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2021-08-16

「精神世界」というジャンルが登場したのは1977年/『身心変容技法シリーズ① 身心変容の科学~瞑想の科学 マインドフルネスの脳科学から、共鳴する身体知まで、瞑想を科学する試み』鎌田東二編


岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ
『業妙態論(村上理論)、特に「依正不二」の視点から見た環境論その一』村上忠良
『21世紀の宗教研究 脳科学・進化生物学と宗教学の接点』井上順孝編、マイケル・ヴィツェル、長谷川眞理子、芦名定道

 ・「精神世界」というジャンルが登場したのは1977年

 1977年、初めて東京都内の大手書店が開催したフェアで「精神世界」を銘打ったコーナーが設けられ、以後、「精神世界」という言葉が流行語のようになり、書店のコーナーばかりでなく、一般メディアなどでも用いられるようになった。その『精神世界」には、超能力やオカルティズムや密教の流行とも連動しつつ、宗教的伝統に根ざす諸種の瞑想や近代以降に展開された身体修練などさまざまな実践的な身体技法が含まれていた。

【『身心変容技法シリーズ① 身心変容の科学~瞑想の科学 マインドフルネスの脳科学から、共鳴する身体知まで、瞑想を科学する試み』鎌田東二〈かまた・とうじ〉編(サンガ、2017年)】

 多分、ニューエイジ(『現代社会とスピリチュアリティ 現代人の宗教意識の社会学的探究』伊藤雅之)の影響だろう。盛り上がりを見せた精神世界もバブル景気を経て、オウム真理教による地下鉄サリン事件(1995年)で潰(つい)えてしまう。コントロールされた精神がたやすく暴力に向かうことをまざまざと見せつけられたわけだ。それ以降、潮流は脳科学へ向かい、そして再び身体に戻りつつある。9.11テロ(2001年)は「心の時代」の到来を拒むような出来事であった。個人的には何らかの陰謀があったと考えているが、世界の人々が感じたのは「宗教と暴力の親和性」であった。

 読み始めたばかりだが鎌田東二の序文がよくない。エリアーデ、ベルクソン、ウィリアム・ジェームズを水戸黄門の印籠さながらに振りかざす姿勢が、権威に依存する学者の体質をよく表している。内田樹〈うちだ・たつる〉の名前もあるので最後まで読むことはできそうにない。

 また長過ぎる書籍タイトルが自信の無さを示しているようにも感じる。

2021-01-04

サマディ(三昧)


 コード指定をしているのだが日本語字幕が表示されないため、各動画右下の「設定」から自動翻訳→日本語の選択を。







2020-11-09

瞑想の否定/『クリシュナムルティの日記』J・クリシュナムルティ


『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティ

 ・人は自分自身の光りとなるべきだ
 ・瞑想の否定

『最後の日記』J・クリシュナムルティ

ジドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti)著作リスト

 どんな形であれ、意識的な瞑想は真実ではない。けっしてそうはありえないのだ。故意に瞑想しようと試みることは、瞑想ではない。それは起こるべきものであって、こちらから招き寄せるものではない。瞑想は精神の遊びではなく、欲望や楽しみでもない。瞑想しようと試みること自体が、まさに瞑想を否定している。ただ、あなたがいま考えていること、行為していることだけに気をとめていなさい。見ること、聞くことは、報いも罰もない行為である。行為の技(わざ)は、見方、聞き方にかかっている。形をとった瞑想はすべて、かならず欺瞞や幻影にいたる。なぜなら欲望は盲目だから。  美しい宵で、春のやわらかい光が地をおおっていた。

【『クリシュナムルティの日記』J・クリシュナムルティ:宮内勝典〈みやうち・かつすけ〉訳(めるくまーる、1983年/原書は1982年)】

 いつの間にか読むものがなくなったので再読した。宮内の訳文は読みやすい。さほどこなれた文章ではないのだが読んでいると気にならない。点線のように言葉が辿りやすいのだろう。

 瞑想の否定である。もちろん瞑想そのものではなく形式・方式に収まった瞑想を指す。これを私は仏教徒への批判と読んだ。悟っていない者が悟った者に額づく時、隷従する精神が悟性の妨げとなる。他人の言いなりになって悟りを開けるのであれば、それは技術となってしまう。よもやブッダが「私に従え」と言うはずもなかろう。

「精神の遊び」という一言が針の如く突き刺さる。悟りへの羨望こそが迷いの本質なのだろう。むしろ迷いをありのままに見つめ、否定も肯定もしないところに悟道がある。

 最後の一行で思弁に基づく批判が封じ込められる。内部が偉大なる空(くう)の境地で占められている人は、ただ世界を受容し、ひたと見つめ、世界そのものと化している。

2020-07-17

わかりやすい入門書/『マインドフルネス瞑想入門 1日10分で自分を浄化する方法』吉田昌生


 ・わかりやすい入門書

・『現代人のための瞑想法 役立つ初期仏教法話4』アルボムッレ・スマナサーラ
・『自分を変える気づきの瞑想法【第3版】』アルボムッレ・スマナサーラ
『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』ウィリアム・ハート
『呼吸による癒し 実践ヴィパッサナー瞑想』ラリー・ローゼンバーグ
『「瞑想」から「明想」へ 真実の自分を発見する旅の終わり』山本清次

 マインドフルネスとは、今という瞬間につねに注意を向け、自分が感じている感覚や感情、思考を冷静に観察している心の状態のこと。
 つまり、【「今、ここ」に100%心を向ける在り方】のことです。元々はパーリ語の「サティ」という言葉の英訳で、日本語では「気づき」、漢語では「念」と訳されています。「自覚」「集中」「覚醒」とも言い換えられます。

【『マインドフルネス瞑想入門 1日10分で自分を浄化する方法』吉田昌生〈よしだ・まさお〉(WAVE出版、2015年)以下同】

 ヴィパッサナー瞑想は静かにアメリカで広まっている。健康本で紹介されることも珍しくない。プラグマティズムの伝統が脈打っているのだろう。一方、鈴木大拙〈すずき・だいせつ〉によって日本の禅は世界で知られるようになったが、我が国で瞑想の潮流が深まることはなかった。かつて武士が禅に打ち込んでいた歴史を思えば武士道の衰退とも関係があるように思う。

 サティは八正道正念である。これが戒・定・慧の三学だと(じょう)=サマディ(三昧)となる。現在では三昧(ざんまい)と変化して残るが、無我夢中で没頭している様子を表す(贅沢三昧、読書三昧など)。

 吉田は「集中」を挙げているがこれは誤りで「注意」が正しい。集中と注意は異なる。一点に集中すれば周辺は見えなくなる。集中は眼、注意は耳と皮膚というのが私の持論だ。瞑想の観察は眼で行う性質ではない。仏像の半眼がそれを示している。眼は自己の内側を見ることができない。

 頭のなかの思考の世界に巻き込まれて、それに気づいていない状態です。そんな状態のことを「マインドレスネス」と言います。(中略)
 このように、「今、ここ」の現実とのつながりが失われ、なおかつそのことに気づいてもいない状態のことを「マインドレスネス」と言うのです。

 フルネス(fullness)は「満ちている状態」で、レスネス(lessness)は「より少ない状態」である。コマが回っている状態がフルネスである。フル回転しながら止まっているのが瞑想だ。その意味では自転車に乗る行為も瞑想と似ている。

 お釈迦様が仏教をつくったのは今から2500年前のインド。一方、世界初のペダル式自転車が登場したのは、150年ほど前のフランス。だから(あたりまえだが)お釈迦様は自転車を知らなかった。しかしもし、お釈迦様が自転車に乗ったなら、必ず「瞑想修行と自転車は似ている」と言ったに違いない。

【『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑〈ささき・しずか〉(ちくま新書、2009年)】

 具体的な瞑想の方法が書かれていて、わかりやすい入門書となっている。クリシュナムルティは方法を否定したが、我々凡夫は何らかの手掛かりがなければ瞑想の入り口に立つことも不可能だ。例えば無実の罪で獄につながれた時、怪我や病気で体の自由を失った時、災害や戦争に巻き込まれた時など、絶体絶命という場面を想像すれば平時に瞑想を行うことは生きるための備えといってよい。

2020-06-25

フランス人哲学者の悟り/『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル


 ・宗教の語源
 ・フランス人哲学者の悟り
 ・幸福を望むのは不幸な人

『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん
『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール

キリスト教を知るための書籍
悟りとは

 夕食のあとのある晩、いつものように友人たちと気にいっていた森へ散歩にでかけた。暗さが深まっていったが、歩きつづけていた。笑いも少しずつ消えてゆき、口数も少なくなっていった。友情や信頼、共有された現前やこの夜のあらゆるものの心地よさといったものはありつづけた。私は、なにも考えていなかった。眼を開いて、耳をかたむけていた。あたりは一面漆黒の闇で、空は驚くほどあかるく、森はかすかにざわめきながらも沈黙につつまれていた。ときおり、枝がみしみし音をたてたり、動物の鳴き声がしたり、歩く一歩ごとにかすかな足音がした。このとき、沈黙はますますはっきりと聴きとれるようになっていた。そして突然……。なにが起こったのだろうか。なにが起こったわけでもなかった。そこには万物があった。まったく、会話のひとつも、意味も問いかけもなかった。ただ驚きとあたりまえのことと、終わることのないようにさえ思われた幸福と、いつまでもつづくかに思われた平穏だけがあった。私の頭上には、無数の、数えがたい数の、光り輝く満点の夜空があり、私のまわりにはこの空のほかにはなにものもなく、私はその一部と化していた。私のまわりには、いわば幸福な振動であり、主体も客体もない喜びにほかならない(万物のほかには、なんの対象もなく、それ自身のほかには、なんの主体もないのだから)この光のほかにはなにもなく、この漆黒の闇のなかにあって、私のうちには万物のまばゆいほどの現前のほかにはなにもなかった。平穏。はかりしれないほどの平穏。単純さ、平静さ。歓喜。最後の二つのことばは矛盾しているように思われるかもしれないが、そこにあったのはことばではなく経験であり、沈黙であり調和だったのだ。それはいわば、まったく正しい和音のうえに付された終わることのないフェルマータであり、つまるところ世界そのものだった。私は申し分なく、驚くほど申し分なかった。もはやそれについてなにひとつ語る必要など感じないくらいに、それがずっとつづけばいいのにという欲望すら感じないくらいに、申し分なかった。もはやことばも、欠如も、期待もなかった。現前の純然たる現在。自分が散歩していたと言うのさえはばかられるほどだ。そこにはもはや散歩しか、森しか、星ぼししか、私たちの一団しかなかった……。もはや【自我】も、分離も、表象もなかった。万物の沈黙に満ちた現前以外のなにもなかった。もはや価値判断もなく、現実以外のなにものもなかった。もはや時間もなく、現在以外のなにもなかった。もはや無もなく、存在以外のなにもなかった。もはや不満も、憎しみも、恐れも、怒りも、不安もなかった。喜びと平安以外のなにもなかった。もはや演技も、幻想も、嘘もなく、私をふくみこんではいるものの私がふくみこんでいるわけではない真理以外のなにもなかった。この状態が持続したのは、おそらく数秒のことだったろう。私は高揚させられると同時に宥(なだ)められ、高揚させられると同時にかつてないほどの穏やかさのうちにあった。離脱。自由。必然性。やっとそれ自身へとたちもどった宇宙。それは有限なのだろうか、それとも無限なのだろうか。そんな問いがたてられることさえなかった。もはや問いかけすらなかった。だからこそ、答えがでるはずもなかった。あたりまえのものだけが、沈黙だけがあった。あるのは真理だけで、ただしそれを語ることばはなかった。あるのは世界だけで、ただしそこには意味も目標もなかった。あるのは内在だけで、ただしその逆をなすものはなかった。あるのは現実だけで、ただし他人はいなかった。信仰もなければ、希望も、約束もない。あるのは万物だけ、その万物の美しさ、その真理、その現前だけだった。それで十分だったのだ。それだけで十分だなどという以上のものになっていた。

【『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル:小須田健〈こすだ・けん〉、C・カンタン訳(紀伊國屋書店、2009年)】

 もう少し続くのだがこれで十分だろう。悟りとは真理に触れた瞬間である。生き生きと語られるのは生の流れ(諸行無常)と万物が一つにつながる生の広大さ(諸法無我)である。これに優る不思議はない。思議し得ぬがゆえに不可思議とは申すなり。

 悟りは不意に訪れるものだ。人は忽然(こつぜん)と悟る。風や光のように自ら起こすことはできない。

 ここで一つの疑問が立ち上がる。修行や瞑想に意味はあるのだろうか? クリシュナムルティは「ない」と断言している。だが私は「ある」と思う。

 クリシュナムルティは努力をも否定した(『自由とは何か』J・クリシュナムルティ)。努力とは一種の苦行である。そのメカニズムは抵抗や負荷に耐えることで、「耐性の強化」に目的がある。ま、我慢比べみたいなものだろう。今たまたま「我慢」という言葉を使ったがここにヒントがある。元々この言葉は仏教用語で「我慢ずる」と読む。つまり「我尊(たっと)し」との思い込みが我慢の語源なのだ。

 宗教家という宗教家が皆思い上がっている。真理の独占禁止法があれば全員逮捕されていることだろう。額に「我こそは正義」というシールを貼っているような輩(やから)ばかりだ。

 努力は一定の形に自分を押し込める営みだ。そして努力は成果を求める。思うような結果が出ないと「無駄な努力」といわれる。努力によって培われるのは技術である。それが最も通用するのは職人やスポーツ選手の世界だろう。特定の動きに特化した体をつくることで必ず何らかのダメージが形成される。鍛えることができるのは筋肉に限られるため、鍛えられない関節や腱が悲鳴を上げる。

 技術が洗練の度合いを増して芸術の領域に近づく過程で真理が垣間見えることは決して珍しいことではない。彼らの言葉に散りばめられた透徹、達観、洞察が悟性を示す。

 だが真の悟りには世界を一変させる衝撃がある。共通するのは「ただ現在(いま)」「ただ在る」という瞬間性である。過去のあれこれを足したり引いたりして未来の答えを求めるのが我々の日常だ。不安も希望も現在性を見失った姿だ。過ぎ去った過去と未だに来ない未来を我々は生きているのだ。

 私が修行に意味があると考える理由は「行為を修める」ところにある。欲望を慎み鎮(しず)める作業を修行と考えることはできないだろうか? クリシュナムルティが「(瞑想の)方式に意味はない」としたのは方式が目的化することを嫌ったためだろう。だが想念を冥(くら)くするためには先を往く人の手助けが必要だ。悟りはアザーネス(他性)であるとしても自分の感度を高めておくことは必要だろう。

2019-12-10

ブッダが悟った究極の真理/『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』ウィリアム・ハート


『マインドフルネス瞑想入門 1日10分で自分を浄化する方法』吉田昌生
『マインドフルネス 気づきの瞑想』バンテ・H・グナラタナ

 ・ブッダが悟った究極の真理

『呼吸による癒し 実践ヴィパッサナー瞑想』ラリー・ローゼンバーグ
『「瞑想」から「明想」へ 真実の自分を発見する旅の終わり』山本清次

 ブッダはからだを観察しながら、心も観察した。そして、心が意識(ヴィンニャーナ)、知覚(サンニャー)、感覚(ヴェーダナー)、反応(サンカーラ)という、大きくわけて四つのプロセスから成り立っていることを発見した。

【『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』ウィリアム・ハート:日本ヴィパッサナー協会監修、太田陽太郎訳(春秋社、1999年)以下同】

ホモ・デウス』の扉でユヴァル・ノア・ハラリが「重要なことを愛情をもって教えてくれた恩師、S・N・ゴエンカ(1924~2013)に」と献辞を捧げている。私はたまたま3年前に本書を読んでいた。ハラリがヴィパッサナー瞑想を行っていることを知ったのもつい最近である。ユダヤ人とは人種概念ではなくユダヤ教信者を指す(厳密には違うが→ユダヤ教~ユダヤ人とユダヤ教~:イスラエル・ユダヤ情報バンク)。寡聞にして知らなかったのだがイスラエルのユダヤ教人口は75.4%であるという(2011年)。つまりユダヤ人ではない人々が存在する(※母親がユダヤ人であれば子供はユダヤ人と認められる。父親だけの場合は不可)。20%はアラブ系らしいがパレスチナ人なのかもしれない。ひょっとするとハラリは内面において既にユダヤ人ではない可能性もある。

 原題は『The Art of Living: Vipassana Meditation: As Taught by S. N. Goenka』(1987年)である。アート・オブ・リビングは通常「生の技法」と訳される。日本語の技はテクニックに近いイメージがあるので「生きる業(わざ)」としてもいいのだが、今度は業(わざ)が業(ごう)につながってしまう。とはいえ「生の芸術」だと直訳すぎるし、「生の嗜(たしな)み」だと控えめすぎる。ここは思い切って「洗練された生き方」でどうだ? 個人的には「流れるように生きる」と受けとめている。

 この後、「意識は心のアンテナ」「知覚は、認識をする」「データ識別~価値判断~快・不快の感覚」「心は好き嫌いという形で反応する」というプロセスが示される。認識を深めたのが唯識(ゆいしき)だ。


 五つの感覚器官のどこでなにを受信しても、それはかならず、意識、知覚、感覚、反応というプロセスを通ることになる。この四つの心のはたらきは、物質をつくる微粒子よりスピードが速いという。心がなんらかの対象物に接触すると、その瞬間、電光石火のごとく四つのプロセスが走る。つぎの瞬間、また接触が起こり、同じようなプロセスが走る。これをつぎつぎにくりかえしてゆくのである。そのスピードがあまりにも速いため、人はそのことに気がつかない。ある反応が長時間くりかえされて強化されたとき、はじめてそれが意識のなかにあらわれ、気がつくのである。
 人間をこのように説明してゆくと、その実体というよりも、その虚体とでもいうべき事実におどろかされる。わたしたちは、西洋人であれ、東洋人であれ、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒、無神論者、そのほかどんな人間であれ、だれもが自分のなかに「わたし」という一貫したアイデンティティー(主体)を持ち、それを生来信じて疑わない。10年前の人間が本質的には今日なお同じ人間であり、10年後も同じ人間であり、さらに死んだあとの来世も同じ人間でありつづけるだろう、とばくぜんと仮定して生きている。どのような人生観、哲学、信仰を持っていたとしても、実際はめいめいが「過去の自分、いまの自分、将来の自分」というものを中心にすえて生きているのである。
 ブッダはこのアイデンティティーという直観的な概念に挑戦した。だからといって、あらたに独自の概念をつくり、理論に理論をぶつけたわけではない。ブッダは何度もこう念を押している。自分は意見を述べているのではない。実際に体験した事実、だれもが体験できる道、それを述べているにすぎない、と。「さとりを開いた者は、すべての理論を放棄する。なぜなら彼は、物質、感覚、知覚、反応、意識、それらの本質およびその生成と止滅を見きわめているからである」外見はどうであれ、人間は一つ一つの密接に関係した減少が連なって起こる存在でしかない。ブッダはそのことに気づいたのである。個々の減少はその直前の現象の結果であり、直前の現象のあと間髪をいれずに起こる。酷似した現象が切れ目なく起こると、連続したもの、一つのアイデンティティーを持つもののように見える。しかし、それはうわべの真理にすぎず、究極の真理ではない。
 川とわたしたちが呼ぶものは、実はたえまない水の流れである。ローソクの火は止まっているように見えるが、よく見るとローソクの芯から生じた炎がつぎからつぎへと燃えている。一つの炎が燃え、その瞬間またつぎの炎が燃える。一瞬一瞬、炎が燃えつづけている。電球の光も川のように連続した流れである。フィラメントのなかの高周波によって生じるエネルギーの流れなのである。しかし、わたしたちはいちいちそこまで考えない。一瞬一瞬、過去の産物として新しいものが生まれ、つぎの瞬間、またべつの新しいものが生まれる。この現象はとてつもないスピードで切れ目なく起こり、わたしたちには感じ取る力がない。このプロセスのある一瞬をとらえて、その一瞬の現象が直前の現象と同じだともいえないし、また同じでないともいえない。だが、いずれにしろプロセスは進行してゆく。
 同様に人間は完成品でも不変の存在でもなく、一瞬一瞬、休みなく流れつづけるプロセスにすぎない、とブッダはさとった。ほんとうに「存在している」ものなどなにもない。ただ現象のみが起こりつづけている。ひたすら何かに「なる」というプロセスが起こっているにすぎないのである。(中略)より深いレベルの現実を見れば、生物、無生物を問わず、宇宙全体がたえずなにかに「なる」というプロセスの集まりであり、生まれては消える現象なのである。(中略)
 これこそが究極の真理である。だれもがいちばん関心を持っている「自分」というものの現実である。これこそが、わたしたちが巻き込まれた世界のからくりだ。この現実を自分でじかに体験し、正しく理解することができたなら、苦から抜け出すいとぐちを見つけることができるだろう。

川はどこにあるのか?
現象に関する覚え書き
湯殿川を眺める

死別を悲しむ人々~クリシュナムルティの指摘」は自我という現象が川そのものであり、思い出(記憶)に潜む六道輪廻まで明らかにしている。

 アントニオ・ダマシオ著『進化の意外な順序』を読めなくなるのも当然だろう。現代社会のホメオスタシスを成り立たせているのは知識と技術であり、我々は言葉という幻想を共有しながら進化に進化を遂げて地球環境を破壊するまでに至った。

「サティア・ナラヤン・ゴエンカ(英: Satya Narayan Goenka、1924年1月30日 - 2013年9月29日)は、ミャンマー出身のヴィパッサナー瞑想の在家指導者。レディ・サヤド系の瞑想法の伝統を、その孫弟子にあたるサヤジ・ウ・バ・キンから受け継ぎ、欧米・世界に普及させた」(Wikipedia)。ほほう。在家指導者なのね。現代のミリンダ王の一人か。

 これは簡単そうで実に難しい作業である。一言でいえば「映画を見るように現実を見ることができるかどうか」である。例えばあなたのことを誰かが馬鹿にしたとする。「何だコラ、てめえは喧嘩を売ってんのか?」と応じるのが私の常であるが、ここで「馬鹿にする人がいる」とただ見つめるのが瞑想である。瞑想とは観察なのだ。殴られた時に「殴る人がいる」と観察するのはかなり難しい。病苦も同様で「苦しさ」を客観的に見つめる視点が求められる。見るためには距離が必要である。この距離こそが「私という自我から離れる」ことを意味する。

 苦楽に永続性はない。喜怒哀楽は刻々と流れ去る。確かに存在するのは現在だけだが、今この一瞬は次々と過去のものとなってゆく。

 死を前にして苦しむことは多い。むしろありふれた光景と言ってよい。なぜ苦しむのであろうか? それは苦こそが生の本質であるからだ。登山は山頂が最も苦しいし、長距離走も短距離走もゴールが一番苦しい。我々は苦しむために生きているのだ。苦しみが薄いと味気ない人生となってしまう。そうであれば自ら勇んで走り出すことだ。ただ独り己(おの)が道を。

2019-06-09

同調ハミング/『心身を浄化する瞑想「倍音声明」CDブック 声を出すと深い瞑想が簡単にできる』成瀬雅春


『ベッドの上でもできる 実用介護ヨーガ』成瀬雅春

 ・同調ハミング

『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化』スティーヴン・ミズン
・『言葉はなぜ生まれたのか』岡ノ谷一夫:石森愛彦絵
・『言葉の誕生を科学する』小川洋子、岡ノ谷一夫

 私はこれまで、倍音声明を体験する会を数多く開いてきました。参加者は最初、声を出す瞑想にとまどうようです。
 しかし、会も終盤となると、泣きだす人や身体が震えだす人、あくびが止まらなくなる人が続出します。
 こうした反応は、心身の浄化(じょうか)を意味しています。カルマ(業〈ごう〉)の解消といってもいいでしょう。
 また、倍音声明の会では、多くの人がキラキラした不思議な高音を聴くことが多いようです。フルートのような音や太鼓の音、シンセサイザー、川の水流音、オーケストラ、般若心経(はんにゃしんぎょう)、ホラ貝、讃美歌、鐘の音、ヴァイオリンなど、人によってさまざまな音が聴こえてきます。

【『心身を浄化する瞑想「倍音声明」CDブック 声を出すと深い瞑想が簡単にできる』成瀬雅春〈なるせ・まさはる〉(マキノ出版、2010年)】

 声明(しょうみょう)とは梵語や漢語の経文に節(ふし)をつけて唱えることであるが、倍音声明の場合節はつけない。聖音のOM(AUMとも/オーム)に近い。オームは東に伝わって「阿吽」(あうん)となり、西に伝わって「アーメン」となったという俗説がある。


「キラキラした不思議な高音」はホーミーのようなものだろう。バイクに乗っているとヘルメット内で風切り音がパトカーのサイレンに聴こえることがよくある。


 音は振動である。普段我々が意識することはないが周波数には形がある。


 塩で驚いてはいけない。水までもが形を変えるのだ。


 具体的なやり方はこうだ。

 倍音声明では、母音(ぼいん)の発声をくり返すことを基本とします。

【「ウー」→「オー」→「アー」→「エー」→「イー」→「ムー(低音のハミング)」】

 発声はこの順番を守ってください。
 息継ぎをしながら、同じ音を一定時間唱えてから、次の音に移ります。
 多人数で低音を連続的に出しながら、声によるヴァイブレーションによって、倍音(基音の整数倍の振動数を持つ音)を意図的に発生させるのです。




 言葉の基本となるのはM音という説がある。英語だと母親をママといい、日本語だと食べ物のことをマンマという。「ムー(低音のハミング)」は多分正確ではない。「フームー」と鼻から息を吐いて口蓋を震わせるのだろう。これはスティーヴン・ミズンが音楽と言語の共通の先駆体と想定した「Hmmmm」「Hmmmmm」と一致している(『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化』)。不思議なことにヒンドゥー教で宇宙の根本原理とされるブラフマン(brahman)にも「hm」が入っている。

 私はかねがね日常会話に精彩を加えるのは相槌だと考えているのだが、人が本当に得心がいった時に思わず発する「んんっ」という音は全身を震わせて受け止める姿勢の表れであろう。私が原丈人〈はら・じょうじ〉を只者ではないと思ったのも彼の相槌の深さに直ぐ気づいたからである。

 付属のCDを聴きながら行うと容易に同調できる。日本仏教のお経は漢語のため音の力が弱い。倍音声明はわずか6音だがサンスクリットの詠唱に近づける。ただしこれを瞑想とするのは大風呂敷を広げすぎだ。同調ハミング(あるいはハミング・コミュニケーション)で構わないだろう。と書きながら、ハミング(humming)やハーモニー(harmony)にも「hm」音があることに気づいた。



ハミングがウイルスを防御/『舌(べろ)トレ 免疫力を上げ自律神経を整える』今井一彰

2019-03-25

六道輪廻/『マインドフルネス 気づきの瞑想』バンテ・H・グナラタナ


『呼吸による癒し 実践ヴィパッサナー瞑想』ラリー・ローゼンバーグ

 ・六道輪廻

『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』ウィリアム・ハート
『「瞑想」から「明想」へ 真実の自分を発見する旅の終わり』山本清次

 こうして私たちは、ふと人生をただ過ごしているということを理解します。平静を装い、なんとか収入の範囲内でやりくりし、外から見ればうまくやっているようにも見えます。しかし失望したときや、自分に関するいろいろなものが崩れていくと感じたとき、問題を抱えるのです。混乱します。混乱していることは知っていますが、その混乱をうまく隠すのです。
 他方、そうしたあらゆる不満のさらに奥のほうでは、何か別の生き方が必要だとか、世の中を見るもっとよい方法や、より充実して人生を過ごす方法が必要だ、ということも知っています。ときにはよい仕事を得たり、恋をしたり、勝負に勝ったりなど、好ましいことが訪れることもあるでしょう。しばらくのあいだ物事はよい方向に向かいます。人生が豊かで明るくなり、不満や退屈がなくなります。経験するあらゆることが好ましいほうに進み、「よし、うまくいった。これで幸せになる」と考えます。しかしその後、その好ましい状況もまた風に吹かれる煙のように徐々に消えていくのです。思い出だけが残ります。思い出と、何かがおかしいという漠然とした感覚が後に残るのです。
 私たちは、人生には深遠で優しい、まったく別の領域がきっとある、ということを感じているものの、どうもあまりそのことを理解していません。その世界から切り離されていると感じてイライラしています。何か心地よい楽しさから切り離されていると感じるのです。実際のところ、私たちは人生に触れていません。人生をよいものにつくり直そうともしていないのです。そしてその後、漠然とした“何かがおかしい”という感覚も消え、もとのいまいましい現実に戻ります。世の中がいつものひどく不快な場所に見えます。これは感情のジェットコースターに乗るようなもので、高いところに憧れつつも、傾斜面の一番低いところで多くの時間を過ごしているのです。

【『マインドフルネス 気づきの瞑想』バンテ・H・グナラタナ:出村佳子〈でむら・よしこ〉訳(サンガ、2012年)】

 真の意味で出家した者は世俗の姿がよく見える。彼らは世俗から離れているゆえに世俗の全体が見えるのだ。我々にとって幸福とは欲望を満たすことであるが、心の飢えや渇きが満たされることは決してない。遊園地で楽しさを満喫して、帰り道で疲労を味わい、明くる日からやりたくない仕事に束縛されるのが私の人生だ。

 幸福も不幸も長く続かない。生とは変化の異名である。諸行無常という言葉を知っている人は多いが実感する人はまずいない。「私」という存在を変わらぬものと錯覚した途端、世界は固定化される。

 冒頭に「ヴィパッサナー瞑想は簡単なものではありません」とある。のっけから馬脚を露(あら)わしていて笑ってしまった。簡単だとか難しいだとか言っている間は「瞑想が方式」になっているのだ。そんなことは悟りに至っていない私ですらわかる。

 スリランカ仏教(南伝仏教、上座部仏教、テーラワーダ仏教とも)はブッダの肉声を伝えていて魅了されるのだが、個々の僧を見ると妙な派閥意識の臭みが抜けていない。例えばスマナサーラの著作の量の多さなどに至っては「悟りの商品化」にすら見える。サンガという共同体に束縛されている姿がどうしても好きになれない。

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2017-09-01

出息入息に関する気づきの経/『呼吸による癒し 実践ヴィパッサナー瞑想』ラリー・ローゼンバーグ


『悲鳴をあげる身体』鷲田清一
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『マインドフルネス瞑想入門 1日10分で自分を浄化する方法』吉田昌生
『マインドフルネス 気づきの瞑想』バンテ・H・グナラタナ
『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』ウィリアム・ハート

 ・出息入息に関する気づきの経

悟りとは

アーナーパーナサティ・スートラ(出息入息に関する気づきの経)

 瞑想修行者は、森に行き、木陰に行き、あるいは空き家に行って足を組んで坐り、身体を真っ直ぐにして、気づきを前面に向けて確立する。常に気をつけて、瞑想修行者は息を吸い、気をつけて瞑想修行者は息を吐く。

――十六の考察

最初の四考察(身体に関する組)
1.息を長く吸っているときには、「息を長く吸う」と知り、息を長く吐いているときには、「息を長く吐く」と知る。
2.息を短く吸っているときには、「息を短く吸う」と知り、息を短く吐いているときには、「息を短く吐く」と知る。
3.「全身を感じながら息を吸おう。全身を感じながら息を吐こう」と訓練する。
4.「全身を静めながら息を吸おう。全身を静めながら息を吐こう」と訓練する。

第二の四考察(感受に関する組)
5.「喜悦を感じながら息を吸おう。喜悦を感じながら息を吐こう」と訓練する。
6.「楽を感じながら息を吸おう。楽を感じながら息を吐こう」と訓練する。
7.「心のプロセスを感じながら息を吸おう。心のプロセスを感じながら息を吐こう」と訓練する。
8.「心のプロセスを静めながら息を吸おう。心のプロセスを静めながら息を吐こう」と訓練する。

第三の四考察(心に関する組)
9.「心を感じながら息を吸おう。心を感じながら息を吐こう」と訓練する。
10.「心を喜ばせながら息を吸おう。心を喜ばせながら息を吐こう」と訓練する。
11.「心を安定させながら息を吸おう。心を安定させながら息を吐こう」と訓練する。
12.「心を解き放ちながら息を吸おう。心を解き放ちながら息を吐こう」と訓練する。

第四の四考察(智慧に関する組)
13.「無常であることに意識を集中させながら息を吸おう。無常であることに意識を集中させながら息を吐こう」と訓練する。
14.「色あせていくことに意識を集中させながら息を吸おう。色あせていくことに意識を集中させながら息を吐こう」と訓練する。
15.「消滅に意識を集中させながら息を吸おう。消滅に意識を集中させながら息を吐こう」と訓練する。
16.「手放すことに意識を集中させながら息を吸おう。手放すことに意識を集中させながら息を吐こう」と訓練する。

【『呼吸による癒し 実践ヴィパッサナー瞑想』ラリー・ローゼンバーグ:井上ウィマラ訳(春秋社、2001年)】

 単純な行為である。単純であるがゆえに難しい。何もしないことが瞑想だと思われがちだが実はそうではない。フル回転しているコマが止まっているように見えるのと一緒である。卑近な例を挙げれば美しい風景に心を奪われる時、スポーツでトレーニングの威力を発揮する時、ふと耳にした音楽に感動する時、我々は瞑想に近い位置にいる。

 上記テキストには明らかな間違いがある。「集中」は瞑想ではない。「注意」が瞑想なのだ。また「訓練」という言葉も相応しくない。「調(ととの)える」「修める」とすべきだろう。繰り返し行う訓練は心を鈍感にし瞑想を儀式化する。仏教が形骸化した原因もここにある。こうした言葉の誤りが伝承によるものか、あるいは翻訳によるものかはわからない。自分の感性で見抜けばいいだろう。教条主義から離れて軽やかに生きることがブッダの心にかなうと思う。

 本書は実践を踏まえた上で「出息入息に関する気づきの経」を解説した一書で、ヴィパッサナー瞑想関連本の中で一番しっくり来た。ただしヴィパッサナーが「型」になれば瞑想の果実を得ることは難しい。また瞑想と筋トレは異なる。やればやるほど力がつくわけでもない。

 瞑想とは「今」を気づく行為である。恐怖に駆られた時、怒った時、焦った時、驚いた時、失敗した時、事故を起こした時、転んだ時に呼吸を意識できるかどうかである。浅い呼吸を自覚できればそこで深呼吸が可能となる。

 特段大袈裟に考える必要はないだろう。ただ「呼吸を見つめる」という意識を普段から持てばよい。その瞬間、余計な不安が消える。具体的なやり方については「アーナーパーナサティの完全技法と自然法」が詳しい。



六道輪廻/『マインドフルネス 気づきの瞑想』バンテ・H・グナラタナ

2015-03-13

「我々は意識を持つ自動人形である」/『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ


『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン
『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫

 ・手引き
 ・唯識における意識
 ・認識と存在
 ・「我々は意識を持つ自動人形である」
 ・『イーリアス』に意識はなかった

『新版 分裂病と人類』中井久夫
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗

 この説によれば、意識は何ら活動しておらず、実際、何もすることはできないという。ハーバート・スペンサー(訳注 1820-1903、イギリスの哲学者)は、厳密な進化論と矛盾しないためにはこのように意識を一段低く見るしかないとした。現実的な実験主義者の多くは今なお彼と意見を同じくしている。動物は進化し、その過程で神経系やその機械的反射作用の複雑性が増す。神経がある一定の複雑性に達すると、意識が生まれ、この世界の出来事をただ傍観者として眺めるだけの、救いのない行動を始めるというのだ。
 私たちの行動は、脳の配線図と、外界の刺激に対する反射作用とに完全に制御されている。意識は配線が出す熱であり、随伴的な現象にすぎない。シャドワース・ホジソン(訳注 1832-1912、イギリスの哲学者)が言うように、意識が持つ感情は、色そのものによってではなく、色のついた無数の石によってまとまりを保っている、モザイクの表面の色にすぎない。あるいは、トマス・ヘンリー・ハクスリー(訳注 1825-95、イギリスの生物学者)がある有名な論文で主張したように、「我々は意識を持つ自動人形である」。

【『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ:柴田裕之訳(紀伊國屋書店、2005年)】

 トマス・ヘンリー・ハクスリーは王立協会の会長を務めた人物で、オルダス・ハクスリーの祖父に当たる。彼もまたダーウィンの進化論を支持した。この文章は意識に対する様々な見解を紹介している件(くだり)なのだが、実は意識が「何であるのか」すらもわかっていない。

 ともすると意識を高等なものと考えがちだが、ただ単に意識という反応があるだけなのかもしれない。

 私は毎度書いている通り、「生とは反応である」との持論をもつゆえに異論はない。ただし教育と努力の可能性を考える必要があろう。

 チンパンジーの社会では力の強い者がボスとして君臨する。ボスが老いたり、弱ったりすれば若いオスがボスをこてんぱんにする。文字通り暴力が支配する世界だ。時には2位とそれ以下のチンパンジーが徒党を組んで襲うケースもある(『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール)。

 ヒトの場合ももちろん体が大きくて力の強い者が優位である。子供社会を見れば一目瞭然だ。しかしながらヒトの場合、努力で力に対抗し得る。例えば空手・柔道・システマなどを習えば、その【技術】によって生まれついた力の差を克服できるのだ。

 そして高度に発達した社会では力よりも知性の優れた者が後世に遺伝子をのこす確率が高まる。具体的には人々を動かす政治力であり、時には人を騙す能力となる。「嘘をつく」というのは知的に高度な行為であることを見逃してはなるまい。

 こう考えてみると、教育の本質が「技の獲得」にあることが見えてくる。

 西暦1700年か、あるいはさらに遅くまで、イギリスにはクラフト(技能)という言葉がなく、ミステリー(秘伝)なる言葉を使っていた。技能をもつ者はその秘密の保持を義務づけられ、技能は徒弟にならなければ手に入らなかった。手本によって示されるだけだった。

【『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー:上田惇生〈うえだ・あつお〉編訳(ダイヤモンド社、2000年)】

 近代の歴史とも見事に符合する。中世以降、宗教が後(おく)れをとったのもここに理由があると思われる。科学的視点を欠いた宗教は「秘伝」を重んじて、「技能」を軽視したのだろう。キリスト教においてはプロテスタントが登場するまで聖書すら「秘伝」であった。これまた16世紀の歴史である。

術とはアート/『言語表現法講義』加藤典洋

 そして中世に「マネー」が生まれた。

マネーと民主主義の密接な関係/『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」 なるほど!「マネーの構造」がよーく分かった』天野統康

 もちろん貨幣経済は古くから存在したが信用創造という概念はなかった。ユダヤ人の金貸しが発行した預り証が紙幣の原型であり、彼らは更に為替・証券・債権を誕生させ、銀行・保険・株式会社をつくり上げる。

 資本主義は資本がすべてであり、あらゆるものが商品化されるシステムだ。欲望まみれの社会で生き残るのはカネを掴んだ者だ。幸福は金額と化す。我々の生き方や脳はマネーに支配されている。マネーこそは中世以降、完全に世界を征服した宗教といっても過言ではない。単なる約束事であるにもかかわらず、誰もがその存在と価値を信じ込んで疑うことがないのだから。

 現代社会はマネーに対する反応で動いている。そしてグローバリゼーションという名の下で、明らかに経済が政治よりも優位性を強めている。多国籍企業が持つ力は既に国家を凌駕しつつある。

資本主義経済崩壊の警鐘/『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン

「意識を持つ自動人形」をやめることは可能だろうか? 極めて困難だ。我々が小説や映画やドラマ、漫画などを好むのは、「感情を操られたい」願望がある証拠だろう。学校や企業では「自動」の速度や合理化を競っている節すら窺える。

 ではどうするのか? 「止まる」ことだ。動くのをやめて止まればいい。そして心の動きまで止めてしまう。これを止観(しかん)という。そう。瞑想だ。本当に生きるためには死の淵まで降りる必要がある。瞑想は時間を止める行為でもある。三昧に至れば欲望は洗い落とされる。ま、至っていない私が言うのも何だが。


あたかも一角の犀そっくりになって/『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳

2015-02-20

目的は手段の中にある/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一


世界中の教育は失敗した
手段と目的
理想を否定せよ
創造的少数者=アウトサイダー
公教育は災いである
日本に宗教は必要ですか?
・目的は手段の中にある

 間違った手段はけっして正しい目的をもたらすことはできません。目的は手段の中にあるからです。

【『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】

 LSD(幻覚剤)を服用すると悟りとほぼ同じ状態が現れる。側頭葉が活性化するのだ。


 1960年代前半までアメリカではLSDを取り締まる法律がなかった。ヒッピーによって1960年代半ばから始まるサイケデリック・ムーブメントは薬物から生まれたものだ。

 1960年代のロック・ミュージシャンの中には瞑想、ヨガ、ボディ・ビルを始めた人たちが多い。それにも理由がある。それは朝早く起きて、食生活に気を使いながら、坐禅、瞑想、呼吸法などをやると、ドラッグより求めていた同じ効果をよりコントロールした状態で得られると気が付いたからだ。

Ayuo.net 「何故1960年代のドラッグが無意味になったか。」

 クリシュナムルティは時折、嘲笑うかのように「LSDですか?」と言う。また、「“それ”をどうやって手に入れますか? お金を払いますか?」とも聴衆に訊ねる。たった今気づいたのだが、クリシュナムルティは「瞑想せよ」とは言ったことがない。どちらかというと「生そのものを瞑想の次元にまで深化させよ」とのメッセージ性が強い(『瞑想』J・クリシュナムルティ)。

 目的と手段が一致しないところに現代社会の不幸があるのだろう。クリシュナムルティの論理に従えば戦争を正当化することは不可能だ。「他人を殺す」という手段が正しくないのは明らかだ。

 バラ色の理想を示して人々に苦労を強いるのが指導者の役割である。そして苦役の果てに不毛な結果が待ち受けている。我々は皆が労働者であり兵士なのだ。一将功成りて万骨枯る。

 ブッダはテキストを否定した。彼が経典を書くことはなかった。クリシュナムルティは弟子をも否定し、「方法」をも否定した。「方法」を修行と戒律と言い換えてもよいだろう。元々は「行為を修める」のが修行の謂(いい)であるが、修行が規定化されると単なる義務の次元に堕してしまう。掃除や洗濯のレベルだ。

 瞑想をするから悟れるのか? 多分違うだろう。注意力が漲(みなぎ)るところに悟りの地平が現れるのだ。つまり瞑想は手段に過ぎない。

 人生とは不思議なもので「死ぬために生きている」ような節(ふし)がある。我々は「常に死につつある」のだ。その現実から目を背けて日常の中に没頭している。「今死ぬ」となれば脳は一変するだろう。「」の訓読みは「くら-い」である。「暗い」と同じ意味だ。そして「死」という意味もある。すなわち瞑想とは「今死ぬ」ことである。

 検索して初めて知ったのだが、「『冥福』という言葉はキリスト教や浄土真宗で使ってはいけない」(「ご冥福をお祈りします」の意味と正しい使い方)そうだ。

クリシュナムルティの教育・人生論―心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性

2015-02-19

「愛」という言葉/『未来の生』J・クリシュナムルティ


恐怖なき教育
・「愛」という言葉

「愛」という言葉は愛ではない。

【『未来の生』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1989年)】

 新しいキーボードが届いた。腱鞘炎の痛みをこらえて恐る恐る入力している。

「愛」という言葉は、「愛」を指し示しているが「愛」そのものではない。言葉の本質をたった一言で見事に射抜いている。言葉に基づく思考の欺瞞性もここにあるのだ。言葉はサインでありシンボルだ。当のものではない。

「慈悲」という言葉は慈悲ではないし、「悟り」という言葉も悟りそのものではない。


 行為を欠いた言葉は観念でしかない。仮想と言い換えてもよい。思考は仮想を現実化する。仮想現実(バーチャルリアリティ)とはインターネットやゲームを指して使われることが多いが、結局は「言葉と刺激」が支配する世界を意味する。

「愛」を言葉で説明することは可能だろうか? 愛の定義は果たして「愛」なのだろうか?

「悟り」もまた同様である。ニルヴァーナ(涅槃)に至ったブッダは真理(法)を説くことをためらう。「きっと誰一人理解する者はいないであろう」と。そこにこの世界を司る梵天(ブラフマー)が訪れ、説法を勧める。「梵天勧請」といわれる故事は、「悟りを言語化することの困難さ」を示したものだろう。私はクリシュナムルティの「プロセス」体験(『クリシュナムルティ・実践の時代』メアリー・ルティエンス)を通してそのような理解に至った(『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティも参照せよ)。

 瞑想とは「言葉から離れ」「言葉を死なせる」行為である。思考のシャットダウンを行うことによって自我は解体され、新しい生の水脈が流れ通う。そこにしか真の現実(リアリティ)は存在しないのだろう。

未来の生

2014-12-19

クリシュナムルティ、瞑想を語る


『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ

 ・クリシュナムルティ、瞑想を語る

 仏教者との対談である。相手は仏教論に持ち込もうと頑張っているが、クリシュナムルティは取り合わない。瞑目しながら、自己の内部を凝視しながら、言葉の選択からも離れて、クリシュナムルティという存在は振動する。


 この仏教者とは何度か対談しているようだ。








2014-04-08

脳は宇宙であり、宇宙は脳である/『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン


『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 ・脳は宇宙であり、宇宙は脳である

『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
『しらずしらず あなたの9割を支配する「無意識」を科学する』レナード・ムロディナウ
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル

 脳はニューロンとグリアという細胞が何千億個も集まってできている。その細胞の一つひとつが、都市と同じくらい込み入っている。それぞれに全ヒトゲノムが入っていて、複雑な営みのなかで何十億という分子をやり取りする。一つひとつの細胞がほかの細胞に電気パルスを毎秒何百回も送る。脳内で生じる数十兆のパルスそれぞれを1個の光子で表わしたら、目がくらむような光になるだろう。
 その細胞どうしをつなぐネットワークは驚異的に複雑なので、人間の言語では表現できず、新種の数学が必要だ。典型的なニューロン1個は近隣のニューロンと約1万個の結合部をもっている。何十億というニューロンがあることを考えると、脳組織わずか1立方センチに銀河系の星と同じ数の結合部があることになる。
 あなたの頭蓋骨のなかにある1300グラムのピンク色でゼリー状の器官は、異質な、計算する物質だ。小さな自己設定型のパーツで構成され、私たちがつくろうと志したことのあるどんなものもはるかに超えている。だから、自分が怠け者だとか鈍いと思っている人も、安心してほしい。あなたは地球上で最も活発で、最も鋭い生きものなのだ。
 それにしても、うそのような話だ。私たちはおそらく地球上で唯一、向こうみずにも自らのプログラミング言語を解読するゲームに打ち込むほど高度なシステムである。あなたのデスクトップコンピューターが、周辺装置を操作し始め、勝手にカバーをはずし、ウェブカメラを自分の回路に向けるところを想像してみてほしい。それが私たちだ。

【『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン:大田直子訳(早川書房、2012年『意識は傍観者である 脳の知られざる営み』改題)】

 今気づいたのだが著者は、リチャード・E・サイトウィック(リチャード・E・シトーウィック改め)『脳のなかの万華鏡 「共感覚」のめくるめく世界』の共著者であるデイヴィッド・M・イーグルマンとたぶん同一人物だろう。

 意識三部作としては、『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ→『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ→本書の順番で読むことを勧める。次にアントニオ・R・ダマシオへ進み、更に『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム、『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ、『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロースを読めば理解が深まる。たぶん天才になっていることだろう。

 宇宙に匹敵する広大な領域。それが脳である。脳が宇宙であるならば、宇宙が脳である可能性も高い(『宇宙をプログラムする宇宙 いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』セス・ロイド/『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック/『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル)。


 ニューロン(神経細胞)の数は「大脳で数百億個、小脳で1000億個、脳全体では千数百億個にもなる」(理化学研究所 脳科学総合研究センター)。大脳よりも小脳に多かったとは露知らず。そしてニューロンとニューロンをつなぐシナプスは1個につき1万箇所ある(生理学研究所)。ただし脳の状態をいくら調べたところで意識が解明されるわけではない。

何を意識の発生とするか


 私は意識発生のメカニズムを解く鍵は自己鏡像認知にあると考える。既に何度か書いてきたが、自己鏡像認知とは「相手の瞳に映る自分を理解する能力」と定義したい。「私」だけでは意識たり得ない。「私」を客観的かつ抽象的に捉える視点(メタ認知)こそが意識なのだ。

 しかしながら我々の日常生活は無意識で運転されている。

 車でいえば、教習所にいたときには、クラッチを踏んでギアをローに入れて……、と、順番に逐次的に学びます。
 けれども、実際の運転はこれでは危ないのです。同時に様々なことをしなくてはなりません。あるとき、それができるようになりますが、それは無意識化されるからです。
 意識というのは気がつくことだと書きましたが、今気がついているところはひとつしかフォーカスを持てないのです。無意識にすれば、心臓と肺が勝手に同時に動きます。
 同時に二つのことをするのはすごく大変です。けれどもそれは、車の運転と同じで慣れです。何度もやっていると、いつの間にかその作業が無意識化されるようになってくるのです。
 無意識化された瞬間に、超並列に一気に変わります。

【『心の操縦術 真実のリーダーとマインドオペレーション』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(PHP研究所、2007年/PHP文庫、2009年)】

論理の限界/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 例えば旅行に行くとしよう。行き先は意識的に選択するが、現地で何を見るかは条件反射的に行われる。すなわち何を見るかを我々は意識的に選べないのだ。五感は外界への反応に基いており、五感情報は一方的に受け取る性質を帯びている。

 意識が発生するのは違和感を覚える場合が多い。他者や世界を自分の外側に強く意識した時、自我意識が立ち上がってくるのではあるまいか。その意味で疎外感を知らない幼児が鏡像認知をできないのは当然である。もちろん国家意識も自我意識から芽生えたものだろう。

 瞑想が諸法無我の実践であるならば、シナプスの発火は止(や)み、自我は解体され宇宙に溶け込むのだろう。ジル・ボルト・テイラーがそう語っている。

あなたの知らない脳──意識は傍観者である (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)心の操縦術 (PHP文庫)


死の恐怖/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編

2014-04-07

ストーリー展開と主人公の造形が雑/『流刑の街』チャック・ホーガン


 残金すべてでチップをはずむと、ブーツの紐をきつく締め、ナップザックをかついで、家までの長い道のりを走る。
 家はボストン南東のクインシーにあった。13キロ離れている。
 走ることは浄化であり、瞑想だった。物騒な地区のひび割れた通りに、厚いブーツの重い足音が響く。

【『流刑の街』チャック・ホーガン:加賀山拓朗訳(ヴィレッジブックス、2011年)】

 走る描写が好きだ。私が走らないせいかもしれない。飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉の『汝ふたたび故郷へ帰れず』に名場面がある。歩くことが一本足で前へ進むことなら、走ることは跳ぶ行為だ。

 主人公はイラクからの帰還兵だ。不如意な生活、うだつの上がらぬ日々が続いた。暴漢に襲われ、仮借のない反撃を加える。その後、見知らぬ男からオファーがある。男も元軍人であった。仕事内容は麻薬組織の襲撃で、軍隊時代を彷彿(ほうふつ)とさせる生き生きした生活が蘇った。ドン・ウィンズロウ著『犬の力』と似ているが、私はプロパガンダ臭がない分、本書に軍配を上げる。

 ただ、文章は素晴らしいのだがストーリー展開と主人公の造形が雑だ。実にもったいないと思う。序盤の硬質な緊張感が中盤からダレ始める。で、最終的には安っぽいパルプ小説になってしまった。主人公のニール・メイヴンにリーダーとしての資質はなくても構わないが、あまりにもヒーロー的な要素に欠けている。復讐も中途半端だ。ボスのロイスと麻薬捜査官のラッシュも見分けがつかない。

 などと散々文句を並べておいたが、警句を思わせる文章を味わうだけでも損はない。最近のミステリ作品挫折率を思えば、そこそこ良作だと思う。

流刑の街 (ヴィレッジブックス)

2014-04-01

集団行動と個人行動/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ


『「瞑想」から「明想」へ 真実の自分を発見する旅の終わり』山本清次

 ・現代人は木を見つめることができない
 ・集団行動と個人行動

 私たちは自分のまわりに混乱、不幸、ぶつかり合う願望を見、そしてこうした混沌とした世界の現実に気づいて、真に思慮深くて真摯な人々──絵空事をもてあそんでいる人々ではなく、本当に真剣な人々──は、当然ながら行動という問題を考究することの大切さがわかるでしょう。集団行動があり、また個人行動があります。そして集団行動は一個の抽象物、個人にとって好都合の逃避となっています。つまり、この混乱、たえず起こっているこの不幸、この災いは集団行動によって何とか変えることのできる事態であり、それによって秩序を回復できると思うことによって、個人は無責任になるのです。集団というものは、間違いなく虚構の実体です。集団とは、あなたでありそして私なのです。あなたと私が真の行動というものを関係性において理解しないときにのみ、私たちは集団と呼ばれる抽象物に頼り、それによって自分の行動において無責任になるのです。行動を改善するため、私たちは指導者や、あるいは組織的な団体行動に頼ります。私たちが指導者に行動上の指示を仰ぐとき、私たちは常に、自分自身の問題、不幸を超克するのを助けてくれると思われる人を選びます。が、私たちは自分の混乱から指導者を選ぶので、指導者自身もまた混乱しているのです。私たちは、私たち自身に似ていない指導者を選びません。選べないのです。私たちは、私たちと同様に混乱した指導者しか選べないのです。それゆえ、そのような指導者、教導者、およびいわゆる霊的(宗教的)なグルは、私たちを常により一層の混乱、より一層の不幸へと導くのです。私たちが選ぶものは私たち自身の混乱に由来しているので、私たちが指導者に従うとき、私たちはたんに自分自身の混乱した自己投影物に従っているだけなのです。それゆえ、そのような行動は、直接的結果をもたらすかもしれませんが、結局は常により一層の災いに帰着するのです。(ニューデリー、1948年11月14日)

【『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1993年)以下同】

 長文のため一段落ごとに区切って紹介する。私が暴力について考えるようになったのはV・E・フランクルの『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』を読んでからのこと。20代から30代にかけて集中的にナチスものを読んだ。40代半ばでレヴェリアン・ルラングァ著『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』を読み、私の価値観は木っ端微塵となった。同時期に読んだユースフ・イドリース著『黒い警官』とジョージ・オーウェルの新訳『一九八四年』を私は「暴力三部作」と名づけた。

 他にはパレスチナに対するイスラエルの蛮行(『パレスチナ 新版』広河隆一、『アラブ、祈りとしての文学』岡真理)や黒人奴隷(『奴隷とは』ジュリアス・レスター、『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン、『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要)、そしてキリスト教による暴力(『魔女狩り』森島恒雄、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス)などが私の血となり肉と化した。

 暴力の問題を突き詰めてゆくとヒエラルキーに辿り着き、最終的には集団そのものが暴力であることに気づいた。集団は集団であるというだけで既に暴力的要因をはらんでいるのだ。なぜならそこに利害が絡んでいるためだ。集団には構成員を庇護する機能がある。また集団には必ず目的がある。守るためにも目的を果たすためにも力が求められる。そして求心力が強ければ強いほど暴力的な様相を帯びる。

 そこまでは自力で辿り着いた。だがそこから前へ進むことができなかった。その時、私はクリシュナムルティと遭遇した(クリシュナムルティとの出会いは衝撃というよりも事故そのもの/『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J・クリシュナムルティ)。

 集団は虚構であり個人を無責任にする。小林秀雄が次のように語っている。

 信ずることは諸君が諸君流に信ずるということですよ。知るということは万人の如く知ることですよ。人間にはこの二つの位置があるんです。知るってことはいつでも学問的に知ることです。
 信ずるってことは責任をとることです。僕は間違って信ずるかもしれませんよ。万人の如く考えないんだからね僕は。僕流に考えるんですから、もちろん僕は間違えます。でも責任はとります。それが信ずることなんです。
 だから信ずるという力を失うと人間は責任をとらなくなるんです。そうすると人間は集団的になるんです。「会」が欲しくなるんです。自分でペンを操ることが信じられなくなるからペンクラブが欲しくなるんです。ペンクラブは自分流に信ずることはできないんです。クラブ流に信ずるんです。クラブ流に信ずるからイデオロギーがあるんじゃないか。そうだろ? 自分流に信じられないからイデオロギーってもんが幅を利かせるんです。
 だからイデオロギーは匿名ですよ、常に。責任をとりませんよ。そこに恐ろしい力があるじゃないか。それが大衆・集団の力ですよ。責任を持たない力は、まあこれは恐ろしいもんですね。
 集団ってのは責任取りませんからね。どこへでも押し掛けますよ。自分が正しい、と言って。(中略)
 左翼だとか右翼だとか、みんなあれイデオロギーですよ。あんなものに「私(わたくし)」なんかありゃしませんよ。信念なんてありゃしませんよ。

【『小林秀雄講演 第2巻 信ずることと考えること 新潮CD』】

 書籍(『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること』)にも収められているが要旨をまとめた代物となっている。暴走族でなくとも集団は暴走しやすい。群衆の中から石を投げるような手合いが必ず現れる。人は責任を失うと容易に罪を犯す。そして集団はリーダーに依存することで一人ひとりは更に無責任の度合いを強める(信ずることと知ること/『学生との対話』小林秀雄:国民文化研究会・新潮社編)。

大衆は断言を求める/『エピクロスの園』アナトール・フランス

 このように私たちは、集団行動は──場合によってはやりがいがあるものの──災い、混乱に帰着せざるをえず、また個人の側の無責任をもたらすということ、そして指導者への服従は常に混乱をつのらせるということを見ます。けれども、私たちは生きなければなりません。生きることは行動することであり、存在することは関係することです。関係なしにはいかなる行動もなく、そして私たちは孤立して生きることはできません。孤立などというものはないのです。生きるとは、行動することであり、また関係することなのです。そのように、より一層の不幸、混乱を引き起こさない行動というものを理解するには、私たちは自分自身を、そのすべての矛盾対立する要素、たえず互いに闘っている多くの面と共に、理解しなければなりません。私たちが自分自身を理解しないかぎり、行動は必然的により一層の葛藤、不幸に帰着せざるをえないのです。


 社会をよりよくするために始めた運動がその正義感によって内部分裂をすることは決して珍しいことではない。むしろ純粋であればあるほど分裂しやすい傾向がある。目的が明らかであれば目的以外の行動は規制され、禁止される。集団は規則を必要とするのだ。そして今度は規則が人々を縛り、蝕んでゆく。組織が大きくなると成果が問われ、内部で競争が始まる。組織は自律的に分割統治へ至る。

 ですから、問題は理解と共に行動することであり、そしてその理解は自己認識によってのみもたらすことができるのです。結局、世界は私たち自身の投影です。あるがままの私、それが世界なのです。世界は私とは別個にあるのではなく、世界と私は対立しているわけではありません。世界と私は別々の実体ではないのです。社会は私自身であり、二つの別個の過程ではないのです。世界は私自身の延長であり、ですから世界を理解するためには、自分自身を理解しなければならないのです。個人は集団、社会に対立してあるのではありません。なぜなら個人は社会だからです。社会とは、あなたと私とその他の人々との間の関係です。個人が無責任になるときにのみ、個人と社会との間の対立があるのです。ですから、私たちの問題はとてつもなく大きいのです。あらゆる国、あらゆる集団、あらゆる人が直面しているとてつもない危機があります。その危機に対して私たち、あなた、私はどんな関係があるのでしょうか。そして私たちはどのように行動したらいいのでしょうか? 変容を起こすためには、どこから始めたらいいのでしょう? すでに言いましたように、もし私たちが集団に頼れば、出口はありません。なぜなら、集団は指導者を含蓄しており、ゆえに常に政治家、司祭、専門家によって搾取されるからです。で、集団を構成しているのはあなたと私なのですから、私たちは自分自身の行動に責任を持たなければならないのです。すなわち、私たちは自分自身の性質、ひいては自分自身を理解しなければならないのです。自分自身を理解することは、世間から引き籠もることではありません。なぜなら、引き籠もることは、孤立を含んでおり、そして私たちは孤立状態で生きることはできないからです。ですから私たちは、関係における行為というものを理解しなければなりません。そして、その理解は、自分自身の葛藤し、矛盾する性質への「気づき」にかかっているのです。そのなかに平和があり、そして私たちがあてにできる状態をあらかじめ思い描くことは愚劣だと私は思います。自分が知らない状態を私たちが思い描くことなく、ひたすら自分自身を理解するときにのみ、平和と静謐がありうるのです。平和の状態はあるかもしれませんが、しかしたんにそれについて思い描くことは無意味です。

 集団は人間を手段化する。人々に組織の手足となることを強要する。社会とは所属の異名であり、我々のアイデンティティはどこに所属しているかで決まる。そこに「平和と静謐」はなく、仕事と役割を与えられるだけだ。人生の幸不幸は集団内の序列で決まる。

 正しく行為するためには、正しい思考が必要です。正しく考えるためには、自己認識が必要です。そして自己認識は、孤立によってではなく、関係によってのみもたらすことができるのです。正しい思考は自分自身を理解することにおいてのみ起こりうるのであり、そしてそこから正しい行為が湧き起こるのです。自分自身――その一部ではなく、矛盾撞着した性質を含んだその中身の全部――を理解することから起こる行為こそが、正しい行為なのです。私たちが自分自身を理解するにつれて正しい行為が起こり、そしてその行為から幸福が生まれるのです。結局、私たちが望んでいるもの、様々な形で、あるいは様々な逃避――社会活動、官僚主義的栄達、娯楽、崇拝、語句の反唱、セックス、あるいはその他の活動を通じての無数の逃避――によって私たちのほとんどが捜し求めているものは幸福なのです。が、私たちは、これらの逃避が永続的な幸福をもたらさないこと、それらが束の間の気休めしかもたらさないことを見ます。根本的には、それらには何ら真実なるもの、何ら永続的な歓喜はないのです。

「様々な逃避」――何と辛辣(しんらつ)な指摘か。我々は現実から逃避し、生そのものから逃避し、自分自身からも逃避しているのだ。我々が人生に求めているのは「単なる刺激」だ。それを幸福、成功、満足と呼んでいるのだろう。集団が与えてくれるのは役割であって生き甲斐ではない。組織のために貢献することで自分の存在が大きくなったように錯覚するのも間違いである。所詮、部分は部品でしかない。

 さて、自己認識・自己理解の旅に出るとするか。

2013-09-15

集合知は沈黙の中から生まれる/『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン


『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている』山村武彦
『人が死なない防災』片田敏孝
『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一
『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』ジェームズ・R・チャイルズ
『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ
『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
・『群衆の智慧』ジェームズ・スロウィッキー

 ・集合知は群衆の叡智に非ず
 ・集合知は沈黙の中から生まれる
 ・真のコミュニケーション

『オープンダイアローグとは何か』斎藤環著、訳
『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』斎藤環、水谷緑まんが
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー

必読書リスト その五

 それでは集合知が生まれる場面を見てみよう。

 踏み込んだ質問が、踏み込んだ答えを引き出した。

【『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン:上原裕美子〈うえはら・ゆみこ〉訳(英治出版、2010年/原書、2009年)以下同】

 議論が深まるのは皆に共通する疑問を探り当てた瞬間だ。問題は常に氷山の一角として現前する。表面化していない海中に実体を隠しながら。大切なのは「問い」の質である。

 筆者であるクレイグ・ハミルトンから取材を受けた別の女性は、自分が体験した集団体験についてこう語っている。
「誰かが喋ると、それはまるで自分が喋ったかのように感じられました。私が喋ると、そこには自分がまったく感じられませんでした。まるで、ほんとうは私じゃないみたいに。まるで、私よりも大きな何かが、私を通して喋っているかのように。室内の空気は、川の中にいるような感じでした。……私たちは、それまで考えたこともなかったことを喋り始めました……何かが開かれ、それがまた別の何かを開いていくようでした」
 こうした理解は、急に皆が次の行動を察せられるようになる、という形で表面化する場合がある。少ない言葉でも意思疎通ができ、連帯感や共通の目的意識が増幅されるのだ。
 この現象は「わからない」という状態から生じることが少なくない。わからないことがあれば、人はそれぞれ心の内で考えを深め、多様な視点に耳を傾ける。専門家たろうとするのをやめ、心を開こうとする。認知科学者のフランシスコ・ヴァレラは、これを、「断絶が起きる瞬間、すなわち、私たちが“知る者”ではなくなるとき……私たちは入門者のようになり、目の前の作業に馴染もうとする」からだと説明した。言い換えれば、世界が馴染みの薄いものとなる瞬間に、人は新たなる道を探し、新たな行動を起こすチャンスを手にするのだ。
 集団が進んでリスクを負い、「わからない」という事実を認めるとき、深い洞察力が生じやすいというのは、集合知のパラドックスのひとつである。

 共感から連帯感が生まれ、連帯感が洞察に至る。発言と傾聴それ自体が一体となる様はまるで音楽のようだ。私も幾度か経験しているが、人とのつながりがシナプスのつながりに直接通じるような実感を覚えた。

「わからない」という自覚があるからこそ新たな視点が生まれる。

 人が心を開き、なおかつ自分の思うままにしようとせず、進んでその一分になろうとするとき、集合知は出現する。その成果は、たいていは予想外のものだ。当初は想像もしていなかったものが出てくる場合もある。(中略)「わかる」と「わからない」の狭間、新たな意味と視点が生じる小さな隙間に、知がたちのぼってくるのである。

「わかっている人」は傾聴することができない。他人を値踏みし、自分の発言の効果だけ考えている。

 集合知は会話によって導かれるが、それがもっとも強く意識されるのは、会話と会話のあいだに生じる沈黙においてである。

 ここ、アンダーライン。沈黙の中から集合知は生まれ、余韻から智慧が生じる。これはもう議論ではない。個々の存在を融合させる祈りの世界だ。

 集合知が生じるのは、自分たちが単なる外面的部品の総和ではないと理解したときだ。そこには個々の、集団の、そして大きな集合体としての内面的領域がある。傾聴するというのは、その人の中で、その集団の中で、大きな集合体の中で、何がほんとうに起きているのか好奇心を持つ行為だ。

 次から次へと閃(ひらめ)きはとどまることを知らない。傾聴は責任と好奇心に支えられていたのだ。

 皆で何かを生み出せるかどうかは、個人または小集団の「自分(自分たち)はつねに正しい」という意識を保留できるかどうかにかかっているのだ。確信を意識的に保留することで、その集団から新しいもの、たいていは予想外のものが出現する。

 これは正義感というよりも「行動の正しさ」を意味する。ライト・スタッフ(正しい資質)と言い換えてもよかろう。その雰囲気の中から「正しい声」が上がる。

 イロコイ族の言葉には「我らがひとつの心であるように」という表現があります。ひとつの心にならなければ、合意にはならないのです。
「あらゆる決断は、七世代あとに与える影響を考えて決めなければならない」という言葉は、ご存じの方も多いでしょう。
 リーダーには、民衆の心(ハート)と魂(スピリット)に糧を与える責任があります。きちんとした情報という糧です。
 部族の母には、冬を越せるように、そして仮に翌年が凶作となっても3年ぶんの冬を越せるように、とうもろこしの数を数えておく責任があります。それと同じように、心と魂を育む責任があるのです。(※ポール・アンダーウッド)

 この辺りに人間の適切なコミュニティの大きさを量るヒントがありそうだ。国家は大きすぎるし、議員の数も多すぎる。

(※ポール・アンダーウッドは5歳から、来客の話を繰り返す訓練を課せられた)
 すると父はこう言いました。
「とても上手になったな。あの方の心は聞けたかな?」
 どいういうこと?――と私は思いました。そこで数日ほど、いろんな人の胸に耳をくっつけてまわり、心臓の音を聞こうとしてみました。
 すると父は、私のためにもうひとつ学びの場を作りました。母に言って、新聞の記事を読みあげてもらうのです。そしてこう言いました。
「今の記事を理解したかっったら、行間を読まなくてはならないよ」
 なるほど、と私は思いました。行間、つまり、言葉と言葉のあいだに耳を澄ますのです。次にトンプソンさんの話を聞く機会がめぐってきたとき、私は彼の言葉と言葉のあいだに耳を傾けるようにしました。
 父が「お話はわかったかね。心は聞けたかな?」と言うと、私は「聞けた」と答えました。トンプソンさんは寂しかったのです。自分の思い出を共有してほしくて、何度も何度も話しに来るのです。それは、私の内側からごく自然に出てきた気づきでした。言い換えるならば、私の心がトンプソンさんの心と響き合ったのです。そのレベルで耳を傾けることができれば、聞こえてくるのは人々の声だけではありません。ほんとうに心から聞こうとすれば、森羅万象の声が耳に入ってくるのです。

 傾聴とは「言葉と言葉のあいだに耳を澄ます」ことなのだ。言葉尻を捉えて非難するところに集合知など生じるはずがない。心と心が響き合う様子が美しい音色の谺(こだま)を思わせる。

 集合知の出現を促すには、個人として、そして集団として、論理的な思考と象徴形式的(シンボル・メイキング)な思考の両方を持たなければならない。「象徴(シンボル)は扉です。その扉を通って、より大きな理解へと進むのです」とアンダーウッドは話している。順を追ったロジックと、自然に生まれる洞察、段階的な展開と、直感的な飛躍。箇条書きの説明と、詩的な描写。それらを包含し、より洗練された理解を生むための素地を作らなくてはならない。複数の知性が合わさり、しれにもとづいた健全な判断が生じるとき、集合知が形成されやすいのである。

 何ということか。集合知は瞑想とマンダラ的要素(シンボル)をも含んでいたのだ。共感的な沈黙の中から突如として智慧の稲妻が光る。あたかも人類が進化する瞬間を見ているようだ。

 いくつか参考リンクを示す。

チンパンジーの利益分配/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール

 共感は智慧を生むが、時に単なる同調へと傾く場合もある。

アッシュの同調実験/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム

コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ
比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ
あなたは人類全体に対して責任がある/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ

 あと一回書く予定である。



政党が藩閥から奪った権力を今度は軍に奪われてしまった/『重光・東郷とその時代』岡崎久彦