2011-07-26

比較があるところには必ず恐怖がある/『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ


 生存のために情動が機能しているとすれば、それは恐怖や不安に基づいている。生き延びる確率を上げる具体的な行動は「逃げる」ことだ。

 グッピーを、コクチバスと出会わせたときの反応によって、すぐ隠れる個体を「臆病」、泳いで去る個体を「普通」、やってきた相手を見つめる個体を「大胆」と、三つのグループに分ける。それぞれのグループのグッピーたちをバスと一緒に水槽に入れて放置しておく。60時間ののち、「臆病」なグッピーたちの40パーセントと「普通」なグッピーたちの15パーセントは生存していたが、「大胆」なグッピーは1匹も残っていなかった。

【『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ:長谷川眞理子、長谷川寿一、青木千里訳(新曜社、2001年)】

 リスクが高い環境では勇気が裏目に出る。臆病な方が優位なのだ。

 グッピーですらタイプが分かれるわけだから、恐怖が本能に由来するのか学習で獲得されるのかは意見が真っ二つになっている。いずれにせよ、脳の深部(大脳辺縁系)に刻印されるのは間違いないだろう。

 ヘビを見た瞬間、我々の身体は凍りつく。そして全ての感覚の注意がヘビに向けられる。思考が入り込む余地はない。これは健全な恐怖といえよう。

 一方、コミュニティの政治化や高度情報化に伴って生まれる心理的な恐怖がある。クリシュナムルティが問題にしているのはこれだ。孤独は山林の静けさの中にあるのではない。むしろ都会の喧騒の中にある。

 比較をされる中に落伍の恐怖がある。所有をすることで失う恐怖が生じる。政治の舵取りを誤ると雇用や医療の不安が生まれる。本来であれば喜ぶべき出産においても、現代社会は何らかの不安がつきまとう。

 メディアとは他人の眼をカメラに据えたものだ。我々の振る舞いは周囲から「どう見られるか」に重きを置く。人格よりもどこに所属しているかで人を判断する。人間性よりも収入に注目する。

 ヒエラルキーの競争力学を支えているのも恐怖だ。親は我が子が学校からドロップアウトすることを極度に恐れる。一度押された烙印は消えないからだ。村のルールに従わない者は村八分にされるのが我が国の伝統である。

 では恐怖とはなんでしょう。恐怖をもたらす要因とはなんなのでしょう。やがて大河となるたくさんの細流や小川――恐怖をもたらす細流とは何か。そこには恐怖の凄まじい活力の源があるのです。
 恐怖のひとつの原因は比較でしょうか。つまり自分をだれかと比べるということですか。
 そのとおりです。ではあなたは、自分をだれとも比較しないで生きることはできるでしょうか。私の言っていることがおわかりですか。
 イデオロギーのうえでも、心理的にも、また肉体的にさえも、自分をだれかと比べるとき、そこには相手のようになろうとする懸命な努力があり、そしてそうはなれないかもしれないという恐怖があるのです。実現したいという願望があるのに、実現できないかもしれない。――比較があるところにはかならず恐怖があるのです。
 ではたずねます。人はなんらかの理想や価値観に近づこうとして、美醜、公正・不正などといった比較に囚われるわけですが、そうした比較をいっさいせずに生きていくことはできるでしょうか。現実には絶えることのない比較がつづいています。それで私たちはたずねているのです。比較が恐怖の原因なのか、と。
 明らかにそうなのです。そして比較があるところには決まって追随があり、模倣があります。ですから比較や追随や模倣が恐怖の有力な原因だといえるわけです。いったい人は心理的に、比較や模倣や追随などせずに生きることができるのでしょうか。
 もちろんできます。もしこれらが恐怖の有力な原因であるなら、そしてあなたが恐怖の終焉にとりくむなら、内的には比較はなくなります。何かになろうとしなくなるのです。比較とは、より良く、より高く、より高貴に思える何かになろうとすることにほかなりません。したがって比較とは、何かに「なろうとする」ことなのです。これは恐怖の要因のひとつでしょうか。ご自分で見いだしてください。

【『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ:有為エンジェル〈うい・えんじぇる〉訳(平河出版社、1997年)以下同】

「比較があるところにはかならず恐怖がある」という指摘が重い。何かになろうとすること自体が、自分を鋳型にはめ込む営みである。

理想を否定せよ/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一
努力と理想の否定/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ

 私たちはたいてい社会的地位を確保することで満足を得ようとしています。自分が無名の人間のままで終わることを恐れるからです。立派な地位にある人はきわめて丁重にあつかわれ、一方、地位をもたない人は粗末にあつかわれるように社会は作られています。それでだれもが、社会的地位や家庭内の地位を欲し、あるいは神の右手に座する地位を求めるわけです。でもこの地位は周囲によって認められるべきもの、そうでないと、それは決して地位とはいえないからです。私たちはいつも高いところに坐っていたい。内面では惨めさや苦悩が渦巻いているだけに、外では偉い人物として尊重されることがなんとも快いからです。このように、なんらかの形で傑出していると社会に認められようとして地位や威信や権力を渇望することは、言い換えれば他人を支配したいという願望にほかならず、この支配欲が攻撃性の一形態なのです。聖者はその気高さにふさわしい地位を求めますが、それはまるで鶏が農園で終始餌をつっつくのと同じくらい攻撃的だといえます。では何がこのような攻撃性を生みだすのか。それは恐怖心ではないでしょうか。
 恐怖は人生の最大の課題のひとつです。恐怖に捕らえられた心は混乱と葛藤に陥るために、暴力的になったり、歪められたり、攻撃的になったりするのです。そうした心には自身の思考形態から離れる勇気がありません。これが偽善を生みだす原因なのです。恐怖から解放されるまでは、たとえ最高峰に登り、あらゆる種類の神を考えだそうとも、私たちは無知の闇をさまようだけでしょう。
 たとえば私たちの受けている競争を土台とした教育、これもまた恐怖を引き起こします。堕落した愚かな社会の中ではだれもがみな、なんらかの恐怖にさいなまれながら日々を送っています。恐怖は、私たちの暮らしをねじ曲げ歪め退屈なものにしてしまう、恐るべき存在なのです。

 ひとかどの者に「なろう」とする努力、ここに恐怖の本質があったのだ。よく考えてみよう。成功した企業の周りには失敗した企業が存在する。マーケットシェアを奪い合っているのだから当然だ。資本主義経済における利益は、消費者が支払う対価以外にも損失が発生するということだ。獲得競争は奪い合いを意味する。

 国家は国民から奪い、企業は社員から奪い、学校は生徒から奪い、親は子から奪っている。金を、時間を、人生を。

 失敗してみたらどうですか。発見してみたらどうでしょう。ところが恐れている人はいつも「正しいことをしなくては。人から立派に見れらなくては。あいつは何者だとか、とるにたりないやつだなんて世間からばかにされてはならない」などと考えるのです。そういう人は実際、根底から怯えきっているのです。野心的な人間とは、ほんとうは怯えている人のことです。そして怯えるているものには、愛や思いやりもありません。それはまるでびくびくと家の中に閉じこもっているようなものです。

 我々は失敗を恐れる。だからこそ失敗することには意味があるのだろう。

 以前こう書いたことがある。「今直ぐにできる世の中を変える方法:1.新聞の購読をやめる、2.テレビを消す、3.預金を全額下ろす――これだけで革命に等しい状況に陥る」(2010-12-23)。

 この国に欠如しているのは流動性だ。

日本は流動性なきタコツボ社会/『生物と無生物のあいだ』福岡伸一

 そこで一つ妙案を思いついた。日本を一瞬で変えることが可能だ。それは「全国民が転職をすること」である。「この景気が悪い時にそんな与太話に耳を貸すものか」という声が聞こえてきそうだ。ごもっとも。しかし不況であるからこそ求人は買い手側(企業側)が強気になる。こうした構造をひっくり返すためには、労働者を大切にしない会社から去るのが手っ取り早い。利権にしがみつく連中もあっという間に一掃できるだろう。

 みんなで思い切って、1年働いて3ヶ月休むことにしようぜ(笑)。そうすれば政治情況だって劇的に変わるはずだ。

 安全への願望が我々を不自由にしている根本原因だ。大なり小なりリスクを引き受けた方が人生は面白い。自分に賭けろ。

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