2014-04-01

集団行動と個人行動/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ


『「瞑想」から「明想」へ 真実の自分を発見する旅の終わり』山本清次

 ・現代人は木を見つめることができない
 ・集団行動と個人行動

 私たちは自分のまわりに混乱、不幸、ぶつかり合う願望を見、そしてこうした混沌とした世界の現実に気づいて、真に思慮深くて真摯な人々──絵空事をもてあそんでいる人々ではなく、本当に真剣な人々──は、当然ながら行動という問題を考究することの大切さがわかるでしょう。集団行動があり、また個人行動があります。そして集団行動は一個の抽象物、個人にとって好都合の逃避となっています。つまり、この混乱、たえず起こっているこの不幸、この災いは集団行動によって何とか変えることのできる事態であり、それによって秩序を回復できると思うことによって、個人は無責任になるのです。集団というものは、間違いなく虚構の実体です。集団とは、あなたでありそして私なのです。あなたと私が真の行動というものを関係性において理解しないときにのみ、私たちは集団と呼ばれる抽象物に頼り、それによって自分の行動において無責任になるのです。行動を改善するため、私たちは指導者や、あるいは組織的な団体行動に頼ります。私たちが指導者に行動上の指示を仰ぐとき、私たちは常に、自分自身の問題、不幸を超克するのを助けてくれると思われる人を選びます。が、私たちは自分の混乱から指導者を選ぶので、指導者自身もまた混乱しているのです。私たちは、私たち自身に似ていない指導者を選びません。選べないのです。私たちは、私たちと同様に混乱した指導者しか選べないのです。それゆえ、そのような指導者、教導者、およびいわゆる霊的(宗教的)なグルは、私たちを常により一層の混乱、より一層の不幸へと導くのです。私たちが選ぶものは私たち自身の混乱に由来しているので、私たちが指導者に従うとき、私たちはたんに自分自身の混乱した自己投影物に従っているだけなのです。それゆえ、そのような行動は、直接的結果をもたらすかもしれませんが、結局は常により一層の災いに帰着するのです。(ニューデリー、1948年11月14日)

【『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1993年)以下同】

 長文のため一段落ごとに区切って紹介する。私が暴力について考えるようになったのはV・E・フランクルの『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』を読んでからのこと。20代から30代にかけて集中的にナチスものを読んだ。40代半ばでレヴェリアン・ルラングァ著『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』を読み、私の価値観は木っ端微塵となった。同時期に読んだユースフ・イドリース著『黒い警官』とジョージ・オーウェルの新訳『一九八四年』を私は「暴力三部作」と名づけた。

 他にはパレスチナに対するイスラエルの蛮行(『パレスチナ 新版』広河隆一、『アラブ、祈りとしての文学』岡真理)や黒人奴隷(『奴隷とは』ジュリアス・レスター、『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン、『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要)、そしてキリスト教による暴力(『魔女狩り』森島恒雄、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス)などが私の血となり肉と化した。

 暴力の問題を突き詰めてゆくとヒエラルキーに辿り着き、最終的には集団そのものが暴力であることに気づいた。集団は集団であるというだけで既に暴力的要因をはらんでいるのだ。なぜならそこに利害が絡んでいるためだ。集団には構成員を庇護する機能がある。また集団には必ず目的がある。守るためにも目的を果たすためにも力が求められる。そして求心力が強ければ強いほど暴力的な様相を帯びる。

 そこまでは自力で辿り着いた。だがそこから前へ進むことができなかった。その時、私はクリシュナムルティと遭遇した(クリシュナムルティとの出会いは衝撃というよりも事故そのもの/『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J・クリシュナムルティ)。

 集団は虚構であり個人を無責任にする。小林秀雄が次のように語っている。

 信ずることは諸君が諸君流に信ずるということですよ。知るということは万人の如く知ることですよ。人間にはこの二つの位置があるんです。知るってことはいつでも学問的に知ることです。
 信ずるってことは責任をとることです。僕は間違って信ずるかもしれませんよ。万人の如く考えないんだからね僕は。僕流に考えるんですから、もちろん僕は間違えます。でも責任はとります。それが信ずることなんです。
 だから信ずるという力を失うと人間は責任をとらなくなるんです。そうすると人間は集団的になるんです。「会」が欲しくなるんです。自分でペンを操ることが信じられなくなるからペンクラブが欲しくなるんです。ペンクラブは自分流に信ずることはできないんです。クラブ流に信ずるんです。クラブ流に信ずるからイデオロギーがあるんじゃないか。そうだろ? 自分流に信じられないからイデオロギーってもんが幅を利かせるんです。
 だからイデオロギーは匿名ですよ、常に。責任をとりませんよ。そこに恐ろしい力があるじゃないか。それが大衆・集団の力ですよ。責任を持たない力は、まあこれは恐ろしいもんですね。
 集団ってのは責任取りませんからね。どこへでも押し掛けますよ。自分が正しい、と言って。(中略)
 左翼だとか右翼だとか、みんなあれイデオロギーですよ。あんなものに「私(わたくし)」なんかありゃしませんよ。信念なんてありゃしませんよ。

【『小林秀雄講演 第2巻 信ずることと考えること 新潮CD』】

 書籍(『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること』)にも収められているが要旨をまとめた代物となっている。暴走族でなくとも集団は暴走しやすい。群衆の中から石を投げるような手合いが必ず現れる。人は責任を失うと容易に罪を犯す。そして集団はリーダーに依存することで一人ひとりは更に無責任の度合いを強める(信ずることと知ること/『学生との対話』小林秀雄:国民文化研究会・新潮社編)。

大衆は断言を求める/『エピクロスの園』アナトール・フランス

 このように私たちは、集団行動は──場合によってはやりがいがあるものの──災い、混乱に帰着せざるをえず、また個人の側の無責任をもたらすということ、そして指導者への服従は常に混乱をつのらせるということを見ます。けれども、私たちは生きなければなりません。生きることは行動することであり、存在することは関係することです。関係なしにはいかなる行動もなく、そして私たちは孤立して生きることはできません。孤立などというものはないのです。生きるとは、行動することであり、また関係することなのです。そのように、より一層の不幸、混乱を引き起こさない行動というものを理解するには、私たちは自分自身を、そのすべての矛盾対立する要素、たえず互いに闘っている多くの面と共に、理解しなければなりません。私たちが自分自身を理解しないかぎり、行動は必然的により一層の葛藤、不幸に帰着せざるをえないのです。


 社会をよりよくするために始めた運動がその正義感によって内部分裂をすることは決して珍しいことではない。むしろ純粋であればあるほど分裂しやすい傾向がある。目的が明らかであれば目的以外の行動は規制され、禁止される。集団は規則を必要とするのだ。そして今度は規則が人々を縛り、蝕んでゆく。組織が大きくなると成果が問われ、内部で競争が始まる。組織は自律的に分割統治へ至る。

 ですから、問題は理解と共に行動することであり、そしてその理解は自己認識によってのみもたらすことができるのです。結局、世界は私たち自身の投影です。あるがままの私、それが世界なのです。世界は私とは別個にあるのではなく、世界と私は対立しているわけではありません。世界と私は別々の実体ではないのです。社会は私自身であり、二つの別個の過程ではないのです。世界は私自身の延長であり、ですから世界を理解するためには、自分自身を理解しなければならないのです。個人は集団、社会に対立してあるのではありません。なぜなら個人は社会だからです。社会とは、あなたと私とその他の人々との間の関係です。個人が無責任になるときにのみ、個人と社会との間の対立があるのです。ですから、私たちの問題はとてつもなく大きいのです。あらゆる国、あらゆる集団、あらゆる人が直面しているとてつもない危機があります。その危機に対して私たち、あなた、私はどんな関係があるのでしょうか。そして私たちはどのように行動したらいいのでしょうか? 変容を起こすためには、どこから始めたらいいのでしょう? すでに言いましたように、もし私たちが集団に頼れば、出口はありません。なぜなら、集団は指導者を含蓄しており、ゆえに常に政治家、司祭、専門家によって搾取されるからです。で、集団を構成しているのはあなたと私なのですから、私たちは自分自身の行動に責任を持たなければならないのです。すなわち、私たちは自分自身の性質、ひいては自分自身を理解しなければならないのです。自分自身を理解することは、世間から引き籠もることではありません。なぜなら、引き籠もることは、孤立を含んでおり、そして私たちは孤立状態で生きることはできないからです。ですから私たちは、関係における行為というものを理解しなければなりません。そして、その理解は、自分自身の葛藤し、矛盾する性質への「気づき」にかかっているのです。そのなかに平和があり、そして私たちがあてにできる状態をあらかじめ思い描くことは愚劣だと私は思います。自分が知らない状態を私たちが思い描くことなく、ひたすら自分自身を理解するときにのみ、平和と静謐がありうるのです。平和の状態はあるかもしれませんが、しかしたんにそれについて思い描くことは無意味です。

 集団は人間を手段化する。人々に組織の手足となることを強要する。社会とは所属の異名であり、我々のアイデンティティはどこに所属しているかで決まる。そこに「平和と静謐」はなく、仕事と役割を与えられるだけだ。人生の幸不幸は集団内の序列で決まる。

 正しく行為するためには、正しい思考が必要です。正しく考えるためには、自己認識が必要です。そして自己認識は、孤立によってではなく、関係によってのみもたらすことができるのです。正しい思考は自分自身を理解することにおいてのみ起こりうるのであり、そしてそこから正しい行為が湧き起こるのです。自分自身――その一部ではなく、矛盾撞着した性質を含んだその中身の全部――を理解することから起こる行為こそが、正しい行為なのです。私たちが自分自身を理解するにつれて正しい行為が起こり、そしてその行為から幸福が生まれるのです。結局、私たちが望んでいるもの、様々な形で、あるいは様々な逃避――社会活動、官僚主義的栄達、娯楽、崇拝、語句の反唱、セックス、あるいはその他の活動を通じての無数の逃避――によって私たちのほとんどが捜し求めているものは幸福なのです。が、私たちは、これらの逃避が永続的な幸福をもたらさないこと、それらが束の間の気休めしかもたらさないことを見ます。根本的には、それらには何ら真実なるもの、何ら永続的な歓喜はないのです。

「様々な逃避」――何と辛辣(しんらつ)な指摘か。我々は現実から逃避し、生そのものから逃避し、自分自身からも逃避しているのだ。我々が人生に求めているのは「単なる刺激」だ。それを幸福、成功、満足と呼んでいるのだろう。集団が与えてくれるのは役割であって生き甲斐ではない。組織のために貢献することで自分の存在が大きくなったように錯覚するのも間違いである。所詮、部分は部品でしかない。

 さて、自己認識・自己理解の旅に出るとするか。

クリシュナムルティ『生の全体性』


断片化の要因/『生の全体性』J・クリシュナムルティ、デヴィッド・ボーム、デヴィッド・シャインバーグ

2014-03-31

エティ・ヒレスムの神 その一/『〈私〉だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教』ウルリッヒ・ベック


『エロスと神と収容所 エティの日記』エティ・ヒレスム

 ・エティ・ヒレスムの神 その一
 ・エティ・ヒレスムの神 その二

ヴェーダとグノーシス主義

キリスト教を知るための書籍

 かくいう私は、社会学者だ。社会学的啓蒙の救済力を信じており、世俗主義の用語は私の血肉と化している。世俗化の基本想定、端的にいえば、近代化が進むと宗教的なものはおのずと解消していくという考え方は、たとえこの予測が歴史によって否定されようとも、そう簡単に社会学的思考からとりのぞくわけにはいかない。宗教には、他者についての様々なヴィジョンを掲げて世界を動かしていく、相対的に自立した現実性と力が備わっている。したがって、そうした宗教の中身が、ありとあらゆる両義性を含めて社会学の視野に入ってくることはめったにない。

【『〈私〉だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教』ウルリッヒ・ベック:鈴木直〈すずき・ただし〉(岩波書店、2011年)以下同】

 社会学的な懐疑主義につきまとう非宗教性・反宗教性を乗り越えようと試みた労作。上記テキストの「宗教的」とは神秘的と同義であり、非科学的と言い換えてもよいだろう。ウルリッヒ・ベックは宗教社会学の空白を埋めようと意気込んでいるわけだが、出発点からして方向を誤ったように見える。相対主義的観点からは新しい統合的な発想は生まれにくい。宗教と科学を相対的に捉え、聖俗を分けて考え、学問や科学を高みに置く考え方そのものを疑うべきだろう。

 科学は文明の発達をもたらし生活を便利にしたが、人生を豊かにしたとはいえない。学問がそんなに立派であるなら学者は模範的な生き方をしているはずである。とてもそんな風には思えない。極端に言ってしまえば宗教も科学も学問もひとつの文脈であり物語にすぎない。社会学はデータを重視するが、どのようなデータを選ぶかはその時代の社会的価値で決められる。つまり恣意的なものなのだ。すべてのデータを網羅することが不可能である以上、データ解釈には「読み解く」作業が付随する。ま、データで絵を描くようなものだ。その絵が科学的かどうかはまったくの別問題だ。

 オランダのユダヤ人女性エティ・ヒレスム[1914年生まれ。アムステルダム大学でスラブ学、法学を学んだ後、ナチ占領下のアムステルダムやヴェスターボルク収容所でユダヤ人のために活動。1943年11月、アウシュヴィッツで虐殺される。戦後、その手紙と日記が出版され大きな反響を呼んだ]はその日記に、彼女が探し求め、発見した「自分自身の神」の記録を残した。

 著者はエティ・ヒレスムの日記を通して「自分自身の神」からコスモポリタン化を探る。

 彼女「自身」の神は、シナゴーグの神でも、教会の神でも、あるいは「無信仰な者たち」と一線を画す「信徒たち」の神でもなかった。「彼女」の神は異端を知らず、十字軍を知らず、言語を絶する異端審問の残忍さを知らず、宗教改革も反宗教改革も知らず、宗教の名による大量殺戮テロも知らなかった。彼女自身の神は神学から自由で、教義を持たず、歴史に無頓着で、おそらくそれゆえにこそ慈愛に満ち、弱々しかった。彼女はいう。「祈るとき、私は決して自分自身のためには祈らず、いつでも他者のために祈る。あるいは私の内なるいちばん奥深いものと、時にはばかげた、時には子供っぽい、時には大まじめな対話をする。そのいちばん奥深いものを、私は簡便のために神と呼んでいる」。

 つまり一人を掘り下げて人類共通の泉に辿り着こうとする作業である。エティ・ヒレスムの信仰は制度化も組織化もされていなかった。そこに生まれ立ての宗教の姿を見ることは可能だろう。教団とは宗教の国家化に他ならない。ゆえに教団は信徒からカネを集め、他教団との戦闘に臨む。信仰のヒエラルキーが残虐行為を命じる。

 ではエティ・ヒレスムの神との対話を見てみよう。

 神様、私はあなたが私のもとを去って行かれぬように、あなたをお助けするつもりです。でも私は最初から何一つ請け合うことはできません。ただ一つのことだけは、ますますはっきりとわかってきました。それは、あなたが私たちを助けられないこと、むしろ私たちこそがあなたをお助けしなければならないこと、そしてそれによって結局は私たちが自分自身をも助けることができるのだということです。神様、大切なことはただ一つ、私たち自身の中に住まうあなたのひとかけらを救い出すことなのです。もしかすると私たちは、さいなまれた他の人々の心の中で、あなたを復活させるお手伝いができるかもしれません。確かに神様、あなたでもこの状況はあまり大きく変えることはできないように見えます。それはもう、この人生の一部になってしまっています。私はあなたに釈明を求めてはいません。むそろあなたのほうが、いつの日か私たちに釈明を求められることでしょう。そしてほとんど心臓が鼓動するたびに、私にはますますはっきりとしてくるのです。あなたは私たちを助けることができないのだということが。むしろ私たちこそがあなたをお助けしなければならず、私たちの内なるあなたの住まいを最後の最後まで守りぬかねばならないのだということが。

 何と美しい心根であろうか。彼女が「神様」と呼びかけたのは、喪われた人間性すなわち良心そのものであった。彼女は全人類に良心を喚起すべく、まず自らの良心を掘り起こす必要があった。エティ・ヒレスムは良心を助け、そして守る。死が迫り来る中でこれほどの勇気を示した女性がいたのだ。ナチスを声高に糾弾することもなく、彼女は静かに自分の内面世界を押し広げた。

「エティ・ヒレスムの神」を否定する者はあるまい。彼女の神は神々の党派性を超越してすべての神を従わせる。ナチスはエティ・ヒレスムを殺した。しかし彼女の神が死ぬことはなかった。現に今こうして私の胸を打っているではないか。

  

宗教は人を殺す教え/『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静
『原発事故の正体』 by ウルリッヒ・ベック:Goeche's Blog

2014-03-30

神経質なキリスト教批判/『神は妄想である 宗教との決別』リチャード・ドーキンス


宗教の語源/『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル

 ・神経質なキリスト教批判

ウイルスとしての宗教/『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット
キリスト教を知るための書籍

 この時点で、アメリカの読者に対してとくに一言述べておく必要がある。なぜなら、現在のアメリカ人の信心深さは目を見張るものだからである。弁護士のウェンディ・カミナーはかつて、宗教をからかうのは、米国在郷軍人会館のなかで国旗を燃やすのと同じほど危険であると述べたが、この言葉は現実をほんのわずかに誇張しているにすぎない。今日(こんにち)のアメリカにおける無神論者の社会的地位は、50年前の同性愛者の立場とほとんど同じである。ゲイ・プライド運動のあと、いまでは、同性愛者が公職に選ばれることは、けっして簡単というわけではまだないが、可能である。1999年におこなわれたギャラップ調査では、アメリカ人に対して、その他の点では十分な資格をもつ次のような人物に投票するかどうかが質問された。女性(95%は投票する)、ローマ・カトリック教徒(94%)、ユダヤ人(92%)、黒人(92%)、モルモン教徒(79%)、同性愛者(79%)、無神論者(49%)という結果だった。明らかに道ははるかに遠い。しかし無神論者の数は、多くの人が気づいているよりも、もっとはるかに多く、とくに高い教育を受けたエリートのあいだに多い。この点については、すでに19世紀からそうだったのであり、だからこそジョン・スチュワート・ミルが実際、こう述べているのだ。「世界にもっとも輝かしい光彩を添えている人々のうちの、英知と徳という通俗的な評価においてさえももっとも傑出した人々のうちの、どれほど大きな比率が、宗教への完璧な懐疑論者であるかを知れば、世界は驚愕するだろう」。

【『神は妄想である 宗教との決別』リチャード・ドーキンス:垂水雄二〈たるみ・ゆうじ〉訳(早川書房、2007年)】

 リチャード・ドーキンスが苦手な上に垂水雄二の訳文が苦手だ。ドーキンスの文章はワンセンテンスが長すぎる。垂水は文体が悪い。

「信心深さは目を見張るものだからである」→信心深さには目を見張るものがある。
「現実をほんのわずかに」→「に」は不要
「けっして簡単というわけではまだないが」→けっして容易ではないが
「その他の点では十分な資格をもつ次のような人物」→政治家としての資質を十分に備えた次の人物
「はるかに」が重複。「に」が多すぎる。ジョン・スチュアート・ミル(本文ではスチュワート)の言葉も実にわかりにくい。はっきりいって悪文だ。


 私は本書を三度読み、三度とも挫けている。ドーキンスの神経質な性格に耐えられないためだ。言いたいことはわかるし、彼の役割が重要だとも思う。だが、どうしてもキリスト教に対する反射的な言動が目立ち、否定の度合いが浅く感じる。

 たとえ本人が「自分は無神論者」であると言っていても、無神論者であるということ自体、宗教の影響を受けているのです。無神論ということの前提には、まず神があるかないかという問いがあるからです。

〈決定版〉 世界の〔宗教と戦争〕講座 生き方の原理が異なると、なぜ争いを生むのか』井沢元彦(徳間書店、2001年/徳間文庫、2011年)

 この指摘がドーキンスに当てはまる。しかもピッタリと。彼はたぶん意図的に騒ぎ立てることでアメリカを中心とするキリスト社会に風穴を空けようと目論んでいるのだろう。それが上手くいって欲しいとは思う。彼はかつて日本の新聞社によるインタビューで「仏教は宗教ではない」と答えた。もちろんそれは「彼が否定する宗教」との意味合いであろう。ここらあたりが実は難しいところで、無神論=宗教の否定ではないし、無神論が正義だと叫んでしまえばキリスト教と同じ穴に落ちてしまう。私は人類における宗教性は誰も否定することができないと考える。

「神は妄想である」――これはいい。だが「宗教との決別」がまずい。「真の宗教性の追求」にすれば論旨も大きく変わったことだろう。批判や否定は簡単だが、その言葉が信者に届くことは稀だ。相手の心を開かなければ胸を打つこともない。魔女狩り、黒人奴隷、インディアン虐殺という歴史を経ても目を覚ますことがないのがキリスト者なのだ。頭ごなしに否定したところで何かが変わるわけではあるまい。

 尚、併読書籍については「キリスト教を知るための書籍」「宗教とは何か?」に示してある。

神は妄想である―宗教との決別

リチャード・ドーキンスが語る「奇妙な」宇宙
デカルト劇場と認知科学/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
情報理論の父クロード・シャノン/『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック
宗教学者の不勉強/『21世紀の宗教研究 脳科学・進化生物学と宗教学の接点』井上順孝編、マイケル・ヴィツェル、長谷川眞理子、芦名定道

宗教は人を殺す教え/『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静


新約聖書の否定的研究/『イエス』R・ブルトマン

 ・宗教は人を殺す教え

『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士
キリスト教を知るための書籍

 本書は次のような素朴な問いに答えることを目的としている。
〈宗教は人を幸せにするためにあるはずなのに、なにゆえその同じ宗教が宗教の名のもとに平然と人を殺してしまうのか?〉
「幸せ」という曖昧な言葉を用いた。人によって何を幸せと感じるかはさまざまであろうが、宗教が提供しようとする幸せとは、人の〈いのち〉にかかわるようなものである。〈いのち〉とは生物学的な生命を意味するだけでなく、その人の人格、生全体、その人らしく生きること、そういった〈生、生きること〉にかかわる総体を〈いのち〉と呼びたい。宗教は、人が充実した生、安心した、落ちついた生、社会的な地位や身分や役割とは無関係に根元(ママ)的に存在する自立した生の在り方を示し、人がその人らしく、その人自身として〈いのち〉を生きることを可能にする。しかしながら、歴史を少しでも振り返ってみるならば、嫌というほど多くの〈いのち〉が宗教ゆえに殺されている。宗教戦争は歴史年表を埋め尽くしている。文字通り「殺される」ということだけではない。宗教の名のもとに人間としての尊厳を否定されている人は、今も後を絶たない。自らの人生すべてを宗教に献げることは、表面的には信仰深く幸せそうに見えるかもしれないが、実際には自分の生の有り様を他人に依存し、自立した人間として生きることから逃げているに過ぎないという場合も少なくない。信仰熱心な者となることを自らに課す人は、宗教指導者や組織の言いなりになってしまいがちである。それは決してその人に与えられた〈いのち〉を生きているとはいえず、むしろそれを失っているのである。自らの〈いのち〉を生きられない人が、他者の〈いのち〉を奪うことに無頓着になってしまうのは、ある意味当然のことである。自らの〈いのち〉を喪失し、他者の〈いのち〉を殺すことが信仰熱心の証となってしまうという悲劇は、いつの時代にも繰り返されている。しかも、宗教指導者こそが先頭に立って〈いのち〉を奪っているという事態は、決して稀なことではない。一般信徒の方がはるかにまっとうな感覚を具(そな)えているということはよくあることだ。

【『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静〈うえむら・しずか〉(岩波書店、2008年)】

 本書刊行時は東京大学や東海大学で非常勤講師をしていたが現在は著作に専念しているようだ。あっさり味だが出汁(だし)がしっかり出ている塩ラーメンの趣がある。文章にスピード感がないのはそのため。出汁を取るには時間がかかる。ましてキリスト者に対するメッセージであれば慎重に話を進めないと拒否反応を招く。

 冒頭で一般論を掲げてからキリスト世界に入ってゆくわけだが、外野から見るとキリスト教の内部世界を描いているため、そこかしこに「甘さ」を感じる。だが上村の抑制された筆致は清々しく、陰険な性質が見られない。宗教を巡る議論は正義の奪い合いに終始して、主張が誘導の臭いを放つことが多い。上村は自分の足でイエスに接近する。

「宗教は人を幸せにするためにある」というのは一般論としては正しいかもしれないが、科学的に見れば誤っていると思う。宗教は本来、コミュニティ維持のために発生したと考えられる。

進化宗教学の地平を拓いた一書/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド

「幸せ」は元々「仕合わせ」と書いたが、たぶん鎌倉時代にはなかった言葉だと思われる。とすれば概念そのものが中世以降のものだ。まして、「民衆は、歴史以前の民衆と同じことで、歴史の一部であるよりは、自然の一部だった」(『歴史とは何か』E・H・カー)ことを踏まえると、「幸せ」は更に遠のく。

 それゆえ宗教は「死を巡る物語」であり、コミュニティを維持する目的で「死を命じる」ことも当然含まれていたことだろう。その意味でコミュニティとは悲しみと怒りを共有する舞台装置といえそうだ。

 一般論としての「幸せ」は人権概念から生まれたものではあるまいか。もちろんそのためには自我の形成が不可欠だ。西洋では「神と相対する自分」から個人が立ち現れる。

社会を構成しているのは「神と向き合う個人」/『翻訳語成立事情』柳父章

 発想を引っくり返してみよう。宗教は人を殺す教えなのだ。そして人間は自分が束縛されることを望む動物なのだ。おお、実にスッキリするではないか(笑)。これが掛け値なしの事実である。積極果敢に幸福を説く宗教の欺瞞を見抜け。彼らが幸せそうな素振りをしてみせるのは布教の時だけだ。胸の内では布教の成果を求めて煩悩の炎が燃え盛っている。布教とはプロパガンダの異名である。声高な主張には必ず嘘がある。真実は黙っていても伝わる。

 私の見地からすれば「宗教の倒錯」ではなくして「宗教は倒錯」ということになる。

宗教の倒錯―ユダヤ教・イエス・キリスト教タルムードの中のイエス旧約聖書と新約聖書 (シリーズ神学への船出)キリスト教の自己批判: 明日の福音のために


エティ・ヒレスムの神/『〈私〉だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教』ウルリッヒ・ベック