2015-07-25

原発事故の多層的な被害/『みえない雲』グレゴール・シュニッツラー監督


 ドイツ映画。2006年公開。原発事故を描いたパニックもの。ギムナジウムに通う14歳という設定の主役二人の演技がとてもよい。特にキアヌ・リーブス似の彼氏は陰影の深い役どころを見事にこなしている。

 授業中にABC警報(ドイツで定められている、A=核兵器、B=細菌兵器、C=化学兵器の攻撃を知らせる警報)のサイレンが鳴り響く。原発事故は多層的な被害を及ぼす。映画では家族が離れ離れになる~弟が交通事故に遭う~恋人と別れてしまう~被曝する~大切な人を喪うという流れが描かれる。

 原作の小説はドイツで150万部を売り上げ、国語教材としても活用された。「ドイツを脱原発へと導いた小説」と評されているが、映画にそれほどの説得力は見出だせない。ドイツは脱原発を目指しながらも、フランスから原発電力を輸入している(トータルではドイツは電力輸出国)。EUでは1999年から電力自由化が実現しているため、EU全体を見る必要があろう。

 私は原発にまつわる最大の問題は技術よりも、むしろ情報隠蔽、利権優先のシステム、杜撰な計画~運用、ヒューマンエラーにあると考える。電力を輸入できない我が国の現実を思えば、今直ぐ脱原発というのは難しいだろう。また一度進んだ技術は引き返すことができない。もちろん原子力技術は軍事力とも関連してくる。現状では再生エネルギーはコスト的に見合わない。とてもじゃないが太陽光パネルの10年間の発電量で太陽光パネルがつくれるとは思えない。

「主演女優パウラ・カレンベルクはチェルノブイリ原発事故の時に胎児であった。健康な外観で生まれたが、幼児期に検査をしたところ、心臓に穴が開いていること、片方の肺がないことが判明した。しかし彼女は体に障害があるとは思わせることはなく、疾走する場面も問題なくこなした」(Wikipedia)。



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テロに敗れつつあるアメリカ/『グアンタナモ、僕達が見た真実』マイケル・ウィンターボトム監督


 2006年に制作されたイギリス映画。日本公開は2007年。

 実話である。しかも本人たちのインタビューが随所に挿入されている。パキスタン系イギリス人の若者が結婚式のためにパキスタンへ里帰りする。彼は3人の友人を招待し、4人でパキスタンへ向かう。彼らは隣国のアフガニスタンが米軍の攻撃によって荒廃していることに心を痛める。せっかくここまで来たのだから、ということで彼らはアフガニスタンにまで足を伸ばし、難民支援のボランティアを行う。タリバンの戦闘に巻き込まれ、その後彼らは米軍に引き渡され、グアンタナモ収容所(※グァンタナモとの表記もあり)へ送られる。拘束期間は2年半に及んだ。


 私はキューバ国内にアメリカの飛び地があったことを知らなかった。元々はキューバやハイチからの難民を受け入れるためのキャンプであったらしい(1970年代)。9.11テロ以降はテロリスト容疑をかけられた各国の人々が収容されている。しかも裁判がない上、国内法をかわす目的で国外に設けられ、ジュネーヴ条約違反を回避するために捕虜ではなく犯罪者と位置づけている。そう。彼ら米軍こそが無法者なのだ。

 杜撰(ずさん)な取り調べ、でっち上げ、そして嘘。ある時は「イギリス大使館の外交官」を詐称する人物が現れる。もちろん米兵かCIAである。女性による取り調べも行われるが、最初から最後までテロリストと決めつけているだけだ。

 私はテロに敗れつつあるアメリカを確かに見た。日本の官僚主義とまったく同じ世界だ。事実はどうあれ結果だけが求められる。米兵の無能が犯罪に結びつく。こうした行為が強靭な復讐心を醸成させ、世界の至るところでアメリカ人が殺されるような目に遭ってもおかしくない。グアンタナモ収容所でアメリカは正義の旗を下ろした。

 そして主人公たち3人がイギリスに帰国した2004年、今度はイラクのアブグレイブ刑務所で米兵による捕虜虐待が発覚するのである。

 映画作品としてではなく、現実世界で起こった事実として見るべきだ。「世界の警察」を自認してきたアメリカが犯罪者に転落した瞬間を我々は目撃する。オバマ大統領はシリア問題に関するテレビ演説で「米国は世界の警察官ではないとの考えに同意する」と歴史に残るであろう発言をした(2013年9月10日)。ま、国防予算削減という背景もさることながら、米軍が世界各地で犯罪を冒してきた事実を思えば、犯罪者宣言とも思える。

 アシフは語る。「人生が変わってしまった。考え方、世の中の見方も……。この世界はいいところじゃない」。

 正義を叫ぶ者を疑え。彼らこそが世界に混乱を起こす張本人ゆえに。



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2015-07-22

漢字制限が「理窟」を「理屈」に変えた/『漢字雑談』高島俊男


 ・漢字制限が「理窟」を「理屈」に変えた
 ・障害者か障碍者か

 漢字制限は敗戦直後昭和21年の「当用漢字」から始まる。固有名詞(福岡などの地名、佐藤などの姓、その時現在の名)を除き、政府が決めた1850字以外使ってはならぬという、強い制限である。罰則はないので作家などは使ったが、官庁(法令、公文書等)、学校、新聞の三大要所を抑えて励行させた。

【『漢字雑談』高島俊男(講談社現代新書、2013年)以下同】

 いつの時代も権力は暦と文字を管理する。「どの国でも文字改革というのは、前の歴史との連続性を切断するために行う」と佐藤優は説く(『国家の自縛』)。当用漢字とは「当座は用いて構わない漢字」という意味で、GHQには日本語のアルファベット化という案もあった。マッカーサーが日本文化の破壊を意図したことは疑問の余地がない。それにしても、官庁、学校、新聞はさながら権力という風になびく草の如し。

 今は「理屈」と書く。従前は「理窟」と書いた。
「理窟」が「理屈」になったのには経緯がある。敗戦直後政府が制定した漢字制限によって「窟」の字の使用が規制(事実上禁止)された。昭和31年にいたって政府は「同音の漢字による書きかえ」と題する文書で、「理窟」は今後「理屈」と書け、と指示した。これによって、法令、公文書、学校の教科書などはもとより、新聞・雑誌その他社会一般も「理屈」と書くことになった。
「りくつ」を「理屈」と書くのは、りくつから言えばおかしい。
「理が屈する」というのは、話のすじみちが通らなくなって行きづまることである。「りくつ」は話のすじみちが通ることだから正反対である。
 中国では一口に「理屈詞窮」と言う。理に屈し詞(ことば)に窮する、話のすじみちが通らなくなって言葉に窮することである。論語の朱子注から出た成語である。「屈」はまっすぐに行けず折れ曲ること、行きづまることである。
 ただし、日本では「りくつ」は昔から口頭語として広く用いられたことばだから、江戸時代にはあて字で「理屈」と書いた例はいくらもある。(中略)
 理窟の「窟」は穴カンムリが示す通り「ほらあな」である。「アルタミラの洞窟」の「窟」である。では「理のほらあな」がなぜ「すじみちの通った話」になるのか。
 さあこれがむずかしい。
 国語辞典でこの意義を書いてあるものはほとんどない。『大言海』(昭和10年冨山房)にこうある(「理窟」は第四巻、昭和10年)。
   〈理窟(マミアナ)ノ意ニテ、理ノアツマル所ノ義〉

 最後の行の「マミアナ」とは狸穴のことか。字面(じづら)も理窟とよく似ている。私は本書を読むまで「理窟」という文字がまったく頭になかった。恥ずかしい限りである。もちろん『岩窟王』で字は知っていた。自分勝手に「理正しければ理に屈する」と読んでいた。

 というわけで今後は「理窟」と表記することにした次第である。

漢字雑談 (講談社現代新書)

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