2016-06-12

筏(いかだ)の喩え/『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール:今枝由郎訳
『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン

 ・ものごとが見えれば信仰はなくなる
 ・筏(いかだ)の喩え
 ・ドゥッカ(苦)とは

『無(最高の状態)』鈴木祐
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
クリシュナムルティ、瞑想を語る

ブッダの教えを学ぶ

 かつてブッダは弟子たちに因果の教えを説明し、弟子たちはそれをはっきりとわかり、理解したと答えた。そこでブッダが言った。
「弟子たちよ、この見解は純粋で明晰である。しかしあなたたちがそれに固執し、思い入れ、尊び、拘(こだわ)るならば、教えは流れを渡るために乗る筏(いかだ)に似たものであり、保有するものではない、ということを理解していない」
 教えは流れを渡るために必要な筏のようなものであり、保持して背中に負い運ぶものではない、というこの有名な譬えを、ブッダはいたるところで説明している。
「弟子たちよ、ある人が旅の途中で大きな川に出くわしたとしよう。こちらの岸は危険であり、対岸は安全で危険がない。安全で危険がない対岸に渡る舟もなく、橋もない。そこで彼はこう思った。「この流れは大きく、こちらの岸は危険だ。対岸は安全で危険がない。渡るのに舟はなく、橋も架かっていない。草、木、葉を集めて筏を作り、それに乗って手と足で漕ぎ、安全な対岸に渡ろう」と。
 弟子たちよ、こうして彼は、草、木、枝、葉を集めて筏を作り、それに乗って手と足を使って無事対岸に渡った。そして、こう思った。「この筏は大変役だった。そのおかげで、私は手と足を使って安全にこちらの岸に着いた。だから、これからは頭に載せるか、背負うかしてこの筏を持ち歩くことにしよう」
 弟子たちよ、彼の筏に対する思いは正しいかどうか」
 弟子たちは「正しくありません」と答えた。
「では弟子たちよ、どういう態度がふさわしいであろうか。もし彼が「この筏は大いに役立った。そのおかげで、私は手と足を使って安全にこちらの岸に辿り着けた。筏は浜に揚げるか、つなぎ止めて浮かしておき、私は先に進もう」と言ったらどうだろう。これこそが、正しい行ない、正しい態度である。
 弟子たちよ、私の教えは筏と同じである。それは、流れを渡るためのもので、持ち歩くためのものではない。あなたがたは、私の教えは筏に似たものであると理解したならば、よき教えすら棄てなければならない。ましてや悪しき教えを棄てるのは、言うまでもないことである」
 この譬えから明らかなように、ブッダの教えは人を安全、平安、幸せ、静逸、ニルヴァーナへと導くためのものである。ブッダが説いたすべての教えは、すべてこの目的のためである。

【『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ:今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(岩波文庫、2016年/原書1959年)】

筏の喩え
クリシュナムルティ流「筏の喩え」/『クリシュナムルティ・目覚めの時代』、『クリシュナムルティ・開いた扉』

 有名な経典だが物語の背景をきちんと押さえておく必要がある。パーリ中部(マッジマ・ニカーヤ)では第22経『蛇喩経』(じゃゆきょう)、中阿含経では第200経『阿梨吒経』(ありたきょう)となっている(Wikipedia)。そして「筏の喩え」の部分だけを『筏喩経』(ばつゆきょう)と称する。

 元鷹匠のアリッタという修行僧がブッダの教えを誤解した。「欲は修行の障(さわ)りとならない」と。周囲の修行僧が注意をしてもアリッタは耳を貸さない。弟子たちから相談を受けたブッダは直ちにアリッタを呼び、戒める。

 始めにブッダは「蛇の喩え」を説く。蛇を捕える場合、腹や尻尾をつかめばたちまち噛まれてしまう。傷つき、毒が回り、命を失うこともある。そのように苦しむのは正しく蛇をつかまえなかったためである。人が蛇を捕えようとする時は鉄の杖で首を押さえ、次に手で頭を持つ。このようにすれば蛇に噛まれることはない。我が教えもまた同様である。意義を正しく理解しなければ、逆さまに考えて苦しむ者が出る。続いて「筏の喩え」が説かれる。詳細については以下のページを参照せよ。

筏の譬え
筏の如く
中部経典 第二十二経『 蛇喩経(正しい教えの把握の仕方)』その1.
中部経典 第二十二経『 蛇喩経(正しい教えの把握の仕方)』その2.
中部経典 第二十二経『 蛇喩経(正しい教えの把握の仕方)』その3.
中部経典 第二十二経『 蛇喩経(正しい教えの把握の仕方)』その4.
Kesamuttisutta (Kālāma sutta) ―カーラーマへの教え
筏喩経(阿梨咤経)

 尚、実際の経文を知りたい人は『パーリ仏典第一期1 中部(マッジマニカーヤ) 根本五十経篇I』片山一良〈かたやま・いちろう〉訳(大蔵出版、1997年)を参照せよ。

 文脈を考慮すれば「悪しき教え」とは誤解であり犯された誤謬(ごびゅう)である。だが元はといえばアリッタとの個人的なやり取りが「蛇の喩え」と「筏の喩え」を通して真理の高みに達する。その深さは居合わせた弟子たちはもとより、2500年後の私にまで響く。

 これがキリスト教であれば「神を捨てよ」と言ったも同然だ。世間では「嘘も方便」というが、ブッダは「真理も方便」「教えも方便」と言い切った。教えの目的は彼(か)の岸(涅槃)に渡ることである。であれば教えは「地図」と考えてよかろう。にもかかわらず仏教の歴史は「地図」の色彩や精密さを競い合う方向へ動いた。あるいは筏を豪華客船に造り変えたようなものだ。仏教は日本に至ると信仰のレベルに堕し、もはや目的地がどこなのかわからぬ地図となってしまった。仏塔信仰がストゥーパに始まり、法華経では宝塔と巨大化していったのも一種の虚仮威(こけおど)しであろう。

 ブッダは執着から離れる道を教えた。その究極として「正しい教えに執着してもならない」と説いた。ありとあらゆる宗教が神への、教義(ドグマ)への、グル(導師)への執着を説いている。ブッダこそは目覚めた人であった。他の宗教は信者の目を閉ざし、眠らせていることが理解できよう。

 ブッダの教えに従えば、我々は「筏の喩え」にも執着してはならないことになる。これぞ完全無執着の道だ。なぜなら教えもまた「空」(くう)であり、自我もまた「空」であるからだ。テキストではなく、ブッダその人でもなく、ただ真っ直ぐに涅槃(悟り)を求めるのが真の仏弟子だ。

ブッダは論争を禁じた/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳

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