2011-05-21

統合失調症への思想的アプローチ/『異常の構造』木村敏


 統合失調症を思想面から捉え、システムとして読み解こうとしている。文学的情緒からアプローチした渡辺哲夫と正反対といっていいだろう。

狂気を情緒で読み解く試み/『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫

 実は読み始めて直ぐ挫折しそうになった。文章が才走り、ツルツルしすぎているためだ。簡単に言えることを、わざわざ小難しくしているような印象を受けた。1973年から版を重ねてきた理由を知りたくて何とか読み通した。

 木村は精神分析の世界に道元や西田哲学を持ち込んだことで名を知られているようだが、あまりよくわからなかった。そもそもユング唯識(ゆいしき)は親和性が高いし、仏を医師に譬(たと)える経文も多いのだから、さほど驚くことでもあるまい。

 心理学は学問の世界で長きにわたって低い位置にあった。現在でも低いかもしれない。まず、この分野が果たして学問たり得るのか? という根本的な問題がある。フロイトを占い師みたいに扱う人も多い。因果関係の特定が困難なこともさることながら、心理療法として考えると「治ればオッケー」みたいなところもある。

 精神疾患のことを昔は精神病と言った。精神異常とも気違いとも言っていた。日本の人権感覚は現在の中国と遜色がなかったと考えてよかろう。たかだか30年ほど前の話だ。

 本書のタイトルは精神異常と、異質なものを排除する社会構造とを掛けたものだ。

 異常とは「常と異なる」ことだ。異常気象など。ところがこの「常」が普段や普通を意味すると、「あいつは普通じゃない。異常だ」となる。つまり、皆と同じではないこと=異常という図式である。昔はまだ「はみ出し者」がドラマの主人公たり得た。ところが社会が高度に情報化されると、極端にドロップアウトを忌避するムードが蔓延した。学校におけるいじめとの関連性もあるかもしれない。

 木村は「合理性」について疑義を示す。

 現代の科学信仰をささえている「自然の合法則性」がこのような虚構にすぎないとしたら、そのうえに基礎をおくいっさいの合理性はみごとな砂上の楼閣だということになってしまう。そのような合理的世界観は、それがいかに自らの堅固さを盲信しようとも、意識の底においてはつねに、みずからの圧殺した自然本来の非合理性の痛恨の声を聞いているに違いない。それだからこそこの合理的世界観は、いっそう必死になって自らの正当性を主張するのである。それはあたかも、主権の簒奪者(さんだつしゃ)が自己の系譜を贋造して神聖化し、その地位を反対にしようとする努力にも似ている。その裏で、彼はつねにみずからの抹殺した先の主権者の亡霊につきまとわれ、報復を恐れてその一族を草の根をわけても根絶しにしようとするだろう。これは、現代の合理主義者会がいっさいの非合理を許そうとしない警戒心と、あまりにも酷似してはいないだろうか。異常と非合理に対して現代社会の示すかくも大きな関心と不安とは、どうやら合理性が自己の犯罪を隠し、自己の支配権の虚構性を糊塗しようとする努力の反面をなしているように思われるのである。
 さまざまな異常の中でも、現代の社会がことに大きな関心と不安を向けているのは「精神の異常」に対してである。「精神の異常」は、けっしてある個人ひとりの中での、その人ひとりにとっての異常としては出現しない。それはつねに、その人とほかの人びととの間の【関係の異常】として、つまり社会的対人関係の異常として現れてくる。

【『異常の構造』木村敏〈きむら・びん〉(講談社現代新書、1973年)以下同】

 権力者が交代すればルールも変わる。なぜなら権力とは「俺がルールだ」という仕組みであるからだ。猿山のボスと内閣の首相は一緒だ。社会的な意味合いとしては何も変わらない。服を着ているかいないかという程度の違いだ。

 木村は持って回った書き方をしているが、要は権力交代時における暴力性を新勢力がどう正当化するかということだろう。あまり無理無体なことをしてしまうと寝首を掻(か)かれる恐れがある。暴力は数の論理だ。基本的には人数に左右される。

 ここから振り下ろされた刀は更に「常識」へと向かう。

 さてこれが、アリストテレスのいう「共通感覚」すなわちコイネー・アイステーシスのおおよその意味である。さきに述べたように、このコイネー・アイステーシスがラテン語に訳されてセンスス・コムーニスとなり、それがやがて「常識」の意味に用いられるようになって、現代のコモン・センスという言葉になった。元来は一個人内部の感覚としてとらえられていた「共通感覚」が、いつどのような経路をへて世間的な「常識」の意味に転じてきたのかについては、ここでは詮索しない(カントの『判断力批判』においては、すでにセンスス・コムーニスの語が常識に近い意味で用いられている)。だがこのようにして意味の転化は生じたにせよ、私たちの用いている「常識」の概念とアリストテレスの「共通感覚」の概念との間には、どこかに隠された深いつながりが残っているはずである。

 孔子は「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」(『論語』)と教えた。これが常識というものだ。だが、「して欲しくないこと」は人によって異なる。善意が仇をなすこともある。結局、常識は概念なのだ。それゆえ常識に囚われた人ほど異常を恐れる。「非常識よね」を連発する。

 私たちはめいめい、自分自身の世界を持っている。私と誰か別の人物とが同じ一つの部屋の中にいる場合にも、私にとってのこの部屋とその人にとってのこの部屋とは、かならずしも同じ部屋ではない。教師と生徒にとって、教室という世界はけっして同一の世界ではないし、侵略者と被侵略者にとって、戦争という世界はまったく違った世界であるはずである。しかし、このように各人がそれぞれ別の世界を有しているというのは、私たちがこの世界に対して単に【認識的】な関係のみをもつ場合にだけいえることである。私たちが【認識的】な態度をやめて【実践的】な態度で世界とのかかわりをもつようになるとき、私たちはそれぞれの自己自身の世界から共通の世界へと歩みよることになる。

 世界は人の数だけ相対化されるのだ、という私の持論と同じことが書かれている。なぜなら、世界を構築ならしめているのは私の五感であって、知覚されたものが世界であるからだ。もう一歩踏み込むと「知覚された情報空間」が世界の正体だ。だから当たり前の話であるが、あなたと私の世界は違う。それどころか昨日の私と今日の私とでも異なる場合があり得るのだ。

 コミュニティは利益を共有する集団であるゆえ、常識やルールで折り合いをつける必要がある。これを我々は「普通」と称している。

 木村のいう「実践的」とは「主体的なコミュニケーション」と言い換えてよい。ところが我が国には「出る杭は打たれる」という精神風土がある。出るのも引っ込むのも異常ってわけだ。1億人で行うムカデ競争。

 私たちの当面の課題は、常識からの逸脱、常識の欠落としての精神異常の意味を問うことにあるけれども、これは決して常識の側から異常を眺めてこれを排斥するという方向性をもったものであってはならない。私たちはむしろ、現代社会において大々的におこなわれているそのような排除や差別の根源を問う作業の一環として、常識の立場からひとまず自由になり、常識の側からではなく、むしろ「異常」そのもの側に立ってその構造を明らかにするという作業を遂行しなくてはならない。そしてこのことは、ただ、私たちが日常的に自明のこととみなしている常識に対してあらためて批判の眼を向けることによってのみ可能となるのである。

 この言葉からは力が感じられない。熱意も伝わってこない。論にとどまっていて、言葉をこねくり回しているだけだ。例えば先日起こった癲癇(てんかん)が原因とされている交通事故、古くは日航機逆噴射事故(1982年)、あるいは浅草レッサーパンダ事件(2001年)などの痛ましい事故や事件が実際に起こっている。

『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫

 他人に危害を及ぼさないのであればいくら論じてもらっても構わないが、殺傷事件となれば話は別である。

 精神といったところで脳の機能である。精神疾患が直ちに犯罪の構成要因になるとは思わない。逆説的になるが犯罪という異常行為にブレーキが利かないのは脳に問題があるからだと私は考える。

 これは一筋縄ではいかない問題だ。教育が「常識」を押しつけ、鋳型にはめ込んで整形することによって、異形の人間をつくっている可能性もあるからだ。価値観が多様化してくると、社会そのものからストレスを感じる人も増えてゆく。

 昨今増えている自閉傾向が見られる軽度発達障害LDADHDアスペルガー症候群など)も遺伝要因なのか環境要因なのかすら明らかにはなっていない。などと、書いている自分を疑う必要だってあるのだ(笑)。

 最終的には暴力と抑圧に行き着くテーマである。そして病人とどう付き合うかは、自分が病気とどう向き合うかと同じ問題である。

異常の構造 (講談社現代新書 331)

欲望と破壊の衝動/『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ

パスカルの賭け


 amazonレビュー、恐るべし。

パスカルの賭け:Wikipedia

 第10章のパスカルの賭けに、非常に有名な批判が載っていないので書いておく。
「神が存在しても、信じていた神とは違う神(例えば、キリストの神を信じていたら、いたのはイスラムの神だった)、がいた場合、無限の幸福は得られず、おそらく無限の苦しみにあう」。

 なお、パスカルの賭けは、「無限の幸福は無限の価値がある」ということを前提にしているが、将来のことについてはその時間的遠さに基づいて幸福を割り引く(双曲割引など)という考えを導入することで、無限の幸福の価値が現時点では有限になり、この問題は解消される。

神の存在証明、または非存在証明 2007-11-26 By θ

 せっかくなんで、チャールズ・サイフェのテキストも紹介しておこう。

 パスカルの賭けは、このゲームと似ている。ただし、使われる封筒の取り合わせは異なる。キリスト教徒と無神論者だ(実際には、キリスト教徒の場合しか分析していないが、無神論者の場合は論理的な延長にすぎない)。議論の便宜上、差し当たって、神が存在する見込みは五分五分だと想像しよう(神が存在するとしたら、それはキリスト教の神だとパスカルが考えたのは言うまでもない)。ここでキリスト教徒の封筒を選ぶのは、信心深いキリスト教徒であることに相当する。この道を選んだ場合、可能性は二つある。信心深いキリスト教徒なら、神がいない場合、死んだら無のなかへと消え去るだけだ。だが、神がいる場合は、天国にいき、永遠に幸せに生きる。無限大である。したがって、キリスト教徒であることで得るものの期待値は、

 無のなかへ消え去る見込みが1/2……1/2×0=0
 天国に行く見込みが1/2×∞=∞
 期待値=∞

 何しろ、無限大の半分はやはり無限大だ。したがって、キリスト教徒であることの価値は無限大である。では、無神論者だったらどうなるだろう。その考えが正しければ――神などいないのなら――正しいことによって得るものは何もない。何しろ、神などいないのなら、天国もない。一方、その考えが間違っていて、神がいる場合は、地獄にいき永遠にそこで過ごすことになる。マイナス無限大だ。したがって、無神論者であることで得るものの期待値は、

 無のなかへ消え去る見込みが1/2……1/2×0=0
 地獄にいく見込みが1/2×-∞=-∞
 期待値=-∞

 マイナス無限大である。これ以上小さい価値はない。賢明な人なら無神論ではなくキリスト教を選ぶのは明らかだ。
 しかし、私たちはここである仮定をおいている。それは、神が存在する見込みは五分五分だというものだ。もし1/1000の見込みしかなかったら、どうなるだろう。キリスト教徒であることの価値は、

 無のなかへ消え去る見込みが999/1000……999/1000×0=0
 天国にいく見込みが1/1000×∞=∞
 期待値=∞

 やはり同じ、無限大だ。そして、無神論者であることの価値はやはりマイナス無限大である。やはりキリスト教であるほうがずっといい。確率が1/1000でも1/10000でも、結果は同じだ。例外はゼロである。
 パスカルの賭けと呼ばれるようになったこの賭けは、神が存在する見込みがないのなら無意味だ。その場合、キリスト教徒であることで得るものの期待値は0×∞だが、これはばかばかしい。誰も、神が存在する見込みはゼロだとは言わない。どんな見方をするにせよ、ゼロと無限の魔法のおかげで神を信じるほうが常にいい。賭けに勝つために数学を捨てても、どちらに賭けるべきかをパスカルが知っていたのは間違いない。

【『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ:林大〈はやし・まさる〉訳(早川書房、2003年/ハヤカワ文庫、2009年)】

異端の数ゼロ――数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

数の概念/『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ

2011-05-20

神智学協会というコネクター/『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール


 ・神智学協会というコネクター

『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ:今枝由郎訳

 驚愕の一書である。西洋に与えた仏教の影響、仏教をニヒリズムと断じたショーペンハウアーの過ち、クリシュナムルティを生んだ神智学協会の文明史的意味、西洋からニューエイジ・ムーブメントが台頭した背景などに興味がある人は必読。学術書でありながら驚くほど読みやすい。ただし誤謬もいくつか散見され、出版社宛てにその旨メールを送ったところ直ちに返信があった。

 本書において西洋と仏教が主役を務めているわけだが、見方を変えると神智学協会を取り巻く物語としても読める。

 ロプサン・ランパ(※偽書『第三の眼』の著者)は強力な触媒であるが、この転送をさらに遡ってみるのは、興味深いことと思われた。この歴史的探究で、私は、西洋における秘教主義の系譜をたどってゆくと、オルコット大佐(※ヘンリー・スティール・オルコット)とヘレナ・ブラヴァツキーによって1875年に創設された神智学(しんちがく)協会へと行き着いた。神智学者たちは彼らの教義を正当化するために、謎めいた「チベット人の師」から授けられた秘密の教えをよりどころにすることで、なみはずれた秘密の能力を具え、人類の根源的な叡智を託されたラマと、魔術のチベットという近代の神話を作り上げた。この神話は、20世紀を通じて、大衆的、秘教的フィクション文学の源となった。

【『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール:今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉、富樫櫻子〈とがし・ようこ〉訳(トランスビュー、2010年)以下同】

 神智学協会は無節操な多神教で、いいとこ採りのつまみ食い教団だ。教義の幕の内弁当。ま、スケールのでかい幸福の科学と考えてよろしい。典型的な秘教主義であるわけだが、このエソテリシズム(秘教主義)ってのも実は奥が深い。西洋だとグノーシス主義(1世紀)からマニ教に至る系譜があり、魔術、占星術、錬金術を網羅している。

西洋オカルトの源流はカバラとグノーシス思想にある

 話を戻そう。思想が広まるためには人や物の交流が不可欠である。東洋と西洋はどのように出会ったのだろうか。

 まず最初に、ペルシャ帝国、ついでアレクサンドロス大王の帝国、そしてローマ帝国による政治的統一は、東洋と西洋、より厳密にはインドとギリシャのあいだの交流を数世紀にわたって促進した。紀元前546年、未来のブッダが10歳くらいの頃、ペルシャのキュロス大王は、小アジアのギリシャ都市と、インダス河のインド領域を征服し、エジプトからインドにまでまたがる大帝国を打ち立てた。ペルシア人が作った素晴らしい道路と中継地のおかげで、ブッダは3週間の騎馬の旅で、ギリシャの同時代人ピュタゴラスを訪ねていくことも可能であった(現在では、ギリシャとインドのあいだに位置する緩衝国の大半が、不安定で政治的に閉ざされているので、こんな旅行はほぼ不可能である!)。ヘーゲルは、いみじくも、この新しい政治的統一のおかげで、「ペルシャ人が、東洋と西洋とのつなぎ目となった」と述べている。

 ここで目から鱗(うろこ)が一枚落ちる。思想はそれ自体がもつ力で広まるわけではない。政治・経済の恩恵に浴する形で伝わってゆくのだ。ヨーロッパの連中は長い間、アフリカやアジアには化け物が棲んでいると考えていた(化物世界誌)。

コロンブスによる「人間」の発見/『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世

 ギリシャがインドを征服したわけだが、東洋と西洋が本格的に交流したのはモンゴル帝国が拡大した13世紀のことである。

 仏教は西洋に多大な影響を与えたのは確かだが、それは思想的というよりは政治的なものだった。

 フランス大革命の理想に熱狂し、反教会に徹した19世紀フランス知識人のもっとも典型的な例であったミシュレは、インド、ことに仏教の発展を喜んだ。彼は、この発展のおかげで、ヨーロッパの文化的地平線は、ユダヤ・キリスト教的ヒューマニズムに比べてもっと普遍的なヒューマニズムへと拡大すると考えた。

 ここから本書の主役はショーペンハウアーにバトンタッチする。

 ニーチェ、フロイト、キルケゴール、ベルクソン、ヴィトゲンシュタイン、モーパッサン、トルストイ、カフカ、マン、プルースト、カミュ、セリーヌ、ボルヘス、ヴァーグナー、マーラー、シェーンベルク、アインシュタイン、チャプリンといった多彩な人たちの間に、どんな共通点があるのだろう。それは全員が、人により浅深の差はあるが、今日ではほとんど完全に忘れ去られたドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアー(1788-1860)の思想に、影響を受けたことである。

 で、この小悪魔みたいな風体(ふうてい)のオッサンが仏教をニヒリズムとペシミズムに貶(おとし)めたのだ。

 重要なことは、19世紀後半の教養あるヨーロッパ人の大半、そしてフロイト、マルクス、ニーチェの同時代人に、仏教は、このドイツの哲学者の思想と混同されたということである。この現象は、ヨーロッパで仏教がまだよく知られておらず、この混同が根拠のないものであることが、少数の特別な専門家だけにしかわからなかった時代に起こったがゆえに、いっそう決定的であった。正しい見識がなかったたえに、仏教思想はその後数十年の間、根本的厭世主義の烙印を押された、ショーペンハウアーの哲学と同一視されることになった。

 フレデリック・ルノワールは、苦を相対化したブッダと絶対化したショーペンハウアーの根本的な違いを示し、誤謬がもつ毒性に警鐘を鳴らしている。

 ショーペンハウアーは今日、一般大衆にはあまり知られていないが、彼の根本的に悲観主義的な思想と仏教とを同一視することは、哲学の素養はかなりあるものの自分で仏教を深く勉強する必要を感じない知識人の間では、今(ママ)だに根強く生き残っている。

 著者はここからオカルティズムとスピリチュアリズムに切り込む。

 19世紀最後の30年間に、交霊術はヨーロッパの芸術家、知識人たちのあいだに怒濤のように広まり、ヴィクトル・ユゴーをはじめ数え切れないほどの著名人が、半信半疑ながらも熱狂的に、死者との対話に没頭した。
 交霊術に続いて、ひとつの新たな流れが、この秘教的な成分のただなかに出現した。オカルティズムある。この言葉を創始したのは、『偉大な秘儀の鍵』なる書を1861年に出版したアルフォンス=ルイ・コンスタン、またの名を祭司エリファ=レヴィというフランス人である。オカルティズムは、占星術、タロット、カバラ、魔術、錬金術などといった数々の「伝統的科学」に支えられた探究と実践の、ひとつの総体として出現したのである。
 入れ替わり立ち替わり現れるこの二大潮流、つまり交霊術とオカルティズムは、19世紀最後の30余年間、大いに流行し、その地下組織やクラブは数千を数え、隠れた信奉者は数百万人に上った。

 同時代のトーマス・エジソンがあの世に通じる電話を作ろうとしていたことを考えると、さほどおかしなことではない。

かつて無線は死者との通信にも使えると信じられていた/『黒体と量子猫』ジェニファー・ウーレット

 化学(Chemistry)だって錬金術(Alchemy)が産み落としたものだ。

 人間には元々不思議なことを好む性質がある。世界は驚きに満ちていた方がよい。抜きん出た技をもつ人は、どの世界でも重用される。スピリチュアリズムを嫌悪する私ですら、イチローを「フェンス際の魔術師」と呼ぶことに異論はない。

 1961年、インド哲学と、こうした新傾向の心理学に関する研究センターが、カリフォルニアのエサレンに設立された(※エサレン研究所)。これが、のちに「ニュー・エイジ」と呼ばれることになるものの第一の礎石となった。

 これを侮ってはいけない。彼らのヒューマン・ポテンシャル・ムーブメント(人間性回復運動)がマズロー心理学の自己実現理論を布教したのだ。そして、この系譜の末席に自己実現セミナーやワークショップが居座る。

 20世紀に最も影響を与えた心理療法家と称されるカール・ロジャーズもスピリチュアリズムに接近している。

 もう少しアメリカの歴史を辿れば、『若草物語』で知られるルイーザ・メイ・オルコットの父親(※エイモス・ブロンソン・オルコット/オルコット大佐とは別人)に注目する必要がある。このオヤジがエマソンやソローに超越主義を吹き込んだのだ。

ニューエイジで読み解く宗教社会学/『現代社会とスピリチュアリティ 現代人の宗教意識の社会学的探究』伊藤雅之

 それにしても神智学協会がこれほど有名な団体だとは知らなかった。しかも神智学協会は西洋と仏教をつなぐコネクターであったというのだから驚かされる。結果的に「世界における比叡山」のような機能を果たしたわけだ。

 西洋の政治状況とスピリチュアリズム志向の隙間に神智学協会という楔(くさび)が打ち込まれた。そして神智学といういかがわしい沼からクリシュナムルティという花が咲くのだ。なんという不思議であろうか。しかも、あろうことかそのクリシュナムルティがニューエイジの教祖みたいに祭り上げられているのだ。神智学教会は世界の矛盾を体現しているのかもしれない。

 ところが次に見るように、仏教は、人間性の変革を図るにあたって、世界や社会に働きかけることより、自我に働きかけることを優先するという点で、西洋とは正反対の立場をとっている。仏教が推薦する革命とは、まず第一に、そしてなによりも、個人の意識革命なのである。

 本書の後半部分は上座部仏教(いわゆる小乗仏教という名称は大乗仏教が使った蔑称)に傾いている。それでもこの部分は首肯できる。古来、世俗を捨てて仏道に入ることを出世間(しゅっせけん)といった。社会とは複合的な集団であり、ヒエラルキー形成に本質がある。ヒエラルキーは差別であり暴力でもある。社会で生きてゆけば必ず何らかの残酷さと向き合うこととなる。人と人とが行き交う以上、欲望がぶつかり合うのを避けて通ることはできない。

 フレデリック・ルノワールのメッセージに対して、アジアから応答する学者が待たれる。尚、クリシュナムルティに関する記述は少ないことを付言しておく。

仏教と西洋の出会い

星の教団と鈴木大拙
キリスト教の「愛(アガペー)」と仏教の「空(くう)」/『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
感覚は「苦」/『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ

世界史の教科書


     ・キリスト教を知るための書籍
     ・宗教とは何か?
     ・ブッダの教えを学ぶ
     ・悟りとは
     ・物語の本質
     ・権威を知るための書籍
     ・情報とアルゴリズム
     ・悟りの深層
     ・世界史の教科書
     ・日本の近代史を学ぶ
     ・虐待と精神障害&発達障害に関する書籍
     ・時間論
     ・必読書リスト

・『ニューステージ世界史詳覧』浜島書店
『歴史とは何か』E・H・カー
『歴史とはなにか』岡田英弘
『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘
『科学と宗教との闘争』ホワイト
『思想の自由の歴史』J・B・ビュァリ
『魔女狩り』森島恒雄
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス
『アメリカ・インディアン悲史』藤永茂
『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要
『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世
『奴隷とは』ジュリアス・レスター
『砂糖の世界史』川北稔
『そうだったのか! 現代史』池上彰
『そうだったのか! 現代史 パート2』池上彰
・『歴史の見方がわかる世界史入門』福村国春
・『お金の流れでわかる世界の歴史 富、経済、権力……はこう「動いた」』大村大次郎
『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男
『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲
『歴史を精神分析する』(『官僚病の起源』改題)岸田秀
『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』野家啓一
『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン
『一九八四年』ジョージ・オーウェル
サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

2011-05-19

ウィリアム・スタイロン


 1冊読了。

 33冊目『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン:大橋吉之輔〈おおはし・きちのすけ〉訳(河出書房新社、1970年)/重量級の傑作だ。上下2段で370ページ、活字は8ポイントか。読み終えるのに2週間ほど要した。1968年のピュリッツァー賞を受賞している。ナット・ターナーは1831年に武装蜂起した奴隷である。この事件で55人の白人が惨殺された。序文によれば史実に基づいて構成した小説であるとのこと。とにかく文章が素晴らしい。詩的な修飾が次々と現れ、文章が香気を放っている。そこに技巧のあざとさがない。21世紀となった今読むと、「テロの情理」が見えてくる。宗教という縦糸に、暴力と性の横糸が編み込まれる。こうだ、と決めつけることのできない幅のある物語だ。心の反響が余韻を残すのだが、決して心地いい音色ではない。

ドラえもん冷戦構造論


 もう一つ思いついた。

・のび太――日本
・ドラえもん――アメリカ
・ジャイアン――ソ連
・スネ夫――中国

 ウーン、やっぱり斎藤美奈子の「ウルトラマン=在日米軍」説には勝てないな。

ハサミの値札の法則~報道機関は自分が当事者になった事件の報道はしない/『たまには、時事ネタ』斎藤美奈子

宗教OS論の覚え書き


 私はパソコンに詳しいわけではないので、明らかな見当違いがあればご指摘願いたい。単なる思いつきだ。

・CPU――才能
・メモリ――感受性
・ハードディスク――自我
・マザーボード――家庭環境、地域性
・ディスプレイ――社会的身分
・Windows――キリスト教
・Mac OS X――イスラム教
・PC-UNIX――無神論およびスピリチュアリズム
・Microsoft Office――資本主義および民主主義
・インターネット――世界または宇宙

 ・コピーに関する覚え書き
 ・新興宗教Google教

宗教とは
情報理論の父クロード・シャノン/『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック

名誉の殺人


 名誉の殺人――殺されるのは女性に限られる。

Wikipedia

防犯カメラという名称


 監視カメラって、いつの間にか「防犯カメラ」という名称になっていたのね。サラ金が消費者金融になったのと同じ変化。言葉のオブラートで包んで、意味の書き換えを行う政治手法だ。

2011-05-17

遠くにある死


 東日本大震災直後から考え続けてきたことがある。まずはこの映像をご覧いただきたい。


 仙台市名取川河口付近に押し寄せた津波だ。ヘリコプターのカメラは明らかに配慮しており、逃げ惑う車をアップで撮ることはなかった。

 どうして誰も泣かないのだろう? なぜ誰も悲鳴を上げないのだろう? カメラマンもアナウンサーも私も。さっきまで走っていた車の中には人がいる。彼、あるいは彼女が目の前で死につつあるにもかかわらず、「まったく凄いもんだな」と津波を眺めているのだ。

 被災者が撮影した動画も同様だ。被害の惨状に悲鳴を上げることはあっても、流されている人や車を見て泣いた人はいなかった。

東日本大震災まとめ30本

 それどころか逃げ遅れた人々を見て「馬鹿だな」と言う声も聞かれた。

 不思議なもので閉ざされた空間には安心感を与える何かがある。車や家の中にいると何となく大丈夫なような気がする。たぶん母親の胎内にいた頃の記憶が喚起されるためなのだろう。パソコンやヘッドホンにも同じ効果があると思う。

 津波に流されたからといって死んだかどうかはわからない――心のどこかでそんなふうに誤魔化している自分がいる。そもそも「流された」という事実に対して想像力が及ばない。

 苦悶の表情、断末魔の叫び声、途絶える息……そうした情報からしか我々は死を感じ取れないのだろうか。

 もう一つ。我々は自分との距離に応じて悲哀の度合いが変わる。道端に見知らぬ人の遺体があっても、我々が泣くことはない。つまり、身内や友人など自我の延長線上にある人間関係の中で我々は悲しむのだ。

 私も実際に経験しているが、多くの死に接すると心のどこかが擦り切れてくる。そして涙が涸れ果てる頃には胸の奥で噴き上げたマグマが岩のように変質して何も感じなくなってしまうのだ。私の心は悲しむ機能を失った。

 例えば目の前で妻が死んだとしよう。それでも私は傍観者以外の立場をとることができない。なぜなら経験したことのない死を想像することは不可能だからだ。

 死は遠くにある。私の死も。

 永遠に続く物語。そんなものは誰も読まないことだろう。朝が夜となるように、そして夜が朝となるように物語には区切りがある。

 終わりはいつくるのだろう? 「今が終わりである」というのがブッダの教えである。止観(しかん)とは時間の連続性を断つ行為である。明日はない。あるのは今この瞬間だけだ。生は現在の中にしか存在しない。

 終わった生と流れる生とがある。そうであるならば、終わった死と流れる死もあることだろう。見える世界と見えない世界がある。実はまばたきするたびに新しい世界が立ち上がっているかもしれないのだ。

 死という現実と生という現実がある。豊かな生があるのだから、豊かな死だってあるはずだ。生の光で死者を照らすしか道はない。だから、苦しくとも生の焔(ほのお)を絶やしてはならない。亡くなった人々と共に生きてゆこう。

2011-05-16

憎悪/『蝿の苦しみ 断想』エリアス・カネッティ


 憎悪には独特の心拍数がある。

【『蝿の苦しみ 断想』エリアス・カネッティ:青木隆嘉〈あおき・たかよし〉訳(法政大学出版局、1993年)】

 これを「不正脈」と名づけよう。鼓動はマイナスからカウントされ、ゼロで悪事に至るのだ。

蝿の苦しみ 断想

ローラン・トポール「知性は才能の白い杖である」/『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル


 知性は才能の白い杖である。知性がなければ才能は転んでしまう。
(ローラン・トポール/ポーランド出身のフランスの作家・画家。ブラックユーモアで知られる〈原文表記はロラン・トポール〉)

【『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル/吉田城〈よしだ・じょう〉訳(大修館書店、1988年)】

 一寸先は闇だ。予測はできても見ることはかなわない。だから「白い杖」となる。知性がなければ、手探りで匍匐(ほふく)前進する羽目となる。才に任せて走ってしまえば石につまずいてしまうことだろう。

 アントニオ・R・ダマシオによれば存在の背景にあるのは感情である。だが知性や理性がなければ「話し合う」ことが成り立たなくなる。感情は条件反射的であるが、知性は調和を目指す。

 学ばずしてせっかくの才能を腐らせている人の何と多いことか。子供たちは、学校教育というベルトコンベアーの上で才能を殺され、記憶競争によって知性すら抑圧されている。(参照:ケン・ロビンソン「学校教育は創造性を殺してしまっている」

毒舌というスパイス/『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル
民主主義の正体/『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル

世界毒舌大辞典