2014-06-28

ロジクール コンフォートキーボード K290

ロジクール コンフォートキーボード K290

静音フルサイズキーボードで快適タイピング◆Windows 8のキーを備えたフルサイズキーボード個別のテンキーとWindows 8キーへ即座にアクセスでき、フルサイズのレイアウトが素早く正確な入力を実現します。◆パームレスト一体型パームレスト一体型で、タイピングによる手の疲労を軽減します。◆耐久性のあるスマートなデザインスマートなデザインと耐久性を両立し、最大1000万回のキーストロークにも耐えうるよう設計されています。 / ■ 仕様 ■対応OS:Windows 8 / 7接続I/F:USBキーレイアウト:108キー日本語レイアウトキー構造/デザイン:メンブレンキーピッチ:19mmキーストローク:2.65mm押下圧:60g角度調節機能:有ショートカットキー:検索、共有、デバイス、設定、アプリケーションの切り替え、前のトラック再生/一時停止、次のトラック、ミュート、音量ダウン、音量アップ、パソコンスリープモードサイズ:幅459×奥行182.6×高さ20.4mm重量:930gケーブル長:1700mm付属品:保証書、保証規定、取扱説明書メーカー保証:3年間

岩本沙弓、原島嵩、ブライアン・ジョセフソン、安保徹、他


 5冊挫折、3冊読了。

プリーモ・レーヴィへの旅』徐京植〈ソ・キョンシク〉(朝日新聞社、1999年)/前々から読みたかった一冊であっただけに期待外れ感が大きい。在日朝鮮人によるユダヤ人利用としか読めない。

検事失格』市川寛〈いちかわ・ひろし〉(毎日新聞社、2012年)/佐賀市農協事件で冤罪をつくりあげた検事が内情を暴露した本。良書だが弱い。

夢見られた近代』佐藤健志〈さとう・けんじ〉(NTT出版、2008年)/遂に佐藤の著作は一冊も読了できず。

ノーベル賞科学者ブライアン・ジョセフソンの科学は心霊現象をいかにとらえるか』ブライアン・ジョセフソン:茂木健一郎、竹内薫訳(徳間書店、1997年)/読めず。

免疫革命』安保徹〈あぼ・とおる〉(講談社インターナショナル、2003年/講談社+α文庫、2011年)/典型的なトンデモ本。相関関係を因果関係に摩り替えた代物。体験談に基づく手法が健康食品販売を思わせる。新潟大学医学部教授という肩書に驚かされる。

 37冊目『最後のバブルがやってくる それでも日本が生き残る理由 世界恐慌への序章』岩本沙弓〈いわもと・さゆみ〉(集英社、2012年)/36冊目と順番を間違えた。こちらを先に読了。岩本沙弓に外れなし。

 38冊目『経済は「お金の流れ」でよくわかる: 金融情報の正しい読み方』岩本沙弓〈いわもと・さゆみ〉(徳間ポケット、2013年)/アベノミクスの盲点は資源高という指摘が腑に落ちる。元為替ディーラーだけあって浮ついた理論に流されない足腰の強さが窺える。

 39冊目『誰も書かなかった池田大作・創価学会の真実』原島嵩〈はらしま・たかし〉(日新報道、2002年)/創価学会の元教学部長による告発手記。矢野絢也の著作と比べるとかなりレベルが落ちる。池田の女性問題にまつわる部分は印象に傾きすぎていて危うい。

先ず隗より始めよ/『楽毅』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『長城のかげ』宮城谷昌光

 ・マントラと漢字
 ・勝利を創造する
 ・気格
 ・第一巻のメモ
 ・将軍学
 ・王者とは弱者をいたわるもの
 ・外交とは戦いである
 ・第二巻のメモ
 ・先ず隗より始めよ
 ・大望をもつ者
 ・将は将を知る

『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

 即位した昭王が考えたことは、
 ――父と国の仇を討つ。
 ということであり、に勝つにはどうするか、ということであった。一貫して自分を援けてくれた郭隗(かくかい)にその問いをぶつけた。
「斉はわが国の乱れに乗じて襲ってきて、わが国を破った。わが国は小さく国力もとぼしい。斉に報復するには力不足であることを重々承知している。それでも真の賢士を得て、国事をともにし、先王の恥を雪(すす)ぐのが、わしの願いである。先生、それができる者をみつけてくれまいか。身をもってその者に仕えるであろう」
 それに対する郭隗の答えが、不朽の名言になった。

 王必ず士を致(いた)さんと欲せば、先(ま)ず隗(かい)より始めよ。

 王が賢士をどうしても招きたいと欲しておられるなら、この郭隗にまずお仕えなさい、といったのである。そういった郭隗自身、
「先従隗始」(せんしょうかいし)
 が、人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)し、東海中の島の民にも親しまれる語句になろうとはおもわなかったであろう。それはそれとして郭隗のことばにはつづきがある。
「そうすれば、隗より賢い者が、千里を通しとせずに燕(えん)にやってきましょう」
 ふしぎないいかたである。昭王は眉(まゆ)をひそめた。郭隗はたしかに賢者であるが、国政をあずけてもよいほどの大才ではない。他国にその賢名がきこえているとはおもわれない男である。その郭隗に仕えると、諸国より賢士がやってくるとは、どういうことであろう。
 それについて郭隗は懇々と述べた。(第二巻終了)

【『楽毅』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)以下同】

 対話の妙味が問答にあることと、答えには物語が不可欠であることを教える故事だ。歴史を学ぶ目的は温故知新にある。「子曰く、故(ふる)きを温(たず)ねて、新しきを知れば、以って師と為るべし」(『論語』)。物語は未来を志向する。占いがその典型だ(占いこそ物語の原型/『重耳』宮城谷昌光)。現状打開の智慧に物語の本質がある。郭隗の提言は「まず出来ることから始めよ」と受け止めることができよう。このエピソードは第三巻の冒頭で詳細が展開される。

 郭隗は昭王に問われて、つぎのように答えた。
「帝者は師とともに処(お)り、王者は友とともに処り、覇者は臣とともに処り、亡国の主は役(えき)とともに処ります」
 人君として至上の帝者には師があり、その下の王者には友があり、その下の覇者には臣があり、国を滅亡させる者には僕隷(ぼくれい)があるだけである。まずそういった郭隗は、つづいて、
「指を屈して師に仕え、北面して学を受ければ、自分より百倍も才能の豊かな者がやってきます。それより劣る礼ですが、敬意をあらわすために、その人のまえを趨(はし)り、その人よりおくれて息(いこ)い、はじめに問うてのちに黙ってその人の教えをきくようにすれば、自分より十倍もまさる人がやってきます。そうではなく、たがいに趨って礼をやりとりするのでは、自分にひとしい才徳の者しかきません。まして几(き)や杖(つえ)によりかかって、人を眄視指使(べんししし)するようであったら、不浄の者である厠役(しえき)の人しかこないでしょう。もっとも悪いのは、わがままに相手を睨(にら)み、打ちすえ、大声で叱(しか)ることで、それでくるのは奴隷ばかりでしょう」
 と、いい、人君を五種類にわけた。
 もっともすぐれた人君とは、自分が人君であることを忘れるほどの謙虚をしめす人である。これはまさに逆説といえる。王侯は自分の存在がその国でもっとも重く大きなものでなくてはならない。人は自分が存在していることをさまざまな手段をもちいて表現する。さらに、その表現の受け手である相手の反応をみて、異聞の存在を計算する。はやい話が、自分にたいして頭をさげる者が多ければ多いほど尊貴もますのである。だが郭隗の考えでは、自分の存在を無に近づける者のほうが偉いということになる。すなわち人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる。ことばをかえていえば、ひとりの師を得ることは百万の奴隷を得ることにまさる。いま全盛を誇っている斉に勝つほどの富国強兵をなしとげるためには、王としての誇りをなげすてて、賢人に指を屈し身を屈して教えを仰がねばならない。
「いま申し上げたことが、古来賢人を招致するやりかたです。王がほんとうに広く国中の賢人を求めて、その門をたずねたら、天下に評判が立ち、天下の賢人はかならず燕に馳(は)せてきましょう」
「なるほど。では、わしはいったいたれをたずねたらよいのか」
 この昭王の問いにたいして郭隗は逸話をもって答えた。
 こういう話である。
 むかし、ある君主が千金をだしてでも千里の馬を手にいれようとしていた。千里の馬とは、むろん、一日に千里(約400キロメートル)も走ることのできる馬をいう。
 が、3年たっても入手できなかった。宦官(かんがん)のなかでも宮中の掃除をおこなう者を涓人(けんじん)というが、その涓人が君主に、
「どうかその役目をわたしにお命じください。かならず千里の馬をさがしあててまいります」
 と、自信ありげにいった。
「かならずだぞ」
 念を押した君主は涓人に任務をさずけた。涓人は各地を歩き、3か月後に、ついに千里の馬をみつけた。が、不運なことに、その名馬は死んでいた。
「死んでいようが千里の馬は千里の馬だ。その首をわたしに売ってくれ」
 涓人はなんと五百金という大金をだして、馬の首を買いとると、帰国し、復命した。君主が激怒したことはいうまでもない。
「わしが欲しいのは生きている馬だ。どうして死んだ馬を大事にして五百金を捐(す)ててきたのか」
 そうなじられても涓人はいささかも萎縮(いしゅく)せず、
「君は千里の馬であれば死馬でさえ五百金でお買いになったわけです。生馬では、どうか、と世間でとりざたしている者たちは、君が馬の値うちのよくわかるかたであるとおもっておりましょう。まもなく千里の馬を売りにくる者があらわれるでしょう」
 と、いった。はたして1年もたたぬうちに、千里の馬が3頭もやってきたという。
 どこの国の逸話であるかはわからない。話のなかにあった千里の馬が、昭王の求める賢人にあたることはあきらかである。すなわち昭王が賢人を求めるために国中をさがしまわっても、おそらくむだであり、それより身近な者をつかって賢人をさがさせたほうがよいということであろう。郭隗は容(かたち)を端(ただ)して、
「いま王がほんとうに賢人を招きたいとおもっておられるなら、まず隗より始めるべきです。隗のような者でも王に仕えてもらえる。隗よりすぐれている者ならなおさらです。その者にとって千里の道など遠いことがありましょうか」
 と、強い語気でいった。
 遠くにいる賢人をさがすまえに、まぢかにいる賢人に師事しなさい。
 自薦である。
 が、これほどみごとな自薦はほかにない。
 昭王は器量の大きな人である。
 ――いままでの話は、自分を売りこむためのものであったのか。
 とは、おもわなかった。
 郭隗の説述に理を認めた。なるほどむかしから聖王や名君にはみな師がいた。湯王(とうおう)の師である伊尹(いいん)、武王(ぶおう)の師である太公望(たいこうぼう)は在野の賢人である。君主が君主として威張っていては、けっしてみつけることのできない大才である。そのひとりをみつけたことにより、天下がころがりこんできた。とkろが伊尹や太公望は民間人なので、諸侯のたれもがかれらを招く機会を平等にあたえられていたのである。歴史のおもしろさであり、恐ろしさでもある。
 ――頭をさげ、腰をかがめ、指を屈し、辞を低くする者が勝つのか。
 いや、勝利の条件とは、それだけではあるまい。大才をみつめるための姿勢、目の位置、志の高さが問題となろう。とにかく昭王にわかったことは、
 ――おのれを棄てなければ、人はみえぬ。
 ということである。
「郭隗先生」
 昭王は晴れやかな声を発し、郭隗にむかって拝手した。これから自分は郭隗を師と仰ぎ、北面して仕えるであろう、と昭王はいい、実際、郭隗のために黄金台という宮殿を建てた。燕人(えんひと)ばかりでなく、燕をおとずれた他国の者の目をおどろかすに充分な輝きをもった高■(木偏+射/こうしゃ)であり、そのまばゆい光が千里の馬を招きつづけているといえた。

 郭隗はすかさず根拠となる例を示した。これに対する昭王の振る舞いはまさしく「君子豹変」(『中国古典 リーダーの心得帖 名著から選んだ一〇〇の至言』守屋洋)に相応しいものだ。人を求める心の本気が窺える。

 国家や組織の行き詰まりはリーダーに起因する場合が多い。意のままになる者を好み、自分の物差しに合わない人を遠ざけるところから組織は澱(よど)み停滞を始める。巨大組織は腐敗することを避けられない。同族、閨閥(けいばつ)、学閥などが流動化を阻み、社会をタコツボ化する。

 企業が真剣に人材を求めているかどうかは面接態度を見ればわかる。求職者に対して値踏みするような視線を送る企業が大半だろう。圧迫面接というカルト的手法もあるようだが、かような企業が淘汰される運命にあることは間違いない。

 そもそもこの国のエリート選抜システムは受験制度においてペーパーテストを採用している時点で誤っている。教育は私塾レベルの単位で行い、もっと自由な競争をするべきだろう。広く門戸を開けば必ず人材は訪れる。

   


先づ隗より始めよ 十八史略 漢文 i think; therefore i am!
「牛首を懸けて馬肉を売る」(羊頭狗肉)の故事/『晏子』宮城谷昌光

2014-06-26

第二巻のメモ/『楽毅』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『長城のかげ』宮城谷昌光

 ・マントラと漢字
 ・勝利を創造する
 ・気格
 ・第一巻のメモ
 ・将軍学
 ・王者とは弱者をいたわるもの
 ・外交とは戦いである
 ・第二巻のメモ
 ・先ず隗より始めよ
 ・大望をもつ者
 ・将は将を知る

『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

 よく光る目が沈黙を重々しいものにした。黙ってすわっていることが、かえって相手を威圧するという人物をはじめてみたおもいの楽毅は、この人物のなかにあるのは年月の厚みばかりではなく、戦場の外にもある死地を果敢に乗り越えてきた自信であろうと観察した。

【『楽毅』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)以下同】



 薛公(せっこう)は人にけっして恐怖をあたえない。むしろ、この人には以前どこかで会ったのではないかという親しげなものやわらかさをただよわせている。天下の信望を集める人は、あのようでなくてはなるまい、と楽毅は痛感したことがある。その薛公にくらべると司馬熹(しばい)の人格には深みが不足している。



 若い武将は、ふつう策を好まず、勇猛さを誇ろうとするあまり、戦陣における変化を無視し、応変ということができない。



 主従そろって目が■(目+毛/くら)いなかで、ひとり明察の目を具(そな)えていることは、いかに危ういことか、趙与という男にはわかっている。
 ――ここは魯(にぶ)さをよそおうしかあるまい。



 武将というものは感情を殺すべきときに殺し、ふるまうべきときにふるまうことのできる者をいう。



 現代に酔っている人々は、古人の知恵をつい忘れがちになる。現代にあって古言や古事を学ぶことは、知識を豊かにする以上に、おのれのいたらなさを知ることになり、むしろ学問の神髄とはそこにあるといえる。
 楽毅は3年間の留学でおのれが見えるようになった。ということは、相手をも見えるようになったのである。



「人を相する者は、無私でなければならぬ。その無私に人の運命を映しだす。それゆえ、一瞬であろうと、相手と運命をともにする。相手が吉祥の持ち主であればよいが、凶妖(きょうよう)をもっている場合は、それに憑(つ)かれるの、祓(はら)わねばならぬ。要するに天与の幸を享(う)ける者は希(まれ)にしかおらず、その人に付(ふ)すことによって幸をわけてもらうというのが幸運とよばれているものである。いまかるがるしく天命というが、天命を知る者はかつて天子しかおらず、諸侯でさえ地神を祀(まつ)る者でしかなかった。それゆえ貴殿のような人臣は、天地の命をうかがい知ることはできず、すべては人により運命は左右されるとお考えになるがよかろう。幸運の人にお属(つ)きなされよ」(唐挙)



「国難は人の虚飾を剥(は)ぐ」(楽毅)



 それがわかる丹冬は、
「雲は龍に従い、風は虎に従う、といわれます。聖王が龍虎(りゅうこ)であれば、それにしたがう風雲のゆくすえはさだまりますが、龍虎のいない天地で、風はどう吹き、雲はどう流れるのでしょうか」
 と、きいた。むろん風雲とは楽毅のことである。



 楽毅の心はきれぎれの想念を明るくまとめあげ、ひとつの決断にもってゆくというはずみをうしなっている。



 郊昔(こうせき)の推量は衍(ゆた)かである。しかも妄誕(ぼうたん)へながれてゆかない。



「公子、勇気をもたれることです。勇気とは、人より半歩すすみでることです。人生でも戦場でも、その差が大きいのです」



 天下の才は、天下のために使うべきであり、それが天意というものであろう。ひとりの人物が天業のために不可欠であるのなら、かならずその人物に天啓というものがある。その天啓をさまたげようとする者は、天の怒りを買い、天譴(てんけん)をくだされる。



「なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。わしは聖人でも非凡人でもない。人並みの困難を選ぶだけだ」(楽毅)



 こころざしが高い者は、それだけ困難が多く苦悩が深い



「兵の形は水に象(かたど)る。兵に常勢(じょうせい)なく、水に常形(じょうけい)なし、という」(楽毅)



「私欲を捐(す)て、兵を愛し、天の声、地の声、人の声をきけば、おのずと道はさだまる」(楽毅)

   

2014-06-25

外交とは戦いである/『楽毅』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『長城のかげ』宮城谷昌光

 ・マントラと漢字
 ・勝利を創造する
 ・気格
 ・第一巻のメモ
 ・将軍学
 ・王者とは弱者をいたわるもの
 ・外交とは戦いである
 ・第二巻のメモ
 ・先ず隗より始めよ
 ・大望をもつ者
 ・将は将を知る

『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

 外交の才は、平和時に必要とされる場合が多いので、甘くぬるいものにおもわれがちであるが、戦時や軍事の才となんらかわりなく、大局をつかみ臨機応変でなければならない。外交の場裡(じょうり)も、戦争の場裡とかわらぬ生死のかかったきびしさにある。外交とは戦いであるという認識で、楽毅は趙王に謁見(えっけん)したのであるが、その戦いには勝てなかった。楽毅の才覚が趙王の暴言をうわまわれば、実際に戦争は熄(や)み、趙兵と中山兵とは殺しあわずにすむのである。両国にとってそれが最善であることは、いうをまたない。が、楽毅が趙王の陰點(いんかつ)さを斂(おさ)めさせることができず、それからのがれることに終始したことで、たれの目にもあきらかな戦いが再来する。

【『楽毅』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)】

 春秋戦国時代における中国の強味は亡命、すなわち人材の流動性を確保できたところにあった。

 翻って日本はどうか。野茂英雄〈のも・ひでお〉がアメリカ大リーグへ渡ったのは1995年のことだった。所属チームであった近鉄とマスコミは野茂を散々バッシングした。高輝度青色発光ダイオード(LED)を発明した中村修二に日亜化学工業が支払った報酬は2万円だった。中村は後に提訴し、東京地裁は発明の対価を約604億3000万円と算定した(東京高裁において8億4391万円で和解)。2000年、中村も渡米した。

 出る杭は打たれる。抜きん出た才能を疎(うと)ましく思い、横並びを奨励するのは、やはり日本人が村社会から脱却できていないためだろう。

 グローバリズムは人や資本の移動を容易なものに変えた。その意味では春秋戦国時代とよく似ている。

 弱い国は蹂躙(じゅうりん)され、強い国に飲み込まれる。激しい合従連衡の時代を生き抜くためには外交が死活問題であった。人材を確保する目的で行われた食客という風習が起こったのもこの頃である。

 外交では礼容と言葉、そして何よりも大義が問われる。些細な粗相や一言の失言で戦争になりかねない。ゆえに胆力と智謀なくして外交は務まらない。

 ヨーロッパが行った植民地主義に外交で対抗し得ることは不可能であった。圧倒的な物量差がヨーロッパをして傍若無人な振る舞いに駆り立てた。アフリカやアジアは今尚そのダメージを払拭できていない。

 楽毅の外交は見事なものであった。それでも戦争を回避するまでには至らなかった。若き猛将は恐れることなく起ち上がった。

   

2014-06-21

「JKお散歩」は人身売買=米国務省が年次報告書


【ワシントン時事】米国務省は20日、世界各国の人身売買の実態をまとめた年次報告書を公表した。日本については、女子高生とデートできるとうたった「JKお散歩」と呼ばれる接客サービスを新たな性目的の人身売買の例として示した上で、各国の取り組みを4段階に格付けした中の、上から2番目の評価に据え置いた。

 日本が2番目の評価にとどまったのは10年連続。報告書は「援助交際」も人身売買の例に挙げ、「日本に来る外国人の女性や子供の中には、到着後すぐに売春を強要される者もいる」と指摘。「日本人男性は、東南アジアやモンゴルでの児童買春ツアーの大きな需要源」とも記した。

 また、政府が運営する技能実習制度で来日した人も含め、外国人労働者が強制労働の被害者になりやすい実態があると説明。「日本政府は、人身売買撲滅のための最低基準を十分に満たしていない」と認定し、包括的な人身売買禁止法の制定などを改めて勧告している。

 4段階のうち最高評価だったのは米国、韓国など31カ国・地域。制裁対象となり得る最低評価はロシア、北朝鮮、イランなど23カ国だった。

時事ドットコム 2014-06-20

2014-06-20

世界銀行元上級顧問カレン・ヒュード「ドルは価値がない。クラッシュ目前」




世界銀行の副総裁を務めた日本人女性/『国をつくるという仕事』西水美恵子
経済侵略の尖兵/『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス
資本主義経済崩壊の警鐘/『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン

視力回復のトレーニング方法


 今日、免許証更新に行ってきたが、このトレーニングのおかげで眼鏡使用を免れた。



視力低下は「脳の疲れ」が原因だった!―アメリカ視力眼科界の最新成果 1日10分、パソコン・ゲーム時代の新・視力回復法 (SEISHUN SUPER BOOKS)あなたの視力は必ず回復する!―驚くべき新方式! (知的生きかた文庫)【中川式アイバランス・マスク(日本製)付き】 視力再生! アイマスクで目がよくなる! (TJMOOK)

中川和宏チャンネル

免許証更新時に注意すべきこと~交通安全協会に騙されるな







王者とは弱者をいたわるもの/『楽毅』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『長城のかげ』宮城谷昌光

 ・マントラと漢字
 ・勝利を創造する
 ・気格
 ・第一巻のメモ
 ・将軍学
 ・王者とは弱者をいたわるもの
 ・外交とは戦いである
 ・第二巻のメモ
 ・先ず隗より始めよ
 ・大望をもつ者
 ・将は将を知る

『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

 楽毅(がっき)の心底に憤然と沸いてくる感情がある。
 王者とは弱者をいたわるものである。が、趙王はどうか。弱者である中山を攻め、あざむき、嬲(なぶ)り物にしようとしている。死んでも屈すべき相手ではない。心のどこかで武霊王を賛美していた楽毅は、大いなる失望を怨怒(えんど)で染めた。
 ――趙王とは戦いつづけてみせる。
 この怨讎(えんしゅう)の気分はおそらく楚(そ)の平王に父と兄とを殺されて呉(ご)へ亡命した伍員(ごうん/子胥〈ししょ〉)のそれににているであろう。が、復讎は相手を滅ぼすと同時に自分をも滅ぼすという因果の力をもっている、ということを楽毅は知っている。武霊王を怨(うら)むのはよい。が、その怨みにこだわりつづけると、怨みそのものが魂を宿し、生き物となって、みさかいなく人を喰いはじめる。それをさけるためには、世の人の目に復讎とわからぬ復讎をとげなければならない。
「微なるかな微なるかな、無形に至る。神(しん)なるかな神なるかな、無声に至る。ゆえによく敵の司命(しめい)を為(な)す」
 そう心のなかでつぶやいた楽毅には、にわかに孫子の教義があきらかになった。戦いは戦場にあるばかりではなく、平凡にみえる人の一生も戦いの連続であろう。自分が勝って相手をゆるすということはあっても、自分が負けてゆるされるということはない。それが現実なのである。相手にさとられないように戦い、それでこそ、敵の運命を司(つかさど)ることができる。真に兵法を知るとは、そういうことなのである。

【『楽毅』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)】

「王者とは弱者をいたわるものである」――若い楽毅の思いには甘さが潜(ひそ)んでいる。中国はおろか日本の権力者にも「弱者をいたわる」という志操は見えない。だからこそ胸を打つのだろう。強い者が弱い者をいじめる社会であるがゆえに光芒を放つのだ。

「恨晴らし(ハンブリ)」
 という言葉が韓国語にはあるが、それだ。「恨(ハン)」を持った者には、「恨晴らし(ハンブリ)をするまで「恨(ハン)」が宿る。そして多くの場合、「恨」は内に沈殿してその者の生活すべてに負に作用する。「恨」を昇華させなければならない。

【『無境界の人』森巣博〈もりす・ひろし〉(小学館、1998年/集英社文庫、2002年)】

 怨みはフロイト心理学の「抑圧」と考えてよい。怨念のあまり死にきれない幽霊の存在はPTSD(心的外傷後ストレス障害)を示唆する。

 私は直接報復でも構わないと思う。例えば大阪産業大学付属高校同級生殺害事件のように。何もせずに泣き寝入りするのが一番ダメだ。世の中がよくならない根本的な原因もここにある。

 プーラン・デヴィは直接的な復讐を果たした後に政治家となることで昇華したケースであろう(『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ)。

 賢者は日常において危機的状況に想像を巡らせ、愚者は窮地に追い込まれて取り乱す。いざ、という時に速やかな行動を起こせるかどうかが生死を分ける。

 復讐が「相手を凌(しの)ぐ」ことを意味するならば、より大きな自分をつくり上げることが真の復讐となる。ただしそこに自分を偽る姿勢があれば怨みは昇華されることがない。

 いずれにせよ、「怒り」は必ず「殺」を志向する。中途半端な怒りはさっさと手放すことが正しい。

   

2014-06-19

将軍学/『楽毅』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『長城のかげ』宮城谷昌光

 ・マントラと漢字
 ・勝利を創造する
 ・気格
 ・第一巻のメモ
 ・将軍学
 ・王者とは弱者をいたわるもの
 ・外交とは戦いである
 ・第二巻のメモ
 ・先ず隗より始めよ
 ・大望をもつ者
 ・将は将を知る

『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

 これから出発する使者がぶじに往還すれば、(との)和平はいっそうたしかなものになるので、使者への期待は大きいのである。ところが、その使者である楽毅(がっき)が、
「この使いは失敗する」
 と、なんの逡巡(しゅんじゅん)もみせずにいったので、郊昔(こうせき)ははっとうろたえた。
 ――そういうことか。
 この男の頭脳の回転ははやい。漠然と感じていた不安が急に明確になった。国家の中枢(ちゅうすう)にいる者は、国民とおなじ感情に染まっていては、展望ということができないということをあらためてさとった。

【『楽毅』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)以下同】

 楽毅は中山(ちゅうざん)の使者として趙へ赴くこととなった。上手く運ばないことはわかっていた。それどころか自分が殺される可能性もあった。楽毅は祖国のために立ち上がった。

 これが将軍学というものであろう。馬鹿の一つ覚えで「国民」を語る昨今の政治家とは雲泥の差がある。私は民主制よりも貴族制を支持するものだが、より一層その思いを強くした。左翼が語る「市民」もまったく信用できない。民の苦しみを知ることと苦しみに同調することは別次元のことだ。民が欲するのは衣食住の安定であり、それ以上のものではない。結局自分さえよければいいのだ。

 ノブレス・オブリージュを欠いた政治家ばかりだ。官僚化した政治家しか見当たらない。天下国家が語られることもなく瑣末な議論に終始している。そして彼らが操る言葉はとっくに死んでしまった。政治は我欲のレベルにまで堕した。

 そのとき肥義(ひぎ)は武霊王(ぶれいおう)の苦悩を察し、
「疑事(ぎじ)は功なく、疑行(ぎこう)は名なし」
 と、決断を勧(すす)めた。疑いながら事をはじめれば成功せず、疑いながら事をおこなえば名誉を得られない。君主の迷いは臣下の迷いとなり、ひいては国民の迷いとなる。迷いのなかで法令がくだり、施行(せこう)されても、上から下まで成果も利益も得られない。責任の所在が明確でないものは、かならずそうなる。君主が世の非難を浴びる覚悟をすえていれば、かえって世の非難は顧慮する必要はない。そのことを肥疑は、
「大功を成(な)す者は、衆に謀(はか)らず」
 と、表現した。さらにかれは幽玄の理念をこう説いた。
「愚者は成事に闇(くら)く、智者は未形に■(者+見/み)る」
 愚かな者はすでに完成された事でも理解をおよぼすことができないのにくらべて、智のある者は、その事が形をもたないうちに洞察してしまう。胡服騎射(こふくきしゃ)に関していえば、まだその軍政が形となっていなくても、自分にはその成果をありありと■(者+見/み)ることができる、と肥疑は武霊王をはげましたのである。ちなみに■(者+見)には、自分の目でたしかに、という強い意志がふくまれているので、人から■(者+見/み)られる、というような使い方はけっしてされない字である。

 臣とはかくあるべし。君主を時に諌め、時に励ますのが臣の役目である。それにしても見事な言葉だ。脳内のシナプスがタテ一直線に並ぶほどの説得力がある。しかも君主の自覚や責任に強く訴えている。言葉が盤石の根拠となり得るのだ。

 武霊王は趙の君主である。案の定、楽毅は謀(はか)られたが智慧を巡らせて危地を脱する。本書の名場面のひとつである。

   

2014-06-17

第一巻のメモ/『楽毅』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『長城のかげ』宮城谷昌光

 ・マントラと漢字
 ・勝利を創造する
 ・気格
 ・第一巻のメモ
 ・将軍学
 ・王者とは弱者をいたわるもの
 ・外交とは戦いである
 ・第二巻のメモ
 ・先ず隗より始めよ
 ・大望をもつ者
 ・将は将を知る

『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

 英雄不在、というのが戦国の裏面である。

【『楽毅』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)以下同】



「商の湯王は伊尹(いいん)を、周の武王は太公望(たいこうぼう)をしたがえただけで、天下をとったのです。すなわち天下は、野(や)のどこかにころがっている、とおもわれます」



 龍元の目のかがやきもよい。
 志望が穢(けが)れていない目である。山も川も人も国も、そういう目でみなければ、真のかたちをとらえることはできぬ。



 目にみえぬ力に意味をみいだせない民族に文化はない。



 成功する者は、平穏なときに、危機を予想してそなえをはじめるものである。



 人のうえに立つ者がおのれに熱中すれば、したにいる者は冷(ひ)えるものなのである。



「驕る者は人が小さくみえるようになる」



 自分の近いところにおよぼす愛が仁であれば、遠いところにおよぼす愛が義である。



 軽蔑のなかには発見はない



 ――わしがこの者たちを護(まも)り、この者たちによってわしは衛(まも)られる。



「目くばりをするということは、実際にそこに目を■(とど)めなければならぬ。目には呪力(じゅりょく)がある。防禦(ぼうぎょ)の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている」



 ――君命に受けざるところあり。
 受けてはならない君命のあることを孫子の兵法はおしえている。とくに戦場における将は、たとえ王の命令でも、したがえないときがある。



 楽毅は儒教についてくわしくないが、教祖である孔子は、
 ――道おこなわれず。桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。
 と、いったそうである。国家に正しい道がないとき、流亡の旅もやむをえない。



 よくよく考えてみれば、この世で、自分が自分でわかっている人はほとんどおらず、自分がいったい何であるのか、わからせてくれる人にめぐりあい、その人とともに生きたいと希(ねが)っているのかもしれない。



 将の気が塞をささえているといっても過言ではない。将の表情に射したわずかな翳(かげ)でも、兵の戦意を殺(そ)ぐのである。



 戦場の露(つゆ)をおのれの涙にかえる王にこそ、人は喜んで命をささげるものである。



 かつて周(しゅう)の武王(ぶおう)が商(殷)王朝を倒したあと、難攻不落の険峻(けんしゅん)の地に首都をおこうとした。そのとき武王の弟の周公旦(しゅうこうたん)が諫止(かんし)した。
「このようなけわしいところに王都を定めれば、諸侯が入朝(にゅうちょう)するにも、諸方が入貢するにも、難儀をいたします。まして周王朝が悪政をおこなって万民を苦しめたとき、諸侯によって匡(ただ)されにくくなります」
 王朝が天下の民にとって元凶にかわったとき、滅亡しやすいところに王都を定めるべきである、と周公旦はいったらしい。
 ――周公旦とは、何という男か。
 と、楽毅は腹の底から感動したおぼえがある。また、周公旦の諫言を容(い)れて、あっさり山をおりた武王の寛容力の大きさにも驚嘆した。