2012-01-07

気がつけば月の光


 昨夜、妙な体験をした。

 少し前から深夜のサイクリングにハマっている。深々(しんしん)と冷え込んだ闇こそ、独りゆく者に相応しい。繁華街を過ぎれば人と擦れ違うこともない。車すら滅多に通らない。

 15分ほどペダルを漕ぐと身体が温まってくる。南浅川のせせらぎがペダルのリズムと同調する。辺り一面は透明な月光に包まれている。生の象徴が太陽であるならば、月は死を象徴しているのだろう。そして生も死も本質は光なのだ。私はそう思う。

 最初のうちはあれやこれやを考えているが、ペダルの単調な動きが思考を抑制し、瞑想状態へ誘(いざな)う。街灯の少ない場所だとびっくりするほど星がよく見える。糸筋のような光が無数に降り注ぐ。

 細い刃(やいば)のような三日月が、日を増すに連れどんどん大きくなってゆく。あと2~3日もすれば満月だ

 昨夜もいつもと同じように私は月光に包まれていた。しかし何かが微妙に異なった。フワフワした感触があった。「あ!」と気づき、振り返りざまに空を見上げた。月が私を見守っていた。確かに見守られている感覚があった。月に向かって私は声を発した。「Kよ……」と。

 クリシュナムルティはKと呼ばれることを好んだ。多分、人格神として祀(まつ)られることを忌み嫌ったのであろう。「自我など記号にすぎない」というメッセージが伝わってくる。

 昨日紹介したテキストの全文を読んで私の脊髄に変化が生じた。脳、ではない。身体全体を司る中枢神経だ。

死別を悲しむ人々~クリシュナムルティの指摘

「見る」ことは「気づく」ことであり、「気づく」ことは「見る」ことであった。

 私は32歳の時に半年間で5人の後輩を喪ったことがある。その後もう一人が逝った。死の理不尽さを呪おうとも思ったが、死という現実を受け容れ、引き摺って生きてゆく道を選んだ。それこそ命の底からブルドーザー並みの馬力を引き出さねばならなかった。

 クリシュナムルティは死後の存在については何も語っていない。無記である。だが、「語らない」中に慈悲があるのだ。語られたものは知識となってしまう。知識は死物である。

 無記とは沈黙によって欲望を炙(あぶ)り出し、粉砕する行為なのだろう。それを知った瞬間から私は馬力を必要としなくなった。外側から見つめれば悲哀は固体と化しているが、内側に潜り込むことで液状化され、気化してしまった。

 単純な昂奮とは違った心臓の高鳴りを覚えた。今までとは別の響きが鼓動に感じられた。静かな感動が脈を通して身体全体に伝わった。

 疾走しながら何度も月を見上げた。「本当にKなのか?」と。クリシュナムルティに見守られている感覚が抜けなかった。

 しかし私は合理的な人間だ。神はおろか、幽霊や宇宙人の類いは絶対に信用しないし、スピリチュアリズムには唾を吐きかけることを信条としている。幽霊が出てきたら足元で立ち小便をし、神様が登場したら顔にまたがってウンコをすることもやぶさかではない。「ははーん、さては例のテキストに感動したあまり、脳が酔っ払った状態になったのだろう」と自己分析した。

 と、その直後である。脚がブルブルと震え出した。手も震え、遂に全身がわなないた。まだ、「そんなバナナ」と言うだけの余裕はあった。

 気がつけば月の光があった。月、ではない。ただ月の光が世界を支配していた。そこには私も月も存在していなかった。

 家路に就く途中で感じの悪い中年男と擦れ違った。私はいつもの日常に舞い戻っていた。

Moonlight

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