2011-08-06

佐藤春夫、池上英洋、ウンベルト・マトゥラーナ、フランシスコ・バレーラ、熊谷晋一郎


 4冊挫折。

 挫折50『退屈読本(上)』佐藤春夫(冨山房百科文庫、1978年)/冒頭の解題で丸谷才一が絶賛している。あの小うるさい丸谷が手放しで褒めているのだ。どうしたって読み手は意気込んでしまう。で、直ぐ挫けた。文体から伝わってくる佐藤の繊細さがどうも肌に合わない。たぶん抑制されているから繊細に映るのであって、本当は随分と神経質な人物ではなかったか。鎌倉とか杉並あたりの街並に覚える違和感とよく似たものを感じた。

 挫折51『ダ・ヴィンチの遺言』池上英洋(KAWADE夢新書、2006年)/暑さに負けて読めず。ダ・ヴィンチは仕事が遅かったそうだ。

 挫折52『知恵の樹 生きている世界はどのようにして生まれるのか』ウンベルト・マトゥラーナ、フランシスコ・バレーラ/管啓次郎〈すが・けいじろう〉訳(朝日出版社、1987年/ちくま学芸文庫、1997年)/オートポイエーシスの入門書。これは間違いなく良書だと思われる。あとで読む。

 挫折53『リハビリの夜』熊谷晋一郎〈くまがや・しんいちろう〉(医学書院、2009年)/これも良書だ。第9回新潮ドキュメント賞受賞作。あとで読む。

2011-08-05

流れに任せて漂うことは誰にでもできる


「流れに任せて漂うことは誰にでもできる。死んだ犬にだってな。」と私の父親はよく言っていた。

【『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』トム・ルッツ:小澤英実〈おざわ・えいみ〉、篠儀直子〈しのぎ・なおこ〉(青土社、2006年)】

働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち

2011-08-04

美と暴力、昂奮と残虐


 放置していたtumblrを復活させてからというもの、ウェブ上の画像を数千枚見てきた。そして今日、この写真に辿り着いた。

 私は凍りついた。フォルムと色彩の美しさに。昂奮と残虐が交錯する瞬間に。写真の外側を埋め尽くす人々の欲望に。

 美と暴力は男女の象徴性だ。格闘技のリングには必ず美女が用意される。我々は美を求め、力を欲してやまない。

 罪のない動物が人間の手によって闘わされる。シャッター音は観客の固唾(かたず)と共に呑み込まれたことだろう。なけなしの金を全部賭けている連中だっているはずだ。

 闘鶏は私だ。上司の前では平身低頭しながら一言も抗弁できない私だ。公の場で狼藉を働く若者を注意できない私だ。女房から蔑まれ、子供からは愛想を尽かされた私だ。「いつかケリをつけてやる」と思いながら、勝負を先延ばしにし続ける私だ。

 戦意を20年前に喪失した私は、本当の自分を闘鶏にダブらせる。なりたくてもなれなかった己の姿を投影する。「中途半端に生きるくらいなら、死んだ方がましさ」とさえ思う。

 そんな嘘にまみれた空間でニワトリは闘う。二羽の間に嘘はない。トサカが焔(ほのお)のように燃え盛り、血しぶきのように撥(は)ねている。

 そして我々はニワトリ以下の日常に舞い戻るのだ。

cockfight
(Cockfight : Taken by Jan Sochor.)

闘鶏

自由と不自由


 寝たきりの老人が不自由に見えるのに、這(は)うこともできない赤ん坊が自由に見えるのはなぜか? 植物状態の人が不自由だと、どうして決めつけることができるのか? 自由に動けるのに不自由な人が多いのはなぜか? 相対的自由と絶対的自由。真の自由は、束縛からの自由でもなく不足からの自由でもない。

果断即決が斎藤秀三郎の信条


 ・若き斎藤秀三郎
 ・超一流の価値観は常識を飛び越える
 ・「学校へ出たら斃(たお)れるまでは決して休むな」
 ・戦後の焼け野原から生まれた「子供のための音楽教室」
 ・果断即決が斎藤秀三郎の信条
 ・斎藤秀雄の厳しさ

『齋藤秀雄・音楽と生涯 心で歌え、心で歌え!!』民主音楽協会編

 家に帰って斎藤はさっそく書生を通して父と話し合う約束をとりつけた。
「ドイツに音楽の勉強に行きたいのです」
「ああ、いいだろう」
 ものの10分しないうちに秀雄の留学は決まった。
 音楽は男子がするものではないといった風潮の時代である。斎藤家の総領である秀雄の寝耳に水のような音楽留学の申し出を、あっけなく秀三郎が認めたなどということは、「果断即決が先生の信条」と納得していた弟子筋の人々にとっても驚嘆以外のなにものでもなかった。

【『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪〈なかまる・よしえ〉(新潮社、1996年/新潮文庫、2002年)】


嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀雄の生涯嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀雄の生涯 (新潮文庫)
(※左が単行本、右が文庫本)