2011-07-10

大いなる人物の大いなる物語/『孟嘗君』宮城谷昌光


・『湖底の城』宮城谷昌光

 ・大いなる人物の大いなる物語
 ・律令に信賞必罰の魂を吹き込んだ公孫鞅
 ・孫子の兵法
 ・田文の光彩に満ちた春秋
 ・枢軸時代の息吹き

『長城のかげ』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光

 宮城谷昌光は晴朗な文章で時代と人を描く。『史記』に書かれた孟嘗君(もうしょうくん)は点景のようなものであろう。そこに息を吹き込み、血を通わせ、魂を打ち込む。想像力を支えているのは漢字だ。漢字の成り立ちや作りから歴史を読み解く。それはまさに「同じ時代を生きる」作業であった。人間の英知と感情は数千年を隔てた人物の理解を可能にする。

 宮城谷作品は5~6冊ほど読んでいるが長篇は初めてのこと。全5巻を5日間で読み終えた。鮮やかな輪郭を伴った人間が凄まじい勢いで読者に迫ってくる。信じ難いほど心が揺さぶられる。生きることの重みがまるで違う。

 孟嘗君(もうしょうくん)は諡(おくりな)で本名を田文(でんぶん)という。父・田嬰(でんえい)の妾腹(しょうふく)で、忌(い)まわしい日に誕生したため殺害を命じられた。当時、5月5日に生まれた子は父を殺すと信じられていた。オイディプス阿闍世王(あじゃせおう)を彷彿(ほうふつ)とさせる。

 邸(やしき)内の清掃を生業(なりわい)とする僕延(ぼくえん)の手で助けられた田文は、その後亡き者とされる。全5巻のうち4巻までは育ての父・風洪(ふうこう/後に白圭と改名)と公孫鞅(こうそんおう)・孫ピン孫武と同じく孫子と呼ばれる人物)が主役を務める。田文(でんぶん)を巡る時代と人々の潮流を描くところに著者の真意があるのだろう。

 斉(せい)の国は塩をにぎった。
 のちに天下を制するものは、塩と鉄である、といわれるようになる。その片方を斉が多量に産することによって、この国は富んだ。

【『孟嘗君』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1995年/講談社文庫、1998年)以下同】

 時代考証の重要な要素は人口と経済だと思われる。人々の衣食住を支えるのが経済であり、経済によって政治も安定する。人心とは空腹か否かであろう。人類にとって長い間、塩は貴重品であった。インドでガンディーが行った塩の行進は、イギリスの専売に抗議を示したものだ。これがインド独立につながった。日本においても1985年まで専売制であった。生存に不可欠なものは必ず権力者が管理する。

 中国で紙が発明されるのは紀元前2世紀で、前漢王朝の時代である。紙といえば、後漢王朝の蔡倫(さいりん)という官人が発明したことになっているが、実際はそれよりはるかまえに発明されていた。それはともかく、戦国時代には紙がないので、ふつうに文字を書くとしたら、布のうえか、木片や竹片のうえということになる。木片のほうが竹片より不乱しにくいので、木片が重宝がられたにちがいなく、
「■(片+賣/トク)」
 とよばれる木片は、書き物用の木の札のことで、それはいまでいう手帳とか手紙のことである。

 これまた重要な時代考証だと思われるので記しておく。現代において書籍を「冊」と数え、文章を「篇」と称し、本を「紐解く」というのは、竹簡木簡に由来している。

 歴史とは「記録されたもの」の異名である。記録を欠いて歴史は成立しない。歴史とは概念なのだ。中国には古くから皇帝(王)を中心とする「天下」の思想があった。

世界史は中国世界と地中海世界から誕生した/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘

 宮城谷作品の魅力は挙措(きょそ)を通した人物描写にある。

 風洪(ふうこう)が部屋にはいると、夭(わか)い女がいて、揖(ゆう)をした。揖というのは、両手を胸のまえで組み、上下させる礼のしかたである。その礼容が明るい。性格が明朗なのかもしれない。

 風洪は冷(ひ)えた目で公孫鞅(こうそんおう)を凝視(ぎょうし)しはじめた。この男はその場に応じていろいろな顔をつくることができる。が、いろいろな話をつくるのであれば、信用できない。

 人を生かすことのできぬ者は、人を殺すこともできないのである。恵王(けいおう)の本性にあるなまぬるさを、公孫鞅(こうそんおう)はおそろしいほど深々と洞察したのである。

 風洪は心のなかで皮肉な笑いを浮かべた。人のこころのなかのことは、顔なんぞみなくてもわかる。声をきけばよい。辰斗の声には誠意というものがいささかもこめられていない。

 情報のスピードが遅い時代だからこそ情報の深度が増すのだろう。雑音の多い現代とは異なるゆえに、人間の姿も真っ直ぐに見えたのだろう。我々の社会は付加価値だらけで本質が見えにくくなっている。

 風洪(ふうこう)はまだ侠客(きょうかく)のような立場であったが後に大商人となる。一方、公孫鞅(こうそんおう)は仕官を志していた。当時は春秋戦国時代諸子百家(しょしひゃっか)と呼ばれるほど思想の花が絢爛と咲いた。儒家(じゅか)・法家(ほうか)を中心とする学者は仕官を目指すわけだが、これは軍師的な色合いの強い政治家であった。君主を補佐する官位を宰相(さいしょう)といい、無名の人物が抜擢されることも珍しくはなかった。科挙による人選はもっと後代のことである。

「赤子はつよいな。おのれの欲望のためにないている」
 と、ふくみのあることをいった。
「すさまじいことを申される」
 血のめぐりのよい公孫鞅(こうそんおう)は風洪(ふうこう)の諷意(ふうい)をすぐに汲んだ。それにしても、
 ――欲望のためになけ。
 とは、うちひしがれた公孫鞅を立ち直らせるに、なんとふさわしいことばであったことか。公孫鞅は大望(たいぼう)があるといった。が、涙とともに流れ去るような大望では、男の本懐とはいえまい。

 風洪(ふうこう)は公孫鞅(こうそんおう)を人物と認めた。その後、妹を嫁がせている。

 が、どの国も、
「軽治(けいじ)」
 であるがゆえに、農民の苦労にむくいていない。軽治というのは、軽い政治のことであるらしい。耳なれぬことばであったので風洪が問うと、たとえば、と公孫鞅(こうそんおう)はいい、
 ――農貧しくして、商富む。
 それが軽治であるとこたえた。農民が貧困で、商人が富裕である、そういう状態を国政がゆるしているとき、それを軽治というようだ。

 これが2000年前の見識というのだから凄い。社会の仕組みは大きく変わったように見えながら、基底部は同じなのだろう。国民の食を支える農民を粗末にすれば国はいずれ滅びる。商人は品物を右から左に流すだけの仕事だ。ものを作っているわけではない。

 今はどうか。もっと酷い。他人から預かった金で儲ける銀行や証券会社や、電波利権にあぐらをかくメディアがのさばっているのだから。

 現代の政治家がいう国益の何と軽いことか。彼らに「国家を治める」度量があるとは到底思えない。政党の多数決要員に甘んじた姿が目立つ。

 最後に当時の処罰を紹介する。これは孫ピンにも処されているゆえ、どうしても書いておく必要がある。

 犯罪者にたいしては肉体を損傷するというのが、処刑の方法である。犯罪者であるというしるしを、だれの目にもあきらかにするのである。たとえば、
 黥(げい)
 とよばれるものは、いれずみであり、これをひたいにほどこす。
 ■(月+リ/げつ)
 ■(月+濱のつくり/ひん)
 は、あしきりの刑である。足をうしなった者は門番になるというのが、古代の事例にある。ところが衣服を着ると肉体の欠損をかくし、受刑者であることを世間の目からくらますことができるものがある。それは、
 宮刑(きゅうけい)
 腐刑(ふけい)
 とよばれるもので、すなわち男性の生殖器をきりとる刑で、重罪を犯した者に適用する。
 ところがこの受刑者にひとつの利点がもたらされた。どういうことかといえば、かれらは男性であることを喪失したのであるから、性欲にともなうなまぐさみがなくなり、それだけに女性に近づけても害のない存在であるとみなされ、女ばかりの住まいである後宮の警備の任をあたえられるようになった。これを寺人(じじん)という。さらに殿上にあって庶務をおこなう者もあらわれた。これが宦官(かんがん)である。

 司馬遷(しばせん)も宦官であった。そして孫ピンのピンは「■(月+濱のつくり/ひん)」である。つまり「足を切られた孫(そん)さん」という通称であったのだろう。生き生きと描かれる孫ピンは、吉川『三国志』の諸葛孔明を軽々と凌駕している。一読しただけでは理解しにくい『孫子』の兵法も手に取るようにわかる。

 田文が生きたのはちょうど孔子ブッダの間の時代であった。枢軸時代は人類の思考や物語を決定づけた時代である。大いなる人物の歩みがそのまま大いなる物語となった。その生きざまに、ただ頭(こうべ)を垂れるのみ。

 取り敢えず1巻の書評はここまで。

孟嘗君(1) (講談社文庫)孟嘗君(2) (講談社文庫)
孟嘗君(3) (講談社文庫)孟嘗君(4) (講談社文庫)孟嘗君(5) (講談社文庫)

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