛していないし、私たちの愛はいつも心配や嫉妬や恐怖に閉ざされているために、それがどういうことかもまったく知りません。それは、私たちが内的に人に依存していて、愛されたがっているということを意味しています。私たちはただ愛して、放っておかず、何か報いを求めます。そして、まさにその求めることで、依存するのです。
 それで、自由と愛は伴います。愛は反動ではありません。君が愛してくれるから愛するのでは、単なる取り引きで、市場で買える物なのです。それでは愛ではありません。愛するとは、何の報いも求めないし、与えていることさえも思わないことなのです。そして、自由を知りうるのはそのような愛だけです。しかし、君たちはこのための教育を受けていないでしょう。君たちは数学や化学や地理や歴史の教育を受けて、それで終わりです。なぜなら、親の唯一の関心は、君たちがよい仕事を得て、人生で成功するように助けることですから。親がお金を持っているなら、君たちを外国に行かせてくれるかもしれません。しかし、親のすべての目的は世間と同じで、君が豊かになり、社会の中で立派な地位を得ることなのです。そして、上に昇れば昇るほど、君たちは他の人々にもっと多くの悲惨を引き起こします。なぜなら、そこにたどり着くために競争し、非情にならなくてはならないからです。それで、親は野心と競争があり、まったく愛のない学校に子供を送ります。そのために、私たちのところのように社会は絶えず腐敗してゆき、絶えまない闘いの中にあるわけです。そして、政治家や裁判官、いわゆる土地の貴族が平和について語っても、何の意味もないのです。
 そこで、君と私はこの自由の問題全体を理解しなくてはなりません。愛するとはどういうことかを自分自身で見出さなくてはなりません。なぜなら、愛していなければ、決して思慮深く、注意深くなることはできないからです。決して思いやることができないからです。思いやるとはどういうことか、知っていますか。大勢の素足が歩く道に尖った石が落ちているのを見たら、それをどけるのです。頼まれたからではなく、他の人を気づかうのです。その人が誰であろうと問題ではありません。その人にはまったく会わないかもしれません。木を植えて大事にしたり、河を見て地球の豊かさに歓喜する。飛んでいる鳥を観察し、その飛翔の美しさを見る。この生というとてつもない動きに敏感で、開いている――これらには自由がなくてはなりません。そして、自由であるには、愛さなくてはなりません。愛がなければ自由はありません。愛がなければ自由は単に、まったく価値のない考えにすぎません。それで、自由がありうるのは、内なる依存を理解して離れ、そのために愛とは何かを知る人だけなのです。そして、新しい文明、違う世界をもたらすのは、彼らだけでしょう。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 同一化とは依存であり、依存は形を変えた所有である。そして自我は蓄積物でいっぱいになる。

あらゆる蓄積は束縛である/『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 2年前に父が死んだ。まともに会話をするようになったのは私が結婚してからのことだった。「もう少し……」という思いは確かにある。もう少し教えてもらいたかったこともあるし、もう少し親孝行もしたかった。だが父は死んだ。私は生きている。私は父と共に生きている。やがて私も死ぬ。

 我々は自分の周囲の死を嘆き悲しむ一方で、他人の死を深く心にかけることがない。世界が不幸に覆われている原因はその辺りにあるのだろう。



Krishnamurti with Students, Rishi Valley, India.

死者数が“一人の死”を見えなくする/『アラブ、祈りとしての文学』岡真理

2011-07-11

夢に関する覚え書き


Wikipedia


語源由来辞典


続き
夢という漢字の由来について


荘子「胡蝶の夢」


『枕中記』(ちんちゅうき)「邯鄲の夢」(かんたんのゆめ)






2014-05-29

八正道と止観/『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ 『大念処経』を読む』片山一良


 仏教の実践は梵行(ぼんぎょう)と呼ばれます。それは清浄(しょうじょう)な行であり、「三学」(さんがく)をその内容としております。三学とは戒・定・慧(かい・じょう・え)の学び、実践です。仏道の根本である「八正道」(はっしょうどう)にほかなりません。すなわち正見(しょうけん)・正思(しょうじ)・正語(しょうご)・正業(しょうごう)・正命(しょうみょう)・正精進(しょうしょうじん)・正念(しょうねん)・正定(しょうじょう)という中正の道、一語で言えば「中道」です。「戒」は正語・正業・正命の道に、「定」は正精進・正念・正定の道に、「慧」は正見・正思の道に相当します。
 仏教には、このような三学、八正道という生活全体にかかわる重要な実践があり、その八正道を含む三十七菩提分法(さんじゅうしちぼだいぶんぽう)という法、実践の体系もあります。そしてまた、坐を中心とした「止観」(しかん)と呼ばれる瞑想の修習(しゅじゅう)、実践があります。
 止観とは、すなわち止の修習と観の修習です。「止」(śamatha サマタ)は、諸煩悩を寂止(じゃくし)させる心の修習、またはその静まりをいいます。「定」の因であり、心が一点に集中する心一境性(しんいっきょうしょう)を本質とします。それに対して「観」(vipaśyanā ヴィパッサナー)は、三界(さんがい)における身心(しんじん)の相(無常〈むじょう〉・苦〈く〉・無我〈むが〉)を観察し、道(どう)・果(か)・涅槃にいたる智慧の修習、またはその智慧をいいます。苦の生滅を知る智慧、「慧」の因であり、知る慧を本質とします。たとえば、釈尊はつぎのように説いておられます。

「あらゆる行は無常なり、と 智慧をもって観るときに
 かれは苦を厭(いと)い離れる これ清浄(しょうじょう)にいたる道なり」(『法句』277)
「あらゆる行は苦なり、と 智慧をもって観るときに
 かれは苦を厭い離れる これ清浄にいたる道なり」(『法句』278)
「あらゆる法は無我なり、と 智慧をもって観るときに
 かれは苦を厭い離れる これ清浄にいたる道なり」(『法句』279)

と。

 これは「観」という「清浄にいたる道」を示されたものです。智慧によって諸行(しょぎょう)の無常、苦を見るとき、また諸法の無我を見るとき、苦を離れる。苦は苦でなくなる。生死(しょうじ)という輪廻の苦は、すなわち輪転の苦のない涅槃である、と言われたものです。苦は苦であり、苦でない、というのです。
 この観は『大念処経』に説かれる最上の実践であり、智慧でもあります。

【『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ 『大念処経』を読む』片山一良〈かたやま・いちろう〉(大法輪閣、2012年)】

 文章に臭みがあり、いかにも坊さんっぽい。片山は駒澤大学教授で精力的にパーリ語仏典を翻訳している人物だ。

「智慧をもって観る」とはクリシュナムルティが説く「ありのままに見る」行為でもある。「観察者は、同時に観察されるものだ。そこに正気があり全体があり、神聖なものとともに、愛がある」(『クリシュナムルティの日記』J・クリシュナムルティ)。

瞑想とは何か/『クリシュナムルティの瞑想録 自由への飛翔』J・クリシュナムルティ
瞑想は偉大な芸術/『瞑想』J・クリシュナムルティ
現代人は木を見つめることができない/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ
クリシュナムルティの悟りと諸法実相/『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティ

 片山は曹洞宗(そうとうしゅう)寺院の住職を務めているようだ。悪臭の原因がわかった。パーリ語経典の禅宗的解釈によるものだ。つまりブッダの言葉を利用する根性がどこかにある。宗教の「宗」の字は中心・根本の意である。片山は根本がズレている。

パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ―『大念処経』を読む
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止観/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ

2012-10-07

本覚思想とは時間的有限性の打破/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ


 ・ただひとりあること~単独性と孤独性
 ・三人の敬虔なる利己主義者
 ・僧侶、学者、運動家
 ・本覚思想とは時間論
 ・本覚思想とは時間的有限性の打破
 ・一体化への願望
 ・音楽を聴く行為は逃避である

『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 2』J・クリシュナムルティ
『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 3』J・クリシュナムルティ
『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 4』J・クリシュナムルティ

 サンニャーシ、同胞愛の士そしてユートピア主義者のいずれも、明日のため、未来のために生きている。かれらは世間的な意味では野心的ではなく、栄光も富も人に認められることも望んでいない。しかしかれらは、もっと微妙な形で野心的なのである。ユートピア主義者は、世界を再生させる力があると彼の信じているある集団と自分を一体化させていた。同志愛の士は、精神的高揚を渇望しており、サンニャーシは自分の目標に到達することを願っていた。いずれも彼ら自身の成就、目標達成、自己拡張に汲々としていた。かれらは、そうした願望こそが、同胞愛を、そして至福を否定するものであることが分かっていないのだ。
 いかなる種類の野心も――それが集団のため、自己救済、あるいは霊的(スピリチュアル)な成就のためであれ――行為を先へ先へと引き延ばすことである。願望は常に未来に関わるものであり、何かになりたいという願いは、現在において何もしないことである。現在(いま)は明日よりもはるかに重要な意義を持っている。【いま】の中に一切の時間があり、そして【いま】を理解することがすなわち、時間から自由になることなのである。何かに【なろうとすること】は、時間を、悲嘆を持続させることである。【なること】は、【あること】を含まない。【あること】は、常に現在におけることであり、【あること】は、変容の至高形態である。【なること】は、限定された持続にすぎず、根源的変容は、ただ現在のうちに【あること】のうちにのみある。

【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1984年)】

 書名で検索したところ自分で書いた記事を発見した。削除しようかとも思ったのだが、面倒だからそのままにしておく。私の場合、45歳を過ぎてから精神的に目まぐるしい変化を遂げているので主張の変化が激しい。

 今回紹介してきたのは「三人の敬虔なる利己主義者」と題された冒頭のテキストである。オルダス・ハクスレーに促されて書き始め、クリシュナムルティにとっては初めての著作となった(※それ以前に講話集は刊行されている)。

 第二次世界大戦が迫る中で平和を説くクリシュナムルティを人々は受け入れなかった。トークの途中で去ってゆく人々もいた。戦争が始まり、クリシュナムルティは1940年から4年間にわたって講話を中断した。

コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ

 人々が殺戮へと駆り立てられる中でクリシュナムルティは沈黙のうちにペンを執った。

 最初に書かれたのは「時間の終焉」についてであった。これはデヴィッド・ボームとの対談集タイトルにもなっている(『時間の終焉 J・クリシュナムルティ&デヴィッド・ボーム対話集』渡辺充訳、コスモス・ライブラリー、2011年)。

 人生には限りがある。その時間的限定性を打ち破ろうとすれば、ただ現在に生きるしか道はない。将来や来世は所詮自我の延長戦だ。あたかも連続ドラマのように「続く」と終わりたいわけだ。残念ながら続かないよ(笑)。自我なんてものは、脳内で反復し続ける反応に過ぎないのだから。その意味から申せば、「心」や「命」という言葉は概念としては存在するが決して実在するものではない。ゆえに諸法無我となるわけだ。


 時間的有限性を死後に延長するのではなくして、現在という瞬間に無限に押し広げてゆく。これが本覚思想の本質である。検索してみたところ、私以外には本覚思想を時間論で捉えている人はいないようだ。嚆矢(こうし)と威張ってみせたいところだが、ま、クリシュナムルティのパクリに過ぎない(笑)。

「【なること】は、【あること】を含まない」――簡にして要を得た言葉は悟りそのものだ。しかも、「なること」に潜む野心まで明かしている。理想とは形を変えた欲望なのだろう。我々は自我を満たすためにあらゆるものを利用する。時間的な経過が欠乏感を埋めることは決してない。今日よりは明日に、そして今世よりは来世に希望を託しながら現在の不幸を忍ぶ。

 簡単な思考実験をしてみよう。もしもあなたが「明日までの命」と医師に告げられたとしたら、最後の24時間は中途半端で無駄な時間なのだろうか? 大病を経験した人々の多くが劇的な生の変貌を遂げる。医師の井村和清は『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』の中で「世界が光り輝いて見えた」体験を綴っている。これが本覚(ほんがく)だ。






k1

時間を超える/『こうして、思考は現実になる』パム・グラウト
愚かさをありのままに観察し、理解する
『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
自由は個人から始まらなければならない/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ

2019-10-31

無肥料栽培/『野菜は小さい方を選びなさい』岡本よりたか


『日本自立のためのプーチン最強講義 もし、あの絶対リーダーが日本の首相になったら』北野幸伯
・『日本の生き筋 家族大切主義が日本を救う』北野幸伯
『給食で死ぬ!! いじめ・非行・暴力が給食を変えたらなくなり、優秀校になった長野・真田町の奇跡!!』大塚貢、西村修、鈴木昭平
『伝統食の復権 栄養素信仰の呪縛を解く』島田彰夫
・『親指はなぜ太いのか 直立二足歩行の起原に迫る』島泰三
『自殺する種子 アグロバイオ企業が食を支配する』安田節子
『タネが危ない』野口勲

 ・無肥料栽培
 ・本物の野菜は腐らずに枯れる

『食は土にあり 永田農法の原点』永田照喜治
『土を育てる 自然をよみがえらせる土壌革命』ゲイブ・ブラウン
『シリコンバレー式自分を変える最強の食事』デイヴ・アスプリー
『医者が教える食事術 最強の教科書 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方68』牧田善二
『医者が教える食事術2 実践バイブル 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方70』牧田善二
『あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた』アランナ・コリン

 僕は農作物を栽培することを生業のひとつとしています。僕の農法は、一般的には認知されていない無肥料栽培というものです。一見聞き慣れない無肥料栽培という言葉ですが、最近で言うところの自然農法とか自然栽培と呼ばれる農法が、無肥料栽培にあたります。無肥料栽培という言葉だけですと、化学肥料を使用せず、家畜排せつ物から製造した有機肥料を使用していると思われる方もいるようですが、僕は有機肥料を使用することもありません。
 自然農法や自然栽培という農法には、本来、定義というものはありませんが、広義では、無肥料、無農薬、無除草の栽培方法を指します。さらに不耕起、つまり畑を耕さない農法を自然農法と呼ぶことが多いと思います。

【『野菜は小さい方を選びなさい』岡本よりたか(フォレスト出版、2016年)】

 タイトルが命令形で、冒頭から「僕が、僕が」と書いてあるのを見ると「我こそは正義なり」との思い込みが見えてウンザリさせられる。つまみ食い程度の読書で済まそうと思いながらも最後まで読んでしまった。読ませられたと言ってよい。無農薬は聞いたことがあるが無肥料・無除草は初耳だ。

 普通に考えれば、野菜や穀物に肥料を与えることによって、作物は元気に育ち、健康にもなるという認識だと思います。人間も食事によって栄養をしっかり摂っていれば、病気になることは少ないでしょう。それは決して間違ってはいません。
 しかし、僕は無肥料栽培を始めて以来、その常識に疑問を感じはじめました。
 なぜかといえば、作物に肥料を与えるのを止めると、作物の病気や虫食いがどんどん減っていったからです。

 よく考えると別に不思議な話ではない。そもそも現在ある野菜は長い歴史を生き抜いてきた果てに存在するわけで、自然界に存在していた時は肥料や除草という人為は加えられていない。また移動できない植物は毒を発することで外敵から身を守ってきたのだ。調理の灰汁(あく)抜きとはその毒を除去する意味がある。

 土のなかの微生物は生き物ですから、当然食べものが必要です。それが、本来、草の根っこや枯れた草等です。作物の根っこ以外、草という草の根っこや落ち葉や枯草がなくなるので、微生物たちの餌(えさ)が足りなくなります。食べもののないところに生物が棲(す)むことはありません。そのため、微生物たちも立ち去っていってしまうのです。(中略)
 土壌中の微生物というのは、人間の腸内細菌と同じだと考えてもらっていいでしょう。土壌から微生物がいなくなると、植物は土の栄養を使えなくなります。なぜなら、植物は土壌中の微生物、特に菌根菌(きんこんきん)という菌の力を借りて、土壌中の栄養を取り込んでいるからです。

 つまり現代の野菜は狭い鶏舎に閉じ込められたブロイラーのような状態なのだろう。たとえ有機肥料であったとしても土壌中の微生物バランスは大きく変わってしまうという。

 人体もまた微生物との共生で成り立っている。腸管内だけで4000種、100兆個もの微生物が存在する。この腸内細菌なくして我々は生きてゆくことができない。

 土壌から微生物がいなくなってヒトの腸内環境も一変したのだろう。そして便利なテクノロジーが生活習慣病を生んだ。既に我々は本物の野菜を知らないのだ。

 具体的な土作りも書かれており、家庭菜園やプランターで野菜を育てている人は必読である。

2021-09-14

創造モードとサバイバルモード/『あなたという習慣を断つ 脳科学が教える新しい自分になる方法』ジョー・ディスペンザ


『「言葉」があなたの人生を決める』苫米地英人
『アファメーション』ルー・タイス
『「原因」と「結果」の法則』ジェームズ・アレン
『「原因」と「結果」の法則2 幸福への道』ジェームズ・アレン
『新板 マーフィー世界一かんたんな自己実現法』ジョセフ・マーフィー
『未来は、えらべる!』バシャール、本田健
『潜在意識をとことん使いこなす』C・ジェームス・ジェンセン
『こうして、思考は現実になる』パム・グラウト
『こうして、思考は現実になる 2』パム・グラウト
『自動的に夢がかなっていく ブレイン・プログラミング』アラン・ピーズ、バーバラ・ピーズ

 ・創造モードとサバイバルモード

『無(最高の状態)』鈴木祐
『ゆだねるということ あなたの人生に奇跡を起こす法』ディーパック・チョプラ
『ソース あなたの人生の源はワクワクすることにある。』マイク・マクナマス
『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也
『あなたはプラシーボ 思考を物質に変える』ジョー・ディスペンザ
『宇宙一美しい奇跡の数式 0=∞=1』ノ・ジェス

必読書リスト その五

 創造モードにあるとき、私たちは完全に創作に没頭し、大いなる宇宙の流れに沿っているため、環境、身体、時間の存在がなくなり、意識に入らなくなる。
 創造モードで生きることとは、誰でもない人として生きることである。何かを夢中で創っているとき、我を忘れていることに気づいたことがあるだろうか? そのときあなたは自分の知っている世界から逸脱している。そのときあなたは、自分の所有物、帰属する人々や集団、職業、住所によって自らを定義する「客観的人物」ではない。創造モードにあるときのあなたは、あなたという習慣を忘れていると言ってもいいだろう。そのときあなたは自己中心的な自分を横に置いて、無我の境地に入る。

【『あなたという習慣を断つ 脳科学が教える新しい自分になる方法』ジョー・ディスペンザ:東川恭子〈ひがしかわ・きょうこ〉訳(ナチュラルスピリット、2015年)】

 創造モードの反対がサバイバルモードである。動物的・本能的な状態といってよい。バブル景気が崩壊した後、「サバイバル」という言葉がよく使われた。多くの企業が倒産し、社員はリストラされ、就職は氷河期を迎えた。他人を蹴落としてでも生き延びる。受験戦争はそんな生き方を密かに奨励してきたのだろう。

 私は長らくテレビを持たない生活をしているのだが、出掛けた先で東京オリンピック・パラリンピックの模様を何度か見た。強靭な身体(しんたい)が躍動する様は美しくもあり、畏敬の念に打たれる。ただし、勝者のガッツポーズが見苦しい。みっともない。相手がいるからこそゲームが成り立つわけだから、勝ったことよりもプレイできたことを喜ぶべきだろう。これがサバイバルモードと創造モードのわかりやすい違いである。

「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」(『論語』)。俗に好きこそものの上手なれと言うが、楽しむ者には及ばない。「知る」はサバイバルモードで、「楽しむ」が創造モードだ。「努める」(あるいは務める、勤める、勉める)姿勢と無縁なところに創造の輝きがある。

 無我夢中は三昧(サマディ)に通じる。たぶん大脳新皮質(理性)と大脳辺縁系(感情)が調和しているのだろう。脳におけるノンデュアリティ(非二元)である。

 人々が音楽や芸術を愛するのも日常からの「逸脱」を心地よく感じるためか。なぜ逸脱が心地よいのか? それはサバイバルモードが理性と感情の分裂を促進し、ストレスが蓄積されるためだ。特に産業革命以降、資本主義経済は労働=賃金に換算してしまった。多くの人々は「食うために働く」。「働かざる者食うべからず」は新約聖書の言葉だが、キリスト教において労働は神が人間に与えた罰であった。日本では元々「働く=傍(はた)にいる人を楽にする」という価値観であったが、高度経済成長で職人仕事が激減すると、やはり西洋と同じ道を辿った。ヒトの特長が手で道具を作ることにあるとすれば手仕事の復権が望まれる。

「あなたという習慣を断つ」とは絶妙なタイトルである。自我は記憶と習慣から成る。繰り返しに自我の本質があり、それこそが業(ごう)の正体なのだろう。

2017-08-13

無投票の権利/『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆


『我が心はICにあらず』小田嶋隆
『安全太郎の夜』小田嶋隆
『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
『山手線膝栗毛』小田嶋隆
『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆
『コンピュータ妄語録』小田嶋隆
『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆
『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆
『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆
『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆

 ・愛国心への疑問
 ・ギネス認定はインチキ
 ・個性は伸ばすものではなく、勝手に伸びるものだ
 ・無投票の権利
 ・勝ち上がってくる力士
 ・長時間睡眠自慢

『テレビ標本箱』小田嶋隆
『テレビ救急箱』小田嶋隆

 何かをする権利は、その裏に何かをしない権利を含んでいる。そうでなければ十全な権利とは言えない。信教の自由は、宗教を信じない自由を含んでいるし、集会の自由は、ひきこもりの自由を包摂している。また、表現の自由は沈黙の権利を保障しているはずだし、職業選択の自由は同時にプー太郎たることの自由でもある。であるからして、投票権は自動的に無投票権を含んでいなければならず、そうである以上、無投票という選択にも、投票行動と同等な重みが持たされねばならない。で、提案がある。議員の定数を投票率に連動させるというのはどうだろう。たとえば投票率が50%なら、議会の議席そのものが半減するわけだ。どうだ? 良さそうじゃないか。
 首長選の場合は、人気を投票率に反映させても良い。得票数をそのまま給与に換算するのも面白いかもしれない。いずれにしても、こういうことになればオレの無投票にも若干の意味が出てくる。

【『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆(朝日新聞社、2005年)以下同】

 小田嶋がラジオ番組で「生まれて初めて投票に行った」と語った時、私の心を風が吹き抜けた。ちょっとした衝撃を受けたものだ。また「新聞には編集作業があるがネット情報にはそれがない」との主張にも驚かされた。まるで「普通の大人」が言いそうなことではないか。

 本書はアル中が極まった頃の作品であるにもかかわらず決して魅力が色褪せていない。転落しながらも社会に向かって唾を吐く小田嶋の矜持(きょうじ)があるように思う。

 無投票については諸手を挙げて賛成する。既に何度も書いてきた通り私は民主政(『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志)を支持していない。ワイドショー情報を鵜呑みにするオバサンの1票と私の1票を同列に扱われるのは大いに困る。国民全員が投票を棄権し、オレの1票で国政が決まればこんな嬉しいことはないのだが(笑)。

イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド
小田嶋 隆
朝日新聞社
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2011-12-06

岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ その二


 ・岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ その一
 ・岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ その二

『21世紀の宗教研究 脳科学・進化生物学と宗教学の接点』井上順孝編、マイケル・ヴィツェル、長谷川眞理子、芦名定道
『業妙態論(村上理論)、特に「依正不二」の視点から見た環境論その一』村上忠良

 結論を先に言えば、大乗の理論家たちは、三身説を発見することによって、仏伝の永遠反復が内包する不条理を克服した。仏伝の永遠反復説は、三身説の確立によって、より正確にいえば、仏陀の「報身」説の発見によって、消え失せたのである。
 仏伝の永遠反復説は、法身と生身という二仏身観を基にしている。この二仏身観は大衆部から初期大乗へと受け継がれた。仏陀を本体としては無時間的存在と見なし、過去仏や未来仏は時間の中に現われた顕現と見なす考えは、神話的思考に基づく二仏身観が支持される限り、常に当然の帰結であった。しかし仏陀を輪廻の世界に降りてきた「法界の顕現」と見做すと、個々の仏陀は個性を失って、単なる反復ということになる。すると個々の【十四】仏陀は修行の結果、仏陀に成った「人間」であるとは考えられなくなる。すると大乗における菩薩思想は崩壊せざるをえない。凡夫が発心して菩薩に成り、十地の階梯を経て仏に成るという道は形而上学の扉で永久に閉じられ、ただ仏陀のみが仏陀として現われてくるにすぎなくなる。菩薩たちすら、実は法身の仏陀が顕現した存在であるということになる。

岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」

 いくらか参考にはなるが、仏教の素養がない人にはチンプンカンプンなことだろう。専門家の言葉は大衆に届かない。ま、届けるつもりもないのだろう。「だから何なんだ?」「それがどうした?」と言われてしまえばそれまで。

 なぜ永遠に反復しなければならないのか、永遠反復する場合としない場合とでは何が違うのか、こういった点が非常にわかりにくい。精読していない立場でいうのも何だが、永劫回帰の焼き直しにしか見えない。

 大体、永遠に反復するのであれば、それ自体が六道輪廻の範疇となってしまう。法(真理)を表現する言葉は社会の変遷に伴って変わらざるを得ない。そこに言葉と知性の更新があるのだ。

 つまり仏陀を無始なるものとして崇める、新しい仏教の立場と、仏陀を人間がなったものと考える、オーソドックスな仏教の立場は、ここで絶対に矛盾するものとなる。
 仏陀観が発達したために必然的に生じた、この矛盾を乗り越えるために、新たに考え出されたのが三身説である。この三身説では、「法身」と「生身」の従来の二仏身の間に、中間的な仏身としての「報身」(受用身)を立てるのである。
「報身」は、修行の結果としての果を所有し、固有の名前をもつ仏陀である点で、無時間的な「法身」とは異なるが、しかし法界に存在して、ほとんど無限の寿命を持ち、多くの化身を地上に下すという点で、従来の「法身」に等しい超越性をもつ。
 この「報身」の成立によって、仏陀は八十歳で入滅する歴史的存在(生身)でもなく、何の具象性ももたない非・歴史的な存在(法身)でもなく、歴史を越えながら歴史性を回復した存在となる。(図式2を参照)
 この「報身」の理論的な成立は中期の大乗、特に唯識学派においてであるが、しかしそれ以前にも『法華経』などの大乗経典においては、「法身」という言葉で、普遍的で非・歴史的な仏を指すのではなく、久遠釈迦という、「報身」にあたる仏を意味してきた。つまり、二身説らしく見えながら実際は〈法界〉-〈久遠釈迦〉-〈肉【十五】身釈迦〉の三段階になっており、すでにこの時代において、純粋な二身説の仏陀の非歴史性に対して物足りなさを感じる、熱烈な釈迦信仰を持つ人々が、実質的に三身説にあたる仏身観に移行していたと考えられる。

 僣越ながら私が一言で述べてしまおう。大日如来も阿弥陀如来も久遠元初(くおんがんじょ)自受用報身如来(じじゅゆうほうじんにょらい)も全部一緒だ。これらには仏を神格化する目的があったのだろう。仏なのに神を目指すのだから不思議な話だ。人類という種はよほど人格神が好きなのだろう。

 では神とは何か? 神とは偶像である。ここ、アンダーライン。キリスト教が偶像崇拝を戒めている(モーゼの十戒)のは、偶像は一つあれば十分だからだ。神が自分に似せて人間を創造したのではない。人間が自分に似せて神という偶像を想像したのだ。

 しかもこの作品は目に見えない。会った人もいなければ、言葉を交わした人もいない。啓示とは個々人の脳内に発現した妄想である。「いる」って言い張るのであれば俺の家に連れて来いよ。言いたいことが山ほどあるから(笑)。

 結論――人類は神様が大好き。「人智の及ばぬ」という言葉に象徴されているが、一人ひとりは部分情報としての人生を生きるしかない。そこで全体情報という視点として「神」という座標が想定されたのだろう。

人間は不完全な情報システムである/『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人

 ブッダとは「目覚めた人」の謂(いい)である。ブッダ以前にもブッダと呼ばれた人々はいた。そしてブッダはアルハット(阿羅漢/独覚〈どっかく〉=独りで悟りを開いた者)と呼ばれることをよしとした。ティク・ナット・ハンによれば、後年は「タターガタ」(真如から来たりし者=如来)と名乗ったようだ。

 日本の仏教は鎌倉時代のドグマに支配されている。だから800年近く経っても何の進歩も深化もない。これ自体、教義が知性を眠らせることを示している。

 仏教は小乗から大乗へと移り変わる中で教義を構造化した。寺院建築と似たようなもので、脳のネットワーク機能が進むと必ず様式化されてゆくのだ。情報のフィードバック構造が変化するためだ。そして悟りからどんどん離れてゆく結果となる。

 仏教における真理は、空=縁起=諸法無我であり、実相=中道であろう。仏の絶対視は諸法無我に反する。

 そんなわけで日本語の「仏」ってえのあ、もうダメだと思う。手垢まみれになっちまって神と見分けがつかないもの。敗戦後の日本では「神も仏もあるものか」と並び称されるようになってしまった。

 仏という言葉に隔絶感を覚えるのは、悟った人がいないためである。「仏教は凄い」と語る人は多いが、「仏教で悟った」人を見たことがない。

2014-03-19

クリシュナムルティの三法印/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムルティ


クリシュナムルティはアインシュタインに匹敵する
コミュニケーションの本質は「理解」にある
クリシュナムルティ「自我の終焉」
・クリシュナムルティの三法印

 ですから、非難もせず、正当化もせず、自己を他のものと同一化もせずに、【あるがままのもの】を【あるがまま】に認識したとき、私たちはそれを理解することができるのです。自分自身がある一定の条件と状況のもとに置かれていることを知ることが、すでに自己解放の過程にあるということです。これに反して、自分が置かれている条件や、内なる葛藤を自覚していない人間は、自分とは別の人間になろうとして、その結果、それが習慣になってしまうのです。そういうわけですから、ここで次のことを銘記しておきましょう。私たちは【あるがままのもの】を【あるがままに】考察し、それに偏向を加えたりせずに、実際にある通りのものを観察し、認識したいのだということを。【あるがままのもの】を認識し追求していくためには、きわめて鋭敏な精神と柔軟な心を必要とします。というのは、【あるがままのもの】は絶え間なく活動し、絶えず変化し続けているからなのです。そしてもし精神が、信念や知識というようなものに束縛されていたりすれば、その精神は追求をやめ、【あるがままのもの】の素早い動きを追わなくなってしまいます。【あるがままのもの】は、決して静的なものではなく、厳密に観察してみると分かるように、絶えず活動しているのです。そしてその動きについてゆくには、非常に鋭敏な精神と柔軟な心の働きが必要なのです。ですから精神が静止していたり、信念や先入観に囚(とら)われていたり、自己を対象と同一化してしまっていると、そのような働きが出てこないのです。また干からびた精神や心は、【あるがままのもの】を素早く敏捷に追っていくことができません。

【『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ:根木宏〈ねぎ・ひろし〉、山口圭三郎〈やまぐち・けいざぶろう〉訳(篠崎書林、1980年)以下同】

 諸法実相を覚知するためには諸法無我が前提となり、あるがままのものは諸行無常である。つまり諸法の実相を見ることが涅槃寂静なのだ。専門用語をひとつも使うことなく三法印をあますところなく説いている。

 ブッダとクリシュナムルティの不思議なる一致に私は恐れをなす。仏とはたぶん人を意味するのではない。それは「現象」なのだ。法が人の姿を通して現れた現象なのだろう。我々の瞳は光を捉えることができない。目に映るのは可視光線だけだ。月光や稲妻は塵(ちり)などに当たった光の反射であろう。ブッダとクリシュナムルティは人類にとって光であった。それゆえ「捉えた」(=わかった)と錯覚してはなるまい。

 我々は「【あるがままのもの】を【あるがまま】に認識」できない。その事実が延髄に衝撃を走らせる。アントニオ猪木の蹴りでさえ、これほどの衝撃を与えることはできない。私は「私」というフィルターを通して世界を見ているのだ。色眼鏡は暗く、鏡は歪んでいる。思考・解釈・類推が私の世界だ。不幸な者にとって世界は忌むべき対象であり、幸福な者にとっては揺りかごみたいな場所なのだろう。

 では「私」を通すことなく世界を見つめることは可能だろうか? 「可能だ」とクリシュナムルティは説く。ならばグズグズ理屈をこねることなく実践しようではないか。諸法無我に至った時、諸法実相が見える。その内容は『クリシュナムルティの神秘体験』に詳しく描かれている。

自我の終焉―絶対自由への道
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2015-02-08

坪倉優介


 1冊読了。

 8冊目『記憶喪失になったぼくが見た世界』坪倉優介〈つぼくら・ゆうすけ〉(朝日文庫、2011年/幻冬舎文庫、2003年『ぼくらはみんな生きている』改題)/必読書入り。ラドラムの『暗殺者』と記憶喪失つながり。坪倉の場合は重度だと思われるが、いやはや凄まじい世界が現れる。記憶喪失になった彼は「見たもの」を理解することができない。私は俵万智の解説を読むまで冒頭で描かれている「3本の線」が電線を指していることに気づかなかった。物の仕組みや機能だけではない。坪倉は「ご飯」すら理解できなかった。彼は突然、見知らぬ世界に投げ出されたも同然だった。ここで「あ!」と閃くわけだが、彼が綴っているのは「生まれてきたばかりの子供に見える世界」でもある。その意味で育児をしているお母さんは必読のこと。自我とは記憶であり、個性とは記憶に基づく反応である。ブッダもクリシュナムルティも無我を説いたが、無我そのものは幸福や自由を意味しない。坪倉はむしろ不安だらけになっている。しかし彼の瞳は純粋にありのままの世界を捉える。我々は自我という固有の性質が存在すると思い込んでおり、ある人々は生まれ変わってもそれが継承されると信じている。だがそんなものは脳に蓄積された数十年分のデータに過ぎない。個性は社会の中で許容された個別的反応であり、社会性とは自分を許容してもらう範囲を広げることが巧みなコミュニケーション能力を意味するのだろう。坪倉は二度生まれた。過去の記憶は殆ど戻らない。それでも彼は生きてゆく。大学卒業後、染物工房に就職し、現在は自分の工房を営んでいる。

2011-12-09

無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元


 数年前に初めて『ブッダのことば スッタニパータ』(中村元訳、岩波文庫、1958年)を飛ばし読みした。「フーン」とは思ったものの、さほど心は動かなかった。その後、クリシュナムルティと遭遇する。私は乾いた砂が水を吸うように貪り読んだ。気がつくとブッダの言葉は激変していた。雷光の如く胸に突き刺さった。

 言葉はシンボルだ。仏教では文・義・意という立て分け方がある。経文、教義、真意という意味で、一つの言葉を三重に深めている。

 シンボルの究極は数式とマンダラである。詩歌や名言がこれに次ぐ。要は抽象度が高いのだ。

 なぜ私はブッダの言葉を理解できなかったのだろう? それは文(もん)だけ読んで、義意に辿りつけなかったためだ。そして今、義意をわかったように思っている。しかし実は違う。もしも義意がわかったとすれば、私はブッダと同じ悟りに達したことになるからだ。

 おわかりになっただろうか? 言葉とは翻訳機能にすぎないのだ。我々は日常の対話においてすら言葉というシンボルを手繰り寄せながら、コミュニケーションを図っているのである。ゆえに時折誤解や行き違いが生じる。

日本に宗教は必要ですか?/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳
教育の機能 2/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ

 言葉がコミュニケーションのツールであるならば、マンダラも悟りのための道具なのだろう。

 前置きが長くなってしまった。シリーズ『人生と仏教』は全12巻となっている。中村元が担当しているのは本巻だけのようだ。温厚な人物だけに時折盛り込まれる手厳しい指摘が鞭のように唸(うな)る。

 中村が20年かけ1人で執筆していた『佛教語大辞典』(東京書籍)が完成間近になったとき、編集者が原稿を紛失してしまった。中村は「怒ったら原稿が見付かるわけでもないでしょう」と怒りもせず、翌日から再び最初から書き直し、8年かけて完結させ、1・2巻別巻で刊行。

Wikipedia

 前半の初期仏教に対して、後半の鎌倉仏教&その他は失速した観がある。やはり些末な教義が言葉の抽象度を低くしているように感じてならない。中村は初心者にもわかる言葉で、深遠な仏法哲理を自在に語る。

 したがって、ゴータマは形而上学的な問題については解答を与えることを拒否した。原始仏教聖典を見ると、「我(=霊魂)および世界は常住であるか?(=時間的に局限されていないか?)あるいは無常であるか?(=時間的に局限されているか?) 我および世界は有限であるか、あるいは無限であるか、身体と霊魂とは一つであるか、あるいは別のものであるか? 完全な人格者(タターガタ〈「如来」と訳される〉)は死後に生存するか、あるいは生存しないのか?」などの質問が発せられたときに、かれは答えなかったという。このような問いが14あり、それに対してイエスともノーとも答えを記さないから、漢訳仏典では〈十四無記〉という。また返答を与えないで捨てて置くことが、実は一つのはっきりした立場を表明していることになるので、これを〈捨置記〉(しゃちき/『倶舎論』〈くしゃろん〉における訳語)ともいう。(ここではカント哲学などにおけると相似た二律背反〈アンチノミー〉の問題が想起されているのである)。(句点ママ)
 では、なぜ答えを与えなかったのかというと、これらの形而上哲学的問題の論議は益の無いことであり、真実の認識(正覚〈しょうがく〉)をもたらさぬからであるという。(ジャイナ教徒は仏教徒を「不可知論者」とみなしていた)。懐疑論者サンジャヤは懐疑論的立場に立って、このような質問に対しては曖昧模糊(あいまいもこ)たる返答をして問題の焦点をはずしたが、ブッダはそれとは異なって、明確な自覚に基づいて返答を拒否した。この点について興味深いのは毒矢の譬喩(ひゆ)である。

【『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元〈なかむら・はじめ〉(佼成出版、1970年)以下同】

 以下、無記に関するリンク。

原始仏教の教理
無記説の考察
輪廻思想は仏教本来の思想か(舟橋尚哉)
連続ツイート 無記(茂木健一郎)
茂木健一郎氏の連続ツイート「無記」に関する違和感

 続いて「毒矢の喩え」が引用される。

「ある人が毒矢に射られて苦しんでいるとしよう。かれの親友・親族などはかれのために医者を迎えにやるであろう。しかし矢にあたったその当人が、『わたしを射た者が王族であるか、バラモンであるか、庶民であるか、奴隷(どれい)であるか、を知らない間は、この矢を抜き取ってはならない。またその者の姓や名を知らない間は、抜き取ってはならない。またその者は丈が高かったか、低かったか、中位であったか、皮膚の色は黒かったか、黄色かったか、あるいは金色であったか、その人はどこの住人であるか、その弓は普通の弓であったか、強弓であったか、弦(弓づる)や■(竹冠+幹)箭(矢柄)やその羽根の材料は何であったか、その矢の形はどうであったか、こういうことがわからない間は、この矢を抜き取ってはならない』(カギ括弧ママ)と告げたとする。しからばこの人は、こういうことを知り得ないうちにやがて死んでしまうであろう。それと同様に、もしもある人が「尊師がわたくしのために〈世界は常住なものであるか、無常なものであるか〉などということについて、いずれか一方に定めて応えてくれない間は、わたしは尊師のもとで清浄(しょうじょう)行をしないであろうと語ったとしよう。しからば師がそのことを説かれないから、その人はやがて死んでしまうであろう」(MN.I.pp.429-30)

 西洋で形而上学が発展したのは、教会がアリストテレスを採用したためだ。多分。キリスト教は砂漠で生まれた。砂漠には何もない。そこに広がっているのは天だけだ。だからキリスト教は自然環境を征服する対象と見なした。これは建築様式にも反映されていて、多くの教会が尖塔(せんとう)となって天を目指している。

「毒矢の喩え」は広く知られているが実に鮮やかな反論である。我々は生まれてから歴史、文化、伝統などの条件づけによって数えきれないほどの小さな毒矢を射(う)たれている。生の本質に暗い理由はそこにある。資本主義が世界を席巻してからというもの、人間の悩みは経済的なものに限定されてしまった。収入、対価、コスト、合理性など、あらゆることが経済的尺度に置き換えられる。

 人生で本質的なこと、とりわけ、自らの行動原理にかかわることについて「無記」が大切なのは、言葉に表すことでかえって「動き」が止まってしまうから。

 言葉で「こうだ」と決めつけてしまうことは、うごめく生命体をスケッチするようなもの。

茂木健一郎

 これは卓見だと思う。生は瞬間瞬間とどまることがない。そのダイナミズムを言葉が止めてしまうというのだ。教義に額づく宗教者が愚かであるのも同じ理由だ。生を教義の中に閉じ込めることは本末転倒である。仏教は啓典宗教ではない。

 私はやはり「毒矢の喩え」を忠実に読むことが大事であると考える。要はブッダが斥(しりぞ)けたのは「死から目を背け、死から遠ざかる思考」であったといえまいか。

 時間は概念であるゆえ、永遠は存在しない。観測者がいなくなった時点で時間は消失する。変化という諸行無常の姿が時間の本質なのかもしれない。

月並会第1回 「時間」その一

 我々は限定された時間を生きる。その限界性を打ち破るものは思考ではない。なぜなら言葉はシンボルにすぎないからだ。

 そもそも言語機能は脳の部分的な働きであり、しかも後天的に獲得されたことを見落としてはなるまい。人間を深いところで支えているのは脳の古い皮質大脳辺縁系)なのだ。

 ブッダが見つめたのは生と死であった。形而上学は生と死を見失わせる。

 ブッダは、しばしば良い医者に喩(たと)えられている。
 そうして聖典の語るところによると、ゴータマは「わが道は真理である」と主張することなく、また「汝(なんじ)の説は虚妄(もう)である」といって相手を非難することもない(『スッタニパータ』八四三)。他の学説と衝突することもない(同上、八四七)。かれは一つの立場を固守して他の者と争うことがないのである。
 したがってブッダの教えは、他の教えと「等しい」とか「勝(すぐ)れている」とか「劣っている」とかいって比較することもできぬものである(『スッタニパータ』、八四二以下、八五五、八六〇参照)。比較ということは、共通の場面の上に立っている者どもの間でのみ可能なのである。次元を異にする者どもの間では、比較は成立し得ない。世の哲人は〈真理の一部分を見る者〉であるが、ブッダは真理そのものを見る者である。この趣意を明かすために群盲が象を評するという譬喩が述べられている(『義足経』巻上。「鏡面王経」第五。大正蔵・四巻、178ページ上-下)。ゴータマ・ブッダは、種々の哲学説がいずれも特殊な執着に基づく偏見である、ということを確知して、そのいずれにもとらわれず、みずから省察しつつ、内心の寂静の境地に到着しようとした(『スッタニパータ』、八三七など)。「無争論」というのが根本的立場であった。「世間はわれと争えども、われは世間と争わず」。――このような「争わない」という立場が原始仏教経典のうちの最古層に表明されているのであるから、ゴータマは、当時の諸哲学説と対立する、なんらか特殊な哲学説の立場に立って、新しい宗教を創始しようとする意図もなく、また新しい形而上学を唱導したのでもない。ゴータマは二律背反に陥るような形而上学説を能(あた)うかぎり排除して、真実の実践的認識を教示したのである。
 かれは、みずから〈真実のバラモン〉または〈道の人(沙門)〉となる道を説くのだ、ということを標榜していた。かれは徳行の高い昔の聖仙を称賛していた。ゆえにゴータマ・ブッダには、新しい別の宗教の開祖であるという意識は無かったようである。

 私はクリシュナムルティを学んでから、ブッダや日蓮などには「教義を説いた自覚がなかったに違いない」と思うようになった。なぜなら一切の束縛から人間を自由にしようとした彼らが「私の教義に従え」と言うわけがないからだ。それが証明された。

 例えば自殺についても無記と同様だと思われる。

仏教は自殺を本当に禁じているのか?
自殺を止められた釈尊の譬え話
自殺についての仏教の視点 現実感覚の確立とあの世への連続感(PDF)
自殺と向き合えない仏教

 私も元々は自殺に絶対反対であった。その理由は強い者よりも弱い者を殺す罪は重く、男性よりも女性を殺す罪は重く、大人よりも子供を殺す罪は重く、他人よりも自分を殺す罪は重いというものであった。

 もう10年以上前になるが後輩の父親が自殺をした。行方不明になってから半年後に青木ヶ原の樹海で発見された。掛ける言葉が見つからなかった。ただ一緒に泣いた。

 もちろん「自殺するのも自由だ」と言うことは困難だ。しかし「自殺はいけない。自殺は悪である」という単純な論理が、どれほど遺族を苦しめることだろう。「自殺を止められなかったのは家族の落ち度だ」と自分たちを責めているにもかかわらず。

 また喫煙や飲酒、コーヒーなどの刺激物、甘い物などの嗜好品を好むのは、「緩慢な自殺」と考えることも可能だろう。オートバイの暴走は文字通りの自殺行為である。不摂生、肥満、運動不足、他人の噂話、不勉強、怠惰、鈍感、凡庸……全部自殺行為だよ(笑)。

 事実を見つめてみよう。「自殺した人がいる」「自殺という選択をした人がいる」――それだけの話だ。そこに「余計な物語」を付与してはいけない。

 先日、「怨みはついにやむことがない」というツイートを紹介した。クリシュナムルティを通すと読めるようになる。縁起とは、「罵る人と罵られる人がいる」「害する人と害される人がいる」という事実を達観することだ。そこに強弱、あるいは上下という人間関係の物語を与えるから、自我が立ち上がるのだ。

 我々は過去の物語に生きている。諸法無我とは「私」という連続性から離れることである。なぜなら過去を死なせることなしに、現在を生きることは不可能であるからだ。

あなたは「過去のコピー」にすぎない/『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J.クリシュナムルティ
意識は過去の過程である/『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 言葉ではなく沈黙の中に無量のものがある。無記という静謐の宇宙を味わう。

人生と仏教〈第11〉未来をひらく思想 (1970年)

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ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

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ドゥッカ(苦)とは/『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
道教の魂魄思想/『「生」と「死」の取り扱い説明書』苫米地英人
死別を悲しむ人々~クリシュナムルティの指摘
クリシュナムルティは輪廻転生を信じない/『仏教のまなざし 仏教から見た生死の問題』モーリス・オコンネル・ウォルシュ
自殺は悪ではない/『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑
臨死体験/『死 私のアンソロジー7』松田道雄編集解説

2020-06-25

フランス人哲学者の悟り/『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル


 ・宗教の語源
 ・フランス人哲学者の悟り
 ・幸福を望むのは不幸な人

『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん
『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール

キリスト教を知るための書籍
悟りとは

 夕食のあとのある晩、いつものように友人たちと気にいっていた森へ散歩にでかけた。暗さが深まっていったが、歩きつづけていた。笑いも少しずつ消えてゆき、口数も少なくなっていった。友情や信頼、共有された現前やこの夜のあらゆるものの心地よさといったものはありつづけた。私は、なにも考えていなかった。眼を開いて、耳をかたむけていた。あたりは一面漆黒の闇で、空は驚くほどあかるく、森はかすかにざわめきながらも沈黙につつまれていた。ときおり、枝がみしみし音をたてたり、動物の鳴き声がしたり、歩く一歩ごとにかすかな足音がした。このとき、沈黙はますますはっきりと聴きとれるようになっていた。そして突然……。なにが起こったのだろうか。なにが起こったわけでもなかった。そこには万物があった。まったく、会話のひとつも、意味も問いかけもなかった。ただ驚きとあたりまえのことと、終わることのないようにさえ思われた幸福と、いつまでもつづくかに思われた平穏だけがあった。私の頭上には、無数の、数えがたい数の、光り輝く満点の夜空があり、私のまわりにはこの空のほかにはなにものもなく、私はその一部と化していた。私のまわりには、いわば幸福な振動であり、主体も客体もない喜びにほかならない(万物のほかには、なんの対象もなく、それ自身のほかには、なんの主体もないのだから)この光のほかにはなにもなく、この漆黒の闇のなかにあって、私のうちには万物のまばゆいほどの現前のほかにはなにもなかった。平穏。はかりしれないほどの平穏。単純さ、平静さ。歓喜。最後の二つのことばは矛盾しているように思われるかもしれないが、そこにあったのはことばではなく経験であり、沈黙であり調和だったのだ。それはいわば、まったく正しい和音のうえに付された終わることのないフェルマータであり、つまるところ世界そのものだった。私は申し分なく、驚くほど申し分なかった。もはやそれについてなにひとつ語る必要など感じないくらいに、それがずっとつづけばいいのにという欲望すら感じないくらいに、申し分なかった。もはやことばも、欠如も、期待もなかった。現前の純然たる現在。自分が散歩していたと言うのさえはばかられるほどだ。そこにはもはや散歩しか、森しか、星ぼししか、私たちの一団しかなかった……。もはや【自我】も、分離も、表象もなかった。万物の沈黙に満ちた現前以外のなにもなかった。もはや価値判断もなく、現実以外のなにものもなかった。もはや時間もなく、現在以外のなにもなかった。もはや無もなく、存在以外のなにもなかった。もはや不満も、憎しみも、恐れも、怒りも、不安もなかった。喜びと平安以外のなにもなかった。もはや演技も、幻想も、嘘もなく、私をふくみこんではいるものの私がふくみこんでいるわけではない真理以外のなにもなかった。この状態が持続したのは、おそらく数秒のことだったろう。私は高揚させられると同時に宥(なだ)められ、高揚させられると同時にかつてないほどの穏やかさのうちにあった。離脱。自由。必然性。やっとそれ自身へとたちもどった宇宙。それは有限なのだろうか、それとも無限なのだろうか。そんな問いがたてられることさえなかった。もはや問いかけすらなかった。だからこそ、答えがでるはずもなかった。あたりまえのものだけが、沈黙だけがあった。あるのは真理だけで、ただしそれを語ることばはなかった。あるのは世界だけで、ただしそこには意味も目標もなかった。あるのは内在だけで、ただしその逆をなすものはなかった。あるのは現実だけで、ただし他人はいなかった。信仰もなければ、希望も、約束もない。あるのは万物だけ、その万物の美しさ、その真理、その現前だけだった。それで十分だったのだ。それだけで十分だなどという以上のものになっていた。

【『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル:小須田健〈こすだ・けん〉、C・カンタン訳(紀伊國屋書店、2009年)】

 もう少し続くのだがこれで十分だろう。悟りとは真理に触れた瞬間である。生き生きと語られるのは生の流れ(諸行無常)と万物が一つにつながる生の広大さ(諸法無我)である。これに優る不思議はない。思議し得ぬがゆえに不可思議とは申すなり。

 悟りは不意に訪れるものだ。人は忽然(こつぜん)と悟る。風や光のように自ら起こすことはできない。

 ここで一つの疑問が立ち上がる。修行や瞑想に意味はあるのだろうか? クリシュナムルティは「ない」と断言している。だが私は「ある」と思う。

 クリシュナムルティは努力をも否定した(『自由とは何か』J・クリシュナムルティ)。努力とは一種の苦行である。そのメカニズムは抵抗や負荷に耐えることで、「耐性の強化」に目的がある。ま、我慢比べみたいなものだろう。今たまたま「我慢」という言葉を使ったがここにヒントがある。元々この言葉は仏教用語で「我慢ずる」と読む。つまり「我尊(たっと)し」との思い込みが我慢の語源なのだ。

 宗教家という宗教家が皆思い上がっている。真理の独占禁止法があれば全員逮捕されていることだろう。額に「我こそは正義」というシールを貼っているような輩(やから)ばかりだ。

 努力は一定の形に自分を押し込める営みだ。そして努力は成果を求める。思うような結果が出ないと「無駄な努力」といわれる。努力によって培われるのは技術である。それが最も通用するのは職人やスポーツ選手の世界だろう。特定の動きに特化した体をつくることで必ず何らかのダメージが形成される。鍛えることができるのは筋肉に限られるため、鍛えられない関節や腱が悲鳴を上げる。

 技術が洗練の度合いを増して芸術の領域に近づく過程で真理が垣間見えることは決して珍しいことではない。彼らの言葉に散りばめられた透徹、達観、洞察が悟性を示す。

 だが真の悟りには世界を一変させる衝撃がある。共通するのは「ただ現在(いま)」「ただ在る」という瞬間性である。過去のあれこれを足したり引いたりして未来の答えを求めるのが我々の日常だ。不安も希望も現在性を見失った姿だ。過ぎ去った過去と未だに来ない未来を我々は生きているのだ。

 私が修行に意味があると考える理由は「行為を修める」ところにある。欲望を慎み鎮(しず)める作業を修行と考えることはできないだろうか? クリシュナムルティが「(瞑想の)方式に意味はない」としたのは方式が目的化することを嫌ったためだろう。だが想念を冥(くら)くするためには先を往く人の手助けが必要だ。悟りはアザーネス(他性)であるとしても自分の感度を高めておくことは必要だろう。

2018-11-20

カルロス・ゴーンと青い鳥/『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆


『我が心はICにあらず』小田嶋隆
『安全太郎の夜』小田嶋隆
『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
『山手線膝栗毛』小田嶋隆
『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆
『コンピュータ妄語録』小田嶋隆
『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆
『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆
『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆

 ・襲い掛かる駄洒落の嵐
 ・カルロス・ゴーンと青い鳥

『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆
『テレビ標本箱』小田嶋隆
『テレビ救急箱』小田嶋隆

 つまり、チルチルとミチルがお家の中で遊んでいると、ふらんすからごーんという名前のおじさんがやってきて、青い鳥を焼き鳥にして食ってしまうのである。
 この場合、青い鳥は何の象徴だろう?
 ブルーバード?
 ははは。違うね。
 ブルーカラーに決まってるだろ。

【『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆(BNN、2003年)】

 カルロス・ゴーンは青い鳥をたらふく食った挙げ句に勘定を誤魔化していたようだ。コストカッターが自分の税金もカットしていた模様である。

 社員の首を切りまくり、工場の土地を売りまくり、経費を節減することで利益を出したゴーン社長をマスコミは手放しで称賛した。私は「フン、まるでマッカーサーだな」と業を煮やした。

 ゴーンが行ったことは地域に根差した日産ファンや日産文化の破壊であった。それまでは経営者の禁じ手であった人員整理が以後当たり前の経営手法に格上げされた。派遣社員も企業側の要望から適用業種が拡大された。富国の要であった経済が今度は国を亡ぼそうとしている。まるで癌細胞だ。癌は人体と共生することを拒んで人体と共に亡ぶ。

 ヨーロッパには「ノブレル・オブリージュ」(高貴なる者の義務)という観念があり、昔の戦争では貴族が先頭に立って出撃した。現代の高貴なる者は納税の義務すら回避しようと節税対策に余念がない。

かくかく私価時価―無資本主義商品論1997‐2003
小田嶋 隆
ビー・エヌ・エヌ新社
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2019-05-04

科学の限界/『宇宙を織りなすもの』ブライアン・グリーン


『宇宙をプログラムする宇宙 いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』セス・ロイド
『宇宙が始まる前には何があったのか?』ローレンス・クラウス

 ・科学の限界

『生物にとって時間とは何か』池田清彦
『死生観を問いなおす』広井良典
『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ

情報とアルゴリズム
必読書リスト その三

 当然ながら、瞬間には時間の経過は含まれない(少なくとも、私たちが知覚しているこの時間の場合には)。なぜなら、瞬間とは時間の素材であり、ただそこに存在するだけで変化しないからである。どれかの瞬間が時間のなかで変化できないのは、どれかの場所が空間のなかで移動できないのと同じことだ。ある場所が空間のなかで移動すれば、別の場所になるだけのことだし、時間のなかである瞬間を移動したとすれば、別の瞬間になるだけのことだろう。このように、映写機の光が次々と新しい「今」に生命を与えていくという直観的なイメージは、詳しい吟味には耐えないのである。どの瞬間も、今このときに照らし出されており、いつまでも照らし出されたままだ。どの瞬間も、今このときに【実在している】のである。こうして詳しく吟味してみれば、時間は流れていく川というよりもむしろ、永遠に凍りついたまま今ある場所に存在し続ける、大きな氷の塊に似ている。
 この時間概念は、ほとんどすべての人が慣れ親しんでいる時間概念とはかけ離れている。アインシュタインは、この時間概念が彼自身の洞察から導かれたものであるにもかかわらず、これほど大きな考え方の変化をきちんと理解することの難しさに無理解ではなかった。ドイツの論理学者で科学哲学者でもあるルドルフ・カルナップは、このテーマでアインシュタインと交わした素晴らしい対話について次のように述べている。「アインシュタインは、今という概念をめぐる問題は彼をひどく悩ませると言った。そして彼は、人間にとって今という経験は特別なものであり、過去と未来とは本質的に異なるが、この重要な差異は物理学からは出てこないし、出てくることはありえないと説明した。彼にとって、科学が今という経験を捉えられないことは、辛いけれども諦めなければならないことであるらしかった」

【『宇宙を織りなすもの』ブライアン・グリーン:青木薫訳(草思社、2009年/草思社文庫、2016年)】

 主人公は時空である。宗教と科学が時間という軸によって接近することは何となく察しがついた。宗教を尻目に科学は相対性理論や量子論によって時間の本質に迫りつつある。ブッダは現在性を開き、キリスト教は永遠を説いたが宗教の足並みはそこで止まったままだ。

 時間の矢が逆転しても物理的には問題がないという。ところが我々の思考では割れた卵が元通りになることは考えにくい。時間に方向性を与えているのはエントロピー増大則だ。乱雑さは増大し形あるものは成住壊空(じょうじゅうえくう)のリズムを奏でる。

 瞬間に時間の経過は含まれない――とすれば瞬間の中にこそ永遠があるのだろう。そして科学は瞬間において自らの限界を弁えた。ここに科学の偉大なる自覚がある。教団は万能だ。あらゆることを可能にすると宣言し、無謬(むびゅう)であるかのように振る舞う。そこに自覚はない。汝自身を知らずして信者には夢だけ見させているのだ。薬事法を無視した健康食品さながらだ。

 瞬間という現在性に立脚するのが真の宗教性だ。ブッダが道を示し、クリシュナムルティが道を拓き、「悟りを開いた人々」がその後に続く。諸行無常、諸法無我、涅槃寂静(三法印)のみが真実なのだろう。

 

2016-06-21

ドゥッカ(苦)とは/『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール:今枝由郎訳
『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン

 ・ものごとが見えれば信仰はなくなる
 ・筏(いかだ)の喩え
 ・ドゥッカ(苦)とは

『無(最高の状態)』鈴木祐
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
クリシュナムルティ、瞑想を語る

ブッダの教えを学ぶ

「ではマールンキャプッタよ、私は何を説明したのか。私は、
(1)ドゥッカの本質
(2)ドゥッカの生起
(3)ドゥッカの消滅
(4)ドゥッカの消滅に至る道
 を説明した。マールンキャプッタよ、私がなぜ説明したのかというと、それは有益であり、修行に本質的に関わる問題であり、人生における苦しみの消滅に繋がるからである。私はそれゆえに説明したのである」

【『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ:今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(岩波文庫、2016年/原書1959年)】

 マールンキャプッタからの形而上学的問いに対してブッダは無記を示し、次に「毒矢の喩え」を説く(『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元)。続けてブッダは四諦(したい)を確認する。

ドゥッカ
 パーリ語(およびサンスクリット語)のドゥッカは、一般的には苦しみ、痛み、悲しみあるいは惨めさを意味し、幸福、快適、あるいは安楽を意味するスカの反対語である。しかし、四つの真理のうちの第一の真理の場合のドゥッカは、ブッダの人生観、世界観を表わしており、より深い哲学的な意味合いがあり、はるかに広い意味で用いられている。確かに第一の真理のドゥッカには、普通の意味での苦しみも含まれているが、それに加えて不完全さ、無常、空しさ、実質のなさなどといったさらに深い意味がある。それゆえに、第一の真理に用いられているドゥッカが含むすべての概念を一語で表わすのは難しい。そうである以上、ドゥッカを苦しみ、痛みといった、便利ではあるが、不十分で誤解を招く訳語に置き換えないほうがいいだろう。

 皮相的な現在進行形の苦しみではなく、人生の底を絶えず流れる苦悩が「ドゥッカ」である。ま、「苦しい・空しい・悲しい・寂しい」と覚えておけばよい。哲学的なターム(用語)だと孤独・存在の危うさ・不安となる。人生は思うようにならない――これが「ドゥッカ」である。

 ドゥッカの概念は、
(1)普通の意味での苦しみ
(2)ものごとの移ろいによる苦しみ
(3)条件付けられた生起としての苦しみ
 の三面から考察することができる。

 続けて、

 第三の「条件付けられた生起」(訳註:漢訳仏典では「縁起」)としての苦しみという面こそが、「ドゥッカの本質」のもっとも重要な哲学的側面であり、それを理解するのには、一般に存在、個人あるいは「私」とされているものを分析してみる必要がある。

 と。(1)は苦しいという実感、(2)は空しさ、(3)は自我の限界性である。生まれる苦しさ、生きる苦しさ、老いる苦しさ、病む苦しさ、死ぬ苦しさがある(四苦)。そして別れる苦しさ(愛別離苦〈あいべつりく〉)、憎む苦しさ(怨憎会苦〈おんぞうえく〉)、手にはらない苦しさ(求不得苦〈ぐふとっく〉)、私が私である苦しさ(五蘊盛苦〈ごうんじょうく〉)がある(合わせて八苦)。

 五蘊盛苦がわかりにくいと思われるので解説する。私を私たらしめているものは何か? 事実に基いて観察すると五つの集合要素(五蘊)から成っていることがわかる。

アルボムッレ・スマナサーラの解説

 世界は私というフィルターを通して認識される。私を離れて世界は存在しない。そして五蘊という肉体的・精神的な機能・作用は人によって異なる。つまり同じ物事を見ても人それぞれの反応があり、人それぞれの世界がある。そこに人それぞれの苦しみが生まれる(五蘊盛苦)。すなわち自我に基づく苦しみである。「俺の苦しさがあんたにわかってたまるか」と誰かに向かって言う時、人は自分というストーリー設定の中で理不尽さを感じている。自我という初期設定そのものが人生に不具合をもたらす原因になるというのが五蘊盛苦である。

 語源的には五蘊執苦(しゅうく)とするのが正しいのかもしれない。興味(受)・感覚(想)・判断(行)を通して自分らしさ(識)が培われる。私は私にこだわる。アイデンティティ(自己同一性)が揺らぐのは私が無視されるためだ。他人との比較や社会的評価という物語が自我を左右する。国籍という自己規定も見逃せない。アイデンティティには国家が深く関与している(在日韓国・朝鮮人など)。

 ブッダは語った。「弟子たちよ、ドゥッカとは何か。それは執着の五集合要素である」と。今枝由郎は五蘊を「五集合要素」と訳す。私は私のものの見方・考え方、つまり「私という意識」に執着する。私は常に正しい。私は間違っていない。私は悪くない――誰もがそう思っている。そう。悪いのは世界だ(笑)。自我を形成するシステムに苦の原因がある。

 諸行は無常であり、諸法は無我である。我々はここに苦を見る。苦と感じるゆえに現実が見えなくなるのだ。幸不幸は錯覚に過ぎない。その錯覚から逃げ、錯覚を追い求めるところに苦の本質がある。