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2020-01-14

「不惑」ではなく「不或」/『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登


『中国古典名言事典』諸橋轍次

 ・「不惑」ではなく「不或」

『日本人の身体』安田登
・『心の先史時代』スティーヴン・ミズン
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル
意識と肉体を切り離して考えることで、人と社会は進化する!?【川上量生×堀江貴文】

 孔子時代にはなかった漢字が含まれる『論語』文の代表例は「四十(しじゅう)にして惑わず」です。(中略)
 漢字のみで書けば「四十而不惑」。字数にして五文字。この五文字の中で孔子時代には存在していなかった文字があります。
「惑」です。
 五文字の中で最も重要な文字です。この重要な文字が孔子時代になかった。
 これは驚きです。なぜなら「惑」が本当は違う文字だったとなると、この文はまったく違った意味になる可能性だってあるからです。

【『身体感覚で『論語』】を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登〈やすだ・のぼる〉(春秋社、2009年/新潮文庫、2018年)】

 twitterのリンクで知った書籍。安田登は能楽師である。伝統的な身体操作は古(いにしえ)の人々と同じ脳の部位を刺激することだろう。温故知新(「子曰く、故〈ふる〉きを温〈たず〉ねて新しきを知る、以て師と為るべし」『論語』)の温故である。

『論語』の中で、孔子時代にはなかった漢字から当時の文字を想像するときには、さまざまな方法を使います。一番簡単なのは、部首を取ってみるという方法です。部首を取ってみて、しかも音(おん)に大きな変化がない場合、それでいけることが多い。
「惑」の漢字の部首、すなわち「心」を取ってみる。
「惑」から「心」を取ると「或」になります。古代の音韻がわかる辞書を引くと、古代音では「惑」と「或」は同音らしい。となると問題ありません。「或」ならば孔子の活躍する前の時代の西周(せいしゅう)期の青銅器の銘文にもありますから、孔子も使っていた可能性が高い。
 孔子は「或」のつもりで話していたのが、いつの間にか「惑」に変わっていったのだろう、と想像してみるのです。(中略)
「或」とはすなわち、境界によって、ある区間を区切ることを意味します。「或」は分けること、すなわち境界を引くこと、限定することです。藤堂明保(あきやす)氏は不惑の「惑」の漢字も、その原意は「心が狭いわくに囲まれること」であるといいます(『学研漢和大字典』学習研究社)。
 四十、五十くらいになると、どうも人は「自分はこんな人間だ」と限定しがちになる。『自分ができるのはこのくらいだ」とか「自分はこんな性格だから仕方ない」とか「自分の人生はこんなもんだ」とか、狭い枠で囲って限定しがちになります。
「不惑」が「不或」、つまり「区切らず」だとすると、これは「【そんな風に自分を限定しちゃあいけない。もっと自分の可能性を広げなきゃいけない】」という意味になります。そうなると「四十は惑わない年齢だ」というのは全然違う意味になるのです。

 整理すると孔子が生まれる500年前に「心」という文字はあったがまだまだ一般的ではなかった。そして『論語』が編まれたのは孔子没後500年後のことである。

」の訓読みにはないが、門構えを付けると「(くぎ)る」と読める。そうなると「不或」は「くぎらず」「かぎらず」と読んでよさそうだ(或 - ウィクショナリー日本語版)。

「心」の字が3000年前に生まれたとすれば、ジュリアン・ジェインズが主張する「意識の誕生」と同時期である。私の昂奮が一気に高まったところで、きちんと引用しているのはさすがである。安田登はここから「心」(しん)と「命」(めい)に切り込む。

 認知革命から意識の誕生まで数万年を要している。自由と権利の獲得を自我の証と考えれば、自我の誕生はデカルトの『方法序説』(1637年)からイギリス市民革命(清教徒革命名誉革命/17世紀)~フランス革命(18世紀)の国民国家誕生までが起源となろう。ゲーテ著『若きウェルテルの悩み』が刊行されたのもこの頃(1774年)で人類における恋愛革命と言ってよい。すなわち自我は政治と恋愛において尖鋭化したのである。

2019-09-20

つながる武術/『武学入門 武術は身体を脳化する』日野晃


『究極の身体(からだ)』高岡英夫
『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
『心をひらく体のレッスン フェルデンクライスの自己開発法』モーシェ・フェルデンクライス
『運動能力は筋肉ではなく骨が9割 THE内発動』川嶋佑
『ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』日野晃、押切伸一
『大野一雄 稽古の言葉』大野一雄著、大野一雄舞踏研究所編

 ・つながる武術

『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴
『気分爽快!身体革命 だれもが身体のプロフェッショナルになれる!』伊藤昇、飛龍会編
『月刊「秘伝」特別編集 天才・伊藤昇と伊藤式胴体トレーニング「胴体力」入門』月刊「秘伝」編集部編
・『火の呼吸!』小山一夫、安田拡了構成
・『新正体法入門 一瞬でゆがみが取れる矯正の方程式』佐々木繁光監修、橋本馨
・『仙骨姿勢講座 仙骨の“コツ”はすべてに通ず』吉田始史
『ストレス、パニックを消す! 最強の呼吸法システマ・ブリージング』北川貴英

身体革命

 それは自分自身という「身体」そのものが、外からの情報の受信装置であり、自己表現する発信装置そのものだからです。
 そういった「身体」に対して、情報としての刺激を与え、その刺激を知覚していくことが「身体能力の開発」であり、受信発信装置としての精度を高めることです。つまり、そういった情報器官としての「身体」ということを認識し開発していくことで、情報の収集量や発信量を増やし、質的にも高めていくことが出来るのです(「武」で言えば、「聽勁=人と触れ合うことで意識の変化を察知する」他)。
 それを【「身体を脳化する」】と呼んでいます。
 そして、「武」の戦いは一人で成立するものではありません。最低一人の相手が必ずいなければなりません。そこから言えば、【「人間関係」】を学ぶということです。
 そこには自分の自己主張としての意見と、それに対する受け取り側の意見が、攻防という形で明確にあります。
 その攻防という形式から、攻防の目に見えた形を憶えるのではありません。攻防を支える「自分の考え方」や「自分の感情の起伏」「自分が固執しているもの」といった、自分自身そのものを「身体運動」が浮き彫りにします。そこがポイントです。

【『武学入門 武術は身体を脳化する』日野晃(BABジャパン出版局、2000年/新装改訂版、2015年)】

 あの竹内敏晴が序文を寄せている。これだけで信頼に足るというものだ。ところがまだまだ甘かった。初見良昭〈はつみ・まさあき〉や伊藤昇にまで会わせてくれたのだ。人を知ることは人生の至福である。私にとっては運命の書となった。『ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』が「開かれた武術」で、本書は「つながる武術」と位置づけてよい。

 日野晃は独覚(どっかく/縁覚〈えんがく〉)の人である。スポーツと化した現在の空手や柔道に飽き足らず、古文書に直接当たり、試行錯誤を繰り返しながら日本武術を手繰り寄せた。その日野が「最強」と慕う人物が武神館宗家〈ぶじんかんそうけ〉・初見良昭である。

武神館宗家初見良昭師 - 日野武道研究所








 初見はどこにでもいそうなジイサンにしか見えない。全く武張ったところがなく、口調ものんびりと穏やかである。しかし逆にそこが恐ろしい。事が起こった時には平然と相手を殺せる人間なのだろう。必要とあらばどんなことでもやってのける落ち着きに満ちている。

 天才伊藤が「初見宗家の重心はどこにあるのでしょうね?」と訊ね、日野が「見えない」と答える(『天才・伊藤昇と伊藤式胴体トレーニング 「胴体力」入門』月刊『秘伝』編集部)。見る人が見ればそれほどの超人なのだ。

「武」の字義は「夫(そ)れ文に、止戈(しか)を武と為す」(『春秋左氏伝』)とある。長らく「戈(ほこ)を止める」と読まれてきたが、実は「止」の字は趾(あしあと)の形(第19回 人の形から生まれた文字〔4〕 体の部分~手と足(3) | 親子で学ぼう!漢字の成り立ち)で元々は「進む」という意味があった。「歩」の上半分も「止」である。

会意。戈と止とを組み合わせた形。止は趾(あしあと)の形で、甲骨文字の字形は之(ゆく)と同じで、行く、進むの意味がある。戈を持って進む形が武で、それは戈を執って戦うときの歩きかたであるから、“いさましい、たけし、つよい” の意味となる。また戈を持って進む“もののふ、武士”の意味に用いる。

【『常用字解』白川静(平凡社、2012年)】

 詳細については劉暢の論文『「武」の字形研究:武道・武術文化研究の基礎付け』(PDF)が詳しい。尚、検索して知ったのだがスガシカオの本名は「菅止戈男」で父親は「止める」の意味で名付けたようだ。

 元来の武とは進み取りゆく姿であったに違いない。それが江戸時代という太平の世になると武士道に変貌した。行為としての武を抑制し理念・理想に置き換えたのだ。ただし「死ぬこと」をテーマに据えた武士道(『葉隠』)が形而上に向かうことは決してなかった。

 日野の哲学でいえば「往(い)なす」場合は「止める」義になる。つまり平時には往(い)なし、戦時には攻めるのが武の本義であろう。

 尚、「脳化」との表現はあまり好ましくはない。「神経化」とすべきだろう。

2017-01-02

機械の字義/『青雲はるかに』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光

 ・友の情け
 ・機械の字義

『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

「ちかごろは田圃(でんぽ)にも機械とよばれるものがはいってきております。ひとつを押すとほかが動くというしかけでして……」
「機械か……。機はともかく、械は罪人をしばる桎梏(かせ)のことだ。人はおのれを助けるためにつくりだしたからくりによって、おのれをしばることになるということか。械とはよくつけた名だ。わしもその械にしばられるひとりか」
 范雎〈はんしょ〉は鼻で哂(わら)った。

【『青雲はるかに』(上下)宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(集英社、1997年/集英社文庫、2000年/新潮文庫、2007年)以下同】

 宮城谷作品を支えているのは白川漢字学である。支那古典というジャングルの中で宮城谷は迷う。自分の居場所もわからなくなった時、白川静の漢字学が進むべき方向を示してくれた。白川の著作を読むと「たったの一語、たったの一行で小説が1000枚書ける」と宮城谷は語る(『三国志読本』文藝春秋、2014年)。

 白川静が明らかにしたのは漢字の呪能(じゅのう)であった(『漢字 生い立ちとその背景』白川静)。神との交流から始まった漢字に込められた宗教的次元を解明したのだ。漢字が表すのは儀礼と祈りだ。

 機械は作業や労働を楽にする。人類の特徴の一つに「道具の使用」がある。厳密に言えばサルも道具を使うため、正確には「道具を加工し利用する」。道具・機械の歴史は小型の斧(おの)からスーパーコンピュータにまで至るわけだがこの間(かん)、人類が進化した形跡は見られない。械が「罪人をしばる桎梏(かせ)」であれば退化した可能性を考慮する必要があるだろう。

 計算機(電卓)やコンピュータは脳の働きを補完する。私は日に数十回はインターネットを検索しているが、脳の検索機能が低下しているように感じてならない。デジカメや録音機器なども記憶の低下を助長していることだろう。

 レイ・カーツワイルは2045年に人工知能がヒトを凌駕すると指摘している(『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル)。その時、械の意味は「コンピュータの進化を阻むヒト」に変わっているかもしれない。

青雲はるかに〈上〉 (新潮文庫)青雲はるかに 下巻三国志読本

2015-03-10

風は神の訪れ/『漢字 生い立ちとその背景』白川静


 ・言葉と神話
 ・神話には時間がなかった
 ・言霊の呪能
 ・風は神の訪れ

 ことばの終りの時代に、神話があった。そして神話は、古代の文字の形象のうちにも、そのおもかげをとどめた。そのころ、自然は神々のものであり、精霊のすみかであった。草木(くさき)すら言(こと)問うといわれるように、草木にそよぐ風さえも、神のおとずれであった。人々はその中にあって、神との交通を求め、自然との調和をねがった。そこでは、人々もまた自然の一部でなければならなかった。
 人々は風土のなかに生まれ、その風気を受け、風俗に従い、その中に生きた。それらはすべて、「与えられたるもの」であった。風気・風貌・風格のように、人格に関し、個人的と考えられるものさえ、みな風の字をそえてよばれるのは、風がそのすべてを規定すると考えられたからである。自然の生命力が、最も普遍的な形でその存在を人々に意識させるもの、それが風であった。人々は風を自然のいぶきであり、神のおとずれであると考えたのである。

【『漢字 生い立ちとその背景』白川静〈しらかわ・しずか〉(岩波新書、1970年)】

 風は変化を告げる。季節を巡る大きな風には春一番・青嵐(あおあらし)・台風・木枯らしなどがある。日本語には驚くほど豊かな風の名称がある(「風の名称辞典」を参照せよ)。その時々に神々を感じ、見出したのだろう。

「草木(くさき)すら言(こと)問う」というのは『日本書紀』に書かれているようだ。問うは「ものを尋ねる」というよりも「主張する」との意味であろう。古代人の不安が浮かび上がってくる。それゆえに「自然との調和をねがった」のだ。

 余談ではあるが「言(こと)問う」という耳慣れぬ言葉は東京墨田区の橋の名前(言問橋〈ことといばし〉)として辛うじて残る。「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」(在原業平)の歌に由来する。

 自然は音で溢(あふ)れている。芸能山城組を主宰する大橋力〈おおはし・つとむ〉は、都会よりも森の方が賑やかな音で溢れている事実を明らかにした(『音と文明 音の環境学ことはじめ』)。風も音も振動である。耳と皮膚を直接刺激する。風と音に包まれた世界は神を皮膚感覚で捉えた世界でもあった。

 中国では古くから「気」を重んじた(陰陽五行説、気功など)。気はエネルギーであり、伝わる性質を有する。「気」と「風」の共通点や違いも考察に値するテーマだ。

 明日で東日本大震災から4年が経つ。まだまだ心の傷や経済的な打撃から立ち直るのが困難な人も多いことだろう。我々は大自然の猛威の前に為す術(すべ)を持たない。もちろん天罰などというつもりはないが、祝福ではないこともまた確かだ。文明の進歩は自然に対する畏敬の念を薄れさせた。震災が伝えたのは、「海と大地を畏(おそ)れよ」「海と大地を敬え」とのメッセージではなかったか。政府にも東電にも責任はある。だが根本的には一人ひとりが自然と向き合う姿勢を変える必要があるように思えてならない。

漢字―生い立ちとその背景 (岩波新書)

2015-03-09

言霊の呪能/『漢字 生い立ちとその背景』白川静


 ・言葉と神話
 ・神話には時間がなかった
 ・言霊の呪能
 ・風は神の訪れ

 古代にあっては、ことばはことだまとして霊的な力をもつものであった。しかしことばは、そこにとどめることのできないものである。高められてきた王の神聖性を証示するためにも、ことだまの呪能をいっそう効果的なものとし、持続させるためにも、文字が必要であった。文字は、ことだまの呪能をそこに含め、持続させるものとして生まれた。

【『漢字 生い立ちとその背景』白川静〈しらかわ・しずか〉(岩波新書、1970年)】

「呪」には「のろう」と「いわう」の二義がある。「祝」の字が作られたのは後のこと。最古の漢字である甲骨文字は占いとその結果を記録している。つまり神意を占った王の正しさを残すものであった。王は神と交通する存在である。神(精霊)は自然を通して人間を寿(ことほ)ぎ(※いわい)、そしてある時は罰する(※のろう)。自然の変化は神々の意志を伝えるものであった。我々日本人には馴染みのある世界観である。ここが西洋とは決定的に異なるところだ。

 文字には力がある。文字は人を動かす。神札は力を失ったように見えるが、セコムやアルソックのステッカーは効果を発揮している。誰だって好きな相手からラブレターをもらえば有頂天になるし、「壱万円」と印刷された紙切れを万人が大切に扱う。自衛隊がイラクへ派遣された際、車両に「毘」の文字がマーキングされた。武神である毘沙門天から取ったものだ。時代は変わり様式は変わっても呪能は確かに息づいている。

 日蓮は絵像・木像を徹底的に斥(しりぞ)け、自ら文字によるマンダラを創作した。


 絵像・木像は偶像(アイドル)である。偶像はアイコンとして機能する。偶像は神仏を象徴するものであって神仏そのものではない。だが人々の感情が偶像を実体化へ導く。偶像崇拝とはフェティシズム(呪物崇拝)を意味する。つまり目的と手段の混同である。

 日蓮は鎌倉時代にあって最も多くの書簡を残したことでも知られる。彼は言葉の呪能を知悉(ちしつ)していたのだろう。そうであったとしてもマンダラがアイコンを超脱することにはならない。日蓮はわかりにくいマンダラを創作したがために、わかりやすい現世利益を説いた可能性もある。尚、日蓮のマンダラには梵字(サンスクリット文字)まで書かれている。

 甲骨文字は亀の甲や牛・鹿などの肩甲骨に書かれた。書かれたというよりは刻印されたとするべきだろう。そうした行為を促した力そのものが呪能とも考えられる。

漢字―生い立ちとその背景 (岩波新書)

機械の字義/『青雲はるかに』宮城谷昌光

神話には時間がなかった/『漢字 生い立ちとその背景』白川静


 ・言葉と神話
 ・神話には時間がなかった
 ・言霊の呪能
 ・風は神の訪れ

 神話は、このようにしてつねに現実と重なり合うがゆえに、そこには時間がなかった。語部(かたりべ)たちのもつ伝承は、過去を語ることを目的とするものではなく、いま、かくあることの根拠として、それを示すためのものであった。しかし古代王朝が成立して、王の権威が現実の秩序の根拠となり、王が現実の秩序者としての地位を占めるようになると、事情は異なってくる。王の権威は、もとより神の媒介者としてのそれであったとしても、権威を築きあげるには、その根拠となるべき事実の証明が必要であった。神意を、あるいは神意にもとづく王の行為を、ことばとしてただ伝承するのだけでなく、何らかの形で時間に定着し、また事物に定着して、事実化して示すことが要求された。それによって、王が現実の秩序者であることの根拠が、成就されるのである。

【『漢字 生い立ちとその背景』白川静〈しらかわ・しずか〉(岩波新書、1970年)】

 つまり民俗宗教から王朝型(≒都市型)宗教へと変遷する過程で「文字」が必要となったということなのだろう。すなわち「文字」とは歴史そのものである。権力の正当化を後世に示す目的で生まれたと理解することができる。

 それにしても神話には「時間がなかった」という指摘が鋭い。神話は現在進行形のメディアであった。そこに「再現可能な時間」を付与したのが文字なのだ。こうして神話は歴史となった。ヒトの脳は伝統に支配され、人類は歴史的存在と化したわけだ。

 ヒトの群れは文字によって巨大化した。文字の秘めた力が国家形成を目指すのは必然であった。インターネット空間も文字に覆(おお)われている。世界宗教も文字から生まれたと見てよい。

 文明を象(かたど)っているのも文字である。であれば英語化による文化的侵食を食い止める必要があろう。言葉の衰退が国家の衰亡につながる。英語教育よりも日本語教育に力を注ぐべきだ。

漢字―生い立ちとその背景 (岩波新書)

2015-03-08

言葉と神話/『漢字 生い立ちとその背景』白川静


 ・言葉と神話
 ・神話には時間がなかった
 ・言霊の呪能
 ・風は神の訪れ

「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあり、ことばは神であった」と、ヨハネ伝福音書にはしるされている。たしかに、はじめにことばがあり、ことばは神であった。しかしことばが神であったのは、人がことばによって神を発見し、神を作り出したからである。ことばが、その数十万年に及ぶ生活を通じて生み出した最も大きな遺産は、神話であった。神話の時代には、神話が現実の根拠であり、現実の秩序を支える原理であった。人々は、神話の中に語られている原理に従って生活した。そこでは、すべての重要ないとなみは、神話的な事実を儀礼としてくりかえし、それを再現するという、実修の形式をもって行なわれた。

【『漢字 生い立ちとその背景』白川静〈しらかわ・しずか〉(岩波新書、1970年)】

 碩学(せきがく)が60歳で著した第一作である。その独自性ゆえ学界の重鎮たちから非難の声が上がった。白川学は異端として扱われた。

 しかしたとえば立命館大学で中国学を研究されるS教授の研究室は、京都大学と紛争の期間をほぼ等しくする立命館大学の紛争の全期間中、全学封鎖の際も、研究室のある建物の一時的閉鎖の際も、それまでと全く同様、午後一時まで煌々と電気がついていて、地味な研究に励まれ続けていると聞く。
 団交ののちの疲れにも研究室にもどり、ある事件があってS教授が学生に鉄パイプで頭を殴られた翌日も、やはり研究室には夜おそくまで蛍光がともった。内ゲバの予想に、対立する学生たちが深夜の校庭に陣取るとき、学生たちにはそのたった一つの部屋の窓明かりが気になって仕方がない。
 その教授はもともと多弁の人ではなく、また学生達の諸党派のどれかに共感的な人でもない。しかし、その教授が団交の席に出席すれば、一瞬、雰囲気が変わるという。無言の、しかし確かに存在する学問の威厳を学生が感じてしまうからだ。たった一人の偉丈夫の存在が、その大学の、いや少なくともその学部の抗争の思想的次元を上におしあげるということもありうる。

【『わが解体』高橋和巳〈たかはし・かずみ〉(河出書房新社、1971年/河出文庫、1980年)】

 高橋和巳を立命館大学の講師として採用したのは白川であった。尚、白川本人は「殴られたのではない。殴られかけて逃げたというのが真相だ」と語っている。「象牙の塔」は悪い意味で用いられるが、一道に徹する姿勢が凄まじい。

 西洋キリスト教世界においては「言葉が全て」である。彼らは「言葉にならない世界」を断じて認めない。それゆえ言葉は形而上を目指して人間から遠ざかっていったのだ。フロイトが着目した深層心理が目新しいものとして脚光を浴びたのも、こうした背景があるためだ。あんなものは唯識の序の口のレベルである。

 書くことは、欠く、掻く、画く、描くに通じるかくこと。土地をかくことが「耕」。「晴耕雨読」は、耕すことが書くことを含意し、東アジア漢字(書)言語圏に格別の言葉である。

【『一日一書』石川九楊〈いしかわ・きゅうよう〉(二玄社、2002年)】

 尚、神話と意識のメカニズムについては、ジュリアン・ジェインズ著『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』が詳しい。

漢字―生い立ちとその背景 (岩波新書)一日一書

2013-09-23

ジュリアン・ジェインズ著『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』の手引き


『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン
『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫

 ・手引き
 ・唯識における意識
 ・認識と存在
 ・「我々は意識を持つ自動人形である」
 ・『イーリアス』に意識はなかった

『新版 分裂病と人類』中井久夫
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー

 やっと半分読み終えたところだ。568ページの大冊。いきなり取り掛かっても理解に苦しむことと思われるので、併読すべき関連書を示しておく。

■(サイ)の発見/『白川静の世界 漢字のものがたり』別冊太陽




ソマティック・マーカー仮説/『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』(『生存する脳 心と脳と身体の神秘』改題)アントニオ・R・ダマシオ





「意識の誘引」→「意識への誘因」に訂正



 まずは外堀から埋めてゆこう。

ネオ=ロゴスの妥当性について/『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫

 次に物語の意味を学ぶ。

物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一

 続いて歴史の本質を知る。

世界史は中国世界と地中海世界から誕生した/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘
読書の昂奮極まれり/『歴史とは何か』E・H・カー
歴史の本質と国民国家/『歴史とはなにか』岡田英弘
コロンブスによる「人間」の発見/『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世

 で、『ユーザーイリュージョン』へ進みたいところだが、基本的な科学知識がない場合は以下を読む。

太陽系の本当の大きさ/『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン

 そして意識を巡る探究においては本書と双璧を成す神本(かみぼん)。

エントロピーを解明したボルツマン/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 ここまで読めば多くの人々が「自分は天才になってしまった」と錯覚することができるだろう(笑)。だが本気で英知を磨きたいのであれば更に以下へと進む。

『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー:竹内薫訳(新潮社、2009年/新潮文庫、2012年)
『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド:依田卓巳〈よだ・たくみ〉訳(NTT出版、2011年)
『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー:鈴木光太郎、中村潔訳(NTT出版、2008年)
脳は神秘を好む/『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース
誤った信念は合理性の欠如から生まれる/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム:渡会圭子〈わたらい・けいこ〉訳(インターシフト、2011年)
宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン
指数関数的な加速度とシンギュラリティ(特異点)/『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル

 以上である。「ざまあみやがれ」というほど頭がよくなる。我ながら素晴らしいラインナップだ。「さすが本読み巧者」と褒めてくれ給え。



言語的な存在/『触発する言葉 言語・権力・行為体』ジュディス・バトラー
脳は宇宙であり、宇宙は脳である/『意識は傍観者である 脳の知られざる営み』デイヴィッド・イーグルマン
デカルト劇場と認知科学/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
高砂族にはフィクションという概念がなかった/『台湾高砂族の音楽』黒沢隆朝
信じることと騙されること/『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節
『カミの人類学 不思議の場所をめぐって』岩田慶治
『歴史的意識について』竹山道雄

2012-03-19

文字は絶対王朝から生まれる/『白川静の世界 漢字のものがたり』別冊太陽


 ・■(サイ)の発見
 ・文字は絶対王朝から生まれる

「あ!」と思った。

 日本に文字が出来なかったのは、絶対王朝が出来なかったからです。「神聖王」を核とする絶対王朝が出来なければ、文字は生まれて来ない。(白川静)

【『白川静の世界 漢字のものがたり』別冊太陽(平凡社、2001年)以下同】

 私は漢字のマンダラ性を見抜きながらも絶対性には思い至らなかった。しかもその理由が振るっている。

 神聖王朝というと、そういう異民族の支配をも含めて、絶対的な権威を持たなければならんから、自分が神でなければならない。神さまと交通出来る者でなければならない。神と交通する手段が文字であった訳です。
 これは統治のために使うというような実務的なものではない。(白川静)

 法の制定や布告のためかと思ったのだが完全に外れた。「呪」の義を想う。呪いと祝いは距離をはらみながらも同じ一点から生まれるのかもしれない。それは縦の直線なのだ。真上から見れば点と化すことだろう。

 権威とはそれ自体が「新しい世界」なのだ。人々が知り得ぬ世界観を提示することで権威は保たれる。私が「オーソリティ」(権威)と認めるのは、私の知り得ぬ世界を提示する人に限られる。すなわち「王」は「世界」であり、「世界」とは「王」が規定するのだろう。

 本書で一番面白かったのは岡野玲子(漫画家)との対談である。白川は「狂う」の語義について語る。

白川●「くるう」という言葉は、「くるくる回る」という場合の「くる」ね、あの「くるくる」と同じ語源で、獣が時に自分の尻尾を追い掛けるようにしてくるくる回ったりしますね、ああいう理解出来ん動作をする、それが「くるう」なんです。

 理解を超えたものが「新しい世界」を提示する。ああ、そうか。「世界」とは「理解」なのだ。自分のわかっている――あるいは「わかっている」と錯覚している――範疇(はんちゅう)こそが「世界」である。

白川●だから「狂」というのは本当に気が触れてしまったというのではなくて、一種の異常な力が自分の内にあると考えられる状態を、本当は「狂」という。本当に狂うてしまったのでは話にならんのでね。狂うたような意識の高揚された状態、それが「狂」なんです。平常的なものを全部否定する。平常的なものの中にある限りはね、ものは少しも改革されない。既成の枠の中にきちんと納まってしまっておって、これはもう力を失っていくだけであって、新たな力を発揮するということは出来ませんわね。そういう風な状態にある時に、「狂」という、新しい創造的な力というものがそれを打ち破る。

 つまり「狂」とは抑えきれないマグマなのだろう。最初の噴火があり、次々と大地が火を放つと、そこに「新しい山」ができる。これが「新しい世界」なのだ。人々が理解できるのはマグマが冷め、定まった形状になってからのことである。

 岡野の応答がまた凄い。

岡野玲子●それで、実際に笛をを吹いた時にどういう変化があるのかというのを知らなくてはと思って、神社にお参りして、自分で実際に笛を吹いてみる、歌を歌ってみる。そして歌う前と歌った後ではどう違うのかっていうのを自分で体験しました。
 実際に違うんです。笛を吹く前と吹いた後では、もう、その社から流れてくる力とか、その社に向かって見た時に、そこの社に見える色であるとかが、全部変わってくるんですね。

 あたかも、この世界を創造した神の発言のようだ。「息を吹き込むこと」で世界は作られるのだ。内部世界と外部世界をつなぐのは「呼吸」である。ヨガや瞑想で呼吸を重んじるのは当然だ。自律神経系で唯一コントロールできるのが「呼吸」なのだ。

 呼吸は有作(うさ)と無作(むさ)との間を行き来する。そして呼気と吸気の間に「死」が存在する。呼吸はそれ自体が生死(しょうじ)を表している。

 白川が自分の仕事を振り返る。

白川●いや自分でもね、ほんとうに僕が書いたのかなあって思う時がある。瞬(またた)く間にやったからな。『字統』は一年で書いてしまったでしょ。『字訓』も一年で書いてしまった。『字通』はね、用例などを吟味しておったから、それで手間がかかった。

 これが「狂う」ということなのだ。何かに取り憑(つ)かれ、何かに動かされ、気がつくと何かが出来上がっている。真の力とは自力と他力との融合である。内なる「狂」が外なる「秩序」と化す。ここに芸術が立ち現れる。

 白川は「ものが見えるということはね、一つの霊的な世界だから」と語り、「3200年昔。僕が見ておるのはな。3200年昔の世界なんや」と心情を吐露する。彼は漢字を通して3200年前の「人間」を見つめていたのだろう。空間ではなく時間を見つめる眼差しに畏怖の念を覚える。

白川静の世界―漢字のものがたり (別冊太陽)新訂 字統新訂 字訓字通

2012-03-13

■(サイ)の発見/『白川静の世界 漢字のものがたり』別冊太陽


 ・■(サイ)の発見
 ・文字は絶対王朝から生まれる

 そろそろ白川静〈しらかわ・しずか〉に手をつけねば、と本書を選んだ。

 この手の雑誌もどきの本はおしなべてレイアウトがよくない。ヴィジュアル中心のため文字の読みやすさが置き去りにされている。特に私が憎悪の対象としているのは『別冊ニュートン』だ。

 はっきり言えば総花的で散慢な印象を受けた。白川静という人間に迫っていない。企画が一つの焦点に向かっておらず、杜撰(ずさん)なパッチワークとなっている。だが、それでも写真を見るだけの価値がある。

 1970年、そのことは、広く世間に知られることとなった。
■(サイ)〕の発見である。
 岩波新書としてその年、出版された『漢字』という一冊の本は衝撃的な■(サイ)のデビューとなる。
 ■(サイ)は、1970年を遥かに遡る時代に発見されている。
 発見者はもちろん「白川静」。

【『白川静の世界 漢字のものがたり』別冊太陽(平凡社、2001年)以下同】

sai
(甲骨文におけるサイ)

「白川静」と言えば、〔■(サイ)〕の発見である。現在の漢字の「口」は、口耳の「口」のみの意であるが、古代中国においては、「口」には二つの意があり、口耳の“口”に対して、もう一つ神への申し文(もうしぶみ/人が神に願事〈ねぎごと〉をするために書かれた手紙)を入れる“器”という意味があった。
 それが白川静、曰(い)うところの〔■(サイ)〕である。
 この〔■(サイ)〕の発見は、従来の漢字の意味を解く法を完全にひっくり返した。
 そればかりではない。その〔■(サイ)〕という“器”を通すと、漢字の背後のものがたり、民俗が象(かたち)として見えてくる。

「祝詞(のりと)を収める箱の形」と口部を読むことで漢字の統一的解釈が可能になる――と白川は独創した。古代中国は宗教社会の面持ちで新たな姿を現した。

 ■(サイ)――この象(かたち)を何と呼ぶか、何と読むか。
 その名付け親も白川静である。

 何が凄いかって、数千年間にわたって誰も読むことができなかった文字を、白川ただ一人が「読んだ」のである。これはもう「悟り」としか言いようがない。

 甲骨文は最古の漢字で(いん/紀元前17世紀頃-紀元前1046年)の時代に使われた。次に登場するのが金文である。これらの文字から白川は「■(サイ)」を導き出した。

 白川によって現代人と古代中国人のコミュニケーションが可能となったのだ。私はその偉業に「縁起的世界」を感じてならない。彼が開いた扉は新しい漢字世界に通じていた。

縁起に関する私論/『仏教とはなにか その思想を検証する』大正大学仏教学科編

zomon

 神々は、花に坐す。木に坐す。風に坐す。山に坐す。川に坐す。海に坐す。
 食事の器にも時々降って宿っています。あなたの掌の中にもいます。
 古代人は、神々をそう捉えてきた。神はスピリット、精霊、総ての“もの”に宿っている、と。
 だから病も神。
 白川静曰(いわ)く、
「風邪も、“ふうじゃ”という神さんです」

 日本に根づいているアニミズムの源流が窺える。仏教が漢字で翻訳された時点でアニミズムの影響は避けられなかったことだろう。そして白川は漢字の本質をこう言い切る。

 白川静の或る言葉とは――
【「呪的儀礼(じゅてきぎれい)を文字として形象化(けいしょうか)したものが漢字である」】

 これ、マンダラである。もともと「呪」と「祝」は同じ意味であった。また「呪(まじな)い」とも読む。「呪」の起源が定かではないが、人々の強い情念、願い、希望などが混じり合った意味を感じる。

白川●本来は「道」そのものが、そのような呪術的対象であった訳。自己の支配の圏外に出る時には、「そこには異族神がおる、我々の祀る霊と違う霊がおる」と考えた、だから祓いながら進まなければならん訳です。

梅原猛●実際に生首を持って歩いた。生々しいなあ。

 これは「道」のツクリが文字通り生首を示すという話。物語とは「その時代の合理性」であることを見失ってはなるまい。古代の人々を支配していた恐怖感が伝わってくる。未知とは恐怖の異名なのだ。文明や科学の発達が恐怖を解消する役目を担ってきた。

 ■(サイ)に祝詞(のりと)を入れた形が「曰」となる。「曰(いわ)く」。言葉には神への誓いが込められていた。「呪」(じゅ)なる世界を失うことで、我々の言葉は木の葉のように軽くなってしまった。そんな気がしてならない。

教育の機能 1/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ

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占いは未来への展望/『香乱記』宮城谷昌光
人種差別というバイアス/『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム

2011-06-09

教育の機能 1/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 白川静によれば「教」の字は、左上が建物の千木(ちぎ)を象(かたど)り、その下に子、右側は鞭を振り上げる教師を表すとのこと。


週刊鉄学「絵で読む漢字のなりたち」

 当時の鞭にどのような意味があったのか私は知らない。文字から浮かび上がってくる印象は「叩き込む」ことであり、武道のような趣があったのかもしれぬ。

 知っている者が知らない者に何かをマスターさせるという意味では現在の教育も変わらない。児童らは「無知なる者」として扱われ、社会の規格にあった人間として成型される。教育とは国家の定めた鋳型(いがた)に精神をはめ込む作業である。

 本書の大部分はクリシュナムルティ・スクールに通う生徒への講話と質疑応答である。当時はインド、イギリス、アメリカの3ヶ国にあったと記憶している。細かいことはわからぬが、全寮制で小学校高学年から高校生までの生徒を擁する学校だ。

 本書は「教育の機能」と題する講話から始まる。

 君たちは教育とは何だろう、と自分自身に問うたことがあるのでしょうか。私たちはなぜ学校に行き、なぜさまざまな教科を学び、なぜ試験に受かり、より良い成績のために互いに競争し合うのでしょう。このいわゆる教育とはどういうことで、どのようなものであるのでしょう。これは生徒だけではなく、親や教師やこの地球を愛するすべての人にとって、本当にとても重要な問題です。なぜ苦労して教育を受けるのでしょう。それはただ試験に受かり、仕事を得るためなのでしょうか。それとも若いうちに、生の過程全体を理解できるように準備することが教育の機能でしょうか。仕事を持ち、生計を立てることは必要ですが、それですべてでしょうか。それだけのために教育を受けているのでしょうか。確かに生とは単なる仕事や職業だけではありません。生はとてつもなく広くて深いものなのです。それは大いなる神秘、広大な王国であり、私たちはその中で人間として機能します。もし単に生計を立てる準備をするだけなら、生の意味はすべて逃してしまうでしょう。それで、生を理解することは、単に試験に備えて、数学や物理や何であろうと大いに上達することよりもはるかに重要です。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 私は雷に打たれたような衝撃を覚えた。英知の光を放つ言葉から慈愛が滴(したた)り落ちてくる。胸の奥深くで低く脈打っていた人間の鼓動を高鳴らせる響きがある。

 政治の支配下に置かれた学校は社会人養成所にすぎない。社会のルールを叩き込む以上、学校は社会の縮図と化す。ヒエラルキーと役割分担、協同と自治を旨(むね)とする。

 クリシュナムルティはこれを完膚なきまでに否定し破壊することで自由へといざなう。「君たちよ、断じて奴隷であってはならない!」との烈々たる雄叫(おたけ)びが行間からほとばしる。

 現代の教育現場には様々な形をした鞭が振るわれる。なぜなら集団におけるルールとは罰則規定を意味するからだ。昔と比べると体罰は影をひそめたが、目に見えない柔らかなファシズムが横行している。線から少しでも足をはみ出せば直ちにホイッスルが吹かれ、冷たい視線にさらされる。

 クリシュナムルティは晩年に至るまで子供たちとの対話を続けた。形だけの演説ではない。本当に平等な立場で自由に何でも話し合ったのだ。その慈愛に私はただ圧倒される。そして、もう一歩人間を信頼していこうという気持ちが湧き上がってくる。(続く)



■(サイ)の発見/『白川静の世界 漢字のものがたり』別冊太陽
血で綴られた一書/『生きる技法』安冨歩