2016-05-27

競争と搾取/『ブッダの 真理のことば 感興のことば』中村元訳


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳

 ・競争と搾取
 ・洪水

『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

一 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
ニ ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。――影がそのからだから離れないように。
三 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨(うら)みはついに息(や)むことがない。
四 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。
五 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
六 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。――このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

【『ブッダの 真理のことば 感興のことば』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1978年/ワイド版岩波文庫、1991年)以下同】

 心は世界を映す鏡である。汚れた心には汚れた世界が、清らかな心には清らかな世界が映る。つまり心が因で世界が果である。「ものごと」とは多分「諸法」だろう。そして「話したり行なったり」は「諸行」である。華厳経には「心は工(たくみ)なる画師(えし)の如(ごと)く 種種の五蘊(ごうん)を画(えが)く 一切世間の中に法として造らざること無し」とある。

「私」とは何か? それは五蘊という要素の集合体である。西洋哲学は存在論を志向するが、仏教は感覚・認識・表象に着目する。私はこれを「情報の交換性」と見る。情報にプラスマイナスの価値を付加するところに「物語」が生まれる。つまり「私」とは「情報変換システム」なのだ。

 もう一度華厳経のテキストを見てみよう。我々が世界と認識するものは「心が描いた五蘊」であると説かれている。まず世界があって私の心がそれを認識していると考えがちだが華厳経は逆説的に捉える。「心によって描かれた五蘊が世界だ」というのだ。そうすると客観的な世界は存在しないと考えてよかろう。人の数だけ生物の数だけ「私の世界」があるのだ。

 法制度が保障するのは「心の自由」である。我々は自由にものを考え、行動することができる――と信じている。ハハハ、そんなものは西洋の欺瞞的な概念だよ。大体あいつらには「神を信じない自由」は存在しなかった。そもそも社会(親)から抑圧され、学校で成型された心が自由なはずがない。よく考えてみよう。想念をコントロールすることができるだろうか? 何を思うかは自由であるが、事あるごとに落ち込み、怒り、悲しみ、落胆するのが人の常であろう。心ほど不自由なものはない。餌をちらつかせたところで心はお手ひとつしない。

「かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した」――競争と搾取である。ヒトはコミュニティを形成しながら社会的動物として進化してきた。コミュニティ内部の序列で人生の色彩は変わる。小さなコミュニティで分担された役割は、より大きなコミュニティを形成する中で序列や位階となっていった。社会は国家へと至ったが、これを超えることはないだろう。国家を動かす政治・経済の本質は競争と搾取だ。競争に打ち勝った者が搾取をする。具体的な予算執行は大企業を通して行われる。富の再分配乗数効果という言葉は絵に描いた餅の類いである。

 酒井順子の『負け犬の遠吠え』(講談社、2003年)がベストセラーとなり、続いて格差社会を巡る書籍の出版が相次いだ。やがて「勝ち組・負け組」というキーワードが流布する。日本の格差を生んだのは総合規制改革会議による製造業における労働者派遣事業の解禁(2002年答申、2004年法改正)に始まる(派遣法の概要)。議長の宮内義彦(オリックス株式会社取締役兼代表執行役会長・グループCEO)を始めとする委員(総合規制改革会議委員名簿)については戦犯として長く記憶されるべきである。鈴木良男(株式会社旭リサーチセンター代表取締役社長 委員)、奥谷禮子(株式会社ザ・アール代表取締役社長)、神田秀樹(東京大学大学院法学政治学研究科教授)、河野栄子(株式会社リクルート代表取締役会長兼CEO)、佐々木かをり(株式会社イー・ウーマン代表取締役社長)、清家篤(慶應義塾大学商学部教授)、高原慶一朗(ユニ・チャーム株式会社代表取締役会長)、八田達夫(東京大学空間情報科学研究センター教授)、古河潤之助(古河電気工業株式会社代表取締役会長)、村山利栄(ゴールドマン・サックス証券会社マネージング・ディレクター、経営管理室長)、森稔(森ビル株式会社代表取締役社長)、八代尚宏(社団法人日本経済研究センター理事長)、安居祥策(帝人株式会社代表取締役会長)、米澤明憲(東京大学大学院情報理工学系研究科教授)。ザ・アールとリクルートは早い話が寄せ場手配師である。言ってみればヤクザの胴元にカジノ合法化を依頼するようなものだ。ウハウハ顔が目に浮かぶ。

 高度経済成長から続いていきた一億総中流社会は滅んだ。経営者といえば聞こえはいいが所詮商人である。国家の法を託す相手ではない。もっと高潔な人物を選ぶべきであった。

 資本主義は競争と搾取を正当化する。そして国家には戦争をする権利がある(交戦権)。世界が一つになることは決してないだろう。国家がある限りは。

 ブッダが説くのは「競争からの自由」であろう。平和とは「怨みのない状態」と言ってよい。競争から離脱するには「かれは、われにうち勝った」と思わなければよい。しかし先にも書いた通り「思う、思わない」という心の状態をコントロールするのは難しい。それでも「思い」を手放すことは可能だろう。修行とは「行を修める」との謂いであるが、その目的は「心を修める」ことにある。修めるとは整えることだ。

「比較があるところにはかならず恐怖がある」とクリシュナムルティは説いた(『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ)。競争からの自由は恐怖からの自由でもある。

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