2014-10-29

荀子との出会い/『奇貨居くべし 火雲篇』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光

 ・戦争を問う
 ・学びて問い、生きて答える
 ・和氏の璧
 ・荀子との出会い
 ・侈傲(しごう)の者は亡ぶ
 ・孟嘗君の境地
 ・「蔽(おお)われた者」
 ・楚国の長城
 ・深谿に臨まざれば地の厚きことを知らず
 ・徳には盛衰がない

『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 すでに呂不韋〈りょふい〉たちは、牛馬のごとく舟に積みこまれ、黄河をくだり、南岸に上陸し、稜に近づきつつあった。
 ――こういう現実がある。
 信じられぬおもいで、呂不韋は天を仰ぎ、地をみつめ、人をながめた。弱者とは、いやおうなくこうなるものか。では、強者とは、何であるのか。秦(しん)が強者で趙が弱者であるとすれば、何が秦を強くし、何が趙を弱くしたのか。この世にも貧富の差がある。その差はどこから生ずるのか。いま強国であっても太古から強国ではあるまい。富家も昔から富家ではあるまい。国も家も人も盛衰というものがあり、その盛衰をつかさどる力、あるいはその盛衰をあやつる法則などが、どこにあるのか。
 そういう問いをたれにもぶつけることのできぬ歩行のなかにいるのは、呂不韋ばかりではない。みな黙々とおのれの暗さのなかを歩いている。この500人というのは、いきなり悲運の淵につき落とされた者ばかりではなく、もともと私家の奴隷であった者が徴発された場合もふくまれており、かれらは悲運をひきずっているということになる。

【『奇貨居くべし 火雲篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1998年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)以下同】

 戦乱の中で呂不韋は囚われの身となる。待ち受けていたのは奴隷という立場であった。順境にあっても逆境にあっても彼は問い続けた。問うことと疑うことは似て非なるものだ。偉大な人物はおしなべて我が身の不遇を嘆き運命を疑うことがない。自分を含む世界を突き放して客観的に捉える。なぜなら不幸も幸福も移ろいゆくものであることを自覚しているためだ。万物は流転する。ゆえに流転する万物を達観し好機を待てばよい。

 呂不韋は雉〈ち〉という奴隷の少年と出会う。雉〈ち〉は生まれながらの奴隷であったが、呂不韋と出会い従者となる。

 呂不韋はかつて慎子〈しんし〉という師に学んだ。思想家の慎到〈しんとう〉である。呂不韋は雉〈ち〉に慎子の教えを授けた。ある時、昂然(こうぜん)と慎子を批判する男が現れた。30歳前後と見える男は難解な言葉をやすやすと操った。

 この男から呂不韋は顔つきを厳しく注意される。「逃げたい、逃げたい。かならず逃げてやる。かならず、かならず、と喋りつづけている。うるさいことだ。その声がきこえるのは、わしばかりではない。役人がなんじの貌(かお)をみれば、やはりその声をきき、なんじはもっと逃走しにくいところで働かされることになる。わかったか」。

 それは事実であった。呂不韋は脱走を考えていた。

 呂不韋はうつむき、地をみた。そこに自分の影がある。
 陽翟(ようてき)の実家でみつめていた影とおなじで、さびしく、楽しまない影である。
 呂不韋のまなざしがうつろになったのをみた孫〈そん〉は、
「すっかり萎(しお)れてしまったな。願いが浅いところにあるからだ。それだけ傷つきやすい。花をみよ。早く咲けば早く散らざるをえない。人目を惹(ひ)くほど咲き誇れば人に手折られやすい。人もそうだ。願いやこころざしは、秘すものだ。早くあらわれようとする願いはたいしたものではない。秘蔵せざるをえない重さをもった願いをこころざしという。なんじには、まだ、こころざしがない」
 と、皮肉をまじえていった。おし黙った呂不韋をはげましているのか、怒らせているのか。とにかくこのことばは、多少、呂不韋の活力をうしなった心をゆすぶった。
「こころざしで穣(じょう)邑の門を破れますか。こころざしで穣邑の壁を崩せますか」
「たやすいことだ。こころざしによって、地に潜ることができ、天に昇ることもできる」
 孫はなんのためらいもみせずにいった。
 ――狂人かもしれぬ。
 呂不韋はそう疑った。

 これが荀子(※本書では孫子と表記される)その人であった。呂不韋はまだ十代か。名場面である。成功を望む人は多い。だがそこに「世を直す」「人々を助く」との志を持つ人は稀(まれ)だ。いたずらにランクアップを願う学校、ひたすら勢力拡大に奔走する教団。そのどこに志があるというのか。美しい言葉で理想を語りながら実際は自分たちの利益しか考えていない。

「秘蔵せざるをえない重さをもった願いをこころざしという」――ならば志は飽くまでも孤独の中で生まれ、鍛えられ、培(つちかわ)われてゆくのだろう。それを全体主義的に人民に強制したのが社会主義国家の「同志」なる言葉だ。同志でないと認定されればいとも簡単に粛清された。似た志を持つことはできても、志を同じくすることはできない。そして志は教えることも強いることもできない。なぜなら志とは生きるものであるからだ。

 後日、呂不韋は襟を正して教えを請う。荀子は「教鞭をとりたくても、わしには鞭(むち)がない。不韋〈ふい〉はおのれを鞭で打たねばならない。それを勉強という。それをやるか」と問い、呂不韋は「懸命に、いたします」と応じ、入門を許された。

    

2014-10-28

民主主義のスクラップ・アンド・ビルドを繰り返すアメリカ/『この国を支配/管理する者たち 諜報から見た闇の権力』中丸薫、菅沼光弘


『日本はテロと戦えるか』アルベルト・フジモリ、菅沼光弘:2003年

 ・民主主義のスクラップ・アンド・ビルドを繰り返すアメリカ
 ・郵政民営化の真相
 ・日本の伝統の徹底的な否定論者・竹内好への告発状 その正体は、北京政府の忠実な代理人(エージェント)

『菅沼レポート・増補版 守るべき日本の国益』菅沼光弘:2009年
『この国のために今二人が絶対伝えたい本当のこと 闇の世界権力との最終バトル【北朝鮮編】』中丸薫、菅沼光弘:2010年
『日本最後のスパイからの遺言』菅沼光弘、須田慎一郎:2010年
この国の権力中枢を握る者は誰か』菅沼光弘:2011年
『この国の不都合な真実 日本はなぜここまで劣化したのか?』菅沼光弘:2012年
『日本人が知らないではすまない 金王朝の機密情報』菅沼光弘:2012年
『国家非常事態緊急会議』菅沼光弘、ベンジャミン・フルフォード、飛鳥昭雄:2012年
『この国はいつから米中の奴隷国家になったのか』菅沼光弘:2012年
『誰も教えないこの国の歴史の真実』菅沼光弘:2012年
『この世界でいま本当に起きていること』中丸薫、菅沼光弘:2013年
『神国日本VS.ワンワールド支配者』菅沼光弘、ベンジャミン・フルフォード、飛鳥昭雄
『日本を貶めた戦後重大事件の裏側』菅沼光弘:2013年
『沈むな!浮上せよ! この底なしの闇の国NIPPONで覚悟を磨いて生きなさい!』池田整治、中丸薫

『この国を支配/管理する者たち 諜報から見た闇の権力』中丸薫、菅沼光弘(徳間書店、2006年)で中丸が薦めている動画を紹介する。かような国家に日本の安全保障を託している事実を考え直すべきだ。



テロリストは誰?ガイドブック

ハーモニクス出版
売り上げランキング: 235,673

この国を支配/管理する者たち―諜報から見た闇の権力
中丸 薫 菅沼 光弘
徳間書店
売り上げランキング: 602,048

2014-10-27

アルベルト・フジモリ、菅沼光弘、中丸薫


 1冊挫折、1冊読了。

日本はテロと戦えるか』アルベルト・フジモリ、菅沼光弘(扶桑社、2003年)/菅沼にいつものスピード感がない。相手が相手だけに仕方のない側面があるが。読む必要がないと判断。

 81冊目『この国を支配/管理する者たち 諜報から見た闇の権力』中丸薫、菅沼光弘(徳間書店、2006年)/「なぜ中丸と?」という思いを抱えながら開いた。中丸はスピリチュアル系トンデモ派とでもいうべき人物。明治天皇の孫を自称していることを初めて知った。しかしながら、この女性の人脈は決して侮ることができない。これほど多くの国家元首クラスと会談した人物を私は知らない。ロスチャイルドやロックフェラーとも電話一本で会うことができるというのだから凄い。金日成とも会う予定であったが実現直前に逝去。当時、北朝鮮国内にいた唯一の西側ジャーナリストとして彼女の発言は世界中に報じられた。実に不思議な存在である。菅沼が対談をしたのも何か理由があってのことだろう。中丸の部分は飛ばし読み。既に絶版となっているが菅沼の話を読むだけでも定価(1600円)に十分見合う内容だ。


2014-10-26

初めにビットありき/『宇宙をプログラムする宇宙 いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』セス・ロイド


『史上最大の発明アルゴリズム 現代社会を造りあげた根本原理』デイヴィッド・バーリンスキ

 ・初めにビットありき

『量子が変える情報の宇宙』ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー
『宇宙が始まる前には何があったのか?』ローレンス・クラウス
『宇宙を織りなすもの』ブライアン・グリーン

情報とアルゴリズム

「初めにビットありき」と私は話を切り出した。複雑系を研究するサンタフェ研究所が居(きょ)を構える17世紀建立(こんりゅう)の修道院の礼拝堂には、いつもと変わらぬ物理学者、生物学者、経済学者、数学者の集団と、それから数多くのノーベル賞受賞者に影響を与えた一人の人物がいた。私は、宇宙物理学と量子重力の大家であるジョン・アーチボルト・ホイーラーに、『Itはビットからなる』というタイトルで講演するよう求められ、それを引き受けたのだった。

【『宇宙をプログラムする宇宙 いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』セス・ロイド:水谷淳〈みずたに・じゅん〉訳(早川書房、2007年)以下同】

「初めにビットありき」! 痺(しび)れた。「言葉」でも「光」でもない。「情報」だ。『Itはビットからなる』というのは、もちろんジョン・ホイーラーが提唱した「It from bit」を受けたものだろう。

宇宙を決定しているのは人間だった!?― 猫でもわかる「ビットからイット」理論

 ジョン・ホイーラー(最近は「ウィーラー」という表記も多い)は類稀な言葉のセンスの持ち主でブラックホールの命名者でもある。

「事物、すなわち“It”は、情報、すなわち“ビット”から生まれます」と、私は、緊張した手でリンゴを投げあげながら続けた。「このリンゴは“It”の良い例です。リンゴは昔から情報と結びつけられてきました。まず何よりも、“禁断の一口が世界に死とすべての苦悩をもたらした”知の果実として、リンゴによって運ばれる情報には、良いものも悪いものもあります。時が下り、リンゴの落下する軌道からニュートンが万有引力の法則を明らかにし、リンゴの表面はアインシュタインの説く歪(ゆが)んだ時空の喩(たと)えにもなりました。もっと直接には、リンゴの種の中に閉じ込められた遺伝暗号が、将来育つリンゴの木の構造をプログラミングしています。そして最後に、リンゴには自由エネルギー、すなわち、われわれの体を機能させるうえで必要な、ビットに富む何キロカロリーものエネルギーが含まれているのです」

「事物、すなわち“It”は、情報、すなわち“ビット”から生まれます」――つまり情報理論とは仏教の唯識なのだ。唯識は認識機能に立脚するが、認識対象はすなわち情報である。世界の本質は認知世界であり、世界はこれ情報であり唯識である。目の前に世界が広がっているわけではなく、世界は感覚器官に収まる。

「このリンゴには、当然さまざまな【タイプの】情報が含まれています。いったいこのリンゴには、【どれだけの】情報が含まれているのでしょうか? 1個のリンゴの中には、【どれだけの】ビットが存在するのでしょうか?」私はリンゴをテーブルに置き、ボードの方を向いてちょっとした計算をした。「面白いことに、1個のリンゴに含まれるビットの数は、20世紀初頭、“ビット”という言葉が誕生する前からわかっていました。ちょっと考えただけだと、1個のリンゴには無限個のビットが含まれていると思えるかもしれませんが、そんなことはない。実は、リンゴとその原子の微視的状態を特定するのに必要なビットの数は、あらゆる物理系を支配する量子力学の法則によって、有限とされています。1個1個の原子は、その位置と速度という形でわずか数ビットを記録しているにすぎないし、一つ一つの原子核が持つ核スピンは、たった1ビットしか記録していません。結果として、このリンゴには、原子の数のわずか数倍、すなわち10億の10億倍の数百万倍個の0と1が含まれているだけなのです」

 残念なおしらせだ。無限の可能性は否定された。ビットは有限なのだ。ただし我々の日常感覚からすればやはり無限に近い。そもそも観測可能な宇宙に存在する原子の総数が10の80乗個と推定されている。因(ちな)みに宇宙全体にある星の数は地球上の砂の数を上回る(「砂(すな)の数と星の数」)。

 セス・ロイドは量子コンピュータの第一人者で、本書において宇宙そのものが巨大コンピュータであるという驚くべき仮説を示す。情報処理という観点に立つと「計算」というキーワードが重要になる。

松原久子、佐藤優、夏井睦


 2冊挫折、1冊読了。

炭水化物が人類を滅ぼす 糖質制限からみた生命の科学』夏井睦〈なつい・まこと〉(光文社新書、2013年)/前著『傷はぜったい消毒するな 生態系としての皮膚の科学』(光文社新書、2009年)が売れたことに気をよくしたのだろう。「はじめに」で中年オヤジでも簡単にスリムになることができる方法を紹介しよう、と断っておきながら、スリムな男性は自分一人でいいので同年代の男性には読んで欲しくないと綴っている。本人は炎上マーケティングのつもりであったのかもしれないが読者を小馬鹿にしすぎている。その驕りに付き合う必要も時間も私にはない。

宗教改革の物語  近代、民族、国家の起源』佐藤優〈さとう・まさる〉(角川書店、2014年)/気合いのこもった一冊である。今時珍しい重厚なハードカバーだ。「まえがき」では作家人生を決めた井上ひさしとの出会いを綴っている。ただし本文には食指が動かず。キリスト教系ではR・ブルトマンの『イエス』を超えるものでなければ読む気がしない。

 80冊目『驕れる白人と闘うための日本近代史』松原久子:田中敏〈たなか・さとし〉訳(文藝春秋、2005年/文春文庫、2008年)/松原は日本人であるが原著がドイツ語のため翻訳モノとなっている。大番狂わせだ。本書の登場によって安冨歩著『生きる技法』は2位に転落してしまった。もちろん私の興味が日本近代史に向かっていたことも大きく作用している。私は北海道で生まれ育った。で、北海道はたぶん日教組が強い。記憶にある限りでは君が代を歌ったことは一度しかない。それも中学の音楽の時間で習った時だ。天皇陛下も遠い存在であった。上京してから天皇陛下のカレンダーを飾っているお宅を見てびっくりした覚えがある。旗日に日の丸を掲げるような家もなかったように思う。私が天皇陛下を初めて意識したのは東日本大震災の時である。生まれて初めて心の底から「陛下!」と思った。菅沼光弘や中西輝政を読み、近代史に蒙(くら)い脳味噌に少し明かりが射した。そして本書によって日本人であることに誇りを抱いた。松原の日本礼賛には多少偏りがあるかもしれない。しかし彼女はドイツで文筆活動やテレビ出演を通して日本の歴史を正しく伝えるべく孤軍奮闘している(現在はアメリカ在住)。時にはドイツ市民から暴力を振るわれたこともあったという。その生きざまに心を打たれる。右も左も、エホバも創価学会も、老いも若きも、日本人と名乗るべき人は全員が読むべき一冊である。