2015-09-07

論理万能主義は誤り/『国家の品格』藤原正彦


『妻として母としての幸せ』藤原てい
『天才の栄光と挫折 数学者列伝』藤原正彦
『祖国とは国語』藤原正彦

 ・論理万能主義は誤り

『日本人の矜持 九人との対話』藤原正彦
『日本人の誇り』藤原正彦
『武士道』新渡戸稲造:矢内原忠雄訳
『お江戸でござる』杉浦日向子監修
『自由と民主主義をもうやめる』佐伯啓思

日本の近代史を学ぶ

 もう一度言っておきましょう。「論理を徹底すれば問題が解決出来る」という考え方は誤りです。論理を徹底したことが、今日のさまざまな破綻を生んでしまったとも言えるのです。なぜなら「論理」それ自体に内在する問題があり、これは永久に乗り越えられないからです。

【『国家の品格』藤原正彦(新潮新書、2005年)以下同】

 城西国際大学・東芝国際交流財団共催の講演記録をもとに執筆。横溢するユーモアと日本の誇りが並び立つ稀有な一書。1990年代から顕著となった日本の近代史見直しを国民的な広がりへといざなったベストセラーである(260万部)。

 かつて帝国主義が正義とされた時代があった。欧米諸国が植民地をもつのは当然だとアフリカ人もアジア人も思い込んでいた。現在はびこっている国際主義も後から振り返れば誤っている可能性がある。藤原は実力主義も誤りで、「資本主義の勝利」は幻想にすぎず、「会社は株主のもの」という考え方も否定する。学説よりも常識を重んじる主張がわかりやすい。そして「論理は世界をカバーしない」と言い切る。

 この事実は数学的にも証明されています。1931年にクルト・ゲーデルが「不完全性定理」というものを証明しました。
 不完全性定理というのは、大ざっぱに言うと、どんなに立派な公理系があっても、その中に、正しいか正しくないかを論理的に判定出来ない命題が存在する、ということです。正しいか誤りかを論理的に判定出来ないことが、完全無欠と思われていた数学においてさえある、ということをゲーデルは証明したのです。
 この不完全性定理が証明されるまで、古今東西の数学者は、こと数学に限れば、どんな命題でも正しいか誤りかのどちらか一つであり、どちらであるかいつかは判定できる、と信じ切っていた。ところがゲーデルはその前提を覆したのです。人間の頭が悪いから判定出来ないのではない。論理に頼っていては永久に判定出来ない、ということがある。それを証明してしまったのです。

ゲーデルの生と死/『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎
ゲーデルの不完全性定理

 藤原は情緒を重んじる男であるが、数学者なので根拠を重視している。話し言葉がわかりやすいだけに誤解してはなるまい。数学者の仕事は「証明する」ことなのだ。安っぽい感情保守とは一線を画している。

 人類三大発明の一つである活版印刷は飛躍的な知識普及を実現したが、結果的には言葉と思考で脳を束縛した。我々はたぶん左脳が肥大していることだろう。右手も明らかに使いすぎている。

 西洋で論理思考が発達したのは「神の存在」を証明するためであった。日本の場合、情緒に傾きすぎて学問は術レベルにしか至らなかった。幕末の開国から大東亜戦争敗戦に至る経緯は「西洋の総合知に敗れた歴史」であったと見ることもできよう。そして日本は自虐史観によって誇りを奪われ、国家観を見失い、経済一辺倒の無色透明な準白人国家となってしまった。

 そろそろキリスト教による普遍主義から多元主義に変わってもいい頃合いだ。そのきっかけとなるのが多分、9.11テロなのだろう。

国家の品格 (新潮新書)
藤原 正彦
新潮社
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2015-08-30

アラビック・カリグラフィ




2015-08-28

大阪産業大学付属高校同級生殺害事件を小説化/『友だちが怖い ドキュメント・ノベル『いじめ』』南英男


大阪産業大学付属高校同級生殺害事件

 ・大阪産業大学付属高校同級生殺害事件を小説化

「矢吹がいる限り、わしらはどうにもならん。わし、もう我慢できんのや。夕べも、なんかくやしゅうて、よう眠れんかった」
「きのうは、わしも腹が立ってならんかったよ」
 幸夫が即座に応じた。(中略)
「ひとりじゃ無理かもしれんけど、ふたりなら殺(や)れると思うんや」登は言った。
「そうやな。ふたりだったら、なんぼ矢吹が強い言うても……」
「ああ、けど、まともに襲ったら、失敗するかもしれん。だから、殺(や)るときは不意討ちにするんや」
「そうやな。それで、どんな方法で殺(や)るんや?」
「金槌(かなづち)で頭を思いきりどついたら、どないやろ?」

【『友だちが怖い ドキュメント・ノベル『いじめ』』南英男(集英社文庫コバルトシリーズ、1985年)以下同】

 いじめに対する報復殺害事件である。事件の詳細についてはWikipedia削除記事を参照せよ。このやり取りは1984年11月1日8時半頃に京阪電鉄の駅で行われ、同日の19時40分に決行した。二人は10分間あまり70数回にわたって金槌で殴打。途中では釘抜きの方で目をつぶしたが相手はまだ死んでいなかった。その後川へ投げ込み、水死した。

 エスカレートするいじめを思えば、二人はやがて殺されていたかもしれない。そう考えると殺害は正当防衛であったと見ることもできよう。南英男はリベラルを気取って「そういう意味では、加害者のふたりも被害者の少年も現代社会の犠牲者といえそうだ」と書いているが、この論法でいけばあらゆる犯罪は「現代社会の犠牲者」として正当化し得る。

 ぼくは、被害者が自慰行為を強制したことと加害者たちが70数回も相手を金槌で殴打したことに“病(や)める時代”を感じないわけにはいかない。

「現代社会の犠牲者」とか「病める時代」だってさ(笑)。左翼が好むキーワードだ。相手が死んでなかったら、後に彼らは間違いなく殺されていたことだろう。想像力を欠いた作家の文章はナイーブに世を儚(はかな)んでみせ、ナルシスティックな憂鬱に浸(ひた)る。著者は冒頭にも次のように記している。

 それにしても、すさまじい仕返しだ。
 この烈(はげ)しい憎悪は何なのか。
 日ごとに陰湿化する弱い者いじめの背後には、いったい何があるのだろう? 何がきっかけで、いじめが起こるのだろうか。生(い)け贄(にえ)にされた者は、どんな苦しみを味あわされているのか。いじめを繰り返す者は、何かストレスをかかえているのではないか。もはや解決の道はないのだろうか。

 支離滅裂な文章である。2行目と3行目に脈絡がない。「もはや解決の道はないのだろうか」。ないね。あんたのような大人がいる間は。

 力の弱い者が協力して力の強い者をやっつけた。ここに民主主義の原点がある。民主主義は暴力から生まれた(『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール)。すなわち一人の強者に対して弱者が力を合わせて対抗することが民主主義のメカニズムなのだ。

 更に人類は腕力よりも知恵によって生存率を高めてきた。平穏な生活からは想像しにくいが武器こそ知恵の結晶といえる。そもそもヒトが初めて作成した道具は小型の斧と考えられている。力弱きヒトは猛獣に対して火や石を使って身を防いだことだろう。スポーツの元型が狩りにあることを思えば、道具の発明が狩猟のシステム化に結びついたことは確実だ。

 二人は「環境に適応した」のだ。ゆえに生き残ることができた。ただしここで大きな疑問が湧く。適者生存が進化の現実であれば、「殺す側」が優位となってしまう。そこに歯止めをかけるのが「法」の役割なのだろう。