2011-07-28

自分で精神を働かせ、自分で考える


 元来、わたくしたちは身体的栄養を摂る場合には、食物を自分で口に入れ、自分で咀嚼し、自分で消化する。これと同じように、あるいはそれ以上に、精神が知識を獲得するためには、自分で精神を働かせ、自分で考えなければなりません。そこには、当然、強い精神、強靱な思索が要求されてまいります。それは決して容易なことではありません。考えるということはなかなかむずかしいことであり、また苦しいことでもあります。しかし、そのようにして精神を働かせ、どこまでも考え抜くところにこそ、考える葦としての人間の尊さがあるのであります。
 なお、この考えるという行為は、それをたえず行うことによってその力を強めるものであります。からだが訓練によって強化されるのと同じように、精神というのも、それを鍛錬することによって、次第に強力となるものであることを申し上げたいと思います。それに反して怠惰な、怠けた精神は、怠惰なからだにもまして、ますます貧弱なものとなることは申すまでもありません。ともかく考えるためには、〈自分で考える〉ことが絶対に必要であります。

【『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬〈おもだか・ひさゆき〉(文藝春秋新社、1961年/第三文明レグルス文庫、1991年)】

自分で考えるということ

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