2014-03-22

自由は個人から始まらなければならない/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ


 ・努力と理想の否定
 ・自由は個人から始まらなければならない
 ・止観

質問者●あなたは、われわれインド人が独立を獲得したのだということを考慮していないように思われます。あなたによれば、真の自由とはどのような状態なのですか?

クリシュナムルティ●自由が民族(国家)主義的なものであるとき、それは孤立になるのです。そして孤立は必然的に葛藤に帰着します。

【『自由とは何か』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1994年)以下同】

 本書はテーマ別シリーズの一冊で、講話の抄録+質疑応答となっていて読みやすい。期間は1948~1985年に渡っている。つまり第二次大戦後からクリシュナムルティが亡くなる前年に及ぶ。前回掲載した講話と同じく、1948年3月7日ボンベイ(現ムンバイ)にて。

 インド・パキスタン分離独立が1947年8月14~15日のこと。国父ガンディーが凶弾に斃れたのが1948年1月30日であった。87年もの間、イギリスの植民地であったインドの歴史を思えば質問内容は決して的外れとはいえない。

 第二次世界大戦が行われている間、クリシュナムルティは公開講話をせずに沈黙の中で過ごしている(1940年8月末~1944年5月中旬まで)。クリシュナムルティは一貫して反戦の態度を示した。だが多くの人々はそれを理解できなかった。聴衆が去っていったこともあった。

クリシュナムルティが放つ光/『クリシュナムルティ・実践の時代』メアリー・ルティエンス

 インドの国民が国家意識に目覚める中でクリシュナムルティはあっさりと国家主義を否定してみせた。

 皆さんが国家という存在として自分自身を孤立させたとき、皆さんは自由を得たのでしょうか? 皆さんは搾取からの自由、階級闘争、飢餓、異宗教間の衝突からの自由、司祭、宗教的・人種的団体間の争い、指導者たちからの自由を得ましたか? 明らかに得ませんでした。皆さんはたんに白い皮膚の搾取者たちを追い出し、代わりに浅黒い――たぶん、もう少し冷酷な――搾取者たちをかれらの後釜に坐らせただけなのです。私たちはあい(ママ)変わらず以前と同じものを持ち、同じ搾取、同じ司祭、同じ組織宗教、同じ迷信、そして同じ階級闘争をかかえています。で、これらは私たちに自由を与えたでしょうか? そう、私たちは実は自由になりたくないのです。ごまかさないようにしましょう。なぜなら、自由は英知、愛を意味しており、それは搾取しないこと、権威に屈従しないこと、並外れて廉直であることを意味しているからです。先ほど言いましたように、独善は常に孤立化していく過程なのです。なぜなら、孤立と独善は相伴うからです。これに反して、廉直と自由は共存するのです。主権国家は常に孤立しており、それゆえけっして自由ではありえないのです。それは、絶えざる紛争、猜疑、敵意そして戦争の原因なのです。

 何と辛辣(しんらつ)な指摘か。当時を生きる人々が理解できたとは到底思えない。それでも尚クリシュナムルティは「変わらぬ現実」を指摘し抜いた。現在、インドはIT大国となった。既に核爆弾も保有している。BRICsの一翼を担い、2026年には中国を抜いて世界一の人口となることも予想されている。だが実態はどうか? カースト制度が生む暴力が止むことはなく、強姦は頻繁に繰り返され、児童虐待は後を絶たない。

両親の目の前で強姦される少女/『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ
外交官が描いたインドの現実/『ぼくと1ルピーの神様』ヴィカス・スワラップ

 クリシュナムルティがアメリカで受け入れられたのは多分ベトナム戦争が泥沼化した後のことだろう。私だってバブル景気以前であれば理解できなかったに違いない。我々は時代という波に翻弄される存在だ。聴きたいのは真実ではなく耳触りのよい言葉だ。

「そう、私たちは実は自由になりたくないのです」――頭からバケツで冷や水を掛けられた思いがする。私が求めていたのは心地よい束縛であったのだ。ソフトSM。自由には責任が伴う。そして重大な判断を自分が下さなければならない。そうであれば国家や会社や組織に乗っかった方が楽だ。これが私の本音なのだ。

 そして二度に及ぶ世界大戦が宗教と教育の無力を完全に証明した(『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳)。


 ですから、自由は全的な過程である個人、集団に対立した存在ではない個人から始まらなければなりません。個人こそは世界の全過程であり、そしてもし彼が自分のことをたんにナショナリズムや独善のなかで孤立させれば、彼は災いと不幸の原因になるのです。が、もし個人――全過程である個人、集団に対立しておらず、集団、全体の結果である個人――が自分自身、自分の人生を変容させれば、そのとき彼にとって自由があるのです。そして彼は全過程の結果なので、彼が自分自身をナショナリズム、貪欲、搾取から解放させれば、彼は全体に対して直接作用を及ぼすのです。個人の再生は未来においてではなく、【いま】起こらなければなりません。もし自分の再生を明日に延期すれば、皆さんは混乱を招き、暗黒の波に呑まれてしまうのです。再生は明日ではなく【いま】なのです。なぜなら、理解はいまの瞬間にのみあるからです。皆さんがいま理解しないのは、自分の精神・心・全注意を、自分が理解したいと思っているものに向けないからです。もし皆さんが自分の精神・心を理解することに傾ければ、皆さんは理解力を持つことでしょう。もし自分精神・心を傾けて暴力の原因を見い出すようにし、充分にそれに気づけば、皆さんはいま非暴力的になることでしょう。が、不幸にして、皆さんは自分の精神を宗教的延期や社会道徳によってあまりにも条件づけられてきたので、皆さんはそれを直接見ることができなくなっているのです――そしてそれが私たちの困難なのです。

 私が変われば世界が変わるのだ。だとすれば問題は世界ではなくして私にある。しかも修行を積んで時間をかける(「宗教的延期」)のではなくして、「今直ぐただちに変われ」というのだ。すなわち真の自由とは「今この瞬間に変わる自由」なのだ(本覚思想とは時間的有限性の打破/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ)。

「人は自由であるか自由でないかのどちらかです」(『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ)とも。つまり自由であれば変わることができ、不自由であれば変わることができない。考える余地もなければ、準備する猶予もない。つべこべ言わずに今変わる。変わった。明日、世界も変わっていることだろう。

余は極て悠久なり/『一年有半・続一年有半』中江兆民


 余一日(いちじつ)堀内を訪(と)ひ、あらかじめ諱(い)むことなく明言してくれんことを請(こ)ひ、因(よつ)てこれよりいよいよ臨終(りんじゅう)に至るまではなほ幾何日月(いくばくじつげつ)あるべきを問(と)ふ。即ちこの間(あいだ)に為すべき事とまた楽むべき事とあるが故に、一日(いちじつ)たりとも多く利用せんと欲するが故に、かく問ふて今後の心得(こころえ)を為さんと思へり。堀内医(ほりうちい)は極(きわ)めて無害(むがい)の長者(ちょうじゃ)なり、、沈思(ちんし)二、三分にして極めて言ひ悪(に)くそふに曰(いわ)く、一年半、善(よ)く養生(ようじょう)すれば二年を保(ほ)すべしと。余曰く、余は高々(たかだか)五、六ケ月ならんと思ひしに、一年とは余のためには寿命(じゅみょう)の豊年(ほうねん)なりと。この書題(だい)して一年有半(ゆうはん)といふはこれがためなり。
 一年半、諸君は短促(たんそく)なりといはん、余は極(きわめ)て悠久(ゆうきゆう)なりといふ。もし短(たん)といはんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり。それ生時(せいじ)限りありて死後限りなし、限りあるを以て限りなきに比(ひ)す短にはあらざるなり、始(はじめ)よりなきなり。もし為(な)すありてかつ楽(たのし)むにおいては、一年半これ優(ゆう)に利用するに足らずや、ああいはゆる一年半も無なり、五十年百年も無なり、即ち我儕(わがせい)はこれ虚無海上一虚舟(きょむじょうかいじょういちきょしゅう)。

【『一年有半・続一年有半』中江兆民〈なかえ・ちょうみん〉:井田進也〈いだ・しんや〉校注(博文館、1901年/岩波文庫、1995年)

 中江兆民自由民権運動に理論的な魂を打ち込み、「東洋のルソー」と称された人物である。

 現在を十全に生きようとする態度がセネカと完全に一致している(『人生の短さについて』セネカ)。「いついつまでにこれこれを成し遂げる」という生き方だと途中で死ぬことを避けられない。人生に目的があるとすれば、生そのものが二義的になってしまう。生きることそれ自体が人生の目的であり意味でありすべてである。であるならば、生を常に花の如く咲かせるべきだろう。


 自由民権運動について何も知らなかったので少々調べてみた。

 従来の戦後歴史学では、民権派=民権論、政府=国権論として捉えられてきた。近年、高知大学教授の田村安興らの研究(※『ナショナリズムと自由民権』)によって、土佐の民権派においても国権は前提であったことが示されている。田村の研究によって、従来、自由民権運動は初期の民権論から後に国権論へ転向していったと説明されてきたことが誤りとなった。事実、板垣らは征韓論を主張したのであり、政党名も「愛国公党」であった。また植木枝盛・中江兆民なども、皇国思想や天皇親政を公的に批判したことが一度もない。その理由として、田村は自由民権運動が国学以来の系譜の延長線上にあるからとしている。

【自由民権運動→民権論と国権論:Wikipedia

 飽くまでも国民的な国家意識の芽生えにおける平等主義と見てよかろう。自由民権運動と戦前の新興宗教の結びつきが気になったのだが有益な情報を発見できず。たぶん国家主義は太平洋戦争まで続いたことだろう。すると革命意識を有したのは共産主義者のみか。

 新しい理論が世の常識を変える。だがそれはまた古い常識と化し、手垢(てあか)にまみれる。社会改革はどこまで行ってもキリがない。ここにこそ宗教性の必要があるわけだが、宗教もまた組織化することで世俗化を免れない。ブッダとクリシュナムルティを思えば、正真正銘の巨人は2000年に一人しか登場しないようだ。

一年有半・続一年有半 (岩波文庫)

2014-03-21

多忙の人は惨めである/『人生の短さについて』セネカ


 ・我々自身が人生を短くしている
 ・諸君は永久に生きられるかのように生きている
 ・賢者は恐れず
 ・他人に奪われた時間
 ・皆が他人のために利用され合っている
 ・長く生きたのではなく、長く翻弄されたのである
 ・多忙の人は惨めである
 ・人類は進歩することがない

『怒りについて 他一篇』セネカ:茂手木元蔵訳
『怒りについて 他二篇』セネカ:兼利琢也訳

必読書リスト その五

 誰彼を問わず、およそ多忙の人の状態は惨めであるが、なかんずく最も惨めな者といえば、自分自身の用事でもないことに苦労したり、他人の眠りに合わせて眠ったり、他人の歩調に合わせて歩き回ったり、何よりもいちばん自由であるべき愛と憎とを命令されて行なう者たちである。彼らが自分自身の人生のいかに短いかを知ろうと思うならば、自分だけの生活がいかに小さな部分でしかないかを考えさせるがよい。

【『人生の短さについて』セネカ:茂手木元蔵〈もてぎ・もとぞう〉訳(岩波文庫、1980年/ワイド版岩波文庫、1991年)】

 大西英文による新訳が出ているが私は茂手木訳を推す。音楽にはリズムとメロディーがあるが文章には文体しかない。それゆえ文体こそが文章の魂なのだ。翻訳と通訳は異なる。文体の調子が低いと読み手の思考にノイズが混入する。

 ルキウス・アンナエウス・セネカ(紀元前1年頃-65年)は2000年前の人物である。軸の時代の一人といってよい。

 鮮やかな描写が資本主義に鞭を振るう。現代人は多忙である。生産性を追求するために。セネカの指摘を避けることができる人は一人もいないだろう。我々は自分の人生を歩むことがない。社会に敷かれたレールの上で他人が決めた価値観に基いてひたすら成功を目指しているだけだ。


 恐るべきは「愛と憎とを命令されて行なう者たち」との一語である。国粋主義者、信者、党員、ファンを見よ。彼らは自我の空白を埋めるために主義主張を展開し、敵と味方を峻別する。商人や営業マンも同様だ。彼らにとっては商品を買ってくれる客だけがよい客なのだ。そして資本主義は万人を商売人に変えた。

 自由にメッセージを発信できるインターネットの世界においても、アクセス・ブックマーク・被リンク・フォロワー・リツイート・いいね!の数を我々は競う。メッセージはやがてアフィリエイトや広告に寄り添い、取るに足らないマーケティングが進行する。テキストはカネに換算され、人物もまた収入で判断される。

 人生は短い。年を重ねるごとにその思いは深まる。ならばやはり自分の好きなことをするのが一番正しいあり方だ。好きなことは継続できる。何にも増して自由を味わえる。私が曲がりなりにも十数年にわたってブログを続けることができたのは、本を読むのが好きな上、紹介することも好きだからだ。アクセス数や本の売り上げなんぞを気にしていれば長く続けることは難しい。それ自体を楽しむことが人生の秘訣だ。

 競争から離れた位置に身を置くことが大切だ。元々仏教の出家にはそういう目的があったに違いない。たった独りになる時間、好きなことをする時間、何ものにもとらわれない自由な時間。私はこれを「出家的時間」と呼ぶ。世俗の塵埃(じんあい)から離れるところに自分だけの聖なる瞬間が開ける。

2014-03-20

誤解、曲解、奇々怪々


 楽しいエッセイを読んだ。以下に一部を引用する。

 大学に入学した頃、学生運動はなかなりし時代とあって、学内でアジ演説を聴く機会が多かった。演説の中で「味噌ひき労働者」という言葉がよく出てきた。「我々学生は味噌ひき労働者と連携して云々(うんぬん)」。零細企業で働く虐げられた労働者と手をたずさえてというほどの意味だろうと推測した。石臼で味噌豆をひく働きづめの老女の姿を思い浮かべ、含蓄のある言葉だなあと一人感じ入ったものである。その後何かの折に都会地出身の友人に話したところ、怪訝(けげん)な顔で「未組織労働者ではないのか」と言われ、驚くやら恥ずかしいやら。我が田舎では「ひ」と「し」の区別もあやしかったのである。

【あすへの話題:「味噌ひき労働者」元宮内庁長官・羽毛田信吾〈はけた・しんご〉/日本経済新聞 2014年3月19日付夕刊】

 聞き間違いが想像力を刺激し具体的な物語を生む。楽しいだけではない。行間には左派学生と一線を画したことまで滲(にじ)ませている。羽毛田は山口県出身のようだ。エッセイ冒頭では「ぞ」を「ど」と発音することも紹介されている。

 不意に昔の記憶が蘇った。勤め人をしていた頃、私は勤務中の空いた時間を使って事務所の周りに花壇をつくった。確か四つほどつくったはずだ。勢いあまって10本ほどの枝垂れ桃と数本のムクゲも植えた。花や木は私の相方を務める事務のオバサンが自宅から持ってきてくれた。このオバサンから花のことを随分教わった。

 ある日のこと、見慣れない花があったので私は尋ねた。「これ、何ていう花なの?」と。すかさず「おだまり!」と返ってきた。3秒ほど沈黙を保った。「で、何ていう名前なの?」「おだまり!」。私は困惑した。そして「花の名前くらい教えてくれたっていいだろうが!」と気色ばんだ。「だから、コデマリって二度も言ったでしょ!」。

 私の場合は聞き間違いから怒りの物語が生まれたわけだが、いずれにしても物語は「情報の受け手」が作成しているところに注目したい。つまり物語とは情報処理の異名なのだ。そこに誤解や曲解があれば奇々怪々の物語が生まれる。検証不可能という点で宇宙人・幽霊・神様は一致している。良質な想像力とは思えない。単なる空想だ。

 賢明さとは低い物語を高い物語に書き換える智慧のことだろう。仮に誤っていたとしても、新たな事実を知ることで更新可能な余裕をもちたい。頑迷な人物が豊かに見えないのは、やはり物語性が貧しいためか。


(コデマリ)

2014-03-19

クリシュナムルティの三法印/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムルティ


クリシュナムルティはアインシュタインに匹敵する
コミュニケーションの本質は「理解」にある
クリシュナムルティ「自我の終焉」
・クリシュナムルティの三法印

 ですから、非難もせず、正当化もせず、自己を他のものと同一化もせずに、【あるがままのもの】を【あるがまま】に認識したとき、私たちはそれを理解することができるのです。自分自身がある一定の条件と状況のもとに置かれていることを知ることが、すでに自己解放の過程にあるということです。これに反して、自分が置かれている条件や、内なる葛藤を自覚していない人間は、自分とは別の人間になろうとして、その結果、それが習慣になってしまうのです。そういうわけですから、ここで次のことを銘記しておきましょう。私たちは【あるがままのもの】を【あるがままに】考察し、それに偏向を加えたりせずに、実際にある通りのものを観察し、認識したいのだということを。【あるがままのもの】を認識し追求していくためには、きわめて鋭敏な精神と柔軟な心を必要とします。というのは、【あるがままのもの】は絶え間なく活動し、絶えず変化し続けているからなのです。そしてもし精神が、信念や知識というようなものに束縛されていたりすれば、その精神は追求をやめ、【あるがままのもの】の素早い動きを追わなくなってしまいます。【あるがままのもの】は、決して静的なものではなく、厳密に観察してみると分かるように、絶えず活動しているのです。そしてその動きについてゆくには、非常に鋭敏な精神と柔軟な心の働きが必要なのです。ですから精神が静止していたり、信念や先入観に囚(とら)われていたり、自己を対象と同一化してしまっていると、そのような働きが出てこないのです。また干からびた精神や心は、【あるがままのもの】を素早く敏捷に追っていくことができません。

【『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ:根木宏〈ねぎ・ひろし〉、山口圭三郎〈やまぐち・けいざぶろう〉訳(篠崎書林、1980年)以下同】

 諸法実相を覚知するためには諸法無我が前提となり、あるがままのものは諸行無常である。つまり諸法の実相を見ることが涅槃寂静なのだ。専門用語をひとつも使うことなく三法印をあますところなく説いている。

 ブッダとクリシュナムルティの不思議なる一致に私は恐れをなす。仏とはたぶん人を意味するのではない。それは「現象」なのだ。法が人の姿を通して現れた現象なのだろう。我々の瞳は光を捉えることができない。目に映るのは可視光線だけだ。月光や稲妻は塵(ちり)などに当たった光の反射であろう。ブッダとクリシュナムルティは人類にとって光であった。それゆえ「捉えた」(=わかった)と錯覚してはなるまい。

 我々は「【あるがままのもの】を【あるがまま】に認識」できない。その事実が延髄に衝撃を走らせる。アントニオ猪木の蹴りでさえ、これほどの衝撃を与えることはできない。私は「私」というフィルターを通して世界を見ているのだ。色眼鏡は暗く、鏡は歪んでいる。思考・解釈・類推が私の世界だ。不幸な者にとって世界は忌むべき対象であり、幸福な者にとっては揺りかごみたいな場所なのだろう。

 では「私」を通すことなく世界を見つめることは可能だろうか? 「可能だ」とクリシュナムルティは説く。ならばグズグズ理屈をこねることなく実践しようではないか。諸法無我に至った時、諸法実相が見える。その内容は『クリシュナムルティの神秘体験』に詳しく描かれている。

自我の終焉―絶対自由への道
J.クリシュナムーティ
篠崎書林
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