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2022-01-25

アイコンとは/『コンピュータ妄語録』小田嶋隆


『我が心はICにあらず』小田嶋隆
『安全太郎の夜』小田嶋隆
『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
『山手線膝栗毛』小田嶋隆
『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆

 ・アナログの意味
 ・アイコンとは

『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆
『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆
『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆
『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆
『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆
『テレビ標本箱』小田嶋隆
『テレビ救急箱』小田嶋隆

【アイコン】Icon

(中略)このIconなる英語は、実は、「イコン」すなわち、ギリシア正教でいうところの「聖母像や殉教者の肖像画」と語源を同じくしている。
 つまり、キリスト教圏に住む英語国民にとって「アイコン」は、相当に宗教味を帯びた言葉なのである。
 であるからして、漢字および仏教文化圏に住む者の一人として、私は、思い切って「アイコン」を「曼陀羅」と訳してみたい衝動に駆られるのであるが、そういうことをして業界に宗教論争を持ち込んでも仕方がないので、このプランはあきらめよう。
 さて、「イコン」は、聖書主義者あるいはキリスト教原理主義者の立場からすると、卑しむべき「偶像」である。
 彼らは、イコンに向かってぬかづいたりする人間を「アイコノクラスト(偶像崇拝者)」と呼んで、ひどく軽蔑する。なぜなら、偶像崇拝者は、何物とも比べることのできない絶対至高の存在である神というものを、絵や彫像のような卑近な視覚対象として描写し、そうすることによって神を貶め、冒涜しているからだ。しかも、偶像崇拝者は、もっぱら神の形にだけ祈りを捧げ、神のみ言葉に耳を傾けようとしない愚かな人間たちだからだ。
 ……ってな調子で、融通のきかない原理主義の人々はコ難しいことを言っているが、一般人は、ばんばん偶像崇拝をしている。
 結局、偶像は、迷える仔羊たちに「神」を実感させる道具として有効なのだ。というよりも、形を持たないものに向かって祈ることは、並みの人間にはなかなかできないことなのである。

【『コンピュータ妄語録』小田嶋隆〈おだじま・たかし〉(ジャストシステム、1994年)】

 曼陀羅(※本来は曼荼羅と書くのが望ましい)よりも「御真影」の方が近いだろう。かつて昭和20年(1945年)の敗戦まで、学校には奉安殿(ほうあんでん)があり天皇・皇后両陛下の肖像写真が安置されていた。宮内庁から貸与されていたため、戦災や火事などで焼失させるわけにいかず焼け死んだ校長もいた。詳しい経緯は知らないのだが、たぶん教育勅語(1890年)の翌年あたりから貸与されたのだろう。

 仏教系の新興宗教でも曼陀羅や仏像に対して御真影同様に接する人々がいる。息が掛からないようにとか、お尻を向けないとか。

 曼荼羅は神仏が集う姿や、仏教の宇宙観を示したもの。悟りを図示することはできないため、こうした姿になったのだろう。

 図像はわかりやすいがゆえに情報の抽象度が低くなる。偶像は英語で「アイドル」と言う。そう。オタク連中が好むあの「アイドル」だ。頭のネジが1本緩んだ純粋な若者がいたとしよう。彼は大好きなアイドルのポスターに向かって今日一日の出来事を語り、軽く口づけをしてベッドに入る。朝食もポスターの前で食べる。もちろん食べるのはアイドルの好物だ。「じゃ、行ってくるね。今日は残業で少し遅くなるから」と言って彼はアパートのドアを閉める。こうなるとアイドルのポスターはただのポスターではなくなっている。彼にとっては確かな存在であり、実存として機能するのだ。

 そう考えると仏像や曼荼羅を拝むことのおかしさが見えてこよう。仮に生身のブッダを拝んだところで悟りは開けない。ま、当たり前の話だ。つまり、拝む・祈るという行為は「瞑想の割愛を肯定する」のである。自分の像が後世になって拝まれていることを知れば、ブッダは一笑に付したことだろう。

 現代社会における偶像は、地位・名誉・財産・学歴・家柄などなど。不要に頭を下げさせるのが偶像の効用である。高級車や高級腕時計もアイコンの役割を果たす。男なら心意気で勝負しろってえんだ。



日露友好の土壌/『なぜ不死鳥のごとく蘇るのか 神国日本VS.ワンワールド支配者 バビロニア式独裁か日本式共生か 攻防正念場!』菅沼光弘、ベンジャミン・フルフォード、飛鳥昭雄

2020-02-09

土地の価格で東京に等高線を描いてみる/『我が心はICにあらず』小田嶋隆


 ・洗練された妄想
 ・土地の価格で東京に等高線を描いてみる
 ・真実
 ・「お年寄り」という言葉の欺瞞
 ・ファミリーレストラン
 ・町は駅前を中心にして同心円状に発展していく
 ・人が人材になる過程は木が木材になる過程と似ている

『安全太郎の夜』小田嶋隆
『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
『山手線膝栗毛』小田嶋隆
『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆
・[https://sessendo.blogspot.com/2022/01/blog-post_95.html:title=『コンピュータ妄語録』小田嶋隆]
『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆
『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆
『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆
『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆
『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆
『テレビ標本箱』小田嶋隆
『テレビ救急箱』小田嶋隆

 この発想が天才的だ。オダジマンは企業の意向に沿って出来上がった町を嫌悪する。これぞ江戸っ子の心意気か。捏造されるのは歴史だけではない。町もそうなのだ。

私鉄不動産複合体財閥企業がつくった東京の山の手/『山手線膝栗毛』小田嶋隆

 で、土地の価格で東京に等高線を描くとどうなるか――

 現在の東京は大雑把に言えば西高東低の原則で構築されている。この西高東低の原則は、海抜高度、土地価格、住民の最終学歴、住民の平均年収、その地域にある学校の偏差値分布など、かなり広い範囲で適用できる。
 仮に土地の価格で等高線を描くとすれば、東京の地形は港区、千代田区、渋谷区といった中心部をピークにして西側に向かってなだらかなカーブで降りて行く。東急沿線、または小田急沿線の世田谷あたりはちょっとした尾根のようになっており、田園調布、等々力、成城学園あたりは峠になっている。
 東および北に向かう斜面は急であり、等高線の間隔はひどく狭い。そんな中で赤羽は川口市に向かってざっくりと落ちる崖っぷちの斜面に位置している。
 赤羽は国鉄とともに発展してきた町である。町の成立と発展を考える上で、このことは重要だ。国鉄の沿線と私鉄の沿線では全然違う町が出来上がる。つまり私鉄沿線(特に西側の私鉄)では都市計画の一部として線路を通すのだが、国鉄は単に線路を通すために線路を通すのだ。そのため国鉄の沿線では町は無秩序に、雨の後のタケノコのように自然発生してしまうのである。

【『我が心はICにあらず』小田嶋隆(BNN、1988年/光文社文庫、1989年)】

 実に見事だ。実際に地図をつくるだけの価値すらある。地価格差地図。これを全国に広げれば、湖のように陥没した地域も数多く出現することだろう。現在は隅田川から東側を下町と呼ぶのが一般的となっている。古くから東京に住む人は「川向こう」と嘲っていた。

 私が青春時代を過ごした亀戸(かめいど)はゼロメートル地帯で昔は大雨が降るたびに川が溢れたという。小学校から渡し舟で家に帰ったことがあると後輩の父親が語っていた。深川から東京湾にかけては江戸時代の埋立地で、隅田川と旧中川を結ぶ小名木川(おなぎがわ)という運河は徳川家康が作った。家康が江戸入りした頃は雨が降れば各所が水浸しになっていたことだろう。

 私が北海道から上京したのは昭和61年(1986年)だが、まず貧富の差に驚いた。新玉川線と東武亀戸線の客層はブティックと洋品店ほどの差があった。しかもその差が老若男女に及んでいた。ま、今時は山の手も下町もユニクロっぽい服装になっているから昔ほどの大差はないことだろう。下町からは木造アパートも姿を消して鉄筋コンクリートのビルになっている。

 昨年の台風19号による水害を思えば、やはり低い土地には危険が伴う。東京に地の利があるのは確かだが、地のリスクも高いことを弁えるべきだろう。

2018-11-20

カルロス・ゴーンと青い鳥/『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆


『我が心はICにあらず』小田嶋隆
『安全太郎の夜』小田嶋隆
『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
『山手線膝栗毛』小田嶋隆
『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆
『コンピュータ妄語録』小田嶋隆
『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆
『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆
『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆

 ・襲い掛かる駄洒落の嵐
 ・カルロス・ゴーンと青い鳥

『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆
『テレビ標本箱』小田嶋隆
『テレビ救急箱』小田嶋隆

 つまり、チルチルとミチルがお家の中で遊んでいると、ふらんすからごーんという名前のおじさんがやってきて、青い鳥を焼き鳥にして食ってしまうのである。
 この場合、青い鳥は何の象徴だろう?
 ブルーバード?
 ははは。違うね。
 ブルーカラーに決まってるだろ。

【『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆(BNN、2003年)】

 カルロス・ゴーンは青い鳥をたらふく食った挙げ句に勘定を誤魔化していたようだ。コストカッターが自分の税金もカットしていた模様である。

 社員の首を切りまくり、工場の土地を売りまくり、経費を節減することで利益を出したゴーン社長をマスコミは手放しで称賛した。私は「フン、まるでマッカーサーだな」と業を煮やした。

 ゴーンが行ったことは地域に根差した日産ファンや日産文化の破壊であった。それまでは経営者の禁じ手であった人員整理が以後当たり前の経営手法に格上げされた。派遣社員も企業側の要望から適用業種が拡大された。富国の要であった経済が今度は国を亡ぼそうとしている。まるで癌細胞だ。癌は人体と共生することを拒んで人体と共に亡ぶ。

 ヨーロッパには「ノブレル・オブリージュ」(高貴なる者の義務)という観念があり、昔の戦争では貴族が先頭に立って出撃した。現代の高貴なる者は納税の義務すら回避しようと節税対策に余念がない。

かくかく私価時価―無資本主義商品論1997‐2003
小田嶋 隆
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2018-07-04

マスコミのクズっぷり/『安全太郎の夜』小田嶋隆


『我が心はICにあらず』小田嶋隆

 ・パソコンの世界は「死」に覆われている
 ・小田嶋隆の正論
 ・意外とデタラメの多い新聞記事
 ・「強い本」と「弱い本」
 ・ビールに適量はない
 ・本に対する執着は、人生に対する執着に他ならない
 ・マスコミのクズっぷり

『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
『山手線膝栗毛』小田嶋隆
『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆
『コンピュータ妄語録』小田嶋隆
『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆
『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆
『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆
『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆
『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆
『テレビ標本箱』小田嶋隆
『テレビ救急箱』小田嶋隆

「そっとしておいてください」
 と遺族は言ったのだ。
 が、「〈そっとしておいてください〉と、遺族の方はおっしゃっています」
 と、記者は言った。

【『安全太郎の夜』小田嶋隆(河出書房新社、1991年)】

 私はマスゴミという言葉を使わない。だってゴミに失礼だから。ゴミは捨てられる直前まで必要とされている。一方、マスコミは事実を歪めた不要な情報でもって社会を撹乱(かくらん)する。つまりマスコミはゴミ以下の存在なのだ(←断言してしまうぞ)。

 もちろん事実を報道することに一定の意味があることは私も認めよう。だが増長した彼らは「何を報じ、何を報じないかは我々が決める」とまで錯覚し、かつては世論を誘導して大東亜戦争に至らしめた過去がある。佐藤栄作首相が退任記者会見(1972年)において新聞社を追い出したことは有名だが、この時新聞記者が首相の話に口を挟んだ事実を見逃してはならないだろう。


 各紙は3日間ほど佐藤批判に紙面を割いた。明らかな意趣返しである。さしずめ「俺たちに逆らうとどうなるか思い知らせてやる」といったところか。

 それでもまだ昭和が終わる頃までは新聞とテレビを人々は【信じて】いた。そこにあるのは全部「正しい情報」だと思い込んでいた。辞書と同じくらい信用していた。

 もともと人間のクズだったマスコミが(※「ゴミとクズは同じだろう!」という突っ込みはご勘弁を。最低という意味合いの比喩だと受け止めてくれ給え)いよいよその正体を露わにしたのは朝日新聞珊瑚記事捏造事件いゆわるKY事件であった。1989年(平成元年)のこと。私は当時、朝日新聞を購読していたのでよく覚えている。朝日新聞社は過去にも伊藤律会見報道事件(1950年〈昭和25年〉)という虚偽報道を行っている。極めつけは日本の報道史における最大の禍根といってよい「朝日新聞の慰安婦報道問題」である。1982に始まり2014年の訂正記事を出すまで何と32年の長きにわたって嘘を報じ続けた。ったく『ドカベン』かよ。

 報道はイエロージャーナリズムに変わり果てた。かつてネット上の書き込みを「便所の落書き」と評したのは筑紫哲也〈ちくし・てつや〉だが、マスコミはウンコの位置にまで低下した。


 座間の連続殺害事件でも同じことがあった。




「実名報道しないで下さい」という張り紙があったことを、実名で報道する。相模原障害者施設殺傷事件でも被害者のプライバシーは晒(さら)された。

 かつて「メディアは下水管だ」(『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』)と書いた小田嶋が、「新聞には編集という作業が伴う」と持ち上げた。ラジオ番組の発言だから新聞社をヨイショした可能性もあるが、私の眼には変節と映った。

 小田嶋の著作でおすすめできるのはアルコール中毒が極まった『イン・ヒズ・オウン・サイト』までである。内田樹〈うちだ・たつる〉に師匠と持ち上げられ、平川克美が接近してからは読むに堪(た)えない。

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2017-08-13

無投票の権利/『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆


『我が心はICにあらず』小田嶋隆
『安全太郎の夜』小田嶋隆
『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
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『コンピュータ妄語録』小田嶋隆
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『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆
『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆

 ・愛国心への疑問
 ・ギネス認定はインチキ
 ・個性は伸ばすものではなく、勝手に伸びるものだ
 ・無投票の権利
 ・勝ち上がってくる力士
 ・長時間睡眠自慢

『テレビ標本箱』小田嶋隆
『テレビ救急箱』小田嶋隆

 何かをする権利は、その裏に何かをしない権利を含んでいる。そうでなければ十全な権利とは言えない。信教の自由は、宗教を信じない自由を含んでいるし、集会の自由は、ひきこもりの自由を包摂している。また、表現の自由は沈黙の権利を保障しているはずだし、職業選択の自由は同時にプー太郎たることの自由でもある。であるからして、投票権は自動的に無投票権を含んでいなければならず、そうである以上、無投票という選択にも、投票行動と同等な重みが持たされねばならない。で、提案がある。議員の定数を投票率に連動させるというのはどうだろう。たとえば投票率が50%なら、議会の議席そのものが半減するわけだ。どうだ? 良さそうじゃないか。
 首長選の場合は、人気を投票率に反映させても良い。得票数をそのまま給与に換算するのも面白いかもしれない。いずれにしても、こういうことになればオレの無投票にも若干の意味が出てくる。

【『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆(朝日新聞社、2005年)以下同】

 小田嶋がラジオ番組で「生まれて初めて投票に行った」と語った時、私の心を風が吹き抜けた。ちょっとした衝撃を受けたものだ。また「新聞には編集作業があるがネット情報にはそれがない」との主張にも驚かされた。まるで「普通の大人」が言いそうなことではないか。

 本書はアル中が極まった頃の作品であるにもかかわらず決して魅力が色褪せていない。転落しながらも社会に向かって唾を吐く小田嶋の矜持(きょうじ)があるように思う。

 無投票については諸手を挙げて賛成する。既に何度も書いてきた通り私は民主政(『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志)を支持していない。ワイドショー情報を鵜呑みにするオバサンの1票と私の1票を同列に扱われるのは大いに困る。国民全員が投票を棄権し、オレの1票で国政が決まればこんな嬉しいことはないのだが(笑)。

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小田嶋 隆
朝日新聞社
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人が人材になる過程は木が木材になる過程と似ている/『我が心はICにあらず』小田嶋隆


 ・洗練された妄想
 ・土地の価格で東京に等高線を描いてみる
 ・真実
 ・「お年寄り」という言葉の欺瞞
 ・ファミリーレストラン
 ・町は駅前を中心にして同心円状に発展していく
 ・人が人材になる過程は木が木材になる過程と似ている


『安全太郎の夜』小田嶋隆
『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
『山手線膝栗毛』小田嶋隆
『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆
・[https://sessendo.blogspot.com/2022/01/blog-post_95.html:title=『コンピュータ妄語録』小田嶋隆]
『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆
『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆
『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆
『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆
『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆
『テレビ標本箱』小田嶋隆
『テレビ救急箱』小田嶋隆

 人が人材になる過程は、木が木材になる過程とよく似ている。よけいな枝を落とし、虫の食った部分を捨てて、要するに規格化するわけなのだ(生きている木を切り倒して、乾燥させて、丸裸にし、材木にして、切って、削って、風呂場のすのこにするのだ)。そして、言うまでもないことだが、ハッカーという人々は余計な枝が多かったり、幹が曲がっていたり、加工しにくかったりして、人材としては不良品である場合が多い。

【『我が心はICにあらず』小田嶋隆(BNN、1988年/光文社文庫、1989年)】

 ラジオ番組にレギュラー出演するようになった頃から小田嶋は明らかに変わった。その淵源を探ると「日経ビジネスオンラインの連載」(小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」~世間に転がる意味不明/2008年)と『人はなぜ学歴にこだわるのか。』(メディアワークス、2000年/知恵の森文庫、2005年)にあると思われる。

「ア・ピース・オブ・警句」は戦後教育で教え込まれた歴史認識を鵜呑みにしていて馬脚を露(あら)わした感がある。『学歴』の方は読んでいないのだが内田樹〈うちだ・たつる〉が解説を書いていることからも左翼傾向が読み取れる。その後、内田や彼の盟友である平川克美らと『9条どうでしょう』(毎日新聞社、2006年/ちくま文庫、2012年)を刊行する。私が初めて小田嶋の声を耳にしたのも平川のインターネット放送だった。傍(はた)から見れば巧く担がれたようにしか思えない。

 小田嶋はなぜ職歴ではなく学歴を語ったのだろう? やはり小石川高校~早稲田大学という学歴に自信があったためか。


 上には上がいる。元エリート官僚からすれば早稲田・慶応も低学歴になるようだ。小田嶋は学生団体SEALDsを中心とするデモを見学にゆき、挙げ句の果てには生まれて初めての投票にまで及んだ。もはや引きこもり系・オタク系コラムニストを脱して文化人となりつつある。

 ってなわけで初期の小田嶋作品を懐かしむ気持ちがそこはかとなく湧いてきた。明晰な文体、端々に盛られた毒、エッジの効いた皮肉、社会を斜めに見下ろすユーモア――それが小田嶋の魅力であった。

 尚、ハッカーとはハッキングをする人物のことで、犯罪姓の高いハッカーをクラッカーと呼ぶ。

2014-04-04

長時間睡眠自慢/『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆


愛国心への疑問
ギネス認定はインチキ
個性は伸ばすものではなく、勝手に伸びるものだ
勝ち上がってくる力士
・長時間睡眠自慢

 少し前に以下のページを見つけた。面白かった。

中野翠と斎藤美奈子

 女性のコラムニスト(当初「女流」と書いたが差別用語っぽいのでやめた)といえばこの二人しか頭に浮かばない。女性とコラムは相性が悪いのだろうか? たぶん違う。女に世の中のことをあーだこーだと言われたくない男が多いだけのことだろう。中野翠〈なかの・みどり〉はどこか品を捨てきれないところがあるし、斎藤美奈子は才が走りすぎる嫌いがある。二人が長時間睡眠を自慢しているのが面白い。だが、まだまだ甘い。

 素晴らしい天気だ。昨晩の11時から朝の7時まで寝て、午前10時から午後5時まで昼寝をした。
 15時間睡眠。こんなにも素晴らしい空の下で、私はただ眠り続ける。薄もやのかかった憂悶を遠い記憶の底に沈めて。移動曲馬団の無口な象のように。もちろん夢は見ない。空に太陽のある限り。

【『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆(朝日新聞社、2005年)以下同】

 小田嶋がアルコールに耽溺(たんでき)し、ほぼ廃人に近い状況で書かれた一冊である。廃人というのは私の想像にすぎないが当たらずとも遠からずだと思う。その後、彼は酒と手を切った。

「移動曲馬団の無口な象」ときたもんだ。曲馬団ってえのあサーカスのことね。これが「サーカスの無口な象」だとニュアンスがまったく違う。サーカスの象だと何となく愛嬌を感じる。移動曲馬団だといかにも脇役という匂いがプンプンする。

頑張らない介護」でも紹介したが、「私の祈りは空しく、努力は報われず、私のささやかな願いは線路工夫の口笛のように風の中に消えてしまった」(『我が心はICにあらず』)という文章も忘れ難い。時折漂う詩情が胸を鷲掴みする。

 せっかくなんでもう少し紹介しよう。酔っ払いの名調子だ。

 なあ、ねえちゃん、言っておくぞ。あんたがセクシーなのは魅力的だからじゃない。ただ露出面積が多いってだけで、それは魅力とは別のものだ。元来、魅力というのは手の届かない存在に対して感じるものだ。それが、あんたたちときたら、手が届きそうどころか、手を伸ばすまでもなく既に剥き身で転がっている。

 これを差別と捉えるのは誤りだ。なぜなら女性の露出は犯罪を誘発する要因となり得るが、男の露出が犯罪を誘発することは考えられないからだ。露出狂はまた別の話である。

 JTの諸君は知っておいた方が良い。愛煙家は、君達を憎んでいる。愛煙家は、煙を愛しているのではない。タバコを愛しているのでもなければ、ましてJTを愛しているなんてことは、絶対にない。
 というよりも、愛煙家という名称自体が、悪質なプロパガンダなのであって、喫煙者の正体は依存症患者にすぎない。誰も好んで煙を吸い込んでいるのではない。煙を吸わないと呼吸が苦しいという自縄自縛の状態に追い込まれているがゆえに、余儀なく呼吸を楽にするために肺を傷つけている、と、それだけの話だ。
 たとえば、シャブ中を愛粉家と言うか? ジャンキーを愛針家と呼ぶのか?
 たばこ(ママ)が心の日曜日なら、シャブは夏休みか? アヘンは心の大晦日。
 で、心の日曜日は諸君の給料日で、誰の命日なんだ?

 中毒と格闘する苦しみが滲み出ている。現在、小田嶋はCS放送やラジオのレギュラーを抱えていることもあって、昔に比べると毒が少なくなった。選挙の投票にも行くようになった。まったく信じられない事態である。それでも現代の戯作者(げさくしゃ)たり得るのは小田嶋しかいない。

イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド

2012-09-30

ということは事故が起こった原発も安全


2012-09-02

言葉や演技で笑いが取れない場合、番組企画は「公開処刑」か「ドッキリ」に行き着く



テレビの中でいじめが蔓延している、という小田嶋隆さん(@tako_ashi)の見解
若手芸人の役回りはイジメ被害者の「モガキ」/『テレビ救急箱』小田嶋隆

2012-07-15

伝統的な子育て



togetter

2012-05-26

片山さつきと世耕弘成


次長課長河本氏の母親生活保護について片山さつき・世耕弘成議員のTL+書評家・豊崎由美さんとコラムニスト小田嶋隆さんのご意見
バッシングに便乗 小宮山厚労相こそよっぽどのワル
生活保護

2012-02-27

「でんこちゃん」リストラ

でんこちゃんって、引越し先の電力会社への連絡とかでは細かいこと行ってたけど、いなくなる時にはあいさつなしなんだね。
Feb 27 via TweetDeck Favorite Retweet Reply


◎「でんこちゃん」リストラ 作者・内田春菊氏は知らなかった

2012-01-06

小田嶋隆の底の浅さとオウム真理教


 小田嶋をこき下ろす前に一言申し上げておくが、私は熱烈な小田嶋ファンである。一般的にいわれる「頭のよさ」とはプレゼンテーション能力を意味する。要を得た説明、世相の本質に迫る解説、何にも増して絶妙な比喩の数々、そして駄洒落の急降下。さすが小石川高校出身だけのことはある(早稲田大学と書かないところがミソ)。

 小田嶋のコラムには読み手の脳内をスッキリさせるほどの合理性が秘められている。なかんずく、街ネタを書かせれば彼の右側に出る者はあるまい。また昔は臆することなく大企業批判も書いていた。アウトローとまではいわないにせよ、小田嶋は確実にアウトサイドに立って冷ややかな視線で世間を眺めていた。

私鉄不動産複合体財閥企業がつくった東京の山の手/『山手線膝栗毛』小田嶋隆
カルロス・ゴーン

 しかし、である。最新のコラムを読んで彼の底の浅さが見えた。

ハルマゲドンと「グレートリセット」という願望

 小田嶋は無神論者だ。多分。オウム真理教ネタの息の長さはサブカルチャーに支えられているように私は思う。というよりはむしろ、サブカルチャーとしてのオウム真理教といった方が適切かもしれない。当初はニューエイジ的存在として受け容れられたように記憶している。

 私は長らく亀戸に住んでいたが、家から歩いて3~4分のところにオウムの道場ができた。元々は私の友人の家があった場所だ。時々若い信者と擦れ違うこともあったが、「ヘー」くらいしか思わなかった。オウムが経営する飲食店もでき、「おい、サットヴァレモンは飲んだか?」というのが我々仲間内の挨拶になっていた。

 彼らが選挙に出た時も、みんなで「ショーコー、ショーコー、ショコ、ショコ、ショーコー、あーさーはーらー」と歌っていた。

 一部のメンバーは高学歴だったが、若者が衝撃を受けたのは「自分たちと同じようなサブカル好きの普通の若者がテロ組織に取り込まれたこと」であった。

 時を同じくしてオタクが胎動し始めた頃だ。彼らは一様に社会への違和感を抱いていた。それゆえ、ある者はアニメに没頭し、ある者は就職を拒絶し(パラサイト・シングル)、またある者は部屋に引きこもった。その背景には小中学校でのいじめ問題も濃い影を落としていたことだろう。

 オウムを取り巻く情況は上九一色村の強制捜査前後から加熱し、メディアが煽るだけ煽り劇場化した。そこには松本サリン事件で河野義行さんをメディアリンチにした罪悪感を払拭しようとする力も作用したはずだ。

 そして地下鉄サリン事件(1995年)に至る。2年前には亀戸異臭事件が起こっていた。

 この事件のインパクトは、それまで左翼の専売特許であったテロを宗教団体が行ったということ(政治目的ではなかった)、そして生物化学兵器が使用されたこと、更にバブル景気が弾けてから経済的にも心理的にも空白状態が続いたことなどが挙げられよう。

 国民全員がバブルを懐かしんでいた。つまり全国民が日本社会に違和感を抱いていたといってもよい。だから、「ひょっとすると誰がオウムに入信してもおかしくない」ような時代情況があったのだ。

 小田嶋がオウム事件を引き摺っているのは、やはり彼の出自がオタクであるためだろう。小田嶋の違和感とオウム信者の違和感とが共鳴しているのだ。ゆえにどうせ書くのであれば、「内なるオウム」をテーマにすべきであった。

 私はオウムについて何かを書くこと自体を否定しているわけではない。ただ、あのコラム程度の結論になってしまうと、「だったらパレスチナ法輪功はどうなるんだ?」と言いたくなってしまうのだ。しかもこれらは現在進行形だ。ルワンダ大虐殺にしても同様である。

 無神論者は二つに分かれる。宗教性まで否定する者と宗教性を肯定する者とに。小田嶋の底が浅いのは前者のためだと推察する。

 それでも私が小田嶋ファンをやめることはない。新刊ももちろん購入済みだ。

 小田嶋は山下京子さんの著作を読んだのだろうか? 気になるところだ。

絶望を希望へと転じた崇高な魂の劇/『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子

地雷を踏む勇気 ~人生のとるにたらない警句 (生きる技術!叢書)その「正義」があぶない。

2011-11-19

高校生は「大学生予備軍」という暫定的な立場に置かれた一種の社会的難民だ


 結局、高校生のような不安定な身分(高校生は「大学生予備軍」という暫定的な立場に置かれた一種の社会的難民だと私は思う)の者にとって、穏健主義はそのまま敗北主義を意味するわけなのだ。

【『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆(朝日新聞社、1992年/朝日文庫、1995年)】

パソコンゲーマーは眠らない

2011-09-30

ウンコはゲロよりましだ


 たとえうんこであろうとも、ゲロよりマシだ。とにもかくにも、それは消化されているのだから……。

【『安全太郎の夜』小田嶋隆(河出書房新社、1991年)】

安全太郎の夜

2011-09-13

幸せは非常に脆いもの


 諸君もわかっていることと思うが、幸せというのは、非常に脆(もろ)いものだ。なぜなら、不幸がきちんとした基盤を持った確固たる具体的事実であるのに比べて、幸福は基本的には根拠も実態もない、「幸福感」という頼りのない気分であるに過ぎないからだ。

【『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆(徳間書店、1994年)】

「ふへ」の国から ことばの解体新書

2011-07-30

勝ち上がってくる力士


 勝ち上がってくる力士にはどこか茫洋としたところがある。武双山もそうだった。かつての武蔵丸や安芸乃島にも同じ匂いがあった。伸び盛りの相撲取りは、いつの時代も、自分が何者なのかを判じかねているようなきょとんとした表情で勝ちすすんでいく。
 おそらく、自分が何者であるのかを知った時、力士は成長をやめるのだろう。

【『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆(朝日新聞社、2005年)】

イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド

2011-07-07

頑張らない介護/『カイゴッチ 38の心得 燃え尽きない介護生活のために』藤野ともね


 介護とはコミュニケーションだ。健常者が要介護者の世話をする作業に限定すると、介護はたちまち厄介な仕事となる。生老病死(しょうろうびょうし)は誰人も避けられない。人生とは死にゆく過程である。介護とは目の前の生老病死を受容する営みであり、一つのコミュニケーション・スタイルなのだ。これは教育も同様である。

 本書は藤野ともねのブログ「フンコロガシの詩」を書籍化したもの。まず本の作りがよい。絶妙な構成で内容を引き立てている。奥付を見ると梅澤衛という人物がプロデュースしているようだ。イラスト、レイアウト、フォントの色に至るまで目が行き届いている。

 藤野の父親は初期の認知症と思われるが、要介護度が低ければ介護は楽というものではない。むしろ動ける状態が仇(あだ)となる。徘徊や火の始末など。つまりそれぞれの要介護度に応じた苦労が伴う。

 もしも自分の親は元気だから介護に興味がない、うちには子供がいないから教育問題とは縁がないという人がいたとすれば、貧しい人生を送っている証拠といえる。他者への共感を欠いた生き方が人生を灰色に染めてゆくことだろう。人生における選択とは、常に「もしも」という事態を想定することで判断可能となるのだ。

 笑えるエピソードの合間に著者はしっかりと介護で得た知恵を盛り込んでいる。

 何となく会話がかみ合わない、冷蔵庫の中に同じものが買ってある。そのくせ私が作った惣菜には手をつけずに腐らせるなど、(以下略)

【『カイゴッチ 38の心得 燃え尽きない介護生活のために』藤野ともね(シンコーミュージック・エンタテイメント、2011年)以下同】

 病気には必ず何らかの兆候がある。早期発見が急所だ。

 周囲の認知症の高齢者を見ていると、「お菓子をやたら買い込む」という行動はかなり重要な初期サインだと気づかされる。ポイントは「甘いものが以前より好きになる」「大人買いする」ということだ。味覚が変わるのは認知症の初期症状で、最初に酸っぱいモノがダメになり、甘さを感じる味覚は最後まで残るらしい。

 これは知らなかった。一般的には耳が遠くなる。聞こえていないのに聞こえたふりをする。「はい」ばかりで、「ノー」の意思表示をしなくなる。そして段々と話をしなくなる。

 認知症はまず家族の前で症状が出始める。不思議なことだがお客さんや見知らぬ人の前では出ない。だから、どんどんデイサービスなどを利用すればよい。ところが一昔前まではこうした事実が知られておらず、家族の恥と受け止め、外へ出すことを恐れる家が多かった。これが認知症を悪化させた。

 皮膚感覚ではないが、皮膚の表面の状態については私なりの考察がある。それはこうだ。親父を含め周りの高齢者を見ていて、「あるとき」からイキナリ、肌がキレイになることに気がついた。その「あるとき」とは、認知症が始まったときである。

 これも初耳だ。とすると、認知症はホルモンと関連性があるのかもしれない。

 親父は背が縮み、今や私のほうが10センチ以上は高いので、まるで傷ついた少年兵に肩を貸す三等兵みたいだ。

 まったく侮れない文章だ。小田嶋隆の「私の祈りは空しく、努力は報われず、私のささやかな願いは線路工夫の口笛のように風の中に消えてしまった」(『我が心はICにあらず』)という文章を思い出した。

 藤野は「頑張らない介護」を目指し、「笑いのツボ」を見つけることに執念を燃やす。何が何でも笑い飛ばしてやろうという意気込みが素晴らしい。笑うことは突き放すことだ。知的に客観視することで笑いは生まれるのだ。この距離感を維持することで藤野は精神のバランスをコントロールしている。やや大袈裟にいってしまえば、惨めな介護を笑える介護へと革命したのだ。やはり心の向きが大切だ。

 ブログでは冒頭に書かれていた投資詐欺事件が本書の最後で紹介されている。これはさすがに「笑えない」話だ。藤野の父親は全財産の5400万円を投資会社に預けてしまった。で、案の定、この会社は破綻した。「グローバル・パートナー」(その後ベストパートナーに社名変更。神崎勝会長)という会社だ。

 産経ニュースによれば、「約970人の高齢者を中心とした顧客から約91億円をだまし取った」とのこと(2011年1月14日)。この手の犯罪に関して政治家や金融機関が熱意を発揮したことはない。

 藤野は刑事告訴の用意をした。

(※4カ月近く待たされた後)「もうすぐ時効だし、こんな人はいっぱいいるんですよね」ということで、告訴状を受け取ることさえしなかった。

 これが警察窓口の対応だった。桶川ストーカー事件から何も変わっていないようだ。

腐敗しきった警察組織/『遺言 桶川ストーカー殺人事件の深層』清水潔

 高齢者を取り巻く社会情況はかくも厳しい。それでも藤野はめげない。

 尚、実は秀逸なセンスが散りばめられている。大野一雄、マディ・ウォーターズ「マニッシュ・ボーイ」を取り上げ、楳図かずお著『アゲイン』が出てくるに至っては心底驚いた。私が小学生の時、立ち読みしていて笑いが止まらなくなったマンガ作品だ。

 ブログの性質上致し方ないとは思うが、藤野のプライベートが書かれていないため、介護の背景が薄くなってしまっているのが残念なところ。それでも「転ばぬ先の杖」としては十分に有用だ。



認知症の生々しい描写/『一条の光・天井から降る哀しい音』耕治人
『もっと!らくらく動作介助マニュアル 寝返りからトランスファーまで』中村恵子監修、山本康稔、佐々木良(医学書院、2005年)
オムツにしない工夫こそが介護/『老人介護 常識の誤り』三好春樹
年をとると個性が煮つまる/『老人介護 じいさん・ばあさんの愛しかた』三好春樹
ネアンデルタール人も介護をしていた/『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠
赤ちゃん言葉はメロディ志向~介護の常識が変わる可能性/『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化』スティーヴン・ミズン
ケアとは「時間をあげる」こと

2011-06-19

最も美しいことば


 最も美しいことばは常に過去形で語られる。

【『我が心はICにあらず』小田嶋隆(BNN、1988年/光文社文庫、1989年)】

我が心はICにあらず

青春時代

2011-06-07

インターネット上に巣食う揶揄・中傷文化~山本弘の場合


 最近、武田邦彦の動画を山ほど観ている。

斧チャン:武田邦彦

 理路整然としていてわかりやすい上、プレゼンテーション能力が高い。それでいて人懐っこくて朗らかだ。東日本大震災以降は、自分が原子力発電に関わってきた責任感から、具体的なメッセージを次々と発信した。

武田邦彦公式サイト

 あまりに面白いので古い動画も探した。武田は「環境問題は幻想であり、何ら科学的根拠がない」とテレビで主張し注目を集めた。これに対してSF作家の山本弘が「武田はデータ捏造をしている」という内容の著作を発行した(山本弘著『“環境問題のウソ”のウソ』楽工社、2007年)。

 そして直接対決となったのが以下の番組である(URLは音声のみ)。


 http://youtu.be/xwS6WZH0NNQ
 http://youtu.be/Jle5Iu5-pvQ
 http://youtu.be/JsN0FWCfkMo
 http://youtu.be/sxX3txksS48
 http://youtu.be/wkFvTeoUBi4
 http://youtu.be/bwTt7DmJrto

 見るからにオタクである。容貌も声も薄気味悪い。細かいデータを持ち出し指を差す仕草に嫌悪感を覚える。こういう輩(やから)は議論するよりも殴ってやった方がいい、とまで思う。

 山本弘が行っているのは単なる「突っ込み」である。武田邦彦は世界に布かれつつあるルールが欺瞞である可能性を指摘しているのだ。山本はそこを問わずに些細な間違い探しに執心している。しかも薄ら笑いを浮かべながら。結果的に権力者を利している自覚もないのだろう。

 山本は「と学会」の一員としても知られるが、結局あいつらのやっていることはこういうことなのだ。趣味としての粗(あら)探し。木を見て森を見ず、枝を見て花を見ず。唐沢俊一なんかも話は面白いが人間として信用できるタイプではない。

 インターネットに巣食う揶揄・中傷文化は、ひょっとしたら彼らのような連中が先導した可能性もある。一般人からするとオタクの胡散臭さは直ぐわかる。東浩紀宮台真司が信用ならないのは、言葉の端々に2ちゃんねる用語が出てくるためだ。小田嶋隆も同様。

 彼らは全てを面白がってしまうために基本的な礼節を欠くところがある。掲示板のノリなのだ。確かにその軽さが魅力でもあるのだが、山本みたいな軽薄さを私は許すことができない。

 昆虫の触覚が反応するかのように彼らは瑣末な知識を集める。そんなものがいくらあったところで、人の心を打つことは不可能だ。

 ツイッターなどでも、ただ印象を垂れ流す連中が多い。相手が著名人であることをいいことに、口汚く罵る姿も珍しくはない。せめて相手の正面に立って言えることだけ書くべきではなかろうか。

 身の丈に応じた言葉づかいができない限り、インターネット上の議論が成熟することはないだろう。