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2020-05-10

老人ホームに革命を起こす/『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ


『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『往復書簡 いのちへの対話 露の身ながら』多田富雄、柳澤桂子
『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子

 ・病苦への対処
 ・老人ホームに革命を起こす

『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
『アナタはなぜチェックリストを使わないのか? 重大な局面で“正しい決断”をする方法』アトゥール・ガワンデ
『悲しみの秘義』若松英輔

必読書リスト その二

 トーマスはチェイスの管理事務所に相談に行った。革新的サービスに対するニューヨーク州の小規模援助金を申請できると提案した。トーマスを雇った所長のロバート・ハルバートはトーマスのアイデアを基本の部分では気に入った。何か新しいことをやってみるのは楽しそうだった。(中略)
 トーマスは自分のアイデアの背景を説明した。彼が言うには、この目的は彼が命名したナーシング・ホームに蔓延する三大伝染病を叩くことである――退屈と孤独、絶望である。三大伝染病を退治するためには何かの命を入れる必要がある。ホームの各部屋に観葉植物を置く。芝生を剥がして、野菜畑と花園を作る。そして動物を入れる。
 おおよそ、この程度ならば大丈夫なようにみえる。衛生と安全の問題があるので、動物は場合によっては微妙である。しかし、ニューヨーク州のナーシング・ホームに対する規制は、1匹の犬と1匹の猫だけを許可している。ハルバートはトーマスに、過去に2~3匹犬を入れようとしたが、不首尾に終わったことを説明した。動物の性格が悪かったり、動物にきちんとした世話をするのが難しかったりした。しかし、ハルバートはもう一度試す気はあると話した。(中略)
 みなで申請書を記入した。まあ、おそらく無理だろうとハルバートは踏んだ。しかし、トーマスは作業チームを引き連れて州議会議事堂に行き、担当官を相手にロビー活動をした。そして、補助金申請が通り、規制についても必要な特例措置がすべて認められた。

【『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ:原井宏明〈はらい・ひろあき〉訳(みすず書房、2017年)以下同】

 2匹の犬、4匹の猫、そして鳥100羽、更にスタッフは自分の子供を連れてきた。ただ死を待つばかりだった老人ホームに生そのものが吹き込まれた。ナーシング・ホームとは看護師つきの老人ホームなのだろう(ナーシングホームとは)。日本の場合、介護や医療は7~9割を保険報酬に負っている。経済的に余裕のある人であれば自費でサービスを受けることも可能だが、普通の人は国が決めた基準のサービスしか受けられない。対価を支払う内容は細かく決められており、有無を言わさず見直しされる。施設を経営するのは営利企業だから優しさや親切が過剰なサービスとなっていないかどうか厳しく管理している。「余計な真似をするな」というルールに貫かれている。

 植物や動物、そして子供は自然そのものだ。管理しようと思って管理できる対象ではない。それこそが「生きる」ということだ。管理された人生は「死んだ生」だ。老人ホームは死を待つバス停でしかない。

 一人の男性が老人ホームに革命を起こした。環境を一変させたのだ。誰もが思いつくようなことだが、いざ実行となれば話は別だ。施設のスタッフは上を下への大騒ぎとなった。

 このプログラムの効果を知るために、2年以上にわたってチェイスの入所者と近くの他の施設の入所者を研究者がさまざまな指標を用いて比較した。研究の結果、非各群と比べると一人当たりに使われた薬の数が半分になったことがわかった。興奮を鎮静させるために使うハロベリドールのような向精神薬の減少が特に大きかった。薬剤費のトータルが他施設と比べて38パーセント減少した。死亡は15パーセント減少した。

 見事な結果が出た。生きる希望を与え、生きる気力を奮い立たせたと言ってよい。元気になるお年寄りの姿を見てスタッフも充実感を覚えたことだろう。

 社会全体が子供と老人をどのように扱うかでその国の命運は決まる。子供は国家の未来そのものであり老人は伝統を現す。革命を標榜する政党がいつまで経っても国民の支持を得られないのは伝統に対する敬意を欠くためだ。左翼は革新の名の下に伝統の破壊を試みる。進歩を標榜したソ連が崩壊したにも関わらず。

 かつて長寿は幸福を意味した。それが今、不幸に変わりつつある。厳しい戦後を生き抜き、日本の高度経済成長を支えてきた人々が、老人ホームで何もすることがない日々を黙って生きている。



サンセベリアの植え替え/『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード

2019-10-25

病苦への対処/『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ


『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『往復書簡 いのちへの対話 露の身ながら』多田富雄、柳澤桂子
『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子

 ・病苦への対処
 ・老人ホームに革命を起こす

『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
『アナタはなぜチェックリストを使わないのか? 重大な局面で“正しい決断”をする方法』アトゥール・ガワンデ
『悲しみの秘義』若松英輔

必読書リスト その二

 超高齢者にとっての行き場所が火山に行く(※スピリット湖のハリー・トルーマン)か、人生のすべての自由を捨てるかの二者択一になってしまったのはどうしてなのだろう。何が起こったのかを理解するためには、救貧院がどのようにして今ある施設に置き換えられたのか、その歴史を辿る必要がある――そして、それは医療の歴史にもなっている。今あるナーシング・ホームは、弱ったお年寄りに悲惨な場所とは違う、よい暮らしを与えようという願いから始まったものではない。全体を見渡し、こんなふうにまわりに問いかけた人は一人もいなかった、「みなが知っているように、人生には自分一人では生活できない時期というのがある、だから、その時期を過ごしやすくする手段を私たちは見つけなければいけない」。このような質問ではなく、かわりに「これは医学上の問題のようだ。この人たちを病院に入れよう。医師が何とかしてくれるだろう」。現代のナーシング・ホームはここから始まった。成り行き上そうなったのである。
 20世紀の中ごろ、医学は急速な歴史的な変革を経験した。それまでは重病人が来たとき、医師は家に帰らせることが通常だった。病院の主な役割は保護だった。
 偉大な作家兼医師であるルイス・トーマスが、1937年のボストン市立病院でのインターンシップの経験をもとにこのように書いている。「もし病院のベッドに何かよいものがあるとしたならば、それはぬくもりと保護、食事、そして注意深くフレンドリーなケア、加えてこれらを司る看護師の比類ないスキルだ。生き延びられるかどうかは疾病それ自体の自然な経過にかかっている。医学それ自体の影響はまったくないか、あってもわずかだ」
 第二次世界大戦後、状況は根本的に変わった。サルファ剤やペニシリン、そして数え切れないほどの抗生物質が使えるようになり、感染症を治せるようになった。血圧をコントロールしたり、ホルモン・バランスの乱れを治したりできる薬が見つかった。心臓手術から人工呼吸器、さらに腎臓移植と医学の飛躍的な進歩が常識になった。医師はヒーローになり、病院は病いと失望の象徴から希望と快癒の場所になった。
 病院を建てるスピードは十分ではなかった。米国では1946年に連邦議会がヒル・バートン法を成立させ、多額の政府資金が病院建設に投じられることになった。法の成立後、20年間で米国全体で9000以上の医療施設に補助金が下りた。歴史上初めて、国民のほとんどが近くに病院をもつようになった。これは他の工業国でも同様である。
 この変革の影響力はいくら強調しても強調しすぎることはない。人類が地球に出現してい以来、ほとんどの間、人は自分の身体から生じる苦痛に対して自分自身で対処することが基本だった。自然と運、そして家族と宗教に頼るしかなかった。

【『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ:原井宏明〈はらい・ひろあき〉訳(みすず書房、2017年)】

 シッダールタ・ムカジーに続いてまたぞろインド系アメリカ人である。しかもこの二人は文筆業を生業(なりわい)とする人物ではないことまで共通している。ガワンデは現役の医師だ。

 長々とテキストを綴ったのは最後の一文で受けた私の衝撃を少しでも理解して欲しいためだ。人類が宗教を必要とした理由をこれほど端的に語った言葉はない。

 都市部に集中する人口や核家族化によって、年老いた親の面倒を子供が見るというそれまで当たり前とされた義務を果たすことができなくなった。手に負えない情況に陥ればあっさりと親は老人ホームや介護施設に預けられる。保険報酬と低賃金で運営される施設の介護とは名ばかりで、まともな客としてすら扱っていない。老人は籠の中の鳥として生きるのみだ。ま、苦労と苦痛のアウトソーシングといってよい。あるいは親を殺す羽目になることを避けるための保険料と言い得るかもしれない。

「自然と運、そして家族と宗教に頼るしかなかった」人類は病院と薬を得て人生の恐怖を克服した。家の中から死は消え去った。数千年間に渡って人類を支えてきた宗教は滅び去り、家族は小ぢんまりとしたサイズに移り変わった。そこに登場したのがテレビであった。核家族はテレビの前で肩を寄せ合い、団らんを繰り広げた。未来の薔薇色を示した情報化社会は逆説的に灰色となって複雑な問題を露見し始めた。校内暴力~親殺し~いじめ~学級崩壊~引きこもりは社会の歪(ひず)みが子供という弱い部分に現れた現象である。

 宗教を手放した人類はバラバラの存在になってしまった。もはや我々はイデオロギーのもとに集まることもない。ただ辛うじて利益を共有する会社に身を置いているだけだ。その会社が経費のかからない手軽な人材の派遣を認めれば、もはやつながりは社会から失われる。

 幕末の知識人はエコノミーを経世済民と訳した。「世を経(おさ)め民を済(すく)う」のが経済の本義である。ところが21世紀の経営者は低賃金を求めて工場を海外へ移転して日本を空洞化し、国内においては移民政策を推進して安い労働力の確保に血道を上げている。その所業は「民を喰う」有り様を呈している。所業無情。

 今元気な人もやがて必ず医療・介護の世話になる。日本人の平均寿命から健康寿命を差し引けば10年となる。これが要介護年数の平均だ。スウェーデンは寝たきり老人ゼロ社会であるという(『週刊現代』2015年9月26日・10月6日合併号)。『欧米に寝たきり老人はいない 自分で決める人生最後の医療』という本もある。社会的コストを軽減するための形を変えた姥(うば)捨て文化なのだろう。もちろんそういった選択肢をする人がいてもよい。ただし老病と向き合う姿勢が忌避であることに変わりはなかろう。

 生き甲斐は現代病の一つである。生き甲斐という物語を想定すると「生き甲斐がなければ死んだ方がまし」と単純に思い込んでしまう。本当にそうなのか? そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

 まずは介護環境を変えることから始める必要がある。保険報酬も予防に重きを置くべきだ。基本は食事療法と運動療法が中心となる。運動→武術→ヨガ→瞑想という流れが私の考える理想である。

 介護施設に関しては施設内のコミュニティ化・社会化を目指せばよい。実際に行うのは何らかの作業と会話であるが、コミュニケーションに最大の目的がある。誰かとコミュニケートできれば人は生きてゆけるのだから。

2019-06-29

死の恐怖を免れる簡単な方法/『やがて消えゆく我が身なら』池田清彦


 ・死の恐怖を免れる簡単な方法

『ほんとうの環境問題』池田清彦、養老孟司
『正義で地球は救えない』池田清彦、養老孟司
・『生物にとって時間とは何か』池田清彦

 死の恐怖を免れる最も簡単な方法は、体は滅んでも心は不滅であると信ずることだ。言わずと知れたことだが、これは宗教である。すべての宗教はその教説の中に死後の世界についてのお話が入っている。天国(あるいは極楽)に行くにしても地獄に行くにしても、死んだ後もとりあえず心の存在は保証される。宗教とは、脳が巨大化して死の恐怖などという余計なことを考えるようになった人間が発明した、心が安楽になるための極めて優秀な装置である。死の恐怖も宗教も脳の発明品であることでは共通している。こういうのもマッチポンプと言うのだろうか。

【『やがて消えゆく我が身なら』池田清彦(角川書店、2005年/角川ソフィア文庫、2008年)】

 生と死にまつわるエッセイ集だ。テレビで見受ける酔っ払いみたいな口調とは打って変わって文章は端正である。

 私も生命は永遠だと長らく思っていたのだが10年ほど前に考えを改めた。スマナサーラ長老が「テーラワーダ仏教では最初に過去世を悟る」みたいな話を書いていたが私としては腑に落ちない。過去世だろうが来世だろうがその情報は現在の脳に収まっている。つまり何を語ろうとも現在の脳内情報であって、それを生前や死後にまで延長するのはどう考えても無理がある。

 よくインドあたりで生まれ変わり伝説がまことしやかに喧伝されているが、私は生まれ変わりというよりも何か生命の波長みたいなものがピタッと合致して、強く死者の生命を観じる(※「感じる」ではない)ことがあるのだろうと推察する。

 大体我々が思う生まれ変わりなんてえのあ身内や歴史上の有名人に限られていて、去年の夏に死んだ蝉や、日々食卓に上がる畜類の来世を思うことはない。

 本音を言えば死後の生命はあって欲しい。若い頃に後輩を亡くしているので彼らと会いたいからだ。ルワンダで殺戮された多くの人々も怨霊となって無慈悲な人類を祟(たた)ればいいと本気で思う。でも多分そうはならない。

 私は死と眠りは極めて似た状態だと考える。眠ってしまえば私という存在はなくなる。夢を見ているのは脳が半分覚醒しているためで完全に死んではいない。ま、幽霊なんてのがこの状態なのだろう。眠れば私は消える。これが答えだ。

 本当は永続する何かがあるかもしれないが、それは我々が考えているような「私」ではない。エネルギーの慣性みたいなものが働く可能性はある。ただし生まれ変わるような性質ではないだろう。

 諸法無我とは「物語から離れる」生き方である。因果応報で死後の極楽行きや地獄行きが決まるというのはいい物語だとは思うが、所詮物語の領域を出ていない。善因善果・悪因悪果は飽くまでも現在に収まるのである。私は死後の存在を否定するようになってから「死ねば仏」という言葉は案外正しいのかもしれないと考えるようになった。「死の瞬間に脳は永遠を体験する」(『スピリチュアリズム』苫米地英人、2007年)なら時間が止まる可能性もある。

やがて消えゆく我が身なら (角川ソフィア文庫)
池田 清彦
KADOKAWA (2008-05-23)
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2018-09-28

臨死体験/『死 私のアンソロジー7』松田道雄編集解説


安楽死と臨死体験を巡る議論
身体感覚の喪失体験/『自閉症の子どもたち 心は本当に閉ざされているのか』酒木保

 ・臨死体験

 10日の深夜から意識がもどってきたが、それと共に苦痛が来た。それは怒涛といってよかった。それに襲われると、眼の前も頭の中も、真赤になった。血の色である。私はふんづけられ、くちゃくちゃにまるめられ、ひきちぎられ、たたきつけられ、うなり声をあげた。その極限で意識はもうろうとなり、幻影じみたものをたびたび眺め、そして昏睡した。また意識がもどってきて、私をふみくだく。私の胸からつき出しているドレンの管に、私が、うっ、と言うたびに血がふき出しているらしい。私は胸の中にたまっている血が喉へつきあげてくるのがわかるが、咳をすることが全く苦しくてできない。そして、熟練したおばさんが私の胸をかるくおしながら血を吐かせる。おばさんが隣のおばさんに、囁くように言う声が、眼を閉じてうめいている私の耳にとてつもなく大きく聞える。
 ――血がとまらないのよ、ドレンの管へびゅっびゅっと、ほら、こんなに、こんなにたまってしまって。
 そして痛みの極みに達した時、私はすうっと飛びはじめたのを感じたのだ。いまにして思えば、これは多分幻覚だろうと思うのだが、私は、その時、私の姿をはっきり見た。私がこなごなに割れて、燃えつきた黒いかたまりになって、果てしない空間を、とてつもない速さで飛んでいくのである。私は地球を離れたと感じていた。ガガーリンは、地球は青かった、という言葉を人間の歴史に刻んだ。私は空間を飛びながら、ああ、おれの地球はあたたかだった、と思っていた。ほんとにあたたかい星である地球の大地、そこから私は離れて、いまとても寒い、と思った。とてもつめたい。いっそうつめたいところへ飛んでいく。そして私の前方は無限の宇宙空間であり、うす青い色からしだいに濃い青へ、そして黒々とした色へとつづいていた。そうだ、このまま飛びつづけてあそこへおちこんだ時、あの手術室のマスクの中で、突然、何もなくなってしまったように、おれは、パタッとなくなってしまうのだ。こうやっていって、そしてパタと。これが死なんだ、と私ははっきり思った。
 その時、私はもう自分の苦痛すら感じ得ないもうろうたる状態にあったらしい。
 ――そうか、こんなぐあいなのだな、苦しくて苦しくて、というのはあるところまでで、そして、そこを越えるとこんなふうにぼうっとしてきて、そして飛びはじめて、飛びつづけて、あの青黒く果てしもない空間の中でパタと、と私は思った。
 そうか、かつて、手術を受けても死んだ人たちは、いまのおれと同じここまで来て、そして、ここから先へ、あの黒い空間の淵へ行ったんだな、そうか、こんなぐあいだったのか。それが、死だったのか。
 そこから不意に私は、全く強引に、荒々しくつれもどされた。私は全然知らなかったが、レントゲンの器械をおして技師が入ってきていたのだ。私の、手術直後の内部の状態を正確に見るために、深夜、ベッドの上で写真をとるのである。これは、私をひきもどす人間の手だった。私の襟をしっかりつかみ、彼は少しばかり私を起こしたらしい。しかし、私は、肉と皮をばりばりはがれるような痛みで悲鳴をあげた。それはどうも声になっていないらしかった。斜めに起こされた私の背中にかたい大きな板がさしこまれ、そして、写真をうつされると、私はもとのようにねかされた。私はもうあのつめたい空間にはいなかった。地球の上で、ベッドの上で、身動き一つできずにうなっていた。私はまた苦痛にひきちぎられていた。(中略)
 しかし、そこを体験し、くぐったために、私は、私が予想していたものとはちがった、新しい事実にぶつかることとなったのである。
 その第一は、これまで述べてきたように、たとえ幻影であろうと何であろうと、私は死の影を見、それを具体的に感じ得た、ということだ。苦痛の果ての死を具体的に考える一つの手がかりを私は得た、ということだ。つまり、苦痛というものも、その極限に達しはじめると、私は苦痛を感ずる能力を失っていったのだ。それは苦痛というものとは別の次元であるように感じた。つまり、苦痛に襲われている間は、私はまぎれもない一個の生命体としてその生の状況を苦しんでいたのだ。そのような状態に追いつめられている傷ついた生そのものを苦しんでいたのである。
 そこを過ぎると死との間の中間帯の次元が現れる。そこでは苦痛を感じ反応し、さまざまの信号を脳が発する能力はしだいに弱まり、あいまいになってしまう。そこに入っていった時、私は、あたたかい地球から離れてしまった、と思ったのである。このまま行けば、いっそう私自身も周囲の空間もつめたくなり、そして、そのきわみに、一切が突然なくなってしまう世界がある、と思ったのである。なるほどこういうものだったのか、というぐあいに私が思った、そのことが鮮明に残っている。
 そこにはもう、ただ一つのことを除いては、どのような人間感情も存在しなかった。おれはいま、燃えつきようとする一個の物体だ、と私は思い、そして私の親しい人々に対しても、また私自身についてすら、喜んだり悲しんだりするすべての感情はもはや消滅していた。これはいまにして思えば全く予想しないことであった。親しい多くの人々と別れて、淋しいとかつらいとか悲しいとか、そういった感情はここにくると、もう存在しなかったのである。
 ただ一つだけ、最後まで残っていた感情がある。それは、何とも言えない無念な思いであった。こうやってついに生命に別れを告げるのか、という確認と同時に、かつて人間であり、ただ一度の生を生きたというその証拠を、自分がこうしてパタッと消えるとしても、やはりつづいていくであろう人間の歴史の上に、たとえどんなかすかな爪あととしてでも刻むことなくして飛び去らなくてはならないという無念さであった。
 これは意外だった。自分なりに精いっはい生きてきたつもりだったのに最後にそんなものが残るとは夢にも思わなかった。どうせ死んだらどんな人間もみな同じだ、と思ったりする人も世の中にほあるが、一回きりの生命というものは、一回きりの名において、最後のどたん場で、私を責めたのである。このことについては、これが出発点となって、それ以後私はその内容をさぐっていくようになるのであるが、それは第3章で追究していくことにする。ただ私なりの考えの一端を書いておくと、どうせ一度きりのいのちだ、どう生きようと自由だ、という考え方は、それはそれで、私は別にどう干渉するつもりもないが、生のまさに終えんとするそのどたん場で、はじめて愕然(がくぜん)として、言い知れぬ無念な思いを抱いて死に突入するほど、凝縮された絶望はほかにあるまいと思えるのである。(『生命の大陸 生と死の文学的考察』小林勝〈こばやし・まさる〉、三省堂新書、1969年)

【『死 私のアンソロジー7』松田道雄編集解説(筑摩書房、1972年)】

 抜き書きの3分の1ほどを紹介する。それでも引用の範疇(はんちゅう)を超えているが(笑)。

「安楽死と臨死体験を巡る議論」を参照してもらえばわかるように、私は2001年の時点では「生命は三世にわたって永遠の存在である」との認識に立っていた。天台三諦論の中諦が永遠に続くと信じていたのだ。

 梵網経で説かれる六十二見(外道の邪見)に常見断見がある。我(アートマン)が死後も続くと考えるのが常見で、死ねば終わりと思うのが断見である。

 キリスト教世界には「パスカルの賭け」という有名な詭弁がある。だったらさっさと死ねよ、と言いたくなる。

 生命とか我とか言ったところで所詮「意識」の問題であろう。私は死とは眠りのようなものだと考える。眠りに落ちた瞬間、意識は消える。「夢はどうなんだ?」という声が出そうだが、夢は半覚醒状態で意識が彷徨(さまよ)っているのだろう。ま、幽霊みたいなもんだ。脳が完全に休まれば夢は見ない。

 小林勝の体験――というよりは覚醒後に構成された体験で、バラバラの脳内情報を夢としてストーリーを付与するのと似ている――は劇的で実に面白い。だからこそ鵜呑みにするべきではないのだ。「科学者は、体験談を証拠とはみなさない」(『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』スーザン・A・クランシー)。

 若い頃にエリザベス・キューブラー=ロスの『死ぬ瞬間 死とその過程について』(1971年)も読んだが、私が納得できたのは当時の信念と共鳴したためだ。今となっては読む気も起こらない。

 私は数人の後輩を喪っているが、もちろん彼らは私の胸の中で生きている。父も亡くしたが、やはり胸の中で生きている。疎遠になった友人以上に生き生きと生きている。願わくは死後も生命が続いてどこかで再会したいとは思う。だが思うだけだ。決してそれを信じることはない。いるのだったら化けてでもいいから出てきて欲しい。

 臨死体験は脳内現象である。脳を離れた臨死体験はあり得ないのだ。例えば天井から自分の体を見下ろしたとか、病院内で行ったことのない場所の物を言い当てたりするような事例が報告されているが、それは幽体離脱を証明するものではなく千里眼によるものと考える。ま、私にとっては千里眼よりも眼前の物が見える方がはるかに不思議であるが。

 記憶は脳に保管されている。時折過去世を思い出した子供の話があるが、脳は別物だから記憶が引き継がれるわけがない。それが事実であるとすれば認知症や記憶喪失などの説明がつかなくなる。それに過去世を思い出したから何だと言うのだ? 来世を予測できるのならばまだしも、昨日を思い出すのと五十歩百歩ではないか。

 来世があろうとなかろうと死ねば今世(こんぜ)の終わりである。人は今世に生きるべきであり、更に言えば現在只今を生きるべきである。死後の世界については無記の態度が正しい。

私のアンソロジー〈7〉死 (1972年)
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生命の大陸―生と死の文学的考察 (1969年) (三省堂新書)
小林 勝
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2018-09-27

安楽死と臨死体験を巡る議論


身体感覚の喪失体験

 ・安楽死と臨死体験を巡る議論

臨死体験

 自分の過去記事を探していたところ、余りにも懐かしい掲示板抜き書きを見つけたのでリンクを貼っておく。主要メンバーは雪山堂(せっせんどう)の客である。当時、『逆耳の戯言』(ぎゃくじのぎげん)というメールマガジンを複数名で発行していた。尚、安楽死と臨死体験に関する考え方はその後完全に変わったことを申し添えておく。

「安楽死」を問う! 1
「安楽死」を問う! 2
「安楽死」を問う! 3
「安楽死」を問う! 4

『臨死体験』をめぐる書き込み 1
『臨死体験』をめぐる書き込み 2

2014-04-12

「死ぬ理由に勝る、生きる理由がない」









2014-04-11

死の恐怖/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編


落語とは
浪花千栄子の美しい言葉づかい
・死の恐怖

 ある老人たちは死の恐怖で打ちひしがれている。若い時にはこの感じを正当づけるものがある。戦争で殺されるおそれをいだく理由のある若い人たちは生命があたえることのできるもっともよいものを騙(だま)しとられたという、にがい感じをもつことだろうが、これはもっともなことである。しかし、人間のよろこびと悲しみを知ったし、彼のなすべきあらゆることを仕遂(しと)げた老人の場合には、死の恐怖は何か卑(いや)しく恥ずべきことである。死の恐怖を征服(せいふく)するもっともよい方法は――少なくとも私にはそう思われるのだが――諸君の関心を次第に広汎(こうはん)かつ非個人的にしていって、ついには自分の壁(かべ)が少しずつ縮小して、諸君の生命が次第に宇宙の生命に没入(ぼつにゅう)するようにすることである。個人的人間存在は河のようなものであろう――最初は小さく、せまい土手の間を流れ、烈(はげ)しい勢で丸石をよぎり、滝(たき)を越(こ)えて進む、次第に河幅(かわはば)が広がり、土手は後退して水はもっと静かに流れ、ついにはいつのまにやら海へ没入して、苦痛もなくその個的存在を失う。老年になってこのように人生を見られる人は、彼の気にかけはぐくむ事物が存在し続けるのだから、死の恐怖に苦しまないだろう。そして生命力の減退とともにものうさが増すならば、休息の考えはしりぞけるべきものでもないだろう。私は、他人が私のもはやできないことをやりつつあるのを知り、可能なかぎりのことはやったという考えに満足して、まだ仕事をしながら死にたいものである。

【「いかに老いるべきか」バートランド・ラッセル:中村秀吉〈なかむら・ひでよし〉訳/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅〈もり・つよし〉、井上ひさし、安野光雅〈あんの・みつまさ〉、池内紀〈いけうち・おさむ〉編(筑摩書房、1990年/ちくま文庫、2011年)】

 本書の人物紹介は以下の通りである。

バートランド・ラッセル 1872-1970 イギリスの名門貴族の生まれ。ケンブリッジ大学で数学、哲学を学ぶ。1910年から13年にかけてホワイトヘッドとの画期的な共著「数学原論」(ママ)をあらわした。ケンブリッジの講師となったが、第一次世界大戦に際し平和論を唱えて職を失う。ヴィトゲンシュタインとの相互の影響のもとに論理実証主義を完成する一方で、社会問題にも活発に発言、植民地解放や核兵器禁止運動の指導者として活躍した。「いかに老いるべきか」は、1956根に発表(※『自伝的回想』に所収)。


 ラッセルは1918年と1961年に投獄されている。ノーベル文学賞を受賞したのは1950年のこと。『数理哲学序説』は一度目の獄中で書かれた。

 ラッセルは「アリストテレス以来の論理学者」といわれるが、デカルト同様、哲学者かつ数学者でもあった。彼はまたミスター無神論としても知られる。

 直訳調でリズムの悪い文章だがラッセルのメッセージは十分に伝わってくる。やや老人に手厳しいのはラッセルが80歳を迎えようとしていたためか。

 不幸な老人が多いのは「河幅」が広がらないことに因(よ)る。海に辿り着く前に死んでしまったような人生が多い。日本人の場合だと友情の幅が狭いこととも関連しているように思う。老いて人生の広がりを感じさせる人は稀だ。

 その意味からいえば、やはりインディアンのグランドファザーやグランドマザー(どちらも長老を意味する)は理想的だ。人々の精神的な拠り所となって具体的な指針を示す。社会が会社を意味するようになると、老いとは定年に向かう様であり退職させられる存在に貶(おとし)められる。つまり問題は会社以外の社会をどのように築くかという一点にある。

「河幅」とは自分を取り巻く人間関係であり、それは社会である。狭い河は死の恐怖に満ちている。

ちくま哲学の森 1 生きる技術

川はどこにあるのか?
脳は宇宙であり、宇宙は脳である/『意識は傍観者である 脳の知られざる営み』デイヴィッド・イーグルマン
自由の問題 1/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
欲望が悲哀・不安・恐怖を生む/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
恐怖で支配する社会/『智恵からの創造 条件付けの教育を超えて』J・クリシュナムルティ
比較があるところには必ず恐怖がある/『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ
バートランド・ラッセル

2014-03-24

我が子の死/『思索と体験』西田幾多郎


『国文学史講話』の序

 三十七年の夏、東圃(とうほ)君が家族を携えて帰郷せられた時、君には光子という女の児があった。愛らしい生々した子であったが、昨年の夏、君が小田原の寓居の中に意外にもこの子を失われたので、余は前年旅順において戦死せる余の弟のことなど思い浮べて、力を尽して君を慰めた。しかるに何ぞ図らん、今年の一月、余は漸く六つばかりになりたる己(おの)が次女を死なせて、かえって君より慰めらるる身となった。
 今年の春は、十年余も足帝都を踏まなかった余が、思いがけなくも或用事のために、東京に出るようになった、着くや否や東圃君の宅に投じた。君と余とは中学時代以来の親友である、殊に今度は同じ悲(かなしみ)を抱きながら、久し振りにて相見たのである、単にいつもの旧友に逢うという心持のみではなかった。しかるに手紙にては互に相慰め、慰められていながら、面と相向うては何の語も出ず、ただ軽く弔辞を交換したまでであった。逗留七日、積る話はそれからそれと尽きなかったが、遂に一言も亡児の事に及ばなかった。ただ余の出立の朝、君は篋底(きょうてい)を探りて一束の草稿を持ち来りて、亡児の終焉記なればとて余に示された、かつ今度出版すべき文学史をば亡児の記念としたいとのこと、及び余にも何か書き添えてくれよということをも話された。君と余と相遇うて亡児の事を話さなかったのは、互にその事を忘れていたのではない、また堪え難き悲哀を更に思い起して、苦悶を新にするに忍びなかったのでもない。誠というものは言語に表わし得べきものでない、言語に表し得べきものは凡(すべ)て浅薄である、虚偽である、至誠は相見て相言う能わざる所に存するのである。我らの相対して相言う能わざりし所に、言語はおろか、涙にも現わすことのできない深き同情の流が心の底から底へと通うていたのである。
 余も我子を亡くした時に深き悲哀の念に堪えなかった、特にこの悲が年と共に消えゆくかと思えば、いかにもあさましく、せめて後の思出にもと、死にし子の面影を書き残した、しかして直ただちにこれを東圃君に送って一言を求めた。当時真に余の心を知ってくれる人は、君の外にないと思うたのである。しかるに何ぞ図らん、君は余よりも前に、同じ境遇に会うて、同じ事を企てられたのである。余は別れに臨んで君の送られたその児の終焉記を行李(こうり)の底に収めて帰った。一夜眠られぬままに取り出して詳(つまびら)かに読んだ、読み終って、人心の誠はかくまでも同じきものかとつくづく感じた。誰か人心に定法なしという、同じ盤上に、同じ球を、同じ方向に突けば、同一の行路をたどるごとくに、余の心は君の心の如くに動いたのである。

【『思索と体験』西田幾多郎〈にしだ・きたろう〉(岩波書店、1937年/岩波文庫、1980年)】


「至誠は相見て相言う能わざる所に存するのである」――情が流れ通う時、人は差異を超えてつながる。行間に誠実を湛(たた)える清冽な文章だ。死は人に沈黙を強いる。いつの日か我が身にも訪れる死を思えば精神は内省に向かい、言葉を拒否する。

 西田には悲哀を共有する友(藤岡作太郎)がいた。コミュニティが裁断された現代社会では悲しみを吐露する相手を見つけることもままならない。ただひっそりと胸の奥に畳んでいる人も多いことだろう。言葉にならぬ思い、言うに言えない苦悩を抱えて、それでもなお我々は生きてゆかざるを得ない。

 果たして救われることがあるのだろうか? そうではない。問いの立て方が誤っている。救いを求めるのではなくして、自らの力で悲しみを掬(すく)い上げるのだ。悲哀には時間を止めて過去へ押しとどめる作用が働く。「亡くなった人の分まで生きる」という言葉には欺瞞がある。人生は一人分しか生きられないからだ。だから「死者と共に生きる」べきだ。心の中で語りかければそれは可能だ。


道教の魂魄思想/『「生」と「死」の取り扱い説明書』苫米地英人
他人によってつくられた「私」/『西田幾多郎の生命哲学 ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考』檜垣立哉、『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人
「或教授の退職の辞」/『西田幾多郎の思想』小坂国継

2014-03-11

道教の魂魄思想/『「生」と「死」の取り扱い説明書』苫米地英人


 中国では「魂魄(こんぱく)思想」という考え方があります。これは、道教儒教にも強い影響を与えています。
 魂魄思想によれば、霊魂には「魂」と「魄」の2種類があり、「魂」は体から抜け出して位牌に宿って、やがて天に登り、「魄」は死体に残って土に埋められ、やがて土に還るといいます。日本でもいまだに位牌を大事にしたりするのは、この魂魄思想が定着しているからです。
 これは仏教ではありません。中国の道教と仏教が融合してしまい、それを日本人が中国から輸入したために、日本にも根づいてしまったのです。

【『「生」と「死」の取り扱い説明書』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(KKベストセラーズ、2010年)以下同】

 日蓮の遺文にも「魂魄」という語が2箇所に出てくる。日本の仏教はキメラの様相を呈している。胴体は密教で頭が仏教。そして手足は儒教と道教で構成されている。幸福の科学は日本仏教の正統かもね。

 誰もが死を恐れる。自分の死を喜ぶ人はいない。自分という存在や自分という価値が消えて無くなる。その事実を人間は直視することができない。だから宗教は「死後の物語」を創作・捏造(ねつぞう)するわけだ。「死んでも大丈夫ですよ」と。しかしその安心代は高くつく。

 宗教が語る死後の世界とか、死についての考え方というのは、すべて妄想であると考えなければいけません。なぜなら、生きている人で死後の世界を見た人は誰もいないからです。
 生死の境をさまよい、九死に一生を得て助かった人が、「臨死体験をした」などと言って、あたかも死後の世界を見てきたかのように語ることがありますが、それも完全に妄想です。生死の境をさまよいながら、あの世の夢を見ていただけです。
 本当に死後の世界を見たのなら、戻って来られるはずがないのです。戻って来られたということは、そこで見たものは死後の世界ではなく、生前の世界に決まっています。
【こうした妄想を、妄想だとわかって受け入れるのはかまいません。それによって、「死」への恐怖が和らぎ、「死」に対する心の整理がつくのであれば有益です。】

「妄想」に一票。「有益」には反対だ。有益を目的とするのであれば、それは宗教ではなくプラグマティズム(効用主義)だ。本人にとっても遺族にとっても何の慰めにもならないと私は考える。極端な例えを示そう。振り込み詐欺の被害者に「『オレ、オレ』と電話をしてきたのは、アストラル界にいるあなたの息子さんなのです」と納得させたら、それが救いになるのだろうか?

 苫米地はこの後、三諦(さんたい)を示し、妄想とわかった上で物語を採用する姿勢を「中観」(ちゅうがん)としている。

「空観」(くうがん)の視点でフィクションだとしっかり認識しつつ、「仮観」(けがん)の視点でその役割を認めて、フィクションの世界に価値を見いだす視点が「中観」(ちゅうがん)なのです。

 ここからは私見である。三諦は無記との関連性で捉える必要がある。

無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元
「無記」の教え=十難無記、十四難無記

 ブッダは霊魂や死後の存在に関して「ある」とも「ない」とも説かなかった。説かなかったのだから考えたり、思いあぐねたりする必要はない。すなわち霊魂や死後の存在の有無から離れることが正しいのだ。ここにおいて新しい物語を創作する必要性は認められない。

 3年前の今日、東日本大震災があった。今日現在で行方不明者の数が2633人と報じられている。今もご家族の遺体を探している人々がいるとも聞く。人は情に生きる動物だ。合理性で割り切れるものではない。哀しみの表情は人それぞれに複雑な陰影をなす。

 遺体が見つかれば見つかったで哀しみは倍加することだろう。遺体が見つからなければ見つからなかったで哀しみは膨(ふく)れ上がることだろう。いずれにしても哀しみは深まるばかりで癒されることがない。

 遺体に魂が存在するわけではない。そして遺体は必ず土に還(かえ)る。海にあろうと墓にあろうと土に還るのだ。哀しみは執着である。人間にとって最も深い執着といってよい。遺体から離れ、哀しみから離れる。離れてただ見つめればよい。自分自身もやがて死ぬ。亡くなったことを哀しむよりも、共に生きた時間を喜ぶべきだろう。亡くなったご家族や友人もそう思っているはずだ。死者を胸に抱(いだ)きながら、心の中で生かせばいい。私はそうしている。

「生」と「死」の取り扱い説明書
苫米地 英人
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死別を悲しむ人々~クリシュナムルティの指摘
我が子の死/『思索と体験』西田幾多郎

2012-01-05

死別を悲しむ人々~クリシュナムルティの指摘


 ・死別を悲しむ人々~クリシュナムルティの指摘

『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』ウィリアム・ハート

 ナンディニは私の母を紹介し、次いで私に移った。われわれは再び座り、そして母は数年前に死んだ私の父のことを話した。彼女は彼をとても愛していたこと、そしてぽっかりと開いた大きな穴をどうしても埋められないでいることを話した。彼女はクリシュナムルティに、来世で私の父に会えるかどうかと尋ねた。私は、そのときまでに最初の高められた知覚の強烈さが鈍ったことを見出し、そこでじっと座って、クリシュナムルティから私が慰めになると期待した答を聞こうとした。多くの悲しみに暮れた人々が規則的な間を置いて訪問してきたに違いない、そして彼はきっと彼らにとって慰めになる言葉を知っているに違いない。
 すると突然彼は言った。「あいにくですが、あなたは訪ねる人を間違えたようですね、私はあなたに、あなたがお求めの慰めを与えることは出来ません」 われわれ一同はやや当惑したが、しかし彼は話し続けた。「あなたは私に、あなたが死後あなたの夫君に会えるかどうか教えてもらいたがっておられる。が、どの夫にお会いになりたいのですか? あなたと結婚した人ですか? あなたが若い頃あなたと一緒にいた人ですか? なくなった人ですか、それとも、もし生きていたら今日いたであろう人ですか? どの夫君にあなたは会いたいのですか? なぜなら、確かに、死に赴いた人はあなたが結婚した人と同じ人ではないからです」 私は自分の精神が、あたかも何か並外れて挑戦的なことを聞いているかのように、熱心に、ぱっと注意深くなるのを感じた。私の母は、もちろん、これを聞いてひどく当惑しているようだった。彼女は、時間が自分の愛していた者に何らかの相違をもたらしうるということを認める覚悟ができていなかったのである。彼女は「私の夫は変わったりしません」と言った。するとクリシュナムルティは、「なぜ彼に会いたいのですか? あなたが、いないのに気づいて寂しく思っているのは夫ではなく、彼の思い出なのです。奥様、どうかご容赦ください」 彼は両手を組んだが、私は彼のしぐさの完璧さに気づきはじめた。「なぜあなたは彼の思い出を生き続けさせようとするのですか? なぜ自分の心の中で彼を再現しようとするのですか? なぜ悲しみのうちに生き、悲しみと共に生きようとするのですか?」 私の頭の中でぴんとくるものがあった。私の精神は、彼の言葉、その明晰さと正確さに応ずるべくさっと飛び上がった。私は、彼が伝えようとしていた何かとてつもなく大きなものに自分が触れていたのを知っていた。言葉はきびしかったが、しかし彼の目にはいやす力と優しさが宿っており、そして話している間中彼は私の母の片手を握っていた。

【「クリシュナムルティとの邂逅」ププル・ジャヤカール/ゴトの読書室】

 クリシュナムルティは「現代のブッダ」などではない。ブッダそのものである。

クリシュナムルティ「その怒りに終止符を打ちなさい」/『クリシュナムルティ 人と教え』クリシュナムルティ・センター編
無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元
今やり直せよ。未来を。
気がつけば月の光

2010-06-16

極限状況を観察する視点/『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
・『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子

 ・ナチスはありとあらゆる人間性を破壊した
 ・極限状況を観察する視点
 ・生きるためなら屍肉も貪る

『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
『石原吉郎詩文集』石原吉郎
『私の身に起きたこと とあるウイグル人女性の証言』清水ともみ
『命がけの証言』清水ともみ

必読書リスト その二

 20世紀を代表する一冊といっていいだろう。「戦争の世紀」に何がどう行われたか。そして戦争をどう生き抜いたかが記されている。

 20代で初めて本書を読んだ時から、私の胸の内側には「ナチス」という文字が刻印された。激しい憎悪が炎となって燃え盛った。「できることなら、ナチスの連中を同じ目に遭わせてやりたい」と歯ぎしりをした。こうして暴力は光のように反射して拡散する。果たしてジプシーや障害者、そして連合軍兵士やユダヤ人に対して向けられたナチスの憎悪と、私の憎悪とにいかほどの差異があるだろうか?

 私の手元にあるのは旧版で、冒頭には70ページ近い「解説」がある。要はナチスの非道ぶりを紹介しているわけだが、読者を特定の方向へリードしようとする意図が明らかで、先入観を植えつける内容になっている。しかもこの解説は署名がないので、訳者が書いたのか出版社サイドが書いたのかもわからない。「お前は神なのか?」と言いたくなるような代物だ。

 例えばこう――

 グラブナーと彼の助手たちは、何かの口実を設けてはたびたび収容所の訊問を行い、もしそれが男の場合には睾丸を針で刺し、女の場合には膣の中に燃えている坐薬を押し込んだのである。(アウシュヴィッツ収容所)

【『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾〈しもやま・とくじ〉訳(みすず書房、1956年/新版、1985年/池田香代子訳、2002年)以下同】

 文章に独特の臭みがあるので多分、霜山徳爾が書いたのだろう。大体、翻訳者なのだからこっちがそう思い込んだとしても罪にはなるまい。

 我々はともすると、戦争や政治を道徳的次元から問うことがしばしばある。しかし厳密に考えるならば、道徳は個人の行為を問題にするのであって、戦争や政治という利害調整と道徳とは本来まったく関係がない。多数の人々を殺傷しておきながら、ジュネーブ条約もへったくれもない。

 食べるものも満足に与えられず、暴力にさらされると、人間はどのように変わり果てるのだろうか?

 最初は囚人は、たとえば彼がどこかのグループの懲罰訓練を見ねばならぬために点呼召集を命令された時、思わず目をそらしたものだった。また彼はサディズム的にいじめられる人間を見ることが、たとえば何時間も糞尿の上に立ったり寝たりさせられ、しかも鞭によって必要なテンポをとらせられる同僚を見ることに耐えられなかったのである。しかし数日たち、数週間たつうちに、すでに彼は異なってくる。(中略)その少年は足に合う靴が収容所になかったためはだしで何時間も雪の上に点呼で立たされ、その後も戸外労働をさせられて、いまや彼の足指が凍傷にかかってしまったので、軍医が死んで黒くなった足指をピンセットで附根から引き抜くのであるが、それを彼は静かに見ているのである。この瞬間、眺めているわれわれは、嫌悪、戦慄、同情、昂奮、これらすべてをもはや感じることができないのである。【苦悩する者】、【病む者】、【死につつある者】、【死者】──【これらすべては数週の収容所生活の後には当り前の眺めになってしまって、もはや人の心を動かすことができなくなるのである】。

 無気力は「心の死」である。日常的に暴力にさらされると人は痛みに対して鈍感になり、他人の痛みに心を動かさなくなるというのだ。これほど恐ろしいことはない。生存本能を最も深い部分で支えているのは「恐怖」である。強制収容所の人々は確実に死につつあった。

 これを逆から読めば、生の本質は「ものごとを感じ取る力」にあるといえよう。すなわち感受性である。感受して応答するのが生きることなのだ。ゴムまりのように軽やかに弾んでいなければ生きるに値する人生を歩んでいるとはいえない。

 アウシュヴィッツは一つの概念だった。

 概念とは言語世界である。思考は言語世界から離れることができない。そして概念は世界を構築する。この時、アウシュヴィッツの外側の世界は存在しない。世界は階層化する。同じ囚人であっても、カポーと呼ばれる囚人の見張り役になって特典を与えられた者も存在した。過酷な情況は鑿(のみ)となって人々の本質を彫像のように現した。生きるか死ぬかという瀬戸際に置かれた人間は丸裸にされる――

 人間が強制収容所において、外的のみならず、その内的生活においても陥って行くあらゆる原始性にも拘わらず、たとえ稀ではあれ著しい【内面化への傾向】があったということが述べられねばならない。元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、ある場合には、その比較的繊細な感情素質にも拘わらず、収容所生活のかくも困難な外的状況を苦痛であるにせよ彼らの精神生活にとってそれほど破壊的には体験しなかった。なぜならば彼らにとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。【かくして、そしてかくしてのみ繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人々よりも、収容所生活をよりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである】。

 生きる権利すら奪われた地獄にあっても、「内なる世界」が存在したというのだ。アウシュヴィッツにはこれほどの希望が存在した。人の心はかくも巨大であった。

 ヴィクトール・E・フランクルの偉大さは、強制収容所において「心理学者としての視点」を失わなかったところにある。つまり、劣悪な環境を一歩高い視点から見下ろすことができたのだ。「観察する自分」はアウシュヴィッツから離れていた。これは一種の解脱と見ることができる。

 最もよき人々は帰ってこなかった。

 この重い一言を徹底して掘り下げたのがプリーモ・レーヴィだった。



・アドルフ・アイヒマン 忠実な官僚
若きパルチザンからの鮮烈なメッセージ/『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
香月泰男が見たもの/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆
集団行動と個人行動/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ

2009-04-04

死の瞬間に脳は永遠を体験する/『スピリチュアリズム』苫米地英人


 ・死の瞬間に脳は永遠を体験する

『夢をかなえる洗脳力』苫米地英人
『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
『「生」と「死」の取り扱い説明書』苫米地英人
『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人
『原発洗脳 アメリカに支配される日本の原子力』苫米地英人
『「言葉」があなたの人生を決める』苫米地英人

「死んだ後はどうなるのか?」――古(いにしえ)より議論されている大きなテーマである。果たして死後の生命はあるのかないのか。あるとすれば形状が問われ、ないとすれば倫理が崩壊する。

 ところが、だ。苫米地英人は「死ぬ瞬間」に着目する。これは斬新な視点だ――

 二つのことを事実として説明すればわかりやすいと思いますが、まずひとつはドーパミンをはじめとするありとあらゆる脳内伝達物質が、脳が壊れるときに大量に放出されます。ですからまず、気持ちが良い。脳幹の中心の中脳のところ、VTA領域からいくつかの経路が伸びていて、脳幹の中のドーパミン細胞からドーパミンが大量に出ます。要するに、臨死体験のときは超大量の脳内伝達物質が出て、凄く気持ちが良い体感をする。同時にありとあらゆる幻視・幻聴・幻覚が起こります。
 もうひとつは、時間が無限に長くなっていきます。時間感覚が変わっていくわけです。たとえば走馬灯のように自分の人生の歴史を見るとか言いますが、それはあたりまえのことで、脳内の神経細胞が壊れるにあたってとてつもない脳内伝達物質が放出されますから、最後の最後に脳が超活性化されるのではないかと思います。線香花火の最後の一瞬のようなものです。すると、たくさんの記憶を同時に見る。脳は元々超並列的な計算機なのです。我々の脳はふだん生きているときは凄くシリアルに(ひとつずつ順を追って)認識しますが、つまり、ひとつのことを認識しているときは他を認識できません。それが臨死体験のときは、同時に全部認識するわけです。走馬灯のように一生を経験するというのは、一生をリアルに経験しているのではなく、短い間に一生の体験を全部同時に認識するわけです。内省的には一生を全部ゆっくり体験したかのように感じています。時間の感覚がどんどん変わっていくからです。生という状態から限りなく死に近づいていく、死という接点に向かって永遠に近づき続ける接線のようなものです。死んでいく人にとって、体感としての時間はとてつもなく長くなっていきますから、もしかすると死は永遠にやってきてないかもしれません。

【『スピリチュアリズム』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(にんげん出版、2007年)】

 つまり、大量のドーパミンによって極限まで活性化された脳が、コンピュータのように超並列で動き出すということ。ご存じのように、パソコンというのは複数のアプリケーションやシステムが同時に目まぐるしく動いている。これと同じ働きが脳で起こるというのだ。

 脳内ではニューロンが猛烈なスピードで信号を放つ。そして思考(無意識も含めて)のスピードは光速に等しくなる(『数学的にありえない』アダム・ファウアー、文藝春秋、2006年)。

 この時、観測者(=遺族)から見れば、死者の動きは完全に止まって見える。なぜなら、「光は年をとらない」からだ(『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン、草思社、2001年)。

「もしかすると死は永遠にやってきてないかもしれません」――これは人が死ぬ瞬間に光と化すことを示している。

 この指摘は凄い。時間と永遠というテーマは、宇宙の起源や宗教と密接に関わっている。そして歴史の奥底を貫く概念でもある。死の瞬間に向かって永遠(無限)が立ち現れるという発想は、ちゃぶ台を引っ繰り返すほどのパラダイムシフトと言ってよい。



キリスト教と仏教の「永遠」は異なる/『死生観を問いなおす』広井良典
『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
過去世と来世/『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ

2008-12-30

ナチスはありとあらゆる人間性を破壊した/『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
・『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子

 ・ナチスはありとあらゆる人間性を破壊した
 ・極限状況を観察する視点
 ・生きるためなら屍肉も貪る

『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
『石原吉郎詩文集』石原吉郎
『私の身に起きたこと とあるウイグル人女性の証言』清水ともみ
『命がけの証言』清水ともみ

必読書リスト その二

 ナチスの強制収容所といえば本書。既に古典の風格がある。20代半ばで読んだが、自分の知らない“世界と歴史”にたじろいだことを、今でもよく覚えている。

 相手を虫けら同然と認識してしまえば、人間はどこまでも残酷になれる。

 収容者は石を抱かせられ、肥料の中で溺れさせられ、鞭で打たれ、飢えさせられ、去勢され、そして輪姦されたりした。しかしそれだけではなかった。入墨をしている者は薬剤所に報告するように命令された。(中略)その肌に入墨師の技両を発揮したすばらしい彫刻を持っている連中は留置され、それからカポーの一人であるカール・ベイグスの命令による注射で殺されてしまったのである。
 この死体は病理部に引き渡され、そこで皮膚をはがされて処分された。処理を終えた人間の皮は司令官の妻イルゼ・ゴッホに下げ渡されたが、彼女はそれでランプの傘やブックカバーや手袋を造った。(※ブッヒェンワルト収容所)

【『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル:霜山徳爾〈しもやま・とくじ〉訳(みすず書房、1956年/新版、1985年/池田香代子訳、2002年)】

「♪かあ〜さんがぁ〜夜なべぇ〜をして、てぶく〜ろ編んでくれたぁ〜」――で、それは人間の皮でできていたって話だ。こんなリサイクルが許されていいはずがない。

 正義というものはわかりやすくなくてはいけない、という私の信条に基づけば、鬼畜の如き所業を為した者には同程度以上の苦痛を与えた上で、死をもって償わせる必要があると考える。

 ここで一つ重要な問題が発生する。ナチスドイツが行ったであろう残虐な行為を私が検証できないことだ。つまり、私が殺意を抱いているのは、飽くまでも「書籍から得た情報」によるものであり、この点において、「ゲルマン民族のみが優れているという情報」を鵜呑みにして、ジプシー、身体障害者、ユダヤ人を殺戮したナチスドイツと何ら変わりがない。

 つまり、だ。人間という動物は情報次第で、簡単に人を殺すことができるという事実が浮き彫りになる。何と恐ろしいことだろう。

 タイトルの『夜と霧』は、「夜陰に乗じ、霧に紛れて人々が連れ去られ消された歴史的暗部を比喩」したものとされている。ところがどっこい、私はそうは読まない。『夜と霧』は情報が遮断された状態のメタファーだと考える。

 イスラム文化圏には現在でも「名誉の殺人」という風習が根強く残っている。2007年には、17歳のクルド人少女が家族や親戚の手で殺された動画がネット上にアップされた。少女は衆人環視の中で散々殴る蹴るの暴行を加えられ、大きな石が頭に叩きつけられた。少女の頭部から大量の血が流れ、動かなくなってからも暴行がやむことはなかった。

 人間は愚かだ。愚かであるからこそ歴史は繰り返される。カンボジアではポル・ポト政権が、ルワンダではフツ族がそれを証明した。

 情報を吟味するためには、強靭な知性と豊かな想像力が不可欠だ。そのために、私は今日も本を手に取ろう。

2008-12-07

女子中学生の渾身の叫び/『いのちの作文 難病の少女からのメッセージ』綾野まさる、猿渡瞳


『がんばれば、幸せになれるよ 小児ガンと闘った9歳の息子が遺した言葉』山崎敏子

 ・女子中学生の渾身の叫び

『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子

命を見つめて

本当の幸せは「今、生きている」ということ

 みなさん、みなさんは本当の幸せって何だと思いますか。実は、幸せが私たちの一番身近にあることを病気になったおかげで知ることができました。それは、地位でも、名誉でも、お金でもなく「今、生きている」ということなんです。

 私は小学6年生の時に骨肉腫という骨のガンが発見され、約1年半に及ぶ闘病生活を送りました。この時医者に、病気に負ければ命がないと言われ、右足も太ももから切断しなければならないと厳しい宣告を受けました。初めは、とてもショックでしたが、必ず勝ってみせると決意し希望だけを胸に真っ向から病気と闘ってきました。その結果、病気に打ち勝ち右足も手術はしましたが残すことができたのです。

 しかし、この闘病生活の間に一緒に病気と闘ってきた15人の大切な仲間が次から次に亡くなっていきました。小さな赤ちゃんから、おじちゃんおばちゃんまで年齢も病気もさまざまです。厳しい治療とあらゆる検査の連続で心も体もボロボロになりながら、私たちは生き続けるために必死に闘ってきました。

 しかし、あまりにも現実は厳しく、みんな一瞬にして亡くなっていかれ、生き続けることがこれほど困難で、これほど偉大なものかということを思い知らされました。みんないつの日か、元気になっている自分を思い描きながら、どんなに苦しくても目標に向かって明るく元気にがんばっていました。

 それなのに生き続けることができなくて、どれほど悔しかったことでしょう。私がはっきり感じたのは、病気と闘っている人たちが誰よりも一番輝いていたということです。そして健康な体で学校に通ったり、家族や友達とあたり前のように毎日を過ごせるということが、どれほど幸せなことかということです。

 たとえ、どんなに困難な壁にぶつかって悩んだり、苦しんだりしたとしても命さえあれば必ず前に進んで行けるんです。生きたくても生きられなかったたくさんの仲間が命をかけて教えてくれた大切なメッセージを、世界中の人々に伝えていくことが私の使命だと思っています。

 今の世の中、人と人が殺し合う戦争や、平気で人の命を奪う事件、そしていじめを苦にした自殺など、悲しいニュースを見る度に怒りの気持ちでいっぱいになります。一体どれだけの人がそれらのニュースに対して真剣に向き合っているのでしょうか。

 私の大好きな詩人の言葉の中に「今の社会のほとんどの問題で悪に対して『自分には関係ない』と言う人が多くなっている。自分の身にふりかからない限り見て見ぬふりをする。それが実は、悪を応援することになる。私には関係ないというのは楽かもしれないが、一番人間をダメにさせていく。自分の人間らしさが削られどんどん消えていってしまう。それを自覚しないと悪を平気で許す無気力な人間になってしまう」と書いてありました。

 本当にその通りだと思います。どんなに小さな悪に対しても、決して許してはいけないのです。そこから悪がエスカレートしていくのです。今の現実がそれです。命を軽く考えている人たちに、病気と闘っている人たちの姿を見てもらいたいです。そしてどれだけ命が尊いかということを知ってもらいたいです。

 みなさん、私たち人間はいつどうなるかなんて誰にも分からないんです。だからこそ、一日一日がとても大切なんです。病気になったおかげで生きていく上で一番大切なことを知ることができました。今では心から病気に感謝しています。私は自分の使命を果たすため、亡くなったみんなの分まで精いっぱい生きていきます。みなさんも、今生きていることに感謝して悔いのない人生を送ってください。

【『いのちの作文 難病の少女からのメッセージ』綾野まさる、猿渡瞳(ハート出版、2005年)】

 猿渡瞳ちゃんは、この作文を発表してから2ヶ月後に逝去した。合掌。謹んでご冥福を祈る。骨肉腫と格闘した彼女は、中学生でありながら、まるで人類の教師のように「生きる姿勢」を我々に教えてくれる。



2008-05-01

命の灯火(ともしび)で周囲を照らす姿/『がんばれば、幸せになれるよ 小児ガンと闘った9歳の息子が遺した言葉』山崎敏子


 ・命の灯火(ともしび)で周囲を照らす姿

『いのちの作文 難病の少女からのメッセージ』綾野まさる、猿渡瞳
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子

 行間から祈る声が聞こえてくる――。

 昨年の「24時間テレビ」でドラマ化された作品。ドラマの方は見るに堪(た)えない代物だったが、著作は「2冊買って、1冊誰かにあげあたくなる」ほど素晴らしい内容だ。

 山崎直也君は9歳でこの世を去った。ユーイング肉腫という悪性の癌に侵(おか)されたのが5歳の時。短い人生の約半分を闘病に捧げた。

 平凡な両親の元に生まれた直也君は、“本物の天使”といってよい。どんな痛みにも弱音を吐かず、再発する度に勇んで手術に臨んだ。

 それにしても、直也君の言葉は凄い。まるで、「年老いた賢人」のようだ。

「おかあさん、もしナオが死んでも暗くなっちゃダメだよ。明るく元気に生きなきゃダメだよ。わかった?」

【『がんばれば、幸せになれるよ 小児がんと闘った9歳の息子が遺した言葉』山崎敏子(小学館、2002年/小学館文庫、2007年)以下同】

 直也自身、少しでも体調が悪化すると、
「山崎直也、がんばれ!」
 そう口に出して、自分で自分を励ましていました。16日の呼吸困難の発作のさなかにも、「落ち着くんだ」といっていたような気がします。
 あの日、息苦しさが少し治まってから、直也はこうもいいました。
「おかあさん、さっきナオがあのまま苦しんで死んだら、おかしくなっていたでしょ。だからナオ、がんばったんだよ。それでも苦しかったけど。おかあさんがナオのためにしてくれたこと、ナオはちゃんとわかっていたよ。『先生早く!』って叫んでいたよね。でも安心して。ナオはああいう死に方はしないから。ナオはおじいさんになるまで生きたいんだ。おじいさんになるまで生きるんだ。がんばれば、最後は必ず幸せになれるんだ。苦しいことがあったけど、最後は必ずだいじょうぶ」

 夜10時過ぎ、直也は突然落ち着かない様子で、体を前に泳がせるようなしぐさをしました。
「前へ行くんだ。前へ進むんだ。みんなで前に行こう!」
 びっくりするほど大きな力強い声です。そして、まるで、迫り来る死と闘っているかのように固く歯を食いしばっています。ギーギーという歯ぎしりの音が聞こえるほどです。やせ衰えて、体を動かす元気もなくなっていた直也のどこにこれだけの力があったのかと驚くほど、力強く体を前進させます。

 ある日、私が病院に行くと、主任看護婦さんが、「おかあさん、私、今日、ナオちゃんには感動したというか、本当にすごいなと思ったんだけど」と駆け寄ってきました。直也は、
「この痛みを主任さんにもわかってもらいたいな。わかったら、またナオに返してくれればいいから」
 といったそうです。「えっ、痛みをまたナオちゃんに返していいの?」とびっくりして聞くと、
「いいよ」
 と答えたそうです。
「代われるものなら代わってあげたい」。よく私もそういっていました。でも直也はそのたびに力を込めて「ダメだよ」とかぶりを振り、
「ナオでいいんだよ。ナオじゃなきゃ耐えられない。おかあさんじゃ無理だよ」
 きっぱりとそういうのです。

 何だか自分が、ダラダラと走るマラソンランナーみたいな気になってくる。直也君は、人生を全力疾走で駆け抜けた短距離ランナーだった。「生きて、生きて、生きまくるぞ!」と言った通りに生きた。

 山下彩花ちゃんといい、直也君といい、命の灯火(ともしび)で周囲を照らす姿に圧倒される。



8人の意識の力で病状を癒す/『パワー・オブ・エイト 最新科学でわかった「意識」が起こす奇跡』リン・マクタガート

2002-11-25

新しい生き方を切り開いて全てを「価値」に変えていく/『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『淳』土師守

 ・絶望を希望へと転じた崇高な魂の劇
 ・無限の包容力
 ・新しい生き方を切り開いて全てを「価値」に変えていく

・『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
・『心にナイフをしのばせて』奥野修司
・『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
・『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾訳
・『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
・『石原吉郎詩文集』石原吉郎

必読書リスト その一

 これほどまでに生きる事の美しさを描いた本を私は知らない。わずか数センチの中に有り余るほどの愛情で紡ぎだされた生命(いのち)の言葉の数々に、幾度も胸を締め付けられ、感動し、涙を流した。

 どのページのどの文字にも生命(いのち)の崇高さを感じた。憎しみを慈愛に変え、絶望を生きる喜びと希望、そして感謝の心に変えていった母の偉大さに胸を打たれた。

 事件を知ったのは何気なくつけたテレビのニュースからだった。我家から程近い町で小学生の二人の女の子が立て続けに何者かに襲われたらしい……。犯人は捕まっていない。

 何か言いようのない怒りと恐怖が町中を覆いはじめたのはその頃からだった。様々な噂が飛び交い犯人像がまことしやかに囁かれはじめた。小学生達は集団登下校となり、保護者達は皆交代で通学路の道々に見張りに立った。下校後、外で遊ぶ子供達は日増しに減っていった。そんな不安が増していく中で、信じられない残忍な凶行が新たに報道された。そして、少女の一人が亡くなった事を知った。

 連日その話題でどこもかしこももちきりであった。あの時ほど人間不信に陥った事はなかった。そう、町中が人間不信の坩堝(るつぼ)の中に入り込んでいった。犯人はまだ見つからない。事件の起こった町では人影をつくる木という木は切り取られ、空にはヘリコプターが飛び交い、町を歩く自衛官や警察官の数は相当なものであった。そんな中でマスコミ人らしい人影が妙に活気を帯びて、なんともいえない違和感を感じていた。

 近くの町に住む私達も、子供を外で遊ばせる事を一切やめてしまった。公園に行っても人っ子一人姿を見せなかった。そして、登下校の見張りは益々熱を帯び、その後、数ヶ月続いた。黒い車、中年男性、がっちりした体型等、犯人像の噂は具体性を増し、またも、まことしやかに流れはじめ、通りすがりの男性にも警戒心を抱くようになっていった。

 そんな中で、やっと犯人が捕まった。それは、日本中を揺るがせる程の衝撃だった。 誰がこんな結末を予想しただろうか。日本中が暗雲立ち込める中、メディアはお祭り騒ぎであった。被害者の方々やそのご家族に思いを馳せたなら、胸が悪くなるような報道の数々。日本のマスコミの悪辣さを思い知ったのだった。

 それにつけても、山下さんの母としての偉大さは、それらとあまりにもかけ離れ、 対照的であった。人間はこれほどまでに美しく気高く、崇高になれるものだろうか。残虐な手によって、幼い命は傷つけられたが、最後の命の炎を燃やしこの世の生を全うした魂。それは春に舞う桜の花吹雪のように、美しく美しく。そして、その生を終える時、まさに漆黒の闇から旭日が昇らんがごとく威厳に満ちた光を帯びて宇宙に帰っていった。

「少年の凶行は彩花の命の力が自ら選択した『きっかけ』にすぎず、彩花は粛々と自分自身の寿命の最終章にすすんでいくのです」

 まさに、突き抜けるような苦しみの中で、どうにもあらがえなかった運命を価値あるものに変えていかれたのだった。それは、想像を絶する苦しみの中で荘厳ともいえる光景であったに違いない。

 私は、何があっても顔を上げて生きるという決意を彩花に伝えようと、集中治療室に戻りました。
 するとどうでしょう、決意した私の心をすでに知っていたように、彩花は今までとは比べものにならないほど、にっこりと微笑んでいるではありませんか。目もとには明らかな笑い皺ができ、口の両脇にも笑った皺が出来ていました。
 それは、
「お母さん、よかったね。大事なものを手に入れることができたね。これで、彩花は安心できた。お父さん、お母さん、本当にありがとう」
 そう語りかけるかのような、信じがたい笑顔でした。
 そして、それから3時間ほど経った午後7時57分、彩花はこぼれるような笑顔のまま、悠然と旅立ったのです。

【『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子(河出書房新社、1997年/河出文庫、2002年)】

 事件直後すぐにでも生きを引き取ってもおかしくない状態からの奇跡ともいえる彩花ちゃんの様子を思い描き、私は感動で体中が身震いするのを感じた。

 その柱にも、畳にも、この道、あの公園、そこかしこに彩花ちゃんの息づかいを感じる。彩花ちゃんは生き生きとした輝きを放って確かに生きていた。それを証明するように、最後に笑顔で旅立った。

 どのような苦痛がこの世にあったとしても、これほどの苦しみはありえないと思った。あまりにも衝撃的な事件であり、それはあの震災に匹敵するものだった。私には到底読めないと思っていた。けれど、それはとんでもない間違いであった。もっと、もっと早くに読むべきだったと心から後悔した。

 私の父の死に思いを巡らせ、それを価値あるものとして受け入れる事を教えて下さった。あの時突然父は居間で倒れた。すぐに救急車で病院に運ばれ、ありとあらゆる手を尽くしていただいた。「生きて、生きて、死なないで」と、ほとんど意識のない父の背中をさすり父の回復を祈った。けれど、程なく父は霊山へと旅立った。確かに父は体調を悪くしていた。けれど、それほどまでに悪化していた事を全く気付いてやれなかった。そんな自分を何年も何年も責め続けていた。そんな苦痛の日々を送ってきた過去を、山下さんは暖かく価値あるものとして教えて下さった。私はこの本のお陰で、乗り越えられなかった過去に決別する事ができた。

 気高く昇華された人の心は何をもってしても決して悪に犯されることはないのだと実証して下さった。

 京子さんは今も彩花ちゃんを思うとき、涙を流しておられるに違いない。けれど、その涙は無数にきらめく星々のごとく、あまねく照らす月の光のように多くの人々の心に染み渡り、暖かく癒す涙となった。

 憎しみとあきらめを乗り越えて、私たちは前に進むしかないのです。新しい生き方を切り開いて、全てを「価値」に変えていくしかないのです。

 いかなる行きづまりをも打ち破る、自分の内なる「生きる力」に目を開き、耳を傾けなければなりません。

 これらの言葉の数々は、今後の私の人生の大いなる目的となるでしょう。

 強く雄々しく生きていくことの素晴らしさを教えて下さった、山下京子さんと、彩花ちゃんに心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

【Ryoko】

 

2001-09-03

無限の包容力/『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『淳』土師守

 ・絶望を希望へと転じた崇高な魂の劇
 ・無限の包容力
 ・新しい生き方を切り開いて全てを「価値」に変えていく

・『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
・『心にナイフをしのばせて』奥野修司
・『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
・『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾訳
・『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
・『石原吉郎詩文集』石原吉郎

 彩花ちゃん、今ごろあなたは既に生まれ変って、どこかお母さんの近くにいるのでしょうね。

 あなたのお母さんが綴った本を読みました。あなたが亡くなったことは、全国を揺るがせた悲しく許し難い事件で、わたしも知っていました。そのお母さんのお心はどれほどのもであるか察するに余りあるものでしょう。手記を読むことでわたしが少しでもその悲しみを共有することができれば、と思って手にとってみたのです。わたしにも彩花ちゃんと同い年の娘がいます。あなたのお母さんがあなたを大事に思うのと同じように、わたしも娘をとても愛していて、自分の命より大事だと思っています。その娘が、ある日突然他人の手によってその生を永遠に奪われてしまう、これほど辛く悲しい出来事はありません。けれど、どんなに想像してみても、本当の悲しみは当事者でなければわからないことでしょう。そのことに申し訳なさを感じながら読み始めてみました。ところがね、驚いてしまったの。悲しみを共有するどころか、反対に私のほうが励まされ、読み終えた今では子供達へのますますの愛情や自分の中にある勇気を信じる力、そして明日からまた続いていく未来への希望、そんなもので心の中は今いっぱいになっているのです。

 嬉しいことに読み始めてすぐ、わたしとお母さんには共通点があることがわかりました。それは、「息子も娘も、偶然にわが家に生まれてきたのではないと思っています。この二人は、まぎれもない私たちとの『縁』によって、遠いところから間違いなく夫と私を選び取り、私のお腹を借りてやってきてくれたのだと信じています。決して、誰でもよかったのではありません」とお母さんが考えているところです。わたしも、うちの子ども達はわが家に必要なメンバーだったから、お互いに呼び合って、私たちを家族と選んで生まれて来てくれたと思っています。生まれたてのくにゃくにゃの赤ちゃんを抱いて「やっと会えたね、ずっと待ってたのよ」と声を掛けチュッとしたあのホッペのあたたかさ柔らかさは今でも覚えています。きっと彩花ちゃんのお母さんも同じ気持ちだったでしょうね。

 そんな大事な娘を他人に奪われた悲しみ、悔しさ、怒り、苦しみ、そのような状況の中へ一人にしてしまった後悔、自分を責め、なぜこんな事件があったのか、なぜ彩花ちゃんでなければいけなかったのか、彩花ちゃんの身に起きたこと、自分に降り掛かってきた事を受け止めなければならないこと、自分の中に受け入れなければならないこと。どうやって納得して心に収めていくのか、この問題は実は私にとっても意味のあることでした。この事件から逃げることや忘れることをせず、しっかり目を開け、心を開いて立ち向かっていったお母さんは立派でしたね。恐ろしいことにも目を背けずに臨む姿勢は、人間として見習わなければいけないことだと気づかされました。

 わたしには子どもの頃、とても悲しく辛いことがたくさんありました。2歳の時に母と別れたので、母のわたしを呼ぶ優しい声やあたたかい抱っこの記憶がありません。寂しさに加え、一緒にいた父には、わたしの存在は怒りの対象にしかならなかったのです。その事がどうしても悔しくて悲しくて、あった事をみんな心の奥深くにしまってしまいました。心がザワザワするよりは忘れた振りをしている方がずっと楽なのです。そうして結婚するまでずっと、楽しいことが全く無い家庭で暮らしてきました。この気持ちは誰にも打ち明けず、外では「明るい笑顔のわたし」で過ごしてきました。けれども、いくら忘れた振りをしていてもその事実が無くなったわけではありません。ときどきフッと浮かんできてはとても悲しい気持ちになります。特に子どもが生まれてからは「こんな可愛いわが子を、どうしてお母さんは置いていったのかしら」「どうしてわたしだったのかしら」「本当なら違う暮らしをしていたはずなのに」と、たまらなく悔しくてあきらめきれない怒りに襲われて、その気持ちがどうにも処理できず、すっかり疲れ切ってしまうことも度々ありました。事実を許さず受け入れず、そのことに囚われて自分のことを哀れんでばかりいました。けれどもある日、そんな親をわたし自身が選んで生まれてきたんだと気づいたのです。そして今度はその理由を探したくなりました。そんな時、彩花ちゃんのお母さんの本を読んだのです。

 運命が動いていくときというのは、人間があらがってもあらがってもどうしようもないくらい、すべてがひとつの方向に流れていきます。人間は、定められた運命や宿命というものの前では、まったく無力なのでしょうか。私は今、人間を貫く運命というものの巨大な力を思い知らされながら、しかし、ときに人間は、流されてしまったように見えるなかにも、運命を乗り越えて勝ってみせることができるのだと信じられるのです。

【『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子(河出書房新社、1997年/河出文庫、2002年)】

 このくだりでは勇気と希望を感じることができました。わたしに起きた納得できない、取り戻すことの出来ないわたしに向けられるべき母の愛、この悔しさや悲しさに立ち向かい、乗り越えて、心からの笑顔を取り戻すことが本当にできるのかも、という希望です。母からの愛情を渇仰したわたしが、今、溢れ出る愛情で子ども達を包んでる。そうしてわたしの心が満ちていくことを確かに感じていました。それでも心の中には常に暗いものがあったままでした。でも、そこにとうとう希望のひかりが射したのです。

 わたしがもっとも心を打たれたのは、どんな状況にあってもそこに留まらず、前進しなければいけない、という考えです。彩花ちゃんのお母さんに、手を取ってもらって歩き出したような気がしました。

 運命だからあきらめよう、というあきらめの思想でも、私たちは悲しみの現場に置き去りにされてしまいます。生きる勇気を奪われてしまいます。憎しみとあきらめを乗り越えて、私たちは前に進しかないのです。新しい生き方を切り開いて、すべてを「価値」に変えていくしかないのです。

 わたしは自分にあった出来事を、変えられないならあきらめようと自分に課していました。あきらめればすっきりした気分で歩き出せると信じて疑わなかったのです。けれど、それはまったくの誤りで、間違っていたからこそ、どうにもこうにも前へ進めず苦しばかりがつきまとっていたことに気づいたのです。わたし自身に起きたことは、わたしにとって必要不可欠な出来事で、これを自分の「価値」として「栄養」に変えていくことこそが、わたしの課題だったのです。

 苦しみながら立ち止まっていては何も生まれません。悲しみや辛さだけで心は一杯になってしまいます。それと同じく愛情や優しい気持ちで、心を一杯にすることもできるはずです。それどころか、わたしが溢れるほどの愛情をもって子ども達を抱き締めても、心の中にはまだあり余る愛情が溢れてきます。母もきっと、そんな気持ちで遠く離れて暮らすわたしを思っていてくれただろうと、今ではとても自然に信じられるのです。そして、わたしが幸せにならなければ、もちろん母の幸せもあり得ないと気づいたのです。今はとてもゆったりとしたあたたかいもので、心の中が満たされています。進んでいく道が開けたので、もうそれほど苦しむこともないでしょう。

 彩花ちゃんを亡くしたお母さんの苦しみにはほど遠いものですが、わたしの問題もまた、わたしにとっては抱え切れない苦しみでした。けれどもお母さんの気持ちに、わたしの気持ちを重ねて読み進んでいくうちに、不思議な力が湧いてくるのがわかりました。この先なにか大変なことがあっても、頑張って乗り越えていける力だと信じています。幸せに向かって歩き続け、努力する力です。こんな素晴らしいことを教えてくれた彩花ちゃんとお母さんに感謝の気持ちを伝えたくてこうして手紙を書きました。とうとうわたしを抱き締めることなく、去年亡くなったわたしの母の分のお礼もつけ加えます。本当にありがとう。

 最後に、加害者の少年に対して「共に苦しみ、共に闘おう。あなたは大切なわたしの息子なのだから」と手を差し伸べる山下さんには心から敬意を表します。母性というものは、無限の包容力に支えられていることを知りました。

 彩花ちゃんへ。それから、いつか母になる娘へ――。

【のり】

 

2001-06-02

絶望を希望へと転じた崇高な魂の劇/『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子


『がんばれば、幸せになれるよ 小児ガンと闘った9歳の息子が遺した言葉』山崎敏子
『いのちの作文 難病の少女からのメッセージ』綾野まさる、猿渡瞳
『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『淳』土師守

 ・絶望を希望へと転じた崇高な魂の劇
 ・無限の包容力
 ・新しい生き方を切り開いて全てを「価値」に変えていく

『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
神戸・小学生連続殺傷事件:彩花さんの母・京子さん手記全文「どんな困難に遭っても、心の財だけは絶対に壊されない」
帰ってきた少年A
『心にナイフをしのばせて』奥野修司
『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル:霜山徳爾訳
『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
『石原吉郎詩文集』石原吉郎

必読書リスト その一

 泣いた。
 感動した。
 魂を揺さぶられた――。

 事件(神戸少年事件)から一年と経たないうちにワープロと向かい合うまでにどれほどの勇気を奮い起こしたことだろう。キーを叩くことは我が子の死を見つめることに他ならない。指先に込められた力は心の勁(つよ)さそのものだと私は想像する。

 娘の死、しかも惨殺、その上犯人は少年。三重の悲劇は言語に絶する苦悩をもたらし、精神がズタズタに切り刻まれるほどのストレスを与えたに違いない。余りにも過酷な運命と対峙し、もつれ合い、叩きつけられそうになりながらも立ち上がった母。それを可能にした力の源は何か? 生きる力はどこから湧き出したのか? 絶望の淵から希望の橋を架けられたのはなぜか?

 ページをめくり、感動を重ねるごとに疑問は大きくなる。

 音楽コンサートを通して文化を語り、報道被害の体験からマスコミに警鐘を鳴らす。実生活の中から紡ぎ出された。人生観・人間観がちりばめられている。机上の哲学など足許(あしもと)にも及ばぬほどの人間の叡智が輝いている。それはぜか?

 疑問はどんどん膨らみ雲のように立ち込める中で、彩花ちゃんの姿の輪郭がくっきりと見えるような気がした。あっ、と思うと雲は吹き払われ、彩花ちゃんの直ぐ後ろに山下京子さんがいた。

 母と娘(こ)の絆だったのだ。死をもってしても揺らぐことのない、死をも超えた永遠性をはらんだ絆だ。時空をも超越した生命的なつながり。次なる生によって再び母子(ははこ)と見(まみ)えるであろう確信。事件を必然性から捉える達観。山下さんは永遠なる絆を絶対的ともみえる態度で信じられるのだ。その生命と生命の絆は更に普遍なるものへと昇華し、犯人とされる少年Aをも母性によって包み込もうとする。行間に涙があふれ、紙背に血が滴る思いで記された言葉は限りなく優しい。

 山下京子さんの崇高な生きざまに接し、私の心までもが浄化された感を抱いた。

 事件に同時代性があるだけに、『夜と霧』(V・E・フランクル著、みすず書房)以上の感動を覚えた。

 これほどの魂の劇と、慈愛の詩(うた)と、聖なる物語を、私は知らない。

 

1999-02-09

生死を超えた母子の絆/『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子、東晋平


『がんばれば、幸せになれるよ 小児ガンと闘った9歳の息子が遺した言葉』山崎敏子
『いのちの作文 難病の少女からのメッセージ』綾野まさる、猿渡瞳
『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『淳』土師守
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子

 ・生死を超えた母子の絆

加害男性、山下さんへ5通目の手紙 神戸連続児童殺傷事件
神戸・小学生連続殺傷事件:彩花さんの母・京子さん手記全文「どんな困難に遭っても、心の財だけは絶対に壊されない」
元少年A(酒鬼薔薇聖斗)著『絶歌』を巡って
『心にナイフをしのばせて』奥野修司
『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル:霜山徳爾訳
『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
『石原吉郎詩文集』石原吉郎

必読書リスト その一

 いまだ闘い続ける女性から再びのメッセージである。

 平成9年暮れに『彩花へ 「生きる力」をありがとう』を出版。年が明け、読者から続々と手紙が寄せられ、あっという間にその数1000通に及んだという。

 あなたがいてくれるから──。亡くなった娘が、見ず知らずの多くの人々の心の中で生き続けていることほど、今の私にとってうれしいことはありません。

【『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子、東晋平〈ひがし・しんぺい〉(河出書房新社、1998年/河出文庫、2002年)以下同】

 この本は読者への感謝を込めて綴られた母からの返事である。

 第1章が前作の出版の経緯とその後、次に『私たちこそ「生きる力」をありがとう』と題して読者からの手紙を紹介。そして、最後に構成を手掛けてきたジャーナリスト・東晋平による解説、の3章で構成されている。

 感動がまざまざと蘇る。山下彩花という少女が私の中で息づく。私は既に彼女を知っている。10年という歳月を流れる星の如く駆け抜けるように生き、死して尚、幾十万の人々に希望の光を降り注ぐ、鮮烈なる魂の持ち主。犯人とされる少年が振るったハンマーも、彼女の魂にかすり傷ひとつ負わせることはできなかったに違いない。

 山下さんは言う、「私は決して強くなんかない」と。「悲しみを乗り越えたわけでもない」と。反響の大きさに驚きながらも、自分への過大な評価を斥(しりぞ)ける。「たしかに、立ち直る努力はしています。でも、そんなに簡単なものではないのです。1年半を過ぎた今でも、泣かない日は1日たりともありません。大事な大事な子供を他人の手で奪われて、立ち直れるような母親はいないでしょう」。

 彼女を特別視して得られるのは「自分には無理だ」との諦観に他ならない。それでは、いくら感動しても、たちどころに冷めてしまうだろう。そうした行為自体が底の浅い己自身となって跳ね返ってくるのだ。挙げ句の果てには、泣いたり笑ったりということがテレビの前でしかできないようになるだろう。

 だが、私は敢えて言おう「彼女は強い」と。強がるような素振りを見せないのがその証拠だ。ありのままの自分をさらけ出し、自分の弱さをも否定しようとはしない。そこに強靱なしなやかさが秘められている。「疾風に勁草を知る」(疾風が吹いて強い草がわかる)との俚諺(りげん)があるが、そうした「心の勁(つよ)さ」を感じてならない。バネのような弾力をはらんだ瑞々しい人間性。それは「汝自身を知る」者の強さなのだ。

 一周忌を終え、5月に納骨。その際、錯乱に近い悲しみに襲われた事実が書かれている。悲しみにのたうちまわる中で、山下さんは一つの哲学を見出す。

 人間として生きていくうえには、深く悲しむこともまた必要なのだ。

 そして、「悲しむということは、自分とその人との関係を深く考えること」であり「深く悲しむことができる人のみが、深い喜びと深い怒りを知ることができるのだ」と。

 実際に地獄を経験した者のみが知り得る言葉は、悟性の輝きに包まれている。

 第3章で東晋平が、

 あの戦時中、中国大陸で生体実験や虐殺に手を染めた医師や兵士の大半が、わずかな罪の意識をを抱きつつも、あれは戦争の狂気だったのだと割り切って、罪の意識に苛まれることもなく戦後を生きているのです。
 殺された者が自分と同じ人間であるということすら想像できず、その悲しみに共感する能力が欠落していたがゆえに、自分の行為への悲しみも感じない。自分が背負うべき重圧と悲しみを、軍隊という集団に預けて、自分が傷つかないように生きてきたのでしょう。

 と敷衍(ふえん)している。

 悲しみを心に深く抱き続けながら、それを価値へと変えていく生き方を知ることができました。(中略)そういう生き方を見いだしていくことができれば、私たちは人生のどんな苦悩や失敗も、未来のための財産に変えていかれるような気がします。

 涙の海の涯(はて)から金色の太陽が昇る。

 第2章の圧巻は東京都世田谷区の大野孔靖くん(小学校4年生)。

 すごい本ですね。この文は、人間に本当のことをおしえてくれるすごい文です。はじめは、この事けんで悲しかったのに本当にこんなすごい文ですごいと思いました。ぼくは「自分で自分とたたかい、自分をすこしでもよくしていくのです」というところがよかったです。ぼくは、自分で自分とたたかってよくしていきたいです。

 偉いっ! と私は膝を打った。さすが諸葛孔明と井上靖を併せたような名前を持つだけのことはある。子供の直観が見事に本質を捉えている。たどたどしい文章がかえって感動を鮮やかに表現している。

 言葉を紡ごうとするよりも静かに内省するがいい、そんな気分に浸される。軽佻浮薄で小賢しい評論、世俗の垢(あか)にまみれた貪欲な宗教、問題の全てを子供に押しつける教育、そうした暗雲を遙か下方に見下ろし、山下さんの言葉は無窮を遍(あまね)く照らす。

 我が娘を喪い、生命の尊厳さを思い知った母は、多くの青少年の自殺に心を痛め、次のように語る。

 けれども私は今、思うのです。死にたくなるほど苦しい思いをしたときが、人間が本当に幸福になっていくチャンスなのだと。自分の人生を、大きく変えていくときなのだと。
 苦しいとき、辛いとき、虚しいときには、目をつぶらないで、その悲しみと徹底的につきあうことです。ハラを決めて、水底まで沈んでみることです。深く深く悲しめば、必ず新しい力が湧いてきます。
 自分が変われば、必ず何かが動き始めます。死ぬ勇気を、自分の変革に向けていくのです。他人に苦しめられているように思えることでも、全部、自分の人生なのです。そうであれば、自分で新しい道を切り開くしかありません。
 その、人間の生命の深い方程式が見えてくると、身に起こるあらゆる不幸も、悲しみも、苦しみも、自分の人生を飾る意味のあるものに見えてくるはずです。
 この世に必要のない人間なんて1人もいませんし、価値のない人間も1人もいないはずです。自分には価値がないように思えるときがあっても、決めつけないで、自分で価値ある自分をつくっていけばいいのだと思います。(中略)
 人間には、価値を創り出していくすごい力があります。
 生きている人間に、何ができないといえるでしょうか。

 この言葉を聞けば自殺せずにすんだ子供も山ほどいただろう。なんと優しく、力強い言葉だろう。悲母観音さながらではないか。

 市井にこうした人物がいるという事実に、まだまだ日本も捨てたものではない、と心を強くした。河野義行さん(『「疑惑」は晴れようとも』文藝春秋、『妻よ! わが愛と希望と闘いの日々』潮出版社)にしてもそうだが、平凡にして偉大な人物はいるものだ。

 生死(しょうじ)を超えた母子の絆に永遠を感じた。