2014-05-30

何も残らない/『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ



『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・何も残らない
 ・生きるとは単純なこと

『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也

1月22日 何も残らない

 人類の文明そのものが、「私は死なない」というウソを前提にしてできています。
「死なない」という思いから、名誉や財産を自分のものにしようとします。他国を征服した指導者は、自分の銅像を建てたりして、永遠に自分が存在し続ける気持ちになるのです。しかし、栄華を極めたローマ帝国と同じで、何ひとつ残りません。
 名誉や財産をたくさんもっていても、みじめに死んでしまう。最期は墓場です。
 事実を認めて、「みんな死ぬ」という前提で生きれば、日々美しく平和に暮らそうということになります。

【『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ(PHPハンドブック、2008年/PHP文庫、2017年)】

 仏教には南伝と北伝がある。日本に伝わったのは北伝ルートで大乗を標榜する(大衆部〈だいしゅぶ〉)。これに対して南伝ルートでスリランカ・タイ・ミャンマーなどの出家教団に受け継がれたパーリ語経典の教えをテーラワーダ仏教(上座部〈じょうざぶ〉)と呼ぶ。

 日本などいわゆる大乗仏教の諸国では、お釈迦様の初期経典に説かれたヴィパッサナーなどの実践方法が伝わってきませんでした。そのために思弁哲学の学問仏教、あるいは現世利益信仰や儀式儀礼の呪術的宗教になってしまった面もあります。テーラワーダ仏教はいわゆる「小乗」とも「大乗」とも無縁です。ただお釈迦様の説かれた教えとその実践方法の一つ一つを、当時のまま、今日まで伝えてきた純粋な体系なのです。

テーラワーダ仏教とは?:日本テーラワーダ仏教協会

 スマナサーラ長老の言葉は平易である。理屈をこね回すような姿勢がどこにもない。大衆部の教義が絢爛(けんらん)を目指して複雑化したのに対して、上座部は初期経典に忠実であることに努め、極めてシンプルな教えだ。日本の仏教界に必要なのは初期経典に照らして大衆部の政治的欺瞞を取り除くことであろう。

 キリスト教には永遠という概念がある。スケールは異なるが日本では「名を残す」という考え方が根強い。「最期は墓場です」とあるが、墓そのものが死後にも名を残そうと企てる人間の哀しい所業だ。我々は誰かに思い出される存在であることを望み、より多くの人々に死を悲しんでもらいたがる。自分はいないのに。

 文明の発達は個々人の欲望を掻き立て、人間の細断化を促した。そして私は死んでも私の所有物は残る。文字の発明によって生前の経験や思考をも記録として残せるようになった。今では音声や映像まで残せる。アメリカの非営利団体アルコー延命財団では遺体の冷凍保存を行っている。子孫を残すのも自分の分身と考えればわかりやすい。文明は不老不死を目指す。死んだ人々を置き去りにしながら。

 多くの人々が望む地位・名誉・財産も一緒であろう。極めるとピラミッドや古墳に落ち着きそうだ。

 スマナサーラは我が身を飾る一切のものを「かぶり物」だと本書で指摘している。何ということか。我々の人生そのものがコスプレと化していたのだ。大事なのは何をやったかよりも、勲章であり賞状でありメダルなのだ。功成り名を遂げて周囲の連中を睥睨(へいげい)しながら黒い満足感に浸っている中で死を見失ってゆく。彼の幸福とおもちゃやお菓子を与えられた子供の幸福に違いはあるだろうか?

 100年後を思え。今生きている人の99%は死んでいることだろう。そう考えると道で擦れ違う見知らぬ人にも親切な気持ちが湧いてくる。争っている時間などないはずだ。

2014-05-29

八正道と止観/『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ 『大念処経』を読む』片山一良


 仏教の実践は梵行(ぼんぎょう)と呼ばれます。それは清浄(しょうじょう)な行であり、「三学」(さんがく)をその内容としております。三学とは戒・定・慧(かい・じょう・え)の学び、実践です。仏道の根本である「八正道」(はっしょうどう)にほかなりません。すなわち正見(しょうけん)・正思(しょうじ)・正語(しょうご)・正業(しょうごう)・正命(しょうみょう)・正精進(しょうしょうじん)・正念(しょうねん)・正定(しょうじょう)という中正の道、一語で言えば「中道」です。「戒」は正語・正業・正命の道に、「定」は正精進・正念・正定の道に、「慧」は正見・正思の道に相当します。
 仏教には、このような三学、八正道という生活全体にかかわる重要な実践があり、その八正道を含む三十七菩提分法(さんじゅうしちぼだいぶんぽう)という法、実践の体系もあります。そしてまた、坐を中心とした「止観」(しかん)と呼ばれる瞑想の修習(しゅじゅう)、実践があります。
 止観とは、すなわち止の修習と観の修習です。「止」(śamatha サマタ)は、諸煩悩を寂止(じゃくし)させる心の修習、またはその静まりをいいます。「定」の因であり、心が一点に集中する心一境性(しんいっきょうしょう)を本質とします。それに対して「観」(vipaśyanā ヴィパッサナー)は、三界(さんがい)における身心(しんじん)の相(無常〈むじょう〉・苦〈く〉・無我〈むが〉)を観察し、道(どう)・果(か)・涅槃にいたる智慧の修習、またはその智慧をいいます。苦の生滅を知る智慧、「慧」の因であり、知る慧を本質とします。たとえば、釈尊はつぎのように説いておられます。

「あらゆる行は無常なり、と 智慧をもって観るときに
 かれは苦を厭(いと)い離れる これ清浄(しょうじょう)にいたる道なり」(『法句』277)
「あらゆる行は苦なり、と 智慧をもって観るときに
 かれは苦を厭い離れる これ清浄にいたる道なり」(『法句』278)
「あらゆる法は無我なり、と 智慧をもって観るときに
 かれは苦を厭い離れる これ清浄にいたる道なり」(『法句』279)

と。

 これは「観」という「清浄にいたる道」を示されたものです。智慧によって諸行(しょぎょう)の無常、苦を見るとき、また諸法の無我を見るとき、苦を離れる。苦は苦でなくなる。生死(しょうじ)という輪廻の苦は、すなわち輪転の苦のない涅槃である、と言われたものです。苦は苦であり、苦でない、というのです。
 この観は『大念処経』に説かれる最上の実践であり、智慧でもあります。

【『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ 『大念処経』を読む』片山一良〈かたやま・いちろう〉(大法輪閣、2012年)】

 文章に臭みがあり、いかにも坊さんっぽい。片山は駒澤大学教授で精力的にパーリ語仏典を翻訳している人物だ。

「智慧をもって観る」とはクリシュナムルティが説く「ありのままに見る」行為でもある。「観察者は、同時に観察されるものだ。そこに正気があり全体があり、神聖なものとともに、愛がある」(『クリシュナムルティの日記』J・クリシュナムルティ)。

瞑想とは何か/『クリシュナムルティの瞑想録 自由への飛翔』J・クリシュナムルティ
瞑想は偉大な芸術/『瞑想』J・クリシュナムルティ
現代人は木を見つめることができない/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ
クリシュナムルティの悟りと諸法実相/『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティ

 片山は曹洞宗(そうとうしゅう)寺院の住職を務めているようだ。悪臭の原因がわかった。パーリ語経典の禅宗的解釈によるものだ。つまりブッダの言葉を利用する根性がどこかにある。宗教の「宗」の字は中心・根本の意である。片山は根本がズレている。

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止観/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ

石原結實、アルボムッレ・スマナサーラ、ステイシー・オブライエン、ガイ・ドイッチャー、他


 5冊挫折、2冊読了。

言語が違えば、世界も違って見えるわけ』ガイ・ドイッチャー:椋田直子〈むくだ・なおこ〉訳(インターシフト、2012年)/発売は合同出版。久し振りに社名を見て嬉しくなった。言語が知覚に及ぼす影響を探った書籍。思考ではなく知覚というのがミソ。読書に関しては堪え性がなくなっているため、巻頭で要旨を簡潔に書いてくれないと読む気が失せる。思わせぶりな文章であやふやな行き先を示されても困る、というのが本音だ。興味がある分野だけに残念。

暗号解読(上)』サイモン・シン:青木薫訳(新潮社、2001年/新潮文庫、2007年)/サイモン・シンは文章に締まりがない。圧縮度が低い分だけ抽象度も薄まっているように感じる。『インフォメーション 情報技術の人類史』(ジェイムズ・グリック)と両方読んだ人の声が聞きたい。

新訳 フランス革命の省察 「保守主義の父」かく語りき』エドマンド・バーク:佐藤健志〈さとう・けんじ〉訳(PHP研究所、2011年)/パス。

僕たちは戦後史を知らない 日本の「敗戦」は4回繰り返された』佐藤健志〈さとう・けんじ〉(祥伝社、2013年)/最初の方だけ読む。ゴジラのダンスを見てから、悪臭のようにこのイメージがつきまとう。好き嫌いというレベルを超えて人間不信に陥りそうだ。

フクロウからのプロポーズ』ステイシー・オブライエン:野の水生〈のの・みお〉訳(日経ナショナルジオグラフィック社、2011年)/学者が書いたエッセイ。完全なエッセイだ。個人的な内容が多くて辟易。本の作りも最悪だ。

 34冊目『ブッダの教え 一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ(PHPハンドブック、2008年)/新書サイズで上下2段組。1日分は半ページとなっている。初期経典の教えが簡潔に書かれている。この簡潔さが難しいのだ。スマナサーラ入門にうってつけの一冊。トイレにおいておくのがよいと思う。必読書の『怒らないこと』と入れ替えるかどうか思案中。

 35冊目『「食べない」健康法 』石原結實〈いしはら・ゆうみ〉(東洋経済新報社、2008年/PHP文庫、2012年)/これは凄い。必読書入り。石原は「40歳を過ぎたら一日一食で十分」と説く。病気になる最大の原因は食べ過ぎにある。具体的にはこうだ。朝:にんじん&りんごジュース、昼:そば、夜:自由。生姜紅茶というのもいいらしい。糖尿病などの慢性疾患、冷え性、癌などにも効果があるそうだ。親不孝者の私が母のために買ってあげたくらい素晴らしい内容だ。早速、今日から一日一食を実践する。