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2021-06-28

「一隅を守り、千里を照らす」人のありやなしや/『ビルマの竪琴』竹山道雄


『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄

 ・敗戦の心情
 ・「一隅を守り、千里を照らす」人のありやなしや

『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編
『精神のあとをたずねて』竹山道雄
『時流に反して』竹山道雄
『みじかい命』竹山道雄

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その一

 私はよく思います。――いま新聞や雑誌をよむと、おどろくほかはない。多くの人が他人をののしり責めていばっています。「あいつが悪かったのだ。それでこんなことになったのだ」といってごうまんにえらがって、まるで勝った国のようです。ところが、こういうことをいっている人の多くは、戦争中はあんまり立派ではありませんでした。それが今はそういうことをいって、それで人よりもぜいたくな暮らしなどをしています。ところが、あの古参兵のような人はいつも同じことです。いつも黙々として働いています。その黙々としているのがいけないと、えらがっている人たちがいうのですけれども、そのときどきの自分の利益になることをわめきちらしているよりは、よほど立派です。どんなに世の中が乱脈になったように見えても、このように人目につかないところで黙々と働いている人はいます。こういう人こそ、本当の国民なのではないでしょうか? こういう人の数が多ければ国は興(おこ)り、それがすくなければ立ち直ることはできないのではないでしょうか?

【『ビルマの竪琴』竹山道雄(中央公論社ともだち文庫、1948年/新潮文庫、1959年)】

「最もよき人々は帰ってこなかった」(『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾訳)。きっとそういうことなのだろう。

 若き特攻隊員たちは花と散った。そして瀬島龍三のような連中が生き残った。当初、自主憲法の制定を悲願とした自民党も変節した。

「一隅を守り、千里を照らす」(最澄「山家学生式」)人のありやなしやを問う。

2020-07-12

進歩的文化人の亡霊を甦(よみがえ)らせる/『『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史』馬場公彦


『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一

 ・頭隠して尻隠さず
 ・進歩的文化人の亡霊を甦(よみがえ)らせる

『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『ビルマの竪琴』竹山道雄

 竹内は、『竪琴』の主人公である水島安彦が累々たる同胞の骨を見捨てて立ち去ることに恥を覚えたことについて、回心の動機には、「同胞愛と人類愛」があるとし、その動機は、「私を打つのである。たしかにわれわれは、この種の人道的反省に足りぬものがある」とする。
 そのうえで竹内は、「いったいこの世には、何故このような悲惨があるのだろうか」という設問を水島が発し、次のように水島によって自答されているくだりを引用している。

 この「何故に」ということは、所詮人間にはいかに考えても分らないことだ。われらはただ、この苦しみの多い世界にすこしでも救いをもたらす者として行動せよ。その勇気をもて。そうして、いかなる苦悩・背理・不合理に面しても、なおそれにめげずに、より高い平安を身をもって証しする者たりの力を示せ、と。

 この叙述に対し、竹内はこう論評した。

 これは解決ではなくて、解決の回避である。心の平安がすべてであるという、水島の口を借りて述べられている作者の中心思想が、本来は美しい物語に結晶すべきこの作品に、いくつかの致命的破綻を与えているように思う。

 この「解決の回避」という一語に、竹内好が『竪琴』に抱いた疑念が集約されている。水島が同胞の骨を打ちすてては帰れないと反省するさいの回心の動機は、「同胞愛と人類愛」であった。そこで日本兵であることを放棄し、ビルマ僧となって人類愛の地平に経った。そして鎮魂と和解が敵味方の傷ついた兵士同士で達成された。だが、このプロセスは一足飛びのプロセスである。その間の鎮魂と和解をつなぐ結節環が省かれてしまっている。
 この竹内の違和感を筆者もまた共有する。普遍的な人類愛の立場に立って敵味方双方に和解が成立したようにみえて、実は一方的自己愛にすぎないのではないか。敵味方が双方なじんだ歌を唱って、感情の共鳴板が和音を奏でても、それは戦争が投げかけた問題を解消することにはつながらないのではないか。少なくとも、そこで心を動かしてはいけないのではないか。

【『『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史』馬場公彦〈ばば・きみひこ〉(法政大学出版局、2004年)】

 谷沢永一が「北京政府の忠実な代理人」と評した竹内好〈たけうち・よしみ〉である。同胞愛と人類愛は宗教的感情である。「心の平安」という言葉からもそれが窺える。竹内や馬場が思い描く「解決」とは“人民による革命”なのだろう。古い体制を転覆せずして訪れる平和を彼らは認めないのだ。

 テキストに目を凝らそう。「自己愛にすぎないのではないか」「戦争が投げかけた問題を解消することにはつながらないのではないか」と来て、「心を動かしてはいけないのではないか」と踏み込む。冷静な筆致で「感動するな」と他人に強要しているのだ。「心を動かすな」という言葉は普通の人間では思い浮かばない。唯物論者でもない限り、人の心をこれほど簡単に扱うことはできまい。

 本書の目的は進歩的文化人の亡霊を甦(よみがえ)らせることにあるのだろう。こんな本を出版する法政大学出版局も賊の一味と考えてよかろう。

2020-07-08

頭隠して尻隠さず/『『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史』馬場公彦


『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一

 ・頭隠して尻隠さず
 ・進歩的文化人の亡霊を甦(よみがえ)らせる

『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『ビルマの竪琴』竹山道雄

 だが、長く続いた冷戦は終わった。竹山が身を挺して告発した東ベルリン住民への人権抑圧や、台湾に住む大陸中国の亡命者からの共産中国批判の聞き書きには、たとえそれがのちに事実であったと判明しても、情報としての価値はもはや皆無に近い。となると、『竪琴』の作家ということ以外、消去法でかろうじて残るのは、失われていく日本の伝統文化を愛惜し擁護しようとした、日本主義的ディレッタントということにとどまるかもしれない。
『竪琴』の命運も安泰とは言えないようだ。(中略)最近の『竪琴』を取り上げた戦後世代による評論群からうかがえることは、『竪琴』はアジアを舞台として近代小説としても、日本の戦争に題材をとった戦争文学としても、取り扱い注意品目に指定されつつあるということだ。
 
【『『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史』馬場公彦〈ばば・きみひこ〉(法政大学出版局、2004年)以下同】

 馬場は編集者のようだ。こなれた文章で論理的なのだが直ぐに私の鼻は異臭を嗅ぎ取った。読むほどに嫌な臭いを放っている。池上彰佐藤優と同じ体臭がする。肝心な情報は伏せておいて、都合のいい事実だけを組み合わせて我が田に水を引くという寸法だ。左翼の常套手段は不作為という作為だ。

 馬場の意図は竹山を美術評論家に留(とど)め置くことなのだろう。刊行された2004年という時を思えば竹山道雄は既に「忘れられた作家」であった。そこそこ本を読んできた私も竹山の著書は一冊も読んでいなかった。『ビルマの竪琴』の名場面は知っていたが食指は動かなかった。それでもかような本を出す目的はネトウヨブームに釘を刺し、竹山の著書を禁書扱いしたかったのだろう。そうでもなければ気取った悪口をこれほど延々と綴ることは難しいだろう。

 馬場は上記テキストで竹山の共産主義批判を正面からは取り上げずに時事評論の印象づけを行っている。思わず舌を巻く狡猾(こうかつ)さである。更に返す刀で『ビルマの竪琴』のストーリーは完全に無視した上で誤った時代考証を指摘する。馬場は本書の中で繰り返し竹山を持ち上げてから落とすことを繰り返す。竹山道雄のようなきらめく英知は一つもないし、時流に抵抗する精神も見受けられない。それこそ「皆無」である。

 最近の『竪琴』を取り上げた戦後世代による評論群からうかがえることは、『竪琴』はアジアを舞台として近代小説としても、日本の戦争に題材をとった戦争文学としても、取り扱い注意品目に指定されつつあるということだ。

 本書を読むきっかけとなったのは“志村五郎「竹山を今日論ずる人がないことを私は惜しむ」/『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘”で紹介した“馬場公彦著「『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史」2004年法政大学出版局刊・3の2 | 知的漫遊紀行 - 楽天ブログ”による。米原子力空母エンタープライズの寄港に関する詳細を知りたかった。ところが馬場が行っているのは朝日新聞と全く同じことなのだ。悪い冗談としか思えない。編集者は創作者ではない。他人をあげつらったり、自分の知識をひけらかしたりするだけの気楽な商売なのだろう。

 本書が平川祐弘〈ひらかわ・すけひろ〉の心に火を点(とも)し、『竹山道雄と昭和の時代』(2013年)や新たな全集『竹山道雄セレクション』(全4冊、藤原書店、2016-17年)の推進力となったことは間違いあるまい。馬場の歯ぎしりが聞こえてきそうだ。

 東ドイツや中国といった共産圏を擁護した馬場だが、現在の香港弾圧やウイグル人虐殺をどう見ているのだろうか? 竹山道雄が終生にわたってノーを突きつけたのは全体主義であった。オールドリベラリズムの所以(ゆえん)である。「全ての日本人が今こそ竹山道雄を読むべきだ」と私は声を大にして言いたい。

2020-06-26

志村五郎「竹山を今日論ずる人がないことを私は惜しむ」/『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘


『昭和の精神史』竹山道雄

 ・言うべきことを言い書くべきことを書いた教養人
 ・志村五郎「竹山を今日論ずる人がないことを私は惜しむ」

『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編
『精神のあとをたずねて』竹山道雄
『時流に反して』竹山道雄
『みじかい命』竹山道雄

 志村五郎は敗戦直後の1946年に一高に入学し、いちはやく日本の最高の数学者と呼ばれた人物だが、後半生はアメリカで生きた。自伝も日英両語で書いているが、その日本語版『記憶の切絵図』(筑摩書房、2008)にプリンストンで手術を受けた時のエピソードをこう伝えている。麻酔医が『ビルマの竪琴』の英訳を読んで感動したと話した。「その著者は私の高校のドイツ語の先生だと言うとひどく感心していた」。その志村にいわせると、1950年、朝鮮戦争勃発当時、日本の政治学者や評論家には「ソ連信仰」が根強く、「進歩的知識人」は反共よりも反米の方が論壇で受けがよいことを知っており、その世界の中の功利的保身術に基いて発言していた。それとは違って、と志村は言う。「竹山道雄は共産主義諸国を一貫して批判し続けた。彼は共産主義国信仰の欺瞞(ぎまん)を極めて論理的かつ実際的に指摘した。それができてまたそうする勇気のある当時はほとんどただひとりの人であった。彼はまた東京裁判の不当性と非論理性を言った。竹山を今日論ずる人がないことを私は惜しむ」。志村にそう指摘されたとき、私は身内の者であるけれども、やはり自分が論ぜねばなるまい、とあらためて思った。

【『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘〈ひらかわ・すけひろ〉(藤原書店、2013年)】

 フェルマーの最終定理を解いたのはアンドリュー・ワイルズだが、そのための武器を用意したのが日本の志村五郎谷山豊であった(『フェルマーの最終定理 ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで』サイモン・シン)。

「また評論家として戦中は軍部を批判、戦後は進歩的思想に反対し続けたリベラリストで、(※昭和)43年には『米原子力空母エンタープライズの寄港に賛成』と発言、論争を呼んでいる」(竹山道雄とは - コトバンク)。1968年(昭和43年)といえば学生運動が安保反対を経てベトナム戦争反対に舵を切り、東大闘争が始まった頃で、当然エンタープライズの寄港に対する反対運動が起こった。朝日新聞が取材した5人の識者の中で竹山道雄ただ一人が賛成を表明した。その後朝日新聞は「声」欄を使って執拗な竹山バッシングを行う(朝日新聞に抹殺された竹山道雄)。以下のページに詳細がある。

馬場公彦著「『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史」2004年法政大学出版局刊・3の2 | 知的漫遊紀行 - 楽天ブログ

 当時の新聞の影響力は現在の比ではない。テレビはまだ歴史が浅かった。世論を動かしていたメディアは新聞のみであったと断言してよい。このような背景を知れば志村の文章に込められた思いが胸に響いてくる。数学者の合理性が竹山のありのままの姿を捉えたのだろう。

 竹山は実際家であった。ゆえに思想が事実を歪めることを十分承知していた。戦後、分断された西ドイツから東ドイツの嘘を見抜いた。西ドイツへの亡命者の多さが社会主義国の欺瞞を証明していた。世論が時流に流される中で竹山は一人両脚に力を込めて学問の大地に立っていた。

2019-12-01

絵画のような人物描写/『時流に反して』竹山道雄


『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘
『精神のあとをたずねて』竹山道雄

 ・昭和19年の風景
 ・絵画のような人物描写

『みじかい命』竹山道雄

竹山道雄著作リスト

 ある日のこと、私はいまは共に故人となられた岩元、三谷両先生がここを登って来られるのにゆきあった。両先生ともにこの登りが苦しそうだった。意外に思っている私を見て立ちどまり、私が降りてゆくのを微笑をうかべてうず高い石塊の上に立って待たれた。一人はつよく澄み、他はきよく澄みきった瞳をして、並んでいられた。
「いまな、柳君の民芸館に琉球のものを参観してきたのよ」と岩元先生が、いささかなまりのつよく館や観をはっきりクヮンと発音しながら、よく響く声でゆっくりといわれた。
 老先生は片眉を下げて前屈みになったまま、光が束になって発しているような眼差しや、はげしい意力のあらわれた下唇に微笑を浮べて、先生の癖で、相手の体をまじまじと見ながら話された。三谷先生はこの頃からますます全身が霊化して、スピリットのような感じを増してゆかれたが、この日も息づかいが苦しそうに、薄い外套が肩に重そうだった。しばらく立ち停まって話の末、私は両先生に夕飯のお伴をすることとなり、両先生の学校の用をすませてから、50銭の円タクをつかまえた。
 その夕は主として岩元先生が元気よく話された。話題はきわめて広かった。「ホメアのオデュッセイアにある豚汁とわたしの国の薩摩汁とは、調理の法が同じじゃ。大きな鉄の鍋があってのう……」「西郷が戦死した城山の戦の鉄砲の音を、わたしは子供のとき鹿児島できいた」「床次は禅をやった。それで進退の責任感がないのじゃ。禅をやるとそうなる」「田中の世話でヴァチカン法王庁からトマス・アクイノズンマ・テオロギカを送ってもらって幸せしてる」――こんな言葉を断片的に憶えている。一体岩元先生はあれほど厳格な激しい気性の方であり、随分極端な伝説の主でありながら、近く接して圭角といったようなものをついに示されたことがなかったのは、不思議なくらいだった。むしろヘレニストでありエピキュリアンである一面をよく示された。
 三谷先生はこれという話題をもって人に談ずるということはない方であった。しかも、先生ほどその何気ない言葉が相手の(求むるところのある若い人の)魂の底に浸みこんで、そこに火花を点じ、襟を正さしめ、同心せしめ、生涯の転機とすらなった人は、他にはけっしてなかった。この混沌として解きがたい世界人生にも何か動かすべらからざる真実があることを身を以て証(あか)しする人――傍らにいてそんな気のする人であった。(「空地」)

【『時流に反して』竹山道雄(文藝春秋、1968年)】

 入力することが喜びにつながる稀有な文章である。まるで絵画のような人物描写だ。テキストで描かれた印象派といってよいだろう。

 検索したところ岩元禎〈いわもと・てい〉と三谷隆正のようだ。どちらも大物である。Wikipediaによれば岩元は「夏目漱石の『三四郎』に登場する広田先生のモデルであるとする説がある」。三谷は内村鑑三の弟子で「一高の良心と謳われた」とある。

 空地の西側にある坂道のスケッチである。今は亡き一高の元老を描くことで政界の元老がいなくなったことを浮き彫りにしようとしたのだろうか。あるいは戦後に向かって戦前の校風を書き残そうとしたのだろう。

 老人は歴史の生き証人である。上京してから数年後のこと、私にも元老と呼べる存在のご老人がお二方あった。手に負えない問題を抱えて困り果てた時は必ずどちらかを頼った。涙を落とすほど厳しいことを言われたこともある。私の祖父母は既に亡くなっていたが、血がつながっていればこうした関係を結ぶことは難しかったことだろう。敬愛できる長老を知り得たことはその後の人生を開く鍵となった。

 以下に巻末資料を掲載しておく。書籍になっていないテキストも多い。












2019-11-16

昭和19年の風景/『時流に反して』竹山道雄


『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘
『精神のあとをたずねて』竹山道雄

 ・昭和19年の風景
 ・絵画のような人物描写

『みじかい命』竹山道雄

竹山道雄著作リスト

   1
 樅の木と薔薇
 蓮池のほとりにて
 磯

   2
 若い世代
 空地
 昭和十九年の一高

   3
 学生事件の見解と感想
 門を入らない人々

   4
 ベルリンにて
 モスコーの地図

   5
 白磁の杯

   6
 焼跡の審問官
 妄想とその犠牲
 聖書とガス室

   7
 昭和の精神史

  あとがき

   編注
   初稿発表覚え書

   主要発表一覧
   著訳書一覧



 あのころは遠くの山脈も今よりははっきり見えたような気がする。日によっては、光を浴びた雪山がすぐまぢかに迫って聳り立っているように思われたこともあった。(「空地」)

【『時流に反して』竹山道雄(文藝春秋、1968年)】

 巻末資料に「向陵時報 19.6.16稿」とある。向陵時報は旧制一高の寮内新聞のようだ(資料所蔵先)。うろ覚えだが「空地」の他は既出の文章であったと思う。

 場面展開がクルクルと変わる随筆でつかみどころがないように感じるが、確実に敗戦へ向かう国情が偲(しの)ばれる。しかもそれぞれのエピソードを空地でつないで国土に仮託している。上記テキストも「将来の見通しが立たなくなった日本」を静かに描くものだ。あとがきで「厭戦気分もこれ以上には書くことはできなかった」と心情を吐露している。

『時流に反して』とのタイトルが実に竹山らしく戦中・戦後の文筆もさることながら、刊行された1968年が学生運動の真っ盛りであることを踏まえれば二重の意味で迫ってくるものがある。

時流に反して (1968年) (人と思想)
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2019-02-21

「聖書とガス室」/『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄


『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『昭和の精神史』竹山道雄
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
『ビルマの竪琴』竹山道雄

 ・「聖書とガス室」

『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『みじかい命』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編

   I

 聖書とガス室
 キリスト教とユダヤ人問題

   II

 ペンクラブの問題
 『竹山道雄の非論理』
 ものの考え方について

   III

 ソウルを訪れて
 高野山にて
 四国にて
 西の果の島

   IV

 死について
 人間について

 あとがき

【『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄(新潮社、1966年)以下同】

 初出誌については「あとがき」に記載されている。

(ゴッドを神と訳したことから、たいへんな誤解や混同がおこったので、キリスト教の神をゴッドと書くことにする。ゴッドと古事記にでてくる神とは、まったく別物である。また、教皇とか回勅とかいうのはいい訳語ではなく、これは天皇を擬似絶対者としたころの政治的風潮のまちがった絶対者観をあてはめたのだろう。さらに、神父というのも奇妙な言葉で、自分は神なる父であると名のる人があるのはおかしい。牧師というのはひじょうにいい言葉だと思うが)(「聖書とガス室」/『自由』昭和38年7月)

「聖書とガス室」は本書以外だと、『竹山道雄著作集5 剣と十字架』(福武書店、1983年)と『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』平川祐弘〈ひらかわ・すけひろ〉編(藤原書店、2016年)にも収められている。

 私が竹山道雄を敬愛してやまないのは文学者でありながらもキリスト教を鋭く見据えたその眼差しにある。文明史的な批判は「西洋に対する極東からの異議申し立て」といっても過言ではない。

 昭和38年(1963年)7月は私が生まれた月である。「7月」と表記されているが多分「7月号」なのだろう。内容もさることながら私を祝福してくれているような錯覚に陥る。

 カミの語源は「隠れ身」であるという(『性愛術の本 房中術と秘密のヨーガ』2006年)。漢字の「神」はツクりの「申」が稲妻を表す。闇を切り裂く雷光を神の威力と見ることは我々にとっても自然だ。「申」が「もうす」という意味に変わったため、お供えを置く高い台を表す「示」(示偏〈しめすへん〉)を添えて「神」という文字ができた(第3回 自然に宿る神(1) | 親子で学ぼう!漢字の成り立ち)。

 キリスト教は砂漠から生まれたが、日本人は豊かな自然に恵まれている。彼らは過酷な環境を憎み支配の対象としたが、我々は大自然と共生しながら大地と海の恵みに感謝を捧げた。一神教と多神教を分けるのは環境要因なのだろう。

キリスト教における訳語としての「神」

 フランシスコ・ザビエルは当初、ゴッドを「大日」と約し、その後「デウス」に変えた(日本のカトリックにおけるデウス)。「キリスト教は、聖書に基づく人間観、世界観、実在観を教義として整備していくために、主にプラトンとアリストテレスの哲学を摂取して利用した 」(キリスト教54~プラトンとアリストテレス - ほそかわ・かずひこの BLOG)。それゆえ「大日」との訳はそれほど見当違いであったわけではない。大日とは仏教におけるイデア思想であろう。

 日本人からすれば一神教(=アブラハムの宗教)は異形の宗教である。

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竹山道雄著作集 (5)
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2018-11-12

無意識に届かぬ言葉/『精神のあとをたずねて』竹山道雄


『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘

 ・無意識に届かぬ言葉

『時流に反して』竹山道雄
『みじかい命』竹山道雄

竹山道雄著作リスト

     目 次

 あしおと
 思い出
 抵抗と妥協
 誘われたがっている女
「ビルマの竪琴」ができるまで
 二十歳のエチュード
 文章と言葉
 砧
 ベナレスのほとり
 印度の仏跡をたずねて

  あとがき



 どういうわけか、われわれの記憶の中では、生活の中のふとした瑣末(さまつ)なことが静かな印象になって刻みこまれて、それが年を経ると共にますますはっきりとしてきます。それが生涯のあちらこちらに散らばって、モザイクの石のように浮きだしています。あるとき見た、とくに何ということのない風景のたたずまい、人が立っている様子、話している相手の顔にちらとさした翳(かげ)、「ああ、この人は自分を愛している」とか「裏切っている」とか思いながらそのままに消えてしまう感情のもつれ……。こんなものがわれわれの心の底に沈んで巣くっているのですが、それを他人につたえようはありません。他人に話すことができるのは、もっとまとまった筋のたった事件ですが、それは理屈をまぜて整理し構成したものです。そういうものでないと、われわれは言いたいことも言えないのです。

【『精神のあとをたずねて』竹山道雄(実業之日本社、1955年)】

「無意識」の一言をかくも豊かに綴る文学性がしなやかな動きで心に迫ってくる。難しい言葉は一つもない。押しつけや説得も見当たらない。ただ淡々と心の中に流れる川を見つめているような文章である。

 言葉は無意識領域に届かないのだ。ここに近代合理性の陥穽(かんせい)がある。人間には「理窟ではわかるが心がそれを認めない」といった情況が珍しくない。特に我々日本人は理窟を軽んじて事実や現状に引っ張られる傾向が強い。形而上学(哲学)が発達しなかったのもそのためだろう。大人が若者に対して「理窟を言うな」と叱ることが昔はよくあった。

「構成」というキーワードが光を放っている。睡眠中に見る夢はことごとく断片情報に過ぎないが、これらを目が覚めてから構成して一つの物語を形成する。ところが竹山の指摘は我々の日常や人生全般が「印象に基づいた構成である」ことを示すものだ。記憶は歪み、自分を偽る。感情は細部に宿り、一つの事実が人の数だけ異なるストーリーを生んでゆくのだ。

 ここで私の持論が頭をもたげる。「悟りを言葉にすることは可能だろうか?」と。「それは理屈をまぜて整理し構成したものです」――教義もまた。だとすれば宗教という宗教がテキストに縛られている姿がいささか滑稽(こっけい)に見えてくる。

 言葉は人類が理解し合うための道具であろう。道具を真理と位置づけて理解し合うことを忘れれば言葉は人々を分断する方向へと走り出すに違いない。宗派性・党派性に基づく言葉を見よ。彼らは相手を貶め、支持者を奪い合うことしか考えていない。かくも言葉は無残になり得る。

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2018-11-06

竹山道雄著作リスト


 ・『手紙を通して読む 竹山道雄の世界』平川祐弘編著(藤原書店、2017年)
『竹山道雄セレクション IV 主役としての近代』竹山道雄:平川祐弘編(藤原書店、2017年)
・『竹山道雄セレクション III 美の旅人』竹山道雄:平川祐弘編(藤原書店、2017年)
『竹山道雄セレクション II 西洋一神教の世界』竹山道雄:平川祐弘編(藤原書店、2016年)
『竹山道雄セレクション I 昭和の精神史』竹山道雄:平川祐弘編(藤原書店、2016年)
 ・『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘(藤原書店、2013年)
 ・『『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史』馬場公彦(法政大学出版局、2004年)
 ・『知識人 大正・昭和精神史断章』坂本多加雄(読売新聞社、1996年)
 ・『昭和文学全集 第28巻 唐木順三、保田與重郎、亀井勝一郎、竹山道雄、加藤周一、他4人』(小学館、1989年)
・『尼僧の手紙』竹山道雄(講談社学術文庫、1985年)
・『主役としての近代』竹山道雄(講談社学術文庫、1984年)
『歴史的意識について』竹山道雄(講談社学術文庫、1983年)
・『竹山道雄著作集 8 古都遍歴』竹山道雄(福武書店、1983年)
・『竹山道雄著作集 7 ビルマの竪琴』竹山道雄(福武書店、1983年)
・『竹山道雄著作集 6 北方の心情』竹山道雄(福武書店、1983年)
・『竹山道雄著作集 5 剣と十字架』竹山道雄(福武書店、1983年)
・『竹山道雄著作集 4 樅の木と薔薇』竹山道雄(福武書店、1983年)
・『竹山道雄著作集 3 失われた青春』竹山道雄(福武書店、1983年)
・『竹山道雄著作集 2 スペインの贋金』竹山道雄(福武書店、1983年)
・『竹山道雄著作集 1 昭和の精神史』竹山道雄(福武書店、1983年)
『みじかい命』竹山道雄(新潮社、1975年)
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄(読売新聞社、1974年)
・『知識人と狂信』竹山道雄、武藤光朗(自由選書、1971年)
 ・『随想全集 第7巻 竹山道雄、西脇順三郎、渡辺一夫集』(尚学図書、1970年)
・『日本人と美』竹山道雄(新潮社、1970年)
・『カラー京都の庭 (1968年)』竹山道雄・文、岩宮武二・写真(淡交社、1968年)
 ・『日本現代文学全集 第93 中島健蔵・桑原武夫・中野好夫・竹山道雄・高橋義孝・竹内好集』(講談社、1968年)
・『時流に反して』(文藝春秋、1968年)
・『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄(新潮社、1966年)
・『京都の一級品 東山遍歴』竹山道雄(新潮社、1965年)
 ・『角川版昭和文学全集 第30 竹山道雄・亀井勝一郎』(角川書店、1963年)
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄(文藝春秋新社、1963年)
・『まぼろしと真実 私のソビエト見聞記』竹山道雄(新潮社、1962年)
・『人形の家』イプセン:竹山道雄訳(岩波文庫、1959年)
 ・『新選現代日本文学全集 第34 渡辺一夫、竹山道雄、桑原武夫、加藤周一集』(筑摩書房、1959年)
・『続 ヨーロッパの旅』竹山道雄(新潮社、1959年)
・『わが生活と思想より』シュヴァイツァー:竹山道雄訳(白水社、1959年)
・『偶像の黄昏』ニーチェ:阿部六郎、竹山道雄、氷上英広訳(新潮文庫、1958年)
・『文化の形態と接触 日本文化研究1』竹山道雄(新潮社、1958年)
・『白磁の杯』竹山道雄(角川文庫、1957年)
・『失われた青春』竹山道雄(新潮文庫、1957年)
・『樅の木と薔薇』竹山道雄(新潮文庫、1957年)
・『ヨーロッパの旅』竹山道雄(新潮社、1957年)
・『ゲーテ詩集 4』ゲーテ:竹山道雄訳(岩波文庫、1957年)
・『昭和の精神史』竹山道雄(新潮社、1956年)
『精神のあとをたずねて』竹山道雄(実業之日本社、1955年)
・『白磁の杯』竹山道雄(実業之日本社、1955年)
・『マリオと魔術師 他一篇』トマス・マン:竹山道雄訳(角川文庫、1955年)
・『古都遍歴 奈良』竹山道雄(一時間文庫、1954年)
・『善悪の彼岸』ニーチェ:竹山道雄訳(新潮文庫、1954年)
 ・『現代随想全集 第19巻 市原豊太、竹山道雄、亀井勝一郎集』(創元社、1954年)
・『ゲーテ詩集 2』ゲーテ:竹山道雄訳(岩波文庫、1953年)
『見て,感じて,考える』竹山道雄(創文社、1953年)
・『ハイジ(上)』『ハイジ(下)』ヨハンナ・スピリ:竹山道雄訳(岩波少年文庫、1952年)
・『失われた青春』竹山道雄(新潮社、1951年)
・『樅の木と薔薇』竹山道雄(新潮社、1951年)
・『手帖』竹山道雄(新潮社、1950年)
・『希臘にて』竹山道雄(早川書店、1949年)
・『憑かれた人々』竹山道雄(新潮社、1949年)
・『北方の心情』竹山道雄(養徳社、1948年)
『ビルマの竪琴』竹山道雄(中央公論社、1948年)
・『光と愛の戦士』竹山道雄(新潮社、1942年)
・『ツァラトストラかく語りき 上巻』『ツァラトストラかく語りき 下巻』ニーチェ:竹山道雄訳(弘文堂書房、1941-43年)
・『混乱と若き悩み』トーマス・マン:竹山道雄訳(新潮社、1941年)
・『わが生活と思想より』アルベルト・シュヴァイツェル:竹山道雄訳(白水社、1939年)
・『民衆の敵』イプセン:竹山道雄訳(岩波文庫、1939年)
・『幽霊』イプセン:竹山道雄訳(岩波文庫、1939年)
・『野鴨』イプセン:竹山道雄訳(岩波文庫、1938年)

2018-10-21

あらゆる国民が非人道的行為をした/『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄


『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『昭和の精神史』竹山道雄
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄

 ・あらゆる国民が非人道的行為をした

『精神のあとをたずねて』竹山道雄
『時流に反して』竹山道雄
『みじかい命』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編

  I

 六百万分の一の確率
 私は拷問をした
 ジャングルの魂
 喫茶店の半時間
 最後の儒者

  II

 ゴッドの最初の愛
 狂信からの自由
 バテレンに対する日本側の反駁
 天皇制について

  III

 南仏紀行
 エーゲ海のほとり
 リスボンの城と寺院

 あとがき

【『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄(読売新聞社、1974年)以下同】

 何とはなしに1970年代のベストセラーを調べてみた。

1970年代 ベストセラー本ランキング | 年代流行

「1970年代半ばから続いた『雑高書低』と呼ばれる状態」があった(日本経済新聞 2016/12/26)。出版販売額は1996年をピークに下降線を辿っている(日本の出版統計|全国出版協会・出版科学研究所)。いわゆる出版不況だ。人が一日に読む活字の量はある程度決まっているため、インターネットに奪われた格好だ。

 1970年代といえば進歩的文化人がでかい顔をして学界やメディアを取り仕切っていた時代である。今読むと笑ってしまうよな文章が多い。今日読んだ本だと「政治実践」とか「歴史への参加」などといった革命用語(?)がゾロゾロ出てくる。

 竹山道雄の文章は不思議なほど古さを感じない。問題意識の深さが現代にも達しているからである。つまり第二次世界大戦で露見した人類の問題は今尚解くに至ってないのだ。

 私は人を拷問したことがある。自分で手を出したわけではないが、もしその事件の責任者を問われれば、それは私だった。そして、異様なことだが、他人が苦しめられているのを見ているあいだ、私は悪が行われているという罪責感をもたなかった。
 最近に「追求」という、アウシュヴィッツでの残虐行為者をドイツ人みずからが裁判した、その実録を劇化した芝居を見た。被告たちは罪責感をもっていない。ナチスがユダヤ人のみならず、ポーランド人や最下級のジプシーまで、「劣等人種」を掃滅しようとしてそれを実行した人々は、たとえばアイヒマンのように罪悪感をもっていない。そしてドイツ人だけではなく、あらゆる国民がつねに多少なりとも非人道的行為をした。まったく潔白な国民はいない。西欧的ヒューマニズムの本家と自他共に認めているフランス人も、解放の時期やアルジェリアでは狼藉をはたらいた。前者についてはできるだけ語られないでいる。後者についてははじめのうちはただアルジェリア人側の残虐行為のみが報道されていたが、やがていよいよアルジェリアを独立させる方針が決ったからであろう、マルロー文化相の許しによって、一人のアルジェリア娘の手記が本になり、有名な画家(ピカソ?)の装幀に飾られて、ひろく読まれた。その娘の父も独立運動者として捕えられ、フランスの憲兵によって拷問された。「人体のもっとも敏感な部分」に電流をかけられ、苦しみのあまり「すこしは人道(ユマニテ)を――」と憐みを乞うた。フランス兵たちは「回教徒に対してはユマニテは不必要だ」と、拷問をつづけた。娘は裸にして吊され、水槽については引き上げられた。フランス兵たちはビールを呑みあおりながら追求をしていたのだったが、「ビール瓶の口で彼女の処女性をやぶった」
 このような乱暴が行われたのには、人間に潜んでいる獣性とかサジズムとかがはたらいたのだろうし、その場の群集心理もあったのだろう。しかし、人間はいったん他者に対して敵意や憎悪をもつと、相手は抽象的な「悪」に化してしまって、それに対する人間的な感情移入が断たれてしまうのではなかろうか。それであのようなことが起こるのではあるまいか。親衛隊の士官たちはガス室のすぐ近くに普通の家庭生活をして、モーツァルトの音楽をたのしんでいた。ある収容所の指揮官が残虐行為の故に告訴されると、友人たちは驚いて、「彼は慈悲ぶかい男で、田舎道を歩くときには、カタツムリなどを踏み殺さないようにと、注意ぶかくガニ股で歩きました」と懇願した。(「私は拷問をした」)

「あらゆる国民が非人道的行為をした。私もその一人である」との告白である。ハンナ・アーレントはアイヒマンの公開裁判を全て傍聴し、その無思想性を「悪の凡庸さ」と指摘した。大量虐殺を推進したアイヒマンの正体は職務に忠実な小心者の公務員だった(『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』1969年/1963年『ザ・ニューヨーカー』誌に連載)。時を同じくしてスタンレー・ミルグラムがアイヒマン実験の論文を発表した。尚、アイヒマン実験から派生したスタンフォード監獄実験(1971年)はアーレントの著書から考案されたもの。最近になってヤラセ疑惑が浮上している(スタンフォード監獄実験は仕組まれていた!?被験者に演技をするよう指導した記録が発見される : カラパイアスタンフォード監獄実験、看守役への指示が行われていたことを示す録音の存在が明らかになる | スラド サイエンス)。映画化したのが『es〔エス〕』で、同様の心理状況を描いたものに『THE WAVE』がある。

 竹山が行った拷問は私に言わせれば他愛ないものである。戦時中、旧制一高の寮に連続して泥棒が入った。ある晩、遂に捕まえたのだが中々白状しない。そこで居合わせた連中でしたたかに殴りつけた。泥棒はやっと罪を認めた。謂わば日常の延長線上にある小さな暴力である。ところが竹山はホロコーストの芽をそこに見出す。泥棒をとっちめることは倫理的に許される。とすれば「相手を殺す正当な論理」さえ編み出せば大量虐殺は可能となる。

 例えば中国や韓国では反日教育が行われているが幼い頃から憎悪を植え付ける営みは、日本人を大量虐殺する可能性を開くことに通じる。日本に対する戦争準備ともいうべき教育を行う国に惜しみなくODA(政府開発援助)を施す日本政府の方ががどうかしているのだ。しかもそのODAが日本の親中派政治家に再分配されている実態がある。

 竹山の随想は極めて内省的なもので読者に対してある考えを強要する姿勢は全くない。ただし私はここで巷間、左翼活動家が繰り広げるポリティカル・コレクトネスについて一言付言しておきたい。

 当たり前だが日本人にも差別感情はある。現代でも部落出身者や朝鮮人に対する蔑視は確かにある。戦時中は多くの日本人が中国人を馬鹿にしていた。しかしながら日本に奴隷が存在しなかった事実をよくよく弁える必要があろう。日本人は外国人を「人間ではない」と考えたこともなければ、外国から多くの人々を奴隷労働者として輸入することもなかった。そもそも奴隷文化はヨーロッパの家畜文明から生まれたものだ。

 また割譲された台湾や、併合した朝鮮においても、日本は本国以上に力や資本を注いで発展に務めた。皇民教育はやや行き過ぎの感があるが、それでもホロコーストと比べればさしたる問題ではない。これに対して西洋白人の植民地はただ削除される対象でしかなかった。

 戦後、欧米で日本軍の残虐さが流布したのは、飽くまでもナチスと同列に持ってゆくためであり、更には戦闘員でもない婦女子を殺戮したアメリカ軍の非道(原爆ホロコースト、東京ホロコースト)を隠すためであった。南京大虐殺も原爆死者とバランスを取るために30万人とされている。

 日本人は敗戦の原因を探ることもなく、敗戦後になされたマインドコントロールを自覚することもなく、安閑として平和を享受してきた。いつになったら眠れる精神が目覚めるのか。目覚めた人々は竹山の問いを受け継ぐべきであろう。

乱世の中から―竹山道雄評論集 (1974年)
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竹山道雄を再読しよう 「乱世の中から」 竹山道雄評論集を読みつつ思う: 橘正史の考えるヒント

2018-10-18

朝日新聞に抹殺された竹山道雄/『変見自在 スーチー女史は善人か』高山正之:『渡部昇一の世界史最終講義 朝日新聞が教えない歴史の真実』渡部昇一、髙山正之


 ・朝日新聞に抹殺された竹山道雄

『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
竹山道雄

 朝日新聞の権威に逆らう者に朝日は容赦しない。紙面を使って糾弾し、世間もそれにひれ伏させ、朝日を怒らせた者の処罰を強いる。朝日は神の如(ごと)く無謬(むびゅう)というわけだ。
『ビルマの竪琴(たてごと)』を書いた竹山道雄氏がある時点で消えた。原子力空母エンタープライズが寄港するとき、朝日新聞の取材に氏は別に寄港反対を言わなかった。これも常識人のもつ常識だが、それが気に食わなかった。
 朝日は紙面で執拗に因縁をつけ続けてとうとう社会的に抹殺したと身内の平川祐弘(すけひろ)・東大教授が書いていた。
 南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)も従軍慰安婦も沖縄集団自決も同じ。朝日が決め、毎日新聞や中日新聞が追随し、それを否定するものには耳も貸さないどころか、封殺する。

【『変見自在 スーチー女史は善人か』高山正之(新潮社、2008年/新潮文庫、2011年)】



 渡部先生がなぜ狙われたかと言えば、朝日新聞の望まないことを主張したからだ。似たようなケースは、それ以前にもあった。例えば『ビルマの竪琴』で知られる竹山道雄は1968年、米空母エンタープライズの佐世保寄港について、朝日社会面で5名の識者の意見を紹介した中、ただ一人だけ賛成した。これに対して、朝日の煽りに乗せられた感情的非難の投書が殺到し、「声」欄に続々と掲載された。東京本社だけで250通を越す批判の投書が寄せられる中、朝日は竹山の再反論をボツにして、対話を断った形で論争を終結させた。朝日「声」欄の編集長は当時の『諸君!』に、担当者の判断で投書の採用を選択するのはどこでも行われていることと強弁した。
 竹山道雄をやっつけて、「朝日の言うことを聞かないとどうなるか、思い知らせてやる」という尊大さをにじませた。朝日に逆らう者は許さないという思考が朝日新聞にはある。その特性は、そのまま現在まで続いている。

【『渡部昇一の世界史最終講義 朝日新聞が教えない歴史の真実』渡部昇一、髙山正之(飛鳥新社、2018年)】

 渡部昇一は40年にも渡って朝日新聞と戦い続けたという。渡部の寄稿を改竄(かいざん)し、あたかも作家の大西巨人と対談したかのように見せかけ、あろうことか「劣悪遺伝の子生むな 渡部氏、名指しで随筆 まるでヒトラー礼賛 大西氏激怒」との見出しを打った。今時のポリコレ左翼と全く同じ手口である。インターネットがなかった時代を思えば、竹山道雄は社会的に葬られたといっても過言ではあるまい。

『変見自在』はかなり前に読んだのだが、私が竹山の名前を心に留めたのは百田尚樹が虎ノ門ニュースでこのエピソードを語った時であった。人のアンテナは季節に応じて感度が変わる。かつてはキャッチできなかったものが歳月を経て心を振動させることがあるのだ。ニュース番組の何気ない一言が私を竹山道雄へと導いた。

『世界史最終講義』で高山は朝日新聞にまつわる数々の罪状をあげつらう。朝日新聞の誤報を正す記事を産経新聞で大々的に報じたところ、朝日の幹部社員が産経に怒鳴り込んできたエピソードを紹介している。「なぜ殴らなかったのか?」というのが私の疑問である。朝日の横暴もさることながら、その横暴を許す環境があったことも見逃すわけにいかない。

 新聞の読者は所詮大衆である。事実を吟味する精神性もなければ、おかしな理窟に気づくほどの知性も持ち合わせていない。メディアが垂れ流す情報を鵜呑みにし、扇情されることに快感を覚えるようなタイプの人間である。まともな大人であれば芸能人に憧れることはないし、お笑いタレントのギャグで笑うこともなければ、わけのわからない選挙のためにCDを買うこともない。

 1968年といえば私が5歳の頃だ。東京オリンピックを終えて、大阪万博に向かう日本は高度経済成長の坂をまっしぐらに走っていたが、学生運動の炎はいまだ消えるに至っていなかった。マスコミはこぞって学生に甘い顔をした。ものわかりのいい大人を演じたのだろう。進歩的文化人は挙(こぞ)って学生運動を支持し、アメリカのベトナム戦争反対運動と結びついてローカルとグローバルがつながる心地よさも確かにあった。

 景気がいい時に過去を振り返る人はいない。財布に十分なカネがあれば未来しか見えない。さあ、買い物にゆこう。

 日本は軍事的な責任を放棄したままアメリカにくっついてゆくだけで金儲けができた。二度のオイルショックも技術革新で乗り切った。飽食の時代はバブル景気で極まった。一億総中流意識という手垢のついた言葉が不安なき日本社会を象徴していた。レールの方向性が正しければ人々はただ走るだけである。

 発展する社会はやがて行き詰まり、停滞の中から新しい時代が産声を上げる。社会が変化し時代が揺れ動き時こそ知性は必要とされる。1968年であれば確かに竹山道雄を死なすことはできただろう。だがそれからちょうど半世紀を経て私が竹山を必要としている。本物の人物は埋もれることが決してない。死後であろうとも必ず輝き始める。金(きん)は地中にあっても尚金なのだ。

 そしてかつて竹山を葬った朝日新聞が凋落の憂き目を見ている。既に常識のある社会人からすれば、赤旗や聖教新聞と同じ類(たぐい)のプロパガンダ紙と化した。そろそろ朝日新聞の墓を作っておいてもいいだろう。

2018-09-14

ヨーロッパは苛烈な力と力の世界/『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄


『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編

 ・ヨーロッパは苛烈な力と力の世界

『敗者の条件』会田雄次
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編
『精神のあとをたずねて』竹山道雄
『時流に反して』竹山道雄
『みじかい命』竹山道雄

キリスト教を知るための書籍
日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

目次

 一 力と力の世界
 二 ベルリンに住んで
 三 古都めぐり
 四 中世のおもかげ
 五 カトリック地方
 六 ダハウのガス室
 七 人民にとっての東と西
 八 東の人々
 九 ドイツ問題解決への提案
 十 壁がきずかれるまで
 十一 神もいる、悪魔もいる
 あとがき

【『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄(文藝春秋新社、1963年)以下同】

「じつにヨーロッパは苛烈な力と力の世界である! それはわれわれには想像がむつかしい」
 私は西ベルリンのティアガルテン公園のベンチに坐って、あたりを見廻しながら、よくこう考えた。目の前に、白いジャスミンの花が垂れている。
「われわれ日本人には、人間性がこのように非情でありうることは考えられない。われわれは人間をもっとおだやかな醇化されたものだと思っている。一つにはこれがあるので、日本で行われる世界理解は見当がちがうのだろう」
 ちかごろ人々はナチス映画を見て、その惺惨な歴史におどろいているが、ああいうことはヨーロッパ人にとっても十分不可解ではるのだが、しかしわれわれにとってほど不可解ではないだろう。私はあの事実を比較的はやくに知ったが、それを人に話しても、日本人は、「そんなことが起りうるものか。それはデマだ。お前の妄想だ」とて、信用する人はいなかった。また、「壁」ができるまでベルリンを通って毎月200万人の人間が逃亡していたのだが、その事実を報告しても、すべてを善意から解したがる人々は、「そういうことを考えるのは後向きである」とて、意識から排除してうけつけない。

剣と十字架 竹山道雄著作集5』林健太郎、吉川逸治監修(福武書店、1983年)は、一、二、六、七、八の抄録で、『 スペインの贋金 竹山道雄著作集2』(福武書店、1983年)には二が収録されている。更に、『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』平川祐弘編(藤原書店、2016年)は、一、二、六、七、十、十一、あとがきの抄録となっている。カバー装丁は神野八左衛門。表紙にはラファエルの絵が配されている。

 日本人は諍(いさか)いがあっても「水に流す」ことができる。なぜか? 国土の水が清らかだからだ。このことも私は竹山道雄から教わった。歴史上の内戦における死者数も少ないのが特徴で万を超えることは滅多にない。島原の乱3万7000人、織田信長の第三次長島侵攻2万1000人というあたりが最多で、西南戦争でさえ双方7000人である。

 一方ヨーロッパは土地が貧しく水が汚れている。多量のビールやワインを飲むのも水の汚れに由来するといわれる。欧州域内における戦争の死者数は数百万単位である。三十年戦争の死者数は400万人でドイツの人口は激減した。ナポレオン戦争の死者数は約500万人である(図録▽世界の主な戦争及び大規模武力紛争による犠牲者数)。第一次世界大戦の死者数が1600万人で第二次世界大戦が5000~8000万人である。つまりヨーロッパの戦争を歴史的に俯瞰(ふかん)すれば近代戦争に匹敵する死者を出していることがわかる。

 土地が貧しいゆえに寒冷化が激しくなると人々が移動する(ゲルマン人の大移動)。水は世界中どこでも紛争の種となっている。井戸を巡る殺し合いは各地であった(日本においても水利権〈すいりけん〉はあまりにも複雑で政治が手をつけることができない)。更にヨーロッパではキリスト教の正義が殺戮(さつりく)を後押しする。異教徒を殺すのは神の命令であり宗教上正しい行為と見なされる。日本人の感覚でいえば害虫駆除に近いのだろう。

 一番わかりやすいのは「アメリカ大陸発見」の歴史である。数千万人のインディアンが暮らしていたにも関わらず欧州白人は「発見」と位置づける。発見したわけだから発見以前の歴史は無視される。ところがインディアンはおとなしくなかった。彼らは勇敢に戦った。そして殺された。殺しすぎて人手が足りなくなった。ヨーロッパ人はアフリカ大陸から黒人を奴隷として輸入した。勇敢な者は殺され、友好的な者は奴隷にされる。これが歴史の真実だ。憲法9条信者はよくよく歴史を見つめるべきだ。

 日本に長らく祟(たた)り信仰があって、討ち取った敵将を神として祀(まつ)る習慣があった。ヨーロッパ人には想像もできないことだろう。この他、「一寸の虫にも五分の魂」「一視同仁」「盗人にも三分の理」「弱きを助け強きをくじく」「判官贔屓」(ほうがんびいき)、「天は人の上に人を作らず」(福澤諭吉)などの文化が底流にあり、理よりも情に重きを置く伝統が流れている。

 日本人であれば「何もそこまで」と思うところを徹底して「そこまで」行うのがヨーロッパの流儀である。ナチスドイツによるジェノサイドも、アメリカによる東京大空襲・原爆投下もその背景にはキリスト教文化が脈動している。近代においては社会主義・共産主義国での粛清や失政の犠牲者は数千万人単位であることが判明しているが、共産主義そのものがキリスト教文化から派生したものでキリスト教由来と考えてよい。

 ヨーロッパの植民地と日本の植民地を比較すれば万人が日本を支持するのは間違いない。日本は大幅な国家予算を割いて植民地のインフラを整備し、帝国大学を設立し、医療を充実させ、相手国の文化を保存する事業を行った。日本は一視同仁の思いで植民地政策を行った。

剣と十字架―ドイツの旅より (1963年)
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2018-09-09

読む愉しみ/『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編


『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄

 ・読む愉しみ

『精神のあとをたずねて』竹山道雄
『時流に反して』竹山道雄
『みじかい命』竹山道雄

必読書リスト その四

 こんなことを、あなたはもう覚えてはいないでしょう。しかし、私はあの光景を、ときどき――夜眠りに落ちる前ならまだしも、混んだ電車の中に立っているときとか、新聞を読んでいる最中などに、ちらと思いだすのです。とはいっても、こうした思い出はあまりに断片的だし、人に話して感慨をつたえるよしもなく、ただ自分ひとりの記憶にしまっているのです。

 これまでの生涯の中からのこんなきれいな思い出を、私はどれほどたくさんもっていることでしょう――。そしてそれを自分ひとりで惜しんでいることでしょう――。
 これは誰でも同じことだろうと想像します。どんな波瀾のない単調な生活をした人でも、いやそういう人であればなおさら、こうした小さな体験を大きな意味を持つものとして記憶しているのでしょう。こういうものはとらえがたく、とらえても言うことができず、言うことができても語る相手もありません。何もある場面の刹那の印象ばかりではありません。私は子供のときに、ある人が何気なくいった言葉をきいて、それをそののち10年ほどもつねに思いかえしていたことがありました。言った人が知ったらさぞおどろくことと思います。私たちの内心には、こうしたいつどこから来たかも分らないものがたくさん潜んでいるのです。
 私たちの心は、海に似ているのではありませんか。さまざまのものを中に蔵して、測りがたい深みをもった、さだかならぬ塊です。それは蒼く不断にゆれて、潮騒の音をたてています。夜に、昼に、あらあらしく嘆いたりやさしく歌ったりしています。しかし、その底に何がひそんでいるのかは自分にもよく分りません。その潮騒にじっと耳を傾けてききいると、その深みからつたわってくるのは、われらの胸の鼓動のひびきばかりです。(「知られざるひとへの手紙」)

【『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘〈ひらかわ・すけひろ〉編(藤原書店、2017年)】

 少女は二つの白い卵でお手玉をしていた。家の外にはシチューにされたウサギの毛皮が吊るしてあった。多分竹山がドイツで仮寓(かぐう)していたお宅でのワンシーンであろう。「こんなこと」とはその切り取られた場面を指している。じわじわと読む愉(たの)しみが胸に広がる。感興がさざなみとなって押しては返す。奇を衒(てら)った修飾は一つもなく、文体を凝らした形跡もない。にもかかわらず何とも言えぬ優しさと温和に溢れている。同じ通奏低音で「思い出」「あしおと」「磯」と続く。文章の調子からすると女性誌『新女苑』(しんじょえん)に連載したものかもしれない。

 易(やさ)しい文章が優(やさ)しいだけで終わらぬところが竹山の凄さである。最後の一段落で何と阿頼耶識(あらやしき/蔵識)に迫るのだ。波しぶきのように浮かぶ古い思い出から意識下の深層をまさぐる知性の切っ先にただただ驚嘆するばかりである。そして最後は「胸の鼓動のひびき」という現在性に立ち返ってくる。

 竹山がイデオロギーを嫌ったのは、流動性(諸行無常)という存在にまつわる性質を固定化する政治性を見抜いていたためだと気づく。政治性は党派性に堕し、宗教性は宗派性に成り下がった現代において、与えられた理想と論理で成形された精神は一定の方向へ曲げられ、反対方向にある「きれいな思い出」を捨象してゆく。イデオロギーは感情をも操作し、情緒を損なう。

 煩悩に覆われた凡夫の思考は分別智(ふんべつち)となって世界を分断する。戦時中に暴走した帝国陸軍も、敗戦後徹底して軍部批判をした新聞や知識人も分別智の人々であった。人の心は揺れ、時代は動く。そうした安易な動きに「待った」を掛けたのが竹山道雄であった。

主役としての近代 〔竹山道雄セレクション(全4巻) 第4巻〕
竹山 道雄
藤原書店
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2018-09-04

人間は世界を幻のように見る/『歴史的意識について』竹山道雄


『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄

 ・人間は世界を幻のように見る

『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編
『精神のあとをたずねて』竹山道雄
『時流に反して』竹山道雄
『みじかい命』竹山道雄

必読書リスト その四

 私は長いあいだ人間の心の動きを驚(おどろ)き怪(あや)しんできた。その謎(なぞ)を解きたいと願っていたのだったが、その正体もはっきりとは摑(つか)めず、どこから手をつけていいかも分からない。ただ茫然(ぼうぜん)として手をこまねいている間に年月は奔(はし)って、もはや日暮(ひぐ)れである。
 この謎は、まだ学問の領域(りょういき)ではとりあげられていないのではないか、という気がする。私にはそれを解くことはできず諦(あきら)める他はないのだが、今までにああではないかこうではあるまいかと思いあぐんだ段階のことを記しておきたい。
 その人間の心の不可解とは、だいたい、客観世界(きゃっかんせかい)についての人間の認識とはどういうものなのだろうか、というようなことである。
 人間はナマの世界に自分で直接にふれることはあまりないのではなかろうか。むしろ、世界についてのある映像(えいぞう)の中に生きているのではないのだろうか。
 そして、その人間の世界に対する映像(えいぞう)のもち方は、自分の直接の経験(けいけん)から生れたものよりも、むしろおおむね他から注ぎこまれたものではないだろうか? 「このように見よ」という教条(きょうじょう)のようなものがあって、人間はそれに合せて世界を見る。人間の対世界態度は他から与えられ、これが基本になって世界像がえがかれ、人間はその世界像にしたがって行動する。この際に理性はほとんど参与しない。(「人間は世界を幻のように見る ――傾向敵集合表象――」)

【『歴史的意識について』竹山道雄(講談社学術文庫、1983年)以下同】

 竹山道雄の著作を貫いてやまないのは「イデオロギーに対する不信感」である。その筆鋒(ひっぽう)はナチス・ドイツ、軍国ファッショ、社会主義・共産主義に向けられた。時代を激しく揺り動かすのは煽動されたファナティックな大衆である。大衆は他人から与えられた結論を自分の判断と錯覚し、時代の波に飲み込まれ、次の波を形成してゆく。

 岸田秀が『ものぐさ精神分析』で唯幻論(ゆいげんろん)を披露したのが1977年のこと。注目すべき見解ではあったが学問的な裏づけが弱い。西洋の認識論はプラトンからデカルトまでの流れがあるが、より具体的な進展は人工知能分野における認知科学まで待たねばならなかった。

 1976年に『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』(ジュリアン・ジェインズ)の原書が出ている。ジェインズの衣鉢を継いだ『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』(トール・ノーレットランダーシュ)の原書が1991年である。同年には『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』(トーマス・ギロビッチ)も刊行されている。その後、コンピュータの発達によって脳科学が一気に花開く。アントニオ・R・ダマシオもこの系譜に加えてよい。

 宗教分野では『解明される宗教 進化論的アプローチ』( ダニエル・C・デネット)、『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』(ニコラス・ウェイド)、『神はなぜいるのか?』(パスカル・ボイヤー)、『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』(アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース)と豪華絢爛なラインナップが勢揃いした。

 そしてコンピュータ文明論ともいうべき『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』(レイ・カーツワイル)にまでつながるのである。

 傾向敵集合表象はナマの客観世界からは独立して、人間精神の中だけで成立した世界像であるが、ほとんど絶対の権威(けんい)をもって支配する。それが風のごとく来ってまた去ってゆくのを私は幾度(いくど)も経験した。それが一世を覆(おお)うのをいかんとも解することができず、ついには国運をも傾けてゆく中にただ怪訝(かいが)の念をもって揉(も)まれていた。

 大東亜戦争は冷静に考えれば確かに勝ち目のない戦争であった。講和をするのも遅すぎた。黒船襲来不平等条約三国干渉人種的差別撤廃提案の否決と国民的鬱積は60年以上にも及んだ。軍国主義に至った背景を思えば、当時の政治家や国民を軽々しく批判することは難しい。ドイツは第一次世界大戦後に敗れて法外な賠償金を求められ、国民の溜まりに溜まった怒りがヒトラーを誕生させたのと似ている。しかし日本に独裁者は存在しなかったし、大量虐殺の計画も実施もない。

 共同幻影は集団の中に暗示(あんじ)によって触発され、さながら女が衣装(いしょう)の流行から免(まぬか)れることができないのと同じ強制力(きょうせいりょく)をもつ。それはさながら水が大地に浸(し)みるように拡(ひろ)がってゆくのだが、それに対して、個人の理性をもってしては歯が立たない。

 大正期や戦後の赤化(せっか)が正しくそうだった。かつての大本教創価学会もそうだったのかもしれぬ。

 傾向敵集合表象はつねに論理化して説かれる。そして、理屈(りくつ)はみな後からつく。どのようにもつく。
 その幻影と狂信を正当化する理屈のつけ方には、さまざまなパターンがある。
 もっともしばしば行われるのは「部分的真理の一般化」ということである。

 いわゆる理論武装である。特にキリスト教世界から誕生した共産主義はディベートの流れを汲(く)んでいて自分たちへの批判を想定した問答をマニュアル化する。現実の否定、あるべき理想、論理の構築が三位一体となって脳内情報を書き換える。

 人間はごく身のまわりの事や昨日とか今日の事についてならともかく、すこし離れたことについては、自分が主体になってナマの経験に即して判断することは、ほとんどない。むしろ、集団がいだいている社会表象とでもいうべき、あたえられた枠組(わくぐみ)にしたがって判断する。これは個人が主体であるといわれるヨーロッパ人でもやはりそうである。

 時代の波をつくるのは人々の昂奮や熱狂だ。理性ではない。群れを形成することで生き延びてきた我々の脳(≒心)は他人に同調しやすい。なぜなら同調することが生存確率を高めたのだから。

 いちじるしいことであるが、「第二現実」のみが、人間のエモーションをはげしく動かす。ナマの現実によって激情(げきじょう)が触発(しょくはつ)されることはあまりない。ナマの現実に異変があったときには、むしろそれへの対応(たいおう)にいそがしく、戦中もいかにして食物を手に入れるとか疎開(そかい)するとかに集中して、われわれはむしろプラクチカルになり、悲観(ひかん)とか絶望(ぜつぼう)という情動(じょうどう)はなかった。敗戦のときには虚脱(きょだつ)してむしろ平静だったが、やがて宣伝(せんでん)がはじまってから激動(げきどう)した。戦時中には自殺はなく、敗戦翌年にはおどろくべき数にのぼった。

 私が「物語」と呼び、バイロン・ケイティが「ストーリー」と名づけたものを、竹山は「第二現実」といっている。創作された映画や小説が「第二現実」であるように、我々は「自分」というフィルターを通して世界を見つめる。そこに喜怒哀楽が生まれる。人の感情の多くは誤解や錯誤から生じているのだ。「見る」という行為をブッダは如実知見と説き、智ギ天台は止観とあらわし、日蓮は観心本尊抄を認(したた)め、クリシュナムルティは徹底して「見る」ことを教えた。

 私の眼は節穴なのだろうか? その通り。人間の五感の中で視覚情報が圧倒的に多いのは脳の後ろ1/3を視覚野が占めているためである。ところがだ、実際の視覚情報は我々が感じているような細密なものではなく脳が補完・調整をしているのだ。しかも知覚は準備電位より0.5秒遅れて発生し、視覚の場合は更に光速度分の遅れが加わる。例えば北極星でサッカーが行われたとしよう。我々が超大型電波望遠鏡で見るのは434年前に行われたゲームだ。

 そして見る行為には必ず見えないものが含まれている。表が見えている時、裏は見えない。中も見えない。前を見る時、後ろは見えない。遠くを見る時、近くは見えない。美人を見る時、その他大勢は見えない。見るとは見えない事実を自覚することである。ま、無知の知みたいなもんだ。

歴史的意識について (講談社学術文庫 (622))
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2018-08-10

辺境文化とバイタリティ/『石田英一郎対談集 文化とヒューマニズム』石田英一郎


『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄
『みじかい命』竹山道雄

 ・辺境文化とバイタリティ

『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男

辺境文化とバイタリティ

竹山道雄●元に戻しまして、石田さんは、日本人は軽佻であってバイタリティがあるということを書いていますが、軽佻浮薄というと、これはネガティブな価値観をふくんだ言葉ですね。それと関係づけると共に、もっと別な、ポジティブなものを考えたいと思うんですよ。軽佻でバイタリティなものと裏腹をなすものというと、感受性の鋭さとダイナミックであるということではないでしょうか。

石田英一郎●ええ、そうですね。

竹山●だからそう考えるとそのセンシビリティは、『古事記』以来やはり日本人に独特なものです。ダイナミズムのほうが出てきたのは、どうも応仁の乱あたりからで、それまでは、特に激しいバイタリティを示さなかった。人口が少なかったせいもあるでしょうが……。それで、応仁の乱あたりから進取的になって、結局一番実力のある者が天下を統一し、自分の思うままの社会をつくった。つまり「人工作品としての国家」という絶対制をつくったのは信長以来で、それまでは、日本は西洋の昔と同じように多元的であった。それからあとは一元的になったわけです。信長、秀吉のころなどは、おそろしく拡張して、外へ出ていく。ちょうどイギリス人みたいなもので、海賊になって出ていった。それが鎖国のためにふさがれた。その鎖国も、結局実力のある者が天下を治めるためだったので、一種の歴史の流れに沿った絶対制というものをつくったものかと思うんです。
 そこのこまかいところはともかくとして、日本にだけセンシビリティとダイナミズムがあって近代化ができた。日本は東洋での例外であるように思えますが、一体例外なのか、もしそうだとしたらなぜ例外なのかということは大きな問題ですけど、わからないのです。そこのところをひとつやってくださいませんか。

石田●いや、また難しい問題を……。

竹山●むずかしいですね。それに日本じゃ文化の発展が絶えずあったでしょう。イタリアにはローマとルネッサンスだけで、あとはない。16世紀、17世紀と、あとはないといったふうに、よそではポツンとできて、あとはだめになるのが多い。シナなんかも、ぐらいまでは文化的創造力があったけれども、次に来るものがない。日本も、徳川の後半期とか、それからわれわれが学生だった大正、昭和の初めとか、あんな気分が続けば滅びていたと思うんですよ。しかし、いつも新しいものが興って、新しい状態になって生まれかわってきているところは、東洋で日本だけが例外と違いますか。

石田●まあ現実的にそうでしょうね。

竹山●なぜですか。

石田●なぜということを完全に解釈しつくすことは不可能だと思うんです。ぼくの一つの観点としては、いわゆる辺境文化というもの、日本がユーラシア大陸文明のさいはての辺境に位置して、しかも大陸から適当に隔離されていたというその条件は、やっぱり無視できない。イギリスも辺境だったけれども、ドーバーにくらべると、対馬海峡は5倍も広い。そして大陸から外敵の侵入や征服を受けるという危険なしに、今度の大戦まで、とにかく千数百年――まあ建国の事情はどうだったか知らないけれども――適当に隔離された大陸から、自分の好きな文明だけを一方的に吸収していくことが可能であった点ですね。陸続きにいろんなまわりの民族と、侵入したり侵入されたりの、あの対立相剋を繰り返し、異民族にいじめ抜かれたという経験なしに、大陸のおもしろいと思ったものをどんどん取り入れてきた。
 それから辺境文化というものは、一番おくれて何でも進んだ文明を取り入れ取り入れていく。そのうちに今度は文明の中心が、元の発生の地から辺境へと移動していく。どうも世界史の一般的な形式としてそういう傾向が認められます。その意味ではアメリカもソ連も辺境だったし、日本も辺境だった。古代オリエントの文明から見れば辺境にすぎなかった西ヨーロッパに文明のピークが移ったときは、オリエント文明はもとより、これにつづくエーゲ海ギリシア、ローマの文明も衰亡してますし、西ヨーロッパもすでに文化の生命力の衰えを示しはじめているのかもしれません。ところが最後に日本は、まだ生命の焔が下火になる条件が熟さないままに、西ヨーロッパよりももっと長い歴史を経てきたんじゃないか。それで説明の全部にはならないけれども、この世界の一般形式は無視できないだろうと思うんです。
 それで、さっき応仁の乱以後とおっしゃったんですが、その前でも、たとえば大化改新前後は、やはり非常なエネルギーの爆発したものがあったのではないか。船がどれだけ沈んでも、次から次へとこりずに遣唐使を、大陸に送り出す。そして大唐の文明を貪るように吸収しようとした。聖徳太子から大化改新、壬申の乱あたりまでの民族的エネルギーには、応仁の乱以後に似たものが見られないでしょうか。

竹山●応仁の乱ちょっと前、足利時代なんかにも、貿易や海賊なんかずいぶん出ているわけですね。

石田●吉野朝から和冦の話題が見られますし、それからずっと八幡船(ばはんせん)とか御朱印船とか、安土桃山から徳川初期にかかての日本人のヴァイタリティー(ママ)は相当なものだった。

竹山●その辺境にあって、あとからあとからと新しい文明のチャレンジを受ける。その常にチャレンジを受けてリスポンドするアティテュード――心がまえが日本人の中に定着していると、そういうこともいえるでしょうね。

石田●ええ、それはもう主体の側にチャレンジを受けて立つだけの条件が具わっていたということがもちろん前提になるでしょう。しかも侵入や征服のような形式でないチャレンジをほどよく、何度も繰り返して受けてきた。これは大陸の民族とは違った大きな特徴ではないでしょうか。したがって非常にホモジーニアスな、等質的な民族がこの島の上ででき上がった。陸続きにヘテロジーニアスな民族と民族とがひしめき合ったような、ユーラシア大陸と比べて、適度の隔離が、日本の島の中で同質的な文化を持った単一民族を形成せしめた。この単一民族の間では、ことばや、論理を媒介しないでも、いわゆるハラとハラとがツーカーで通じ合えるコミュニケーションの世界が特に形成されやすかったのではないか。それがまた日本人の情緒性の発達とも関係があるだろう、とこんなふうにぼくは考えるわけです。

竹山●異質の文化はあとからあとから入ってきて、日本独特のベールを上へかけて、結局同質に近いようなものにしてしまいますね。

石田●してしまうんですね。それは、ほかから力で押しつけられないからそれができるのではないか。主体性をもって、その点を歴史家は見落としてはならないと思うんです。模倣模倣というけれども、単なる模倣でもないんですね。(『自由』昭和43年8月号)

【『石田英一郎対談集 文化とヒューマニズム』石田英一郎〈いしだ・えいいちろう〉(筑摩叢書、1970年)】

「チャレンジ・アンド・レスポンス」とはアーノルド・J・トインビーの史観で「文明発生の原因は、自然環境や社会環境からの挑戦(チャレンジ)に対する人間の応戦(レスポンス)にある。創造的少数者が大衆を導きながら文明を成長させてゆくが、やがて創造性を失い、支配的少数者になり、文明は挫折する。--------(そこから、宗教的文化を内包した新しい文明が生まれる)」(歴史観(3) 文化史観 | ”現在・過去・未来” 歴史の日暦)というもの。

 親しみが漂う阿吽(あうん)の呼吸で対談が進むのは長年の友情によるものだろう。実はこの二人、同い年で旧制中学(東京府立第四中学校〈現東京都立戸山高等学校〉)~旧制一高以来の友人なのだ。本書に収められている九つの対談のうち三つが竹山との対談である。内容は『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』に先んじるもので、文明史を通して日本の文化や特性を浮かび上がらせる稀有(けう)な視点となっている。

 竹山としては当然、左翼の進歩史観に対する忸怩(じくじ)たる思いがあり、就中(なかんづく)ナチス・ドイツと日本を同列に裁いた東京裁判に対する拭い難い嫌悪感があったに違いない。そこから正視眼に基づく日本文明の再検証を行うところに対談の眼目を置いたのであろう。

 石田が答えた「辺境の地の利」も絶妙な視点である。論理(ロゴス)は神学によって精錬されたが、所詮相手を言い負かす類いの代物だ。異なる民族をまとめ上げるために必要とされたのだろう。ところが日本の場合、侵略-非侵略という関係性の異民族は存在しなかった。パトス(情念)ではなく情緒に向かったところに日本文化の特徴がある(情緒については岡潔を参照せよ)。

 結局、大陸文化の波は日本の岸辺を洗ったが、押し流すまでには至らなかったということなのだろう。変化を好む性格も各時代の波に応じる中で身につけたのだろう。

 個人的には縦に長い国土が同質性の中にも多様性を育む要因になっていると考える。言葉を文化の尺度とすれば方言の豊かさが多様性を示している。

石田英一郎対談集―文化とヒューマニズム (1970年) (筑摩叢書)
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2018-07-12

布教インペリアリズム/『みじかい命』竹山道雄


『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
・『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄

 ・×踏み絵 ○絵踏み
 ・布教インペリアリズム

『石田英一郎対談集 文化とヒューマニズム』石田英一郎

キリスト教を知るための書籍
日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 往きて宣べつたへ「天国は近づけり」と言へ――このイエズスの命令は、おそらく人々にこの世の崩壊が明日にも迫っていることを教え、すべては融けて消えてなくなると説き、その中にあってもなお永遠の生命を保つためには、ゴッドの教えをきいてゴットの国に入れ、ということであったのだろう。その教えをきかない者は呪われた者だった。
 年と共に、これが歴史の実体としては、行きて宣べて、しかもかつ略奪劫掠せよということとなったことは、疑いをいれない。宗教宣伝が領略の名目となったことはまちがいがなかった。むしろ、この両者は一体のものだったろう。12世紀の十字軍遠征を扇動した法王の言葉は他に紹介したことがある。彼はこれによって集団ヒステリーをかきたてた。西欧の方々の国の村から町から異教徒という被害妄想に憑かれた人々が、群をなし列をなしてぞろぞろと東へ征った。
 バテレンの布教は日本征服と関係がある――この結びつきは、徳川時代において日本人の固定観念だった。それが明治に布教が再開されるに及んで消えた。その間の時期に日本の指導層は合理的に物を考えるようになっていた。しかし、近頃バテレンの機密文書がぞくぞくと発表されるに及んで、やはり前の固定観念が正しかったことが明らかになった。その証拠はかぎりがない。
 大航海時代に南ヨーロッパ諸国民が世界に雄飛した動機について告白したものは、聖なる教えを奉ずる自己の利益となる行為は正しいものであるということを、表明している。じつにキリスト教徒でない者は、まだ人間であるか否かを疑われ、むしろ家畜として使役すべきものだった。

【『みじかい命』竹山道雄(新潮社、1975年)】

 40代でクリシュナムルティと出会い、50代で竹山道雄を知ったことは私の読書人生もあながち的外れではなかったことを証(あか)しているようで少しばかり自慢気になる。若い頃から抱いてた疑問の数々はすべて晴れたといっても過言ではない。

 本書は江戸時代を舞台としたキリスト教小説である。竹山は1903年(明治36年)生まれだから刊行時は72歳だ。竹山の前半生は戦争と共にあった。

日清戦争(1894-95年)
日露戦争(1904-05年)
第一次世界大戦(1914-18年)
満州事変(1931-32年)
支那事変日中戦争(1937-45年)
大東亜戦争(1941-45年)

 明治開国で日本は辛うじて植民地となることは免れたが長く不平等条約に苦しめられた。明治政府は白人帝国主義の外圧に対抗すべく富国強兵を掲げ殖産興業に邁進した。日露戦争は近代史における一大事件で初めて有色人種が白人を打ち負かした近代戦争であった。その後も半世紀近くにわたって日本はロシアの南下と戦い続ける。

 竹山は戦前にドイツとパリへ3年間留学している(※当時一高のドイツ語講師)。また鎌倉の海岸で偶然出会ったベルナルト・レーリンク(オランダの裁判官で東京裁判の判事を務めた)とも親交を重ねた。言うなれば「誰よりもヨーロッパを知る日本人」であった。彼はいち早くナチスの欺瞞を見抜いた。そしてナチスという現象の歴史的由来を探った。竹山は「キリスト教にその原因あり」と喝破した。

 竹山の経験・見識を総動員して描かれた小説が本書である。SF的手法を用いた原爆投下の悪夢や、戯画的に綴られる性描写、リアリズムを追求するがゆえの残酷さなどは好みが分かれることと思われるが、私はその全てに息が止まるほどの激情を覚えた。主人公の湯浅を竹山の分身と捉えることも可能だろう。

 キリスト教小説として読めば飯嶋和一作品(『黄金旅風』以降)の底の浅さがよく見えてくる。ただし飯嶋がキリスト教を道具立てとして使っているのか、宣教を目的にしているのかは不明である。

 キリスト教ヨーロッパによる布教インペリアリズム(帝国主義)を理解せずして近代史を把握することはできない。アフリカ・アジアの殆どの国が植民地として農地同然の扱いを受けた。日本はやっとの思いで日露戦争・日清戦争に打ち勝ち、一等国として扱われた。

 第二次世界大戦の枠組みで形成される国際社会ではいまだに日本を貶める話題に事欠かない。例えば慰安婦捏造問題が挙げられよう。チャイナ・マネーとつながっているヒラリー・クリントンがセックス・スレイブ(性奴隷)と口にしたことは記憶に新しい。私は常々思っているのだが慰安所という当時の日本文化を通して反撃することが正しい。慰安所は現地での性犯罪を防ぐ目的で設置された。衛生面にも配慮がなされており、過酷な労働に対する報酬も高額なものだった。慰安婦と結婚した兵士も少なからず存在した。明治維新の志士だって遊郭の女性を妻や妾にしている例は多い。

 アメリカ兵はノルマンディーに上陸し、フランスをナチスドイツから解放すると、フランス人女性を次々と強姦した。「GIはどこでも所かまわずセックスしていた」(「解放者」米兵、ノルマンディー住民にとっては「女性に飢えた荒くれ者」)。同盟国の女性すら強姦するのだから敵国ともなると残虐の度合いが桁違いとなる。ベトナム戦争では「一人の女が赤熱した銃剣を性器にぐさりと深く突き立てられるのも見た」という米兵の証言もある(『人間の崩壊 ベトナム米兵の証言』マーク・レーン)。

 アングロサクソンも恐ろしいがもっと凄いのはロシア兵だ。イナゴの大群が作物を食い尽くすように強姦しまくる。第二次世界大戦のドイツでは少女から老人に至るまで犯された。満州では日本人女性も多数の犠牲者を出している。

 白人は自らの歴史を振り返って反省することがない。なぜなら彼らはキリスト教という正義に取り憑かれているためだ。本来であれば東洋から学問的追求をするべきなのだが、自国の歴史すらまともに知ることができない現状である。

 私が知る限りではどの宗教学者や仏教者よりも竹山はキリスト教の本質を鋭く捉え、日本文化を通して見事な鉄槌を下している。

2018-06-11

×踏み絵 ○絵踏み


 絵踏み(踏絵というのは踏まれる絵や浮彫像のこと、踏む行為は絵踏みという)

【『みじかい命』竹山道雄(新潮社、1975年)】

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2018-06-02

敗戦の心情/『ビルマの竪琴』竹山道雄

『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄

 ・敗戦の心情
 ・「一隅を守り、千里を照らす」人のありやなしや

『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編
『精神のあとをたずねて』竹山道雄
『時流に反して』竹山道雄
『みじかい命』竹山道雄

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その一

「国が廃墟(はいきょ)となり、自分たちの身はこうした万里(ばんり)の外で捕虜となる――。これは考えてみればおどろくべきことだ。それだのに、私は、これはどうしたことだ――、とただ茫然自失(ぼうぜんじしつ)するばかりである。それをはっきりと自分の身の上に起こったことだ、と感ずることすらできない。ただ手からも足からも力が抜けてゆくような気がする。
 そのうちには悲しい気持もおこってくるであろう。絶望も、うたがいも、いかりやうらみすらおこってくるかもしれない。すべてはおいおい事情がわかってきてから、考えをきめるほかはない。実は、もうかなり前から、こういうことになるのではないかとうすうすは思っていたのであったが、いざそうなってみると、まったく途方(とほう)にくれるというほかはない。
 いまはただなりゆきを待つほかはない。いまわれわれが運命にさからったところで、それが何になろう。どうしてもさけることができないものならば、むしろそれをいさぎよく認めて、われわれの境涯(きょうがい)がどんなものであるかをよく知って、その上であたらしく立ち直ってゆくのが、むしろ男らしいやり方である。せめてそうするだけの勇気を持とうではないか。
 よくはわからないが、われわれはすべてを失ってしまったらしい。自分たちの身の上はみじめなものである。残っているものとしては、ただわれわれが互いに仲がいい、ということだけである。これだけは疑うことができない。われわれが持っているものとては、これだけだ。
 自分たちはこれからも共に悲しみ、共に苦しもう。互いに助けあおう。自分たちはこれからの苦しいことも覚悟しなくてはならぬ。あるいはこのさき、このビルマの国で骨になるかもしれない。そのときは一しょに骨になろう。ただ、最後までできるだけ絶望はしまい。何とかして希望をもってしのいでゆこう。
 そうして、もし万一にも国に帰れる日があったら、一人ももれなく日本へかえ(ママ)って、共に再建のために働こう。いま自分のいえることは、これだけである」
 隊長は言葉もきれぎれにこういいました。みな黙(だま)ってきいていました。
 誰(だれ)もはりつめた気もぬけ、ただぼんやりとしてしまったのです。みな首をたれて、隊長のいうとおりだ、と思いました。
 おもえば、われわれは歓呼(かんこ)の声におくられ、激励(げきれい)されて国を出たのですが、それにもかかわらず、あのころから、国中にはなんとなく不吉(ふきつ)な気分がみちみちていました。いまそれがまざまざと思いだされます。誰もかれも、つよがっていばっていましたが、その言葉は浮(う)わついて空疎(くうそ)でした。酔っぱらいがあばれだしたようなふうでもありました。それを思うと、胸も痛み、恥ずかしさに身内があつくなるような気がしました。
 誰かすすり泣く声がしました。すると、みな、にわかに悲しくなって、すすり泣きました。しかし、それははっきり何が悲しい、何がうらめしい、というのではありませんでした。ただ、このたよりない気持をどうしたらいいかわからなかったのです。

【『ビルマの竪琴』竹山道雄(中央公論社ともだち文庫、1948年/新潮文庫、1959年)】

『ビルマの竪琴』は「1946年(※昭和21年)の夏から書き始め童話雑誌『赤とんぼ』に1947年3月から1948年2月まで掲載された」(Wikipedia)。一高(東大の前身)の教師だった竹山は従軍していない。そのため現地などの情報に多くの誤りがあることを詫(わ)びている。

 冒頭に出てくる「歌う部隊」のエピソードは本書を読んだことがない人でも知っているだろう。追い詰められた日本兵が「埴生(はにゅう)の宿」を歌うと、今にも襲いかからんばかりのイギリス兵も歌い出し、合唱となる。


Helen Traubel Sings "Home, Sweet Home." 1946

日本童謡事典』の「埴生の宿」p323-32の解説によれば,「みずからの生まれ育った花・鳥・虫に恵まれた家を懐かしみ讃える歌…」「「埴生の宿」とは,床も畳もなく「埴」(土=粘土)を剥き出しのままの家のこと,そんな造りであっても,生い立ちの家は,「玉の装い(よそおい)」を凝らし「瑠璃の床」を持った殿堂よりずっと「楽し」く,また「頼もし」いという内容。

レファレンス協同データベース

 敗色が濃厚になると日本は無気力に覆われた。欧米と比すれば小さな国である。物資が欠乏しながらも3年半にわたって戦った歴史を軽々しく論じるべきではない。しかも敗れたのはアメリカ一国だけであり、イギリス・フランス・オランダ軍を退けたのだ。

 8月15日を境にして日本はGHQの占領下に置かれる。実に建国以来のことである。わずか7年(サンフランシスコ講和条約が発効した1952年〈昭和27年〉4月28日まで)とはいえ、歴史を裁断するには十分な時間だった。

 日本人の精神は無気力から真空状態に至る。そして敗戦するや否やラジオや新聞はGHQの統制下で軍部を悪しざまに罵った。知識人は掌(てのひら)を返して「戦争には反対だった」と口々に言い始めた。歓呼の声と万歳で見送られた兵士は帰国すると白い目で見られた。

 1940年(昭和15年)にナチスを批判した竹山はこの時もまた強い違和感を覚えた。自分の教え子の訃報に接してきた彼がやすやすとGHQの洗脳に屈服することはなかった。遺骨もなく形見の品だけで弔(とむら)う葬儀があった。形見すらない場合も珍しくなかった。世間が戦争の罪を軍部に押し付けようとした時、竹山はたった独りで鎮魂のペンを執(と)った。児童向けの作品となった経緯を私は知らないが結果的にはよかったと思う。戦後に就学していた人々が左傾化することは避けようがなかったわけだが一定のブレーキにはなったことだろう。

 このテキストには敗れざるを得なかった日本の情況が正確にスケッチされている。「酔っぱらいがあばれだしたようなふう」とあるが、直ぐ後に描かれる「首を切り落とされた鶏(にわとり)がバタバタと動く様子」は戦前・戦中の日本を示したものだろう。天皇責任論に対する静かな批判といってよい。

 誰もが食べることで精一杯だった。そんな中で竹山は戦死者の魂を鎮(しず)めようとした。