2012-04-14

言葉を紡ぐ力/『石原吉郎詩文集』石原吉郎


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル:霜山徳爾訳
『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編

 ・究極のペシミスト・鹿野武一
 ・詩は、「書くまい」とする衝動なのだ
 ・ことばを回復して行く過程のなかに失語の体験がある
 ・「棒をのんだ話 Vot tak!(そんなことだと思った)」
 ・ナット・ターナーと鹿野武一の共通点
 ・言葉を紡ぐ力
 ・「もしもあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」

『望郷と海』石原吉郎
『海を流れる河』石原吉郎
『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』畑谷史代
『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治
『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治
『失語と断念 石原吉郎論』内村剛介

必読書リスト その二

 以前から読んでいるブログが中断を経て再開された。

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

 名前は〈やち・しゅうそ〉と読む。息の長いブログである。読むたびに「言葉のマッサージ」を受けているような気分になる。あるいは「言葉のリハビリテーション」と言ってもよい。ヒラリヒラリと舞う言葉が、直情径行型の私に変化を及ぼす。

 ふと詩を読みたくなった。そうだ、石原吉郎に会いにゆこう。

 しずかな肩には
 声だけがならぶのでない
 声よりも近く
 敵がならぶのだ
 勇敢な男たちが目指す位置は
 その右でも おそらく
 そのひだりでもない
 無防備の空がついに撓(たわ)み
 正午の弓となる位置で
 君は呼吸し
 かつ挨拶せよ
 君の位置からの それが
 最もすぐれた姿勢である(「位置」)

【詩集〈サンチョ・パンサの帰郷〉より/『石原吉郎詩文集』石原吉郎〈いしはら・よしろう〉(講談社文芸文庫、2005年)以下同】

 はっきり言ってしまえば意味はよくわからない。それでも構わないだろう。人間は外国語の歌にも感動することができる動物なのだから。

 空間の歪みと時間の頂点というコントラストが既成概念を揺さぶる。石原にとってシベリア抑留は歪んだ空間であったことだろう。しかし「歪んだ時間」ではなかったはずだ。なぜなら彼はシベリアで鹿野武一〈かの・ぶいち〉と出会ったからだ。

 石原自身は真面目で平凡な人物であったと思われる。その彼に「言葉を紡(つむ)ぐ力」を与えたのが鹿野であった。

 石原は言葉を失いかけた。否、失ったのかもしれない。

 人は大なり小なり国家に依存している。それは考えるまでもない事実である。国家のために命を賭して戦地へ赴き、挙げ句の果てに国家から見捨てられる。シベリアで抑留された人々はかような状態に置かれた。自分の生死をも不問に付された時、存在は透明化し抹消されたに等しい。

 人間は相手(=観測者)がいなければ言葉を発することすらできないのだ。

 さびしいと いま
 いったろう ひげだらけの
 その土塀にぴったり
 おしつけたその背の
 その すぐうしろで
 さびしいと いま
 いったろう
 そこだけが けものの
 腹のようにあたたかく
 手ばなしの影ばかりが
 せつなくおりかさなって
 いるあたりで
 背なかあわせの 奇妙な
 にくしみのあいだで
 たしかに さびしいと
 いったやつがいて
 たしかに それを
 聞いたやつがいあるのだ
 いった口と
 聞いた耳とのあいだで
 おもいもかけぬ
 蓋がもちあがり
 冗談のように あつい湯が
 ふきこぼれる
 あわててとびのくのは
 土塀や おれの勝手だが
 たしかに さびしいと
 いったやつがいて
 たしかに それを
 聞いたやつがいる以上
 あのしいの木も
 とちの木も
 日ぐれもみずうみも
 そっくりおれのものだ(「さびしいと いま」)

 慎ましい言葉の端々(はしばし)から、存在への憧憬(どうけい)が狂おしいまでに溢(あふ)れ出る。強制された孤独が完膚なきまでに自我を打ちのめす。変わらぬ自然の光景を「おれのものだ」と言わずにはいられない、その「さびしさ」を思う。

 憎むとは 待つことだ
 きりきりと音のするまで
 待ちつくすことだ
 いちにちの霧と
 いちにちの雨ののち
 おれはわらい出す
 たおれる壁のように
 億千のなかの
 ひとつの車輪をひき据えて
 おれはわらい出す
 たおれる馬のように
 ひとつの生涯のように
 ひとりの証人を待ちつくして
 憎むとは
 ついに怒りに到らぬことだ(「待つ」)

 腐敗でも発酵でもない。憎悪の純化だ。石原は憎しみを保ち続けることで、鹿野の死や時の経過と戦ったのだろう。忘却を拒む者の覚悟が屹立(きつりつ)している。

 世界がほろびる日に
 かぜをひくな
 ビールスに気をつけろ
 ベランダに
 ふとんを干しておけ
 ガスの元栓を忘れるな
 電気釜は
 八時に仕掛けておけ(「世界がほろびる日に」)

 ゲオルギウの言葉と一緒だ。

自分は今日リンゴの木を植える

 いつものように、そして今までどおりに生きる。淡々と平凡を貫ける人は偉大だ。

 生の意味を探し回ることは空虚だ。人生を改造するような真似も見苦しい。ただ生きる。川の水が流れるように。そんな生き方を私は望む。


私を変えた本

『なぜアメリカは戦争を続けるのか』シャーロット・ストリート・フィルムズ制作(アメリカ、2004年)



アーロン・ルッソ

2012-04-13

宗教には啓典宗教とそれ以外の宗教がある/『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹


『青い空』海老沢泰久

 ・キリスト教の「愛(アガペー)」と仏教の「空(くう)」
 ・「異民族は皆殺しにせよ」と神は命じた
 ・宗教には啓典宗教とそれ以外の宗教がある

『イエス』ルドルフ・カール・ブルトマン
『世界史の新常識』文藝春秋編
『日本人のためのイスラム原論』小室直樹
目指せ“明るい教祖ライフ”!/『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世

キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?
必読書リスト その五

宗教」という言葉は、明治時代になって「religion」の訳語として作られた新しい言葉で、もともとのレリジョンの意味は、「繰り返し読む」ということ。
 欧米人のほとんどはキリスト教こそが本当の宗教だと想っているから、宗教といえばキリスト教、そして文字で表された最高教典、すなわち啓典(正典ともいう)のある啓典宗教と考える。

【『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹(徳間書店、2000年)以下同】

 キケロはレリゲーレ[relegere](「とり集める」ないしは「再読する」を意味する)に由来すると考えていた。

宗教の語源/『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル

 教団は文献を取り集め、信者に再読を促す。再読は「考える力」を奪う。そして教団は迷える人々を取り集め、金銭を取り集めるのだ。

 マックス・ヴェーバーはかくいった。宗教とは何か、それは「エトス(Ethos)」のことであると。エトスというのは簡単に訳すと「行動様式」。つまり、行動のパターンである。人間の行動を意識的及び無意識的に突き動かしているもの、それを行動様式と呼び、ドイツ語でエトスという。英語では、エシック(ethic)となる。
 ここで注意を一つ。英語の場合、どこに注意するかというと、語尾にsがないこと。sがあったらエシックス(ethics)となり「倫理」という意味になる。
 倫理というのは、ああしろこうしろという命令もしくは禁止を指すが、その上位(一般)概念であるエシックはもっと意味が広い。禁止や命令も含むが、さらに正しいだとか正しくないだとかいうことも含む。そればかりか、さらに意味は広く、思わずやってしまうことまでも含むのである。

エトス 通信し合えないぼくらの時代
最狭義と最広義の宗教/日本教的宗教観

 簡単にいってしまえば、エシックス(倫理)は思考に訴え、エトスは情動を支配するのだ。倫理は社会の機能で、エトスは個人を規定するものと考えてもよさそうだ。「内なる良心の声」がエトスの正体だ。我々はこれを疑うことを知らない。

 なぜヴェーバーの定義がいいのかというと、宗教だけでなくイデオロギーもまた宗教の一種であると解釈できるところにある。どういうことなのかというと、マルキシズムも宗教である。資本主義も宗教である。そして、武士道などというのも一種の宗教だといえる。

 つまり宗教とは「行動様式原理」を意味する。悪くいえば洗脳だ。

 これから本格的に宗教の議論に入る前にコメントを一つ挙げておく。それは、宗教には啓典宗教とそれ以外の宗教がある、ということだ。
 これは、イスラム教徒による宗教分類であるが、比較宗教学のために便利な分類でもあるので、この本においても採用したい。
「啓典宗教(revealed religion)」とは啓典(正典=canon, Kanon, cannon)を持つ宗教である。ユダヤ教キリスト教イスラム教は啓典宗教である。仏教儒教ヒンドゥー教道教、法教(中国における法家〈ほうか〉の思想)などは啓典宗教ではない。

 啓典という言葉は日本人にあまり馴染みがない。それゆえ「教典(経典)宗教」と言い換えてもよかろう。神の言葉を絶対視することで、信徒は「言葉の奴隷」とならざるを得ない。「言葉に従わせる」という操作性に宗教の本質があるとすれば、ここに絶対的権力が立ち現れる。

 啓典宗教は、存在論、すなわちオントロジー(ontology)に貫かれている。啓典宗教であるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教においては、神の存在が最大の問題なのである。

 西洋哲学は存在を巡る議論である。「天にまします我らが父」を目指して形而上学へ傾くことは必然であった。そう考えると西洋と東洋では「生きる」という意味合いすら異なっている可能性が高い。我々日本人は存在に無頓着だ。生きるの語源は「息をする」こと。だから死ぬことを「息を引き取った」と表現する。また人生は川に喩(たと)えられるが、存在性よりも「流れ」と考える人が多い。六道輪廻(ろくどうりんね)を意味する生死流転(しょうじるてん)という言葉も、輪ではなく川をイメージする。

 このままでは言葉が通じない。その深き溝を翻訳する作業が必要だ。日本の外交音痴も「言葉の問題」が本質的な原因と考えられる。

「啓典宗教」というキーワードが閃(ひらめ)きを与えてくれる。大乗仏教は仏教の啓典宗教化を目指したのだろう。つまりコミュニティの人数が多くなれば、「言葉の支配」を避けられないのが人類の宿命なのだ。

 啓典宗教が誤っていることは簡単に証明できる。言葉は絶対のものではない。それは所詮、「解釈される」性質のものだ。ゆえに同じ言葉であったとしても受け止め方は千差万別だ。こうして教義論争が始まる。「religion」の意味が「結びつける」ではないことが明らかだ。



エートスの語源/『ソクラテスはネットの「無料」に抗議する』ルディー和子
自由を達成するためには、どんな組織にも、どんな宗教にも加入する必要はない/『自由と反逆 クリシュナムルティ・トーク集』J・クリシュナムルティ
教条主義こそロジックの本質/『イエス』R・ブルトマン
歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男
宗教と言語/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
宗教の社会的側面/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
アブラハムの宗教入門/『まんが パレスチナ問題』山井教雄
電気を知る/『バーニング・ワイヤー』ジェフリー・ディーヴァー
信じることと騙されること/『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節

2012-04-12

広河隆一、ロブ・ブッカー&ブラッドリー・フリード

1冊挫折、1冊読了。

チェルノブイリ報告』広河隆一〈ひろかわ・りゅういち〉(岩波新書、1991年)/良書。ただ、今の私が必要とする内容ではない。

 20冊目『超カンタン アメリカ最強のFX理論』ロブ・ブッカー&ブラッドリー・フリード(扶桑社、2009年)/惜しげも無く投資手法を公開している。これを良心と受け止めるかどうかは読者次第だろう。素人は直ぐに飛びつくだろうが、実践するとなると意外と難しいことに気づくと思う。ロブ・ブッカーはカリスマFXコーチという肩書きの人物。

シリア危機 アルジャジーラ情報捏造の現場





◎シリア ディルエルゾル(プロパガンダ創作チャンネル)の撮影現場
◎シリア情勢 記者の戦闘参加・情報捏造 フランス人諜報員逮捕